Rickshaw(リキシャ)

2001年12月号(第38号)

目次


定例会報告(第51回、2001年10月27日)

ナガランド現状報告 独立へのわずかな可能性

スピーカー:多良 俊照さん

 長年に渡って独立を主張し続けているナガランドはインドの東端、ビルマとの国境沿いに位置する。第2次世界大戦中には、ビルマを占領した後に、インド進出を目論んだ日本軍が訪れ、激しい戦闘が行われたところでもある。そんなナガランドの独立運動について、インド旅行中にたまたま出会ったナガ人との交流から、ナガランドに興味をもち、『入門ナガランド』(社会評論社)を著すなど積極的な発言を続けている多良さんに、昨年後半から今年前半までのインド取材による、現状を報告していただいた。

ナガランド独立問題の発端

 ナガランドの独立問題の発端は、イギリスによるインドおよびその周辺の植民地支配時代にさかのぼる。

 19世紀後半に、インド沿岸部から植民地化していったイギリスは、交易物を求めてインド周辺の山間の地域にまで勢力を広げ、現在のアフガニスタンやビルマにまで到達していった。その過程で、ナガランドも英領インドの一部として支配を受けるようになる。

 しかし、当時首狩りなどの風習を残す野蛮な部族と認識されたナガ人に、イギリスはとくに接触をもたないままビルマに進出し、植民地化していった。山間の僻地に暮らすナガ人と接触しても経済的価値が薄いとの判断から、いわば「野蛮な連中は放って置け」とばかりにナガランドを素通りしていったと多良さんはいう。インドの独立まで、国際的地位も曖昧な状態にナガランドは置かれることになる。

 第2次世界大戦後、イギリスが植民地経営をやめて英領インドから撤退していく際にもナガランドの「放って置かれた」状態は続いていた。イギリスは、英領インド時代にも足を踏み入れたことがない地域がナガランドに多数存在するにもかかわらず、インドの一部であったことにしてしまったのだ。「簡単にいうと、イギリスはインドを統治していたが金にならないと判ると、もう面倒くさいんで放り出してしまった、というのが現状みたいです」と多良さんはいう。

 イギリスはちゃんとした後処理もせずに、ナガ人の居住する地域の3分の2をインド領に、3分の1をビルマ領に、と勝手に国境線を引いて引き揚げてしまった。その結果、分断された土地でナガ人は暮らさなければならなくなる。「そこが問題の一番大きなところ」と多良さんはいう。これはパシュトゥン人の居住地を分断して国境線を引いたアフガニスタンとパキスタンの国境にも通じる問題である、と多良さんは付け加えた。

 ナガランドは、インドが独立を宣言する1947年8月15日のまさに前日に独立を宣言している。「イギリスには降伏したけれど、インドに降伏した覚えはない。だから、インドがイギリスから独立するならばナガランドもイギリスから独立する」といった主張で8月14日に宣言された。

 だが、第2次世界大戦後の世界的な混乱のなか、辺境の小国であるナガランドの独立宣言は何処からも承認を得られなかった。「黙殺されたまま、現在まで50年以上も続いています」と多良さんはいう。

独立運動の経過

 インド独立後、パキスタンとの紛争などの混乱が治まってくる1950年代になるとインド政府は武力によるナガランド侵攻を本格的に開始した。そして、十分な武力をもたないナガ人はゲリラ的な戦法で応じる、といった構図で60年代まで大規模な闘争が続くことになる。

 1962年になると、インド政府軍の圧倒的な武力に屈せず闘い続けたナガ人の根強い抵抗に手を焼いたインド政府は、ナガランド州を設立することを決める。独立という形ではなく、インドに属するある程度の自治権をもったひとつの州としての地位がナガランドに与えられたのだ。だが、ナガランド州はナガ人が居住する地域の3分の1か4分の1ほどの面積しかもたなかった。さらに、ナガ人自身にはなんの相談もなく決められたもので、一部の独立運動家たちは納得できずに、闘争をやめなかった。

 1970年代には、そうした組織もインド政府軍の攻勢に押され和平を迎えることになったが、さらに一部の独立運動家は独立にこだわって、山に籠もって闘争を続けている。これが現在まで続いているのだ。

 闘争はゲリラ的に続けられた。インド政府軍の攻勢に追いつめられると、ナガランドの兵士たちはビルマ側のナガ人の居住地に逃げ込むといった戦略もとられた。カチン族の闘争やビルマ共産党との対立など、数多くの問題を抱えていたビルマでは、ナガランドはあまり関心をもたれずに、政府の勢力が及ばないまま放置されてきた。その結果、インド政府軍と交戦するナガ人が自由に行き来ができたのである。また、同じように抵抗運動を続けるカチン族とは協力体制にあり、ビルマの北を通って、中国の雲南省まで武器の調達に出掛けていったりもしたようだ。

 しかし、カチン族とビルマ政府との休戦が実施され、ビルマ側のナガ人居住地までビルマ政府軍がやって来るようになって行き来が制限されると、ナガランド独立運動組織も厳しい状況に置かれるようになる。

最近の動き

 独立運動組織の動向やインド政府軍のナガランドにおいての虐殺行為などは2000年に出版されたナガ人のカカ=イラルによる『Nagaland and India : The blood and the tears』という本に詳しく書かれている。多良さんが、ナガ人の手によってここまで書かれたものは初めてというその本には、レイプ、拷問、殺人、焼討ち、飢餓などナガランドで起こってきたことが詳細に渡って調査され、報告されている。

