Rickshaw(リキシャ)

2001年6月号(第32号)

目次


ある大都市病院の日常

〜ある中国人看護婦のレポート〜
翻訳・構成 塚田和茂

 中国の社会は国の改革開放政策の影響を受け大きな変化を遂げてきた。その中で、保険医療制度にも以前とは違う状況が現れてきた。それは経済自由化の代償として、従来国民が等しく恩恵をこうむってきた社会主義福祉政策を、徐々に切り捨てる方向にあることだ。その結果、国が負担してきた医療費や年金などの費用が国民にしわ寄せされ、自己負担せざるを得なくなっている。病院はしだいに独立採算となり、病院の医療・看護サービスにも変化が現れてきた。それは、極端に言えば経済原理の導入による医療費の値上げとサービスの低下である。

 今回、知り合いの中国人看護婦に彼女の職場での日常業務について原稿を書いてもらった。彼女の職場は華北のある大都市の、市内でも最大の総合病院である。彼女の語る数々の驚くべき状況は、中国北方の大都市レベルの病院では日常的に起こっているはずだと言う(医療レベルでも、北方は南方に比べかなり遅れているらしい)。

 日本でも近年になり病院の医療事故が多発しているが、中国の病院もまた似たような状態にあるようだ。

「導管室」について

 現在の中国の医療レベルから見ると、「導管室」(特殊な細いパイプを使って検査・治療を行う病室)での医療行為は高度な医療機器を使って患者の治療を行うものです。おもに「血管造影」(とくに心臓外科の冠状動脈造影)と「注入治療」(薬を血管内に注入する治療法)を行います。一般の患者にとっては非常に高額な治療法ですが、患者たちはここで使われている医療用パイプが、使い捨て器具にもかかわらず再使用されていることを知りません。繰り返し使用されるパイプは直接患者の血管に挿入されます。これらの器具は使用後に1度ホルマリン消毒してから再使用されますが、この消毒でパイプが完全に滅菌されたかどうかは分かりません。いずれにしても、1回限りの使い捨て器具を最使用することに 問題があります。

「SICU」について(ある大病院のケース)

 SICU(外科のICU)が収容する患者にははっきりした基準はありません。一般病室のベッドがふさがっているときにSICUに収容されます。いつSICUから出されるかも規則がありません。患者の数が少ないときには何日も収容するし、多いときには収容してもすぐに運び出されます。

 看護婦の分担も仕事の基準も不明確で、看護婦はどうすればよいのか、何をすればよいのか分からないときもあります。明確な業務上の基準はありません。

 SICUの患者は費用を払って看護婦が世話をしますが、実際には看護婦の人数に制限があるので、患者に良好なサービスを提供することはできません。患者も患者の家族も不満を持っています。看護婦にとっても仕事に対する達成感がありません。

 現場の職員の態度も不真面目です。SICUからは常に話し声や笑い声が聞こえてくるし、病室の環境はとても悪く、上司は教養がなく、患者はとても汚く人数も多いし、SICUにはいつも汚い空気が漂っています。みなとても不快に感じます。

 盲腸の手術は比較的簡単なので、普通は若い医師がやりますが、ある医師は盲腸炎の病人の手術で、患部を規定の2倍の長さに切開しました。別な医師が彼になぜそんなに長く切ったのかと詰問しました。彼は「(盲腸を)探しやすいからだ」と答えました。私はとても自分勝手で無責任だと思います。

「麻酔技師について」

 手術日が決まっている患者は、手術の前日に手術室の麻酔技師が血圧を測ります。もし血圧が正常でなければ、血圧が正常に下がるまで手術を行えません。

 ある農村から来た患者は、同じ病室内のすでに手術を終えた別の患者から「明日は手術だろう。今日麻酔技師が来て血圧を測るが、そのとき技師に50元渡しなよ。でないと技師は必ず血圧が高くて手術できないと言うだろう」と言われまし た。

