Rickshaw(リキシャ)

2001年3月号(第29号)

目次


定例会報告(第42回、2001年1月27日)

ドミニカ移民問題から見た日本の移民政策

                                      
ジャーナリスト 高橋 幸春(たかはし ゆきはる)さん

 1965年から3年間で、およそ250家族が農業移民としてドミニカ共和国に渡っていった。ブラジルをはじめとする他の移住地と比べても格段に好条件の募集に胸を躍らせて。だが、「カリブ海の楽園」との宣伝とは裏腹に耕作に不向きな土地ばかりのドミニカで、移民たちは食べることさえ困難な過酷な生活を余儀なくされた。そして、約束されていた優良農地を得ることができた者は未だひとりとしていない。

 このドミニカ移民問題について、『カリブ海の「楽園」』などの著述をはじめとして、日本政府の移民政策を問う活動を続ける高橋幸春さんに話していただいた。日本政府に対して損害賠償請求訴訟を起こすにいたるドミニカ移民の運動に自ら深く関わってきた高橋さんの話は、ドミニカ移民問題を見る新たな視点を与えてくれる。

 

ドミニカ移民入植の経緯

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 戦後、失業人口の増加などによる社会の混乱の解消を目的として、日本政府は移民政策を積極的に推進していた。こうした動きの中でドミニカ移民も生まれることになる。

 もともと農業移民を受け入れられるほどの肥沃な土地を持たないドミニカが日本人移民導入を表明した裏には幾つかの思惑があった。日本の農業移民は優秀で国家の発展に寄与することができるとのアメリカからの伝聞や、砂糖の輸出先として日本が期待できるといった要素が当時の独裁者を動かしたのだ。受け入れを表明した独裁者の一言でどんどん話が進んでいった、と高橋さんはいう。しかし、事務レベルに計画が具体化されると、ドミニカ側も受け入れの環境が整っているとはいえないと考え、日本人移民導入に難色を示した。にも関わらず、日本側が拝み倒して送り出していく、といった状況が当時あったようだ。日本側としては受け入れてくれさえすれば何処でもよかった、と高橋さんは見ている。

 そんな状況にも関わらず、住居の提供、最大で18ヘクタールの土地の無償譲渡、自立するまで生活給付金支給といった驚くほどの好条件に集まった250家族が移住していくことになる。条件が格段に良いだけに選考も非常に厳しく、「ドミニカ移民は移民の中でエリート」とさえいわれたという。

「あっという間に食えなくなる」移住地

 ブラジルをはじめとして数々の日本人入植地を訪れてきた高橋さんが、「ドミニカほど酷いところはなかった」という移住地は岩の露出した急斜面であったり、一面に塩分が浮かび上がった真っ白な砂漠であったりと、とても農地と呼べるようなものではなかった。また、もともと水源が乏しいうえに、灌漑設備も整備されておらず、とても耕作が始められるような状態ではなかったという。移住者の生活が「食うや食わず」の状態になるまでに時間はかからなかった。

 困窮した生活に苦しむ移民の姿は、当時南米の日本人入植地ではいたるところに見られた。しかし、高橋さんはドミニカ移民の生活の過酷さを強調する。例えばブラジルでは飢えるということはまずない。長大なアマゾン川の流れる、いわば自然の恵みに溢れた土地では、潤った生活には程遠いにしても食べるものは手に入れることができる。これに比べて、ドミニカの移住者たちは日々の糧を得ることすらままならない生活を強いられた。昼バナナ1本、夜バナナ1本といったまさに「食うや食わず」の生活だった、と高橋さんはいう。

 移住者たちは、華々しい宣伝とはかけ離れたドミニカの現実にすぐに抗議の声をあげた。しかし、大使館や海外協会連合会(現国際協力事業団)に抗議の文書を送りつけてもいっこうに取りあげらることはなかった。次に移住者たちは、新聞社などのマスコミに窮状を訴える手紙を送る。これが功を奏して、日本国内でもドミニカ移民問題が取り上げられ、1961年の集団帰国へと繋がっていくことになる。帰国者が語るドミニカの現実は社会党を中心に国会でも取り上げられ、ドミニカ移民問題は大きな社会問題となった。これに危機感を感じた日本政府は、集団帰国政策から、移民をブラジルやパラグアイに振り分ける再移住政策を採るようになる。