 さらに著者カカ=イラルは、デリーの内務省に赴いてインド政府軍の残虐な行為を直接訴えかけたという。これまではナガランドの内情を漏らす本を出版することさえ問題にされてきたのだが、著者が迫害を受けるようなことはなく、一部とはいえナガ人に同情を示すインド人さえも現れ始めたようだ。

 このように武装組織による抵抗運動とは別に、ナガ人がどれだけインド政府軍の残虐な行為に被害を受けているのか世論に訴えかけていこう、といった動きも見られるようになってきた。80年代にはナガ人自身による人権団体Naga People's Movement for Human Rightといった団体も立ち上げられている。

 この団体は、去年2000年の1月30日に、インドの首都デリーに赴いてデモを行った。1月30日はインドの独立運動の指導者マハトマ=ガンディーが暗殺された日でもある。その命日を選んで、ナガ人はガンディーの思想を思い出そうという主張のもとにデモを行ったのだ。インド人のなかでは忘れ去られようとしている非暴力をはじめとするガンディーの思想にナガ人は期待をかけている。暗殺される前のガンディーに、ナガランドの現状の打開を期待して陳情に行ったこともあるナガ人の、ガンディーに対する信頼は現在でも根強いと多良さんはいう。

 デモは結果的には失敗に終わったようだ。インド人とはまったく異なった、日本人に似た顔立ちのナガ人のデモに対するインド人の関心は喚起されなかった。デリーで暮らすナガ人も、インド人と認識されずに、中国人などに間違われることが多いそうだ。

 「顔立ちも文化も違うのに勝手にインドに組み込んでおいて、インド人として扱われないことに対して、ナガ人としては何をいってるんだ、という気分になる」と、ナガ人のやりきれない思いを多良さんは代弁する。

 まさにデリーでデモが行われているとき、バンコクの空港では、幾つかの独立運動組織のうち、実力をともなう強硬な組織、ナガリム民族社会主義評議会イサク=ムイヴァ派(NSCM−IM)の書記長チュインガレン=ムイヴァが、偽造パスポートの行使が発覚したために逮捕されるという事態が起こっていた。しかも、バンコクに潜伏中のムイヴァがインド政府との停戦交渉に向かう途中のことである。影響力の強い組織の実質的なトップが逮捕されたとあって、「もしかしたらナガランド問題は終わるんじゃないかという機運もあった」停戦交渉およびその後の和平交渉の行方が危ぶまれた。だが、もともとインド政府とは「あまり仲良くない」タイ政府は身柄引き渡しには応じず、保釈したムイヴァを曖昧な立場のままタイに滞在させている。幸いなことに、そのまま交渉は続けられることになった。

 もう4年間も続いている停戦交渉であるが、双方の提案の折りあいがつかず現在のところ暗礁に乗り上げている状態である。停戦を実施する範囲を、ナガランド州に限ると提案しているインド政府側に対して、ナガランド側はナガ人居住地全域の停戦を要求する。実はインド政府は、今年7月にナガランド側の要求のんだのだが、それもすぐに撤回された。それには、ナガ人の居住地をもつ周辺の州に暮らすマニプル人やアッサム人の反対運動が起こったことが原因のようだ。ナガ人の独立が実現したとき、マニプル州やアッサム州のナガ人居住地がナガランドの領地として奪われてしまうのではないかとの恐れからの行動であるという。ナガ人と他の民族が混ざり合う地域では、ナガ人が排斥運動にあって追い出されるといった場面もあるようだ。

 「結局、解決の目処は立っていない」と多良さんがいうような複雑な現状のなか、ナガランドはわずかな独立の可能性に向けた努力を続けている。

 以下、現状に対する多良さんの抑えきれない思念を付け加えて報告は終わる。

 「ナガランドの独立運動組織も、インド政府からはテロ組織だといわれています。しかしナガランドの組織は無関係な民間人を殺害するような行為は、私の知る限りでは行っていません。逆にインドの部隊によるナガ人に対する行為は、不法あるいは合法な殺人といっていいほどのものです。テロには恐怖政治という意味もあります。どちらがテロなのかは、実際に何が行われてきたのか、何が行われているのかをよく知ってから判断するべきでしょう。安易にメディアによる報道を鵜呑みにするのではなく、より多くの情報源からものごとを判断できるようにしたいものです。個々の人が皆、自分自身の価値観を硬直化させることなく、そのように向かっていければ、この世界も少しづつはましになっていくのではないでしょうか。とにかく起こってしまってからでは遅いのです。日々気をつけて。手後れにならないうちに。」

多良氏のwebページ http://members.tripod.co.jp/taratoshi/

(構成 山本 浩・フリーライター)
目次へ戻る

編集後記

 21世紀の始まりの年であった今年、まるで今世紀につきつけられた問題が象徴的に起きたような気がする。米国テロ多発事件では、一般市民の多くが亡くなったが、犯人が「不明」という状況でアフガンの一般市民は米国軍による報復攻撃でたくさん殺された。記憶しておきたい。「国家も市民を殺す」ということを-。そして日本経済でもどん底にあえぐなか、責任者が問われることなく、海外に「軍隊」を送り込むようなことだけは先を進めている 。ある意味AWCが追求し伝えていくことはたくさんある。21世紀から先の歴史がなくならないように来年も活動していきたい。(や)

目次へ戻る

月刊リキシャ2001年12月号(通巻第38号)
2001年12月15日発行
編集人 八尾 浩幸/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社リキシャ編集部

トップページへ