 麻酔技師が来たとき、彼は技師にお金を渡すのを忘れてしまいました。すると技師は非常に不服そうに「血圧が高いから手術はできない」と言いました。しかし、病棟を管理する主任は、患者の体の具合を知っているので、「手術は予定通りに行う。もし不都合があったら私の責任だ」と言い、手術はやることになりました。麻酔は病院の提唱する中医学と西洋医学を融合した方法を用いましたが、患者は手術中痛みのため苦しみ、手術が終わってからもほとんど全身が痛みました。これは患者から50元をもらえなかった麻酔技師が巧妙に仕組んだためです。技師はこの患者に麻酔を施す間、故意に麻酔薬の量を減らしました。そのため患者は痛みと緊張を強いられ、血圧上昇を引き起こしました。この技師は手術の順調な経過を妨げ手術の危険性を増加させました。このような医療技術者は最も基本的な倫理道徳もなく、人のために仕事をするには極めて不適格だと思います 。

(つかだ かずしげ・中国在住AWC会員)
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アフガニスタン考(後編)

勢いづく反タリバーン同盟
牧 良太

 「山開き」とでも言えばよいのであろうか、ヒンドゥークシュ山脈の雪が溶ける春になると、アフガニスタンでは戦闘シーズンが開幕する。3年続きの旱魃で人口の10分の1は飢餓状態、昨年9月以降で17万人がパキスタンへ逃れ、80万人が国内難民の状態にあると言われながら、タリバーン、北部同盟ともに、戦争だけは止めることができないらしい。

 とりわけ、タリバーンによる仏像破壊が喚起した国際世論の追い風を受けた反タリバーン陣営には、今までにない活気がみられる。ラシッド・ドスタム、イスマエル・ハーン、といった、タリバーンにその支配地域を奪われて国外へ退去していたかつての反ソ・ゲリラの英雄たちが、続々とアフガニスタンへ帰還。マスード派と合流、あるいは独自にタリバーンと抗戦しているようだ。

 それら銃声の合い間に、和平交渉の呼びかけも聞かれないではない。現在の支配領域に基づいた議席配分による議会の設立、などという案も提案されたのだが、タリバーン側は、投票による議会制度そのものがアフガニスタンの伝統にそぐわない、として、それらの要求に応じる様子はない。もっとも、議会政治を行うようではタリバーンの存在意義そのものが消滅してしまうであろう。一方の北部同盟もいわば共通の敵があるがゆえの呉越同舟であり、タリバーンを武力で一掃するだけの力はない、というのが現状である。

民族、宗派と近隣諸国

 インド史、ペルシア史にしばしば登場するアフガン人とは一般にパシュトゥーン人を指す。パシュトゥニスタンと呼ばれることもある、アフガニスタン南東部からパキスタン北西辺境州にかけて広く居住し、アフガニスタン最大の民族でもある。 参考までにCIAWorldFactbookによるアフガニスタンの民族別人口構成を見ると以下のようになっている。パシュトゥーン人38%、タジク人25%、ハザラ人19%、ウズベク人6% 。概してアフガンに関する統計にはばらつきが大きく、統計によってはパシュトゥーン人が50%を超える、としているものもある。パシュトゥーン人は前述のようにパキスタンとの共通点を多く持ち、タジク人はイラン系、ハザラ人はモンゴル系、ウズベク人はトルコ系、とそれぞれに民族的に異なる。また、宗派的にはスンニ派が多数を占めるが、ハザラ人はその多くがシーア派信徒である。