 政府の移民政策を問う動きも長くは続かなかった。何しろ帰国者自身が、財産を使い果たして着のみ着のまま帰り着いた日本での生活の確立に努めることだけで精一杯だったのである。それぞれの地方に帰って泣き寝入りが現実、と高橋さんはいう。

 1961年以後、133世帯が集団帰国し、70世帯が再移住していった。そして、47世帯がドミニカに残った。残った移住者たちは、移民受け入れを決めた独裁政権が倒れたあと、以前にも増した苦況に立たされながらも、引き続きドミニカから日本政府に向けて抗議を続けることになる。

 独裁政権が倒れると、各地に日本人排斥の動きが起こった。移民を受け入れるために独裁者が用意した土地は、現地の所有者からろくな補償もせずに奪い取ったものだったのだ。小屋が壊され農機具を盗まれることはもとより、収穫間近の耕作地に牛などを入れて収穫物を食い荒らされるといった嫌がらせさえも受けたという。

 ドミニカが隣国ハイチとの紛争や、相次ぐ政治紛争を経て、国家の体裁を整えるようになるのは1970年代に入ってからのことである。ちょうどその頃から移住者の間でも日本人会などがつくられるようになって、土地の配分を会として要求するようになる。だが、ドミニカには、そもそも国有地は絶対に私有地にはならないという法律がある。融資を得るための銀行の担保にすらならない耕作権だけが移住者に譲渡された。募集要項にあった土地の無償譲渡はでたらめで、開拓した土地はあくまでも国有地のままだったのである。

移住者への融資の実態

 相変わらず「食うや食わず」の生活を強いられたまま移住者たちは、1987年には東京弁護士会に人権侵害の申し立てを行い、これが受理される。法的な効果は期待できないにしても、人権侵害の裁定が下れば外務省や国際協力事業団に勧告ができるようになる。さらに翌年には日本弁護士会へ審理がいわば格上げされ、マスコミにも頻繁に取り上げられるようになった。現地調査団が組織され、日本政府を訴える訴訟も視野に入れた移住者たちの運動はいっそう活発になっていった。日本人会は団結して、公式な謝罪、募集要項通りの土地の配分、学校や日系人会館の建設、日系社会育成基金の設立を求めた。

 活発化する動きにあわてた日本政府は事業団を通して移住者への融資を積極的に行うことでこれに対応した。これまでは融資を受けられないという差別をあからさまに受けてきた、日本政府の責任を厳しく追及するグループにも、日弁連の審理が始まった年から融資が行われるようになる。「それで黙らせようとしたんだと思います」と高橋さんはいう。困窮した生活を送る移住者たちは、こうした融資に飛びついた。

 日弁連の裁定を求める動きが活発になるにつれて、融資の額は大きくなっていく。1993年には外務省の調査団がドミニカに派遣されたが、このときもこれまでにないほどの高額な融資が移住者たちに提示される。これまでは数百万円の融資額だったのに対して、1000万単位で、最高で2400万円の融資が持ちかけられた。それはドミニカの分価は日本の約10分の1、私たちが1億円、あるいは2億4千万円を借りたのと同じことになる。ドミニカでは成功した人でも200万円ほどの年収である。移住者の間でも100万円稼げればいい方とされた。そこに途方もない金額の融資が行われたのである。これには、運動の先頭に立ってきた日本人会幹部も手を出してしまう。

●裁判との決別

「あっという間に、200世帯ほどになっている日系人社会に6億円以上の金がばらまかれた」と高橋さんはいう。高橋さん自身、ドミニカ移民救済活動に積極的に関与する中で、インフレの進むドミニカで、返済に窮する移住者を見てきているだけに「融資は毒饅頭」だと訴え続けてきた。だが、知らないうちに多くの移住者たちが返済不可能な融資に手を出している現実に大きな失望を覚えたという。融資の回収率は低く、8%ほどに落ち込むこともあって、9割の移住者が返済していない。これでは「返す気がないと思われても仕方がない」と高橋さんはいう。