 次に周辺国のタリバーン政権への対応をみると、ロシアや中国はタリバーンのような過度に急進的なイスラーム至上主義は自国内のムスリム独立運動に引火しかねないとみて警戒を強めている。タジキスタン、ウズベキスタンもタリバニズムが自国の反政府勢力と結びつくことを恐れる点では同様である。一方、トルクメニスタンの立場は微妙だ。ガス、石油といった豊富な地下資源の開発、輸出による経済発展を目論んでいた同国にとって、アフガニスタンの安定は重要であった。アメリカが当初タリバーンを支援していたのも、このカスピ海沿岸のエネルギー資源のためである。カスピ海から外洋へのパイプラインを施設しようとすれば、イラン封じ込め政策をとるアメリカには、アフガニスタンを経由してパキスタンに抜けるしか道はない。ゲリラや山賊が跋扈し、通行が困難であったこのアフガンルートの交通を可能ならしめたのは、パキスタンの支援を受けたタリバーンによる一帯の支配、治安回復があればこそなのである。

 イランは民族、文化的同一性からタジク人組織を支援しつつ、宗教的緊密さゆえにハザラ人組織をも支援する、という複雑な関わり方をしている。アフガニスタンでは歴史的にもシーア派は蔑まれ、迫害されてきたようだが、タリバーンの奉ずるディオバンディ派はことにその傾向が強いといわれる。イスラーム原理主義国家といっても、イランとタリバーンとはまったく相容れない存在なのである。

平和は訪れるのか

 地縁、血縁に根ざした部族があり、部族ごとの問題事は各部族の長老会議(ローヤ・ジルガ)で取り決められ……、アフガニスタンの伝統はそのような部族社会であったらしい。ところが「近代国家」は国境や国法、中央集権化した官僚機構など、言うなれば統一されたイデオロギーを必要とする。この国の内戦はある意味でそのような中央集権化に対する部族社会の抵抗なのかもしれない。諸外国の介入がなければ紛争がこれほど大規模になることはなかったであろう。しかし外国の介入を招いてしまう理由には、介入国の利害関係に加えて、アフガン諸部族・民族の独立心も挙げられるのではないだろうか。一つの紛争が終われば別の紛争が発生するこの国に「停戦」でない平和をもたらすには、残念ながら現状ではより強力な外部の力(国連も含む)の介入に期待するしかないのかもしれない。

 全アフガン人の同意に基づくアフガニスタン国家樹立、そんな日が訪れることを期待しつつ。

参考:

アフガニスタンの日々のニュースはAfghanistan Onlineに詳しい。

(まき りょうた・フリーライター)
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学習会「帰国運動を問い直す」

小池 和彦

 朝鮮総連を中心とした「帰国運動」により、1959年以降、9万3千人あまりの在日朝鮮人が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った。日本には植民地時代からの差別や偏見が依然として強く残り、生活も苦しかったのに対し、北朝鮮は「地上の楽園」とまで宣伝された。

 しかし実際には、北朝鮮は宣伝とは正反対の貧しくて閉鎖的な社会だった。帰国者たちは元々の住民から差別され、生活に困窮して日本に残った親族からの仕送りに頼らざるをえなくなった。その状況は現在も続き、在日朝鮮人の社会に重くのしかかっている。

 この帰国者問題に関し、4月14日に都内で「帰国運動を問い直す 何が彼らを『北朝鮮』に追いやったのか?」と題した学習会が開かれた。講演したのは朴春仙さんと崔相粉さん、主催は「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」の東京事務局。

「地上の楽園」で銃殺された兄

 朴春仙さんはアジア太平洋戦争の時期に横浜の鶴見で生まれ、東京大空襲で財産を失ったために戦後も「乞食のような生活」を強いられた。帰国事業が始まると家族は「地上の楽園」という宣伝を信じ、帰国を決めたが、春仙さんは信じなかった。朝鮮戦争が終わってからそれほど経っていないのに「棚からぼたもちが落ちるような話」だと思ったという。家出をして親戚のところに身を寄せ、帰国 を逃れた。