 さらに農業融資であるはずの資金が転用されている事例も高橋さんは確認しているという。1800万円もの融資金をプエルトリコの銀行に預けてその利子で生活費を捻出する、といった現実が高額な融資の裏に潜んでいるのだ。他にも、似たような噂が日系人社会を覆っているという。高額の融資を求めて、日系人会などの幹部になりたがる者が殺到した。日本政府の責任追及のリーダーシップをとる者に向けて、事業団の融資はばらまかれたのだ。

 こうした状況に、高橋さんを含めた学者や弁護士の支援グループは訴訟に向けた支援活動との決別を決める。「移民としての誇りもなく、あまりにもやっていることがえげつない。こうした運動には世論のバックアップが必要なのに、とてもじゃないけど支持は得られない」と憤りを込めた口調で高橋さんはいう。その裏には、著書『蒼氓の大地』に描かれた、ブラジル移民の子孫である夫人の家系を顧みた思いも含まれている。

「ブラジルにもボロ雑巾のようにのたれ死んでいる移民はたくさんいる。その人たちの思いもひっくるめてドミニカ移民に声を大にして日本政府を告発して貰いたいと考えていたが、結局、裁判は借金、踏み倒しと思われてもしかたのないものになってしまった」とその思いを高橋さんは語った。

 融資のやり方も含めて日本の移民政策の告発は続けていくという高橋さんは、係争中の裁判の結果を見据えてまた書いてみたい、と最後に付け加えた。

(山本 浩・フリーライター)
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「新国家」への胎動の影で忘れられた人々

東ティモール、ディリのインドネシア人と西ティモールの東ティモール難民
青山 有香

 1999年8月の国連主導下の住民投票で「独立」が決定した東ティモール。その直後9月に展開されたインドネシア国軍(TNI)と併合派民兵の「焦土作戦」は、同地全土を壊滅状態にした。それから1年以上経った今、国連やNGOの支援もあり東ティモールは少しずつだが、今世紀最初に誕生する「新国家」となるべく復興再生の道を歩み始めている。が、その大きな時代の潮流に、依然取り残されたままの人々もいる。99年9月以降ずっと西ティモールの劣悪なキャンプにいる、約13万人の東ティモール人難民。彼らの多くは、東ティモールへの帰還を希望しつつもいまだ併合派民兵の脅威や支援物資不足による苦難を強いられている。彼らは、元占領国であるインドネシア領にいて、まだ民兵らの政治ゲームの犠牲になっている。一方、東ティモール内にも、忘れられた人々がいる。首都ディリのモスクに住むインドネシア人だ。今回はおもに、このインドネシア人の現状について述べたい。

 東ティモールの首都ディリ南西部に、白い大理石でできている大きなモスクがある。そこには、約200人(60家族)のインドネシア人が住んでいる。彼らは、75年以降スハルト元大統領政権の移住政策により、インドネシア各地から反自発的に東ティモールにやってきた。彼らは、東ティモールで公務員や会社員などをして生活した。また、東ティモール人と結婚した者もいて、その子供も生まれた。彼等移住者は少しずつ、東ティモール社会に根をおろしていった。彼らの人生に大きな変動をもたらしたのは、やはり、99年9月のTNIと民兵らによる暴動であった。東ティモー ル人のみならず、彼等インドネシア人もまた大混乱の中、西ティモールに避難した。中には、民兵らに強制的に連行された者もいるという。

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モスクに住むインドネシア人。左端がアーラム氏。

「彼らの多くはまだ帰ってこない」。自身も西ティモールに避難し、帰還したモスクのリーダー、アーラム氏は言う。「私たちは、ずっとここで彼らを待ちつづけている」。西ティモールにいる人々はどうしているのか、と尋ねると「わからない」と虚ろな目で答えた。