 1970年代の一時期、日本に潜入していた工作員の辛光洙と一時期同居していたことがある。1980年に原敕晁さんを拉致したとされる辛光洙である。彼が工作員だとは知らなかった春仙さんは、ピョンヤンに帰っていた彼宛の手紙を帰国した兄の安復さんに託した。しかし北朝鮮では工作員の存在は絶対の秘密である。無警戒に工作員を尋ねてしまった安復さんはまもなくスパイ容疑で逮捕され、数年後に銃殺されてしまった。春仙さんは「辛さんが私と同居していたことを一言報告していてくれたら兄は死なないで済んだのに」と悔しがる。総連の幹部たちが誤解を解くために何もしてくれなかったことにも腹が立ち、文句を言ったところ、「私たちにもどうにもならないんだ、そういう国だから」と言われてショック を受けた。

 『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!』という本を1994年に出版したため、60人ほどの親族に対して仕送りを続けている妹とも絶縁状態になってしまった。昨年からの南北和解ムードについても、春仙さんは「帰国者問題も拉致問題も解決していないし、誰も救われていない」と突き放した目で見ている。

姉からの不自然なSOS

 崔相粉さんは1983年の親族訪問で帰国した姉にはじめて会いに行った。ところが姉はどういうわけか朝鮮語しか使わず、日本語しか知らない崔さんとは最初から最後まで通訳つきで会話することになってしまった。

 崔さんは帰国してすぐに朝鮮語の勉強をはじめ、1985年に再び北朝鮮を訪問した。「朝鮮語は話せるようになったから」ということで、通訳を断り、母と2人だけで姉に会った。そのようなことができたのは崔さんが初めてだという。今度は姉と日本語で会話することができた。1回目 のときに日本語を使わなかった理由を聞くと「疑われるから」だという。北朝鮮に帰国したとき、姉は現地の住民と同じ生活をすることに決め、現地の住民が裸なら裸で暮らし、飢えていたら同じように飢えることにしたのだ。仕送りも断った。

 1993年、帰国者問題に関する運動に参加しはじめてから半年後、姉からはじめてSOSの手紙が来た。現地の住民と同じ生活を送ることに決め、仕送りも断った姉からのSOSである。崔さんは事態の深刻さを直感し、すぐに朝鮮総連に親族訪問を申請した。ところが総連の担当者から「あなたは自分のやっていることがわかっているのか」と言われた。その後まもなく、総連の幹部が崔さんの自宅を訪れた。「朝鮮のことを知りたければ総連に来なさい」「あなたは行くところを間違えている」という説得だった。説得を拒否した崔さんに対し、総連の幹部が最後に発したのは「何が起きても知らないよ」という恫喝の言葉だった。さらにその後、北朝鮮にいる姉から初めて電話が来た。こちらの質問には答えずに一方的に援助を求めるだけで、そばにいる誰かに指示を受けていることがはっきり分かった。崔さんはその電話を「運動から手を引け」というメッセージとして受けとめた 。

 崔さんは1984年にはじめて祖国である韓国を訪れたが、町を歩いていてたまたま耳に入った日本の唱歌を聞いて泣いてしまい、自分がすでに朝鮮人ではなくなっていることを自覚した。しかしその後、日本への帰化を申請したときにあらためて「朝鮮人になった」。ずっと通名で暮らしてきたが、帰化手続きに必要なため韓国から戸籍を取り寄せ、はじめて自分が崔相粉だということを知る。どういうわけか姉の住所も要求された。法務局の担当者は「我々が帰化をお願いしたわけではない」という横柄な態度で臨んだ。そんなこともあり、崔さんは「姉が死んだら帰国者についての運動からは手を引く」と宣言する。実際に暮らしている日本の人権状況のほうが大事だからだ。

 帰国者問題は在日朝鮮人の状況と北朝鮮の現実を同時に映し出す鏡になっている。

(こいけ かずひこ)
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亜洲人声(16)

大村 哲夫さん

インドネシアの「慰安婦」問題を考える会共同代表、雑誌編集者

 インドネシアにおける元「慰安婦」の状況は過酷だ。いまのところ、日本からの償い金などは支給されておらず、インドネシア政府からの特別な援助があるわけでもない。なおかつ同じ問題を抱える韓国や台湾と比較しても、サバイバー(元「慰安婦」)たちはけっして豊かな老後を迎えているとは言えない。彼女たちのなかには結婚していない人も多いのだ。私たち、インドネシアの「慰安婦」問題を考える会(略称:SOMJII)に訃報が届くたびに、何とかできないものかとの思いがつのる。

 共同代表を勤める大村さんに、この問題について関わるようになった経緯やマスコミに携わるなかで感じることなどをうかがった。

きっかけ

 東京教育大学での学生時代は学園闘争とベトナム反戦の時代。「ベ平連」に関わり、米軍のジェット燃料輸送や、王子野戦病院に反対するデモに参加していました。そのなかで日本のコミットの問題に気付かされました。また、教科書裁判で知られる家永三郎さん(当時、東京教育大学教授)が「太平洋戦争史論」という講義をされていました。家永さんは研究を発展させて、1956年に『戦争責任』を出版します。この本は、日本のアジアに対する戦争責任の大づかみな知識を与えてくれました。学園闘争中は家永さんさえをも批判する動きがあって、私もその末端にいたのですが、それもきっかけとなって、日本の戦争責任に目が向いた わけです。

インドネシアへ

 1943〜44年にインドネシアのカリマンタン島西部のポンティアナック周辺で、日本軍への抵抗運動を組織した容疑で、住民の逮捕、虐殺事件がありました。殺害された人数は現在も明確な裏付けが取れていませんが、地元では1万人以上と言われています。1988年7月に地元の人の案内で、その中のおもな虐殺現場であるマンドルを訪ねました。そこには事件の顛末が描いてある大きなレリーフがあります。虐殺場面もリアルで、そのレリーフが具体的に雄弁に日本の占領統治がどういったものだったかを語っていました。「しんどいなぁ」と思いましたが、何らかの形で日本人に伝えなきゃと思い、帰国後、私は『アサヒグラフ』に写真中心の記事を書きました。

 このレリーフが作られた1977年頃は、「慰安婦」問題が一般的に認知されていなかったのですが、じつは、このなかに「慰安婦」につながる絵もあるんです。酔った日本兵が酒瓶を振りながら女性を引っ張ったり、蹴っている場面。

 事件当時、ポンティアナックに住んでいた日本人商社員の井関氏(故人)は、著書『西ボルネオ住民虐殺事件』のなかで、軍は、最初は日本の商社で働く女性に目を付けて、裸にして性器を調べ、処女でなかったら慰安所に放り込むということをやっていたと書いています。当然、現地の反感があり、日本軍への抵抗運動(本当に組織的に動いていたかは疑問だが)が事件への伏線になっていたといえるし、期せずして、性奴隷の問題がこのリレーフから見えていたと、今にしてみれば言えます。

 ポンティアナックの事件については、今では研究論文もいくつか出ていますが、事実関係を裏付ける具体的な文書がありません。ただ、BC級戦犯裁判のなかで死刑になった人もいて、その関連のオランダ軍による文書が明らかになっています。戦犯法廷という一方的な性格の場で作成された記録ではありますが、それが唯一の資料です。それ以外の文書はオランダや日本の法務省が封印しています。「故人の名誉を守る」という名目で。せめて、これらの文書が全面的に公開されないと、事件の全容は解明できないでしょう。

ババル島虐殺事件

 ババル島はインドネシア東南部にある孤島です。この島のエンプラワス村で1944年に住民虐殺事件がありました。この事件では村民ほとんどが殺されました。ベトナム戦争時のソンミ事件のような事件です。1992年、インドネシアの知識人向け週刊誌『テンポ』がこの事件について報道し、いくらかは知られるようになりました。しかし、辺境の地であるババル島へはインドネシアのメディアも含めて現地調査が行われていませんでした。そこで、1992年にインドネシア研究者である内海愛子さんと村井吉敬さんとともに調査に行きました。その報告は、私もメンバーであったアジア民衆法廷準備会のニューズレターに掲載しました。