「独立」決定後の東ティモールに住みつづけることは、彼らインドネシア人にとって、けして容易ではない。「インドネシアが去った後、今度は東ティモール人から嫌がらせが始まった」とアーラム氏は言う。「彼らはモスクに来て、インドネシアに帰れなどという」。それでは、なぜ帰らないのかと訊くと、「東ティモールへの思いが強いから。東ティモールを、私たちは愛しているのだ。だから何があってもけして帰らない」と、氏は意志の固い目で答えた。が、そのあとすぐにさびしそうにこう言った。「仮に、インドネシアに帰っても居場所がない。TNIは私たちを歓迎しないだろう」。本当に帰らなくていいのか、となおも訊ね続ける私に、氏は意外なことを打ち明けた。「じつは、帰りたくても帰れない。東ティモール国連暫定統治機構(UNTAET)が私たちのパスポートを人口統計調査のため何ヶ月も保管しているから。UNTAETは、私たちを3つのカテゴリーに分類する。一つ目は、移住政策の下、75年に東ティモールに来た者。二つ目は、東ティモール人と結婚した者、そして三つ目はその他というように。パスポートをとられたままでは身動きがとれない」。そして氏はこう付け加えた。「UNTAETと東ティモール民族抵抗評議会(CNRT)は、私たちの家屋も奪った。現在は、私たちはこのモスク敷地内にしか住めず、1家族(4〜5人)の居住面積は約2メートル四方ととても狭い。せめて、土地、家屋だけでも返してほしい」。彼等インドネシア人はそんな苦難にありながらも、日々モスクの周りに建てた木造の簡易屋台で、インドネシア料理をたまに来る東ティモール人に売り、細々と生計をたてているのだ。

 そんな彼らを、今年1月1日に災難が襲った。同日朝6時に一部酒に酔った40人ほどのティモール人がモスクを襲撃、投石などにより3名が怪我をし、同敷地内にとめてあった車を破壊した。UNTAETによると、襲撃の原因は、ティモール人がモスク敷地内にあった車を使おうとして、モスクの住人から拒否されたことに端を発しているという。

 インドネシアの不法占領が終わり、独立、「新国家」へと胎動を始めた東ティモール。だが、その時代の流れに取り残された人々―西ティモールの東ティモール人難民と東ティモールのインドネシア人―が実在しているのだ。前者は「占領された」側、後者は「占領した」側の民だが、共通することがある。それは、両者ともに大国や権力者の政治利害ゲームからは程遠い、ただ日々の安寧を求める普通の人々ということだ。

(あおやま ゆか・ジャーナリスト)
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韓国・早期景気回復の背景(4)

韓国の改革速度から見えてくる日本の現状
五石 敬路

危機意識と変革のスピード

 韓国経済が早期に回復した背景として、政治的な要因のみならず、社会のあちこちで変革への胎動が見られた点を無視できない。実際、韓国人と対話をしていると、その多くが変革の必要性と政府の不甲斐なさを強調する。しかし外国人がそれを言葉通りに、「韓国は政府がだめで改革が進んでいない」などと単純に受け取るべきではない。彼らの危機意識と実際の変化のスピードは密接に関係しているのである。前回紹介した根拠のない「過消費」説と猛烈な倹約ブームはその典型例であり、こうした韓国人の言葉をそのまま受け取って「韓国国民は過消費を反省していない」と報道した海外のマスコミは、実際の変化をうまく説明できなかった。対して日本では、いまだに日本の先進性を心の奥底で信じている人が多いように感じる。国内の評価が厳しく、海外の評価が高い韓国とは逆に、日本では海外の目の方が遥かに現実的で冷酷である。

不法占拠世帯の生活改善にも光明が

 韓国における社会変革の動きは、この連載を続けている間にも休みなく起こっている。例えば、『AWC通信』(現『リキシャ』)第13号でソウル市内の不法占拠世帯の暮らしについて少し触れたが、さる1月18日ソウル行政法院において、政府による彼らの住所登録拒否は違法行為だとする画期的な判決が下った。彼らは住所がないゆえにあらゆる基本的な行政サービスが認められなかったが、これで生活改善への大きな道が開けたことになる。この勝利判決の背景には、「落選運動」で有名になった「参与連帯」などの市民団体による強力なバックアップがあったが、彼らはマクロの政治においても「国民基礎生活保障法」を99年に成立させることによって、従来の生活保護法でカバーされていなかった「死角」領域に最低限の社会保障の権利を与えることに成功した。不法占拠世帯も、住所が認めれれれば権利が与えられることになる。政府の発表によれば、以前37万人とされていた生計費支給対象者は、2000年には151万人にまで拡大する(しかし実際には、予算規模や細かな支給対象者の資格要件などで対象者はこれよりも絞り込まれており、市民団体は継続して政府の対応を批判している)。