 じつは、この事件について、その調査の数年前に日本軍が作成した秘密文書が発見されていました。戦争直後、オランダが戦争犯罪として裁判にかけようとていたことに対して、そうならないように、日本軍が現地で関わった人から文書を出させて作ったものです。それらの文書には、数次にわたる改竄の後がみられるのです。後で作成された文書ほど、住民が混乱のなかで自暴自棄になって、同士討ちしたといった記述が書き加えられるなど、日本軍の責任を逃れるための改竄、追記のあとがありました。これらの文書のうち、もとになる最初の文書を書いた当時の士官は、この文書が明らかになった後の朝日新聞の取材に対して、日本軍による一方的な虐殺をおおむね認めています。

 また、私たちの調査でババル島の陸軍駐屯地にも慰安所があり、エンプラワス村からも女性が連れていかれたことがわかりました。日本軍の秘密文書のなかには、生き残った人に生業を与えるようにとりはかったという記述があります。少なくともその「生業」の一部が「慰安婦」だったと思われます。ここでも性奴隷の問題にぶつかっているのです。

 こうして、ポンティアナック、ババル島の事件で性奴隷・「慰安婦」問題の片鱗が見えてきたのです。しかも住民虐殺と性奴隷の問題はセットで出てくるところが極めて恐ろしい。日本軍の負の面を強烈な形で示すものだと感じました。

そして、「慰安婦」問題

 実態を調べること以上にやるべきことがあるのでないか。孤独や貧困のなかで次から次へとサバイバー(元慰安婦)が亡くなっているという現実。その人たちに対して「助ける」という言葉を使うのは違っているかな、とは思うのですが、少しでもよい状態で残りわずかの人生の時間をすごしてもらえるような、具体的な行動をする必要があると私は思っています。私たちは今、その為の資金を集めるために動き出しています。その一環としてブックレトの作成を進めています。その制作過程で、彼女たちが新しい証言をしてくれることがあるかもしれない。しかし、たとえば取材者が訪れて、いきなり過去の辛い体験や、けっしてよくはないであろう今の境遇を話せと言われても、かえって傷つけることにはなりはしまいか。ましてや何度も取材を受けている人もいるわけで、そうした人たちは「それで何がよくなったのか」と思って当然だと思います。書くために証言を得るという行為は、やりたくないと思っています。60年近く経っていますが、彼女たちの傷は時間で癒されるわけではないですし。

 昨年の8月に私の母が亡くなりました。彼女はインドネシアのサバイバー達と比べるとやや高齢に相当する世代です。「加害国」の側で女学校時代に日中戦争があったわけで、戦地へ送る包帯を巻いたり、慰問袋を作ったりしていた世代です。いろいろと問題はあるにしろ、老人専門の病院でかなり手厚い看護を受けながら最期を迎えることができました。ところが侵略された側のインドネシアではほとんど医療を受けることもなく、しかも孤独の中で最期を迎える元「慰安婦」がいるという、この不条理。最近亡くなった元「慰安婦」のスカルリンさんと母の死を比べたとき、こんなにも違うのかという不条理さを、母の死を通して痛感させられました。そして、このことが、時間がない中で具体的なことをやらなくては、という思いにつながっていきました。もし母が被侵略国に生まれていれば、「慰安婦」にされていたかもしれない年代なわけですから。

ジャーナリズムとNGO

 私は朝日新聞に所属して雑誌編集者の立場にいるわけですが、職人的な喜びに浸ってしまう恐さがあると感じています。たとえば、もし今の日本が戦争に関わるなら、日本のジャーナリズムが全体を見て、冷静に報道できるかどうかは疑問です。しかし、報道に関わる者が会社の中だけで過ごすのではなく、たとえば、市民運動的なことに関わることで「ちょっと待てよ」と気付く可能性はあると思っています。一方、読者の側メディアに期待し過ぎることは危険です。かつて『朝日ジャーナル』が廃刊になったときに「(『朝日ジャーナル』がなくなると)何を信じればいいんだ」という声がありました。そういう読者はメディアの側にとって「ありがたい読者」ですが、本当にそれでよいのでしょうか。