 この「保障法」の特徴の一つは低所得者層の自活を促す点にあるが、これは金大中政権が三大政策の一つに掲げる「生産的福祉」戦略を反映している。これは従来型の政府による恩恵に基づく福祉ではなく、住民の働く意欲と能力を伸ばそうというもので、実際に13号で紹介したFood Bankのようなプログラムやネットワークが、経済危機以降急増している。こういった政策は、じつはイギリスのブレア政権などの中道左派政党が掲げる「第三の道」政策に類似しており、それを実際に担っているのは「社会的企業」と言われる環境問題・老人介護・障害者ケア・育児支援等の社会的目的を持った営利・非営利企業の一群である。

日本の現状を振りかえると―

 詳述はできないが、金大中政権が掲げる政策の包括性は対北朝鮮政策にも見られた。日本ではミサイル問題ばかりが論じられ、韓国でも当時は保守派から猛烈な批判を受けていたが、金大中政権の一貫性は頑迷に続いていた。米国政権も当初から「太陽政策」を十分に評価する姿勢を見せており、日本の積極的な関与を求めていた。ところが日本では、「国際社会の現実」を強調する論客とそれを「軍事大国化」だとして局所的に反応する論客との対立によって、隣国で起きていたこうした変化への胎動を完璧に見逃すことになってしまった。

 経済については、オールド・エコノミーの領域では、現代グループの経営危機が続き、大宇グループの売却は労使対立で一向に進んでいない。また昨年の秋に政府が公的資金投入の追加を発表したことで、国民からの批判は非常に強まっている。さらに最近では財閥グループに対して政府が支援の手を差し伸べるなど、従来の政策をここに来て変更したのではないかという憶測も流れている。しかし一方で、ニュー・エコノミーの領域では韓国経済の躍進は顕著である。経済危機以降財閥グループの傘下企業も様変わりした。IT技術や関連インフラの進歩はこの1〜2年で日本を追い抜きつつある。i-モードの先進性をいまだに賞賛する日本人は隣国に行けばしゅんとしてしまうだろう。

 このように韓国では社会のあちこちで変化の胎動が見られ始めている。対する日本はどうだろうか。昨今の政治情勢で見えてきたことは、急激な変化を望む都市と、生活防衛に追われる地方や農村地域との意識のギャップが深刻になってきているということである。公共事業の削減、郵政事業の民営化、地方自治体の統廃合、これら全てに都市対農村・地域という古典的な対立の構図がつきまとっている。所得・資産分配の問題と言っても良い。全国にネットワーク化されたマスコミは大都市の雰囲気のみを伝えているが、寡占状態にあるこうした情報産業もまた変革の必要な一分野であろう。

(ごいし のりみち・アジア開発銀行研究所)
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亜洲人声(15)

杉岡幸徳さん(フリーライター)

 「旅行人」や「旅日記」に掲載された杉岡さんの最近の文章を読んでみる。そこに描かれているのは、ラオスの田舎ディスコでののんびりしたダンスのことであったり、サイゴンで踊るオカマたちのことであったり……。ルポルタージュ・ジャーナリズム的視点を持つ人が多いAWC会員の中、彼は旅先での「どうでもいいこと」を気負わず書き綴っている。

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旅への目覚め

 最初の海外旅行は二十歳の時のロシア(当時ソ連)です。新潟からハバロフスク、モスクワ、レニングラードへと向ったんです。シベリア鉄道に揺られる五泊六日はむちゃくちゃ退屈なんですよ。そこで日本での時間感覚、空間感覚がばらばらにされてしまいました。赤の広場も、単なる広場なのだけれども、そこに立った時に足元から異常なエネルギーが這い上がってくるのを感じたんです。そのとき、僕は別の人間になった。まだソ連の時代ですから、完全な自由旅行ができたわけじゃないのですが、そこで旅に目覚めてしまいました。

 なぜソ連に? その頃のソ連ってまだ胡散臭かったじゃないですか。その胡散臭さに惹かれた。ヘンなところに行きたがる心理じゃないかな。

反アカデミズム

 東京外語大の学部に八年、修士に二年いました。ドイツ語を専攻したのは高校時代にトラークというオーストリアの表現主義詩人に惹かれて。この人がジャンキー詩人なんですよ。