インドネシアの「慰安婦」問題を考える会(略称:SOMJII)

(インタビュー・構成/大園浩史・SOMJII会員)
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情報交差点

会員動向

南風島渉

5月27日(日)、ジュンク堂書店池袋店で、講演会「見えざるアジアを報道する」のスピーカーとして登場し、アジアの現実を語りました。当書店からの開催依頼のきっかけとなった著書『いつかロロサエの森で−東ティモール・ゼロからの出発』は好評発売中です。

西中誠一郎

『週刊金曜日』5月25日発行号の「金曜アンテナ」に「クルド難民が抗議のハンストで生命の危機」が掲載されました。今年4月以降、毎月行われる仮放免許可の更新のため東京入管第二庁舎に出頭したクルド人が難民不認定の通知を受けると同時に収容される事態が相次いでいることと、その問題点を伝えています。

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お知らせ

AWCの活動を見直すためのRickshaw刊行停止と活動内容変更のお知らせ

 AWCの活動も4年近くになってきたわけですが、この間、メンバーが入れ替わったり、また、私たちが取り組んできたアジアの状況も常に変化し続けています。私たちは毎月、ニューズペーパーの刊行、ホームページの更新、そして定例会を催してきました。もちろんそれにともなう実務作業を、すべてのスタッフが2足のわらじをはいてやってまいりました。

 そのかいあってか、3年半もの間に多くの方に賛同をいただき、80名前後の方が会員になったり、また毎月のニューズペーパーの執筆や定例会の講師に惜しみもなくご協力ならびに参加いただきました。本当に感謝する次第です。

 さて、こうした状況の中で、私たちの活動はこのままでよいのか、1度じっくり見直す機会を持ちたいということになりました。そこで、ほぼ毎月行っていた多くのルーティンワークをいったん軽減化し、活動を見直した後に、また新たな魅力ある活動目的、内容をかかげて活動を行っていくことにしました。そして、現時点では下記のように活動内容を変更し、課題を持って取り組んでいくことにいたしました。

 みなさまにおいては、たいへん急なことで申し訳ないのですが、『Rickshaw(リキシャ)』2001年6月号の刊行をもって、活字でのメディアの発行はいったん停止し、現在開設しているホームページに集約し、1ヶ月に数回、更新をしていく次第です。

 また、定例会はこれまでどおり、毎月開催を目指します(できないときはご勘弁ください)。新しくなるAWCにもぜひみなさんの声をお聞かせいただき、できれば多くの方々の活動への参加をお待ちしております。

 つきましては、会員のみなさまには次の2点のご協力をお願い申し上げます。

AWCの目的と理念

『リキシャ』の刊行について

 

今後の活動内容について

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編集後記

今月号の「お知らせ」で書いたとおり、この月刊のニューズレターは、とりあえず今回をもって停止する。本当に月刊サイクルはたいへんな負担がスタッフにふりかかっていたが、また新たな展開を考えている。ぜひ期待をもって受け止めていただくとともに、積極的にご参加いただければと思う(や)

一身上の事情により、この号(2001年6月号)をもって『リキシャ』編集人を降板するとともに、活動上の実務もしばらく免除させていただくことになりました。長い間、本紙をご愛顧いただきまして、ありがとうございました。会員の方々にはご迷惑をおかけすることになってしまい申し訳ない気持ちですが、新たなるAWCの活動に、ぜひご期待ください。(し)

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月刊リキシャ2001年6月号(通巻第32号)
2001年6月2日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社リキシャ編集部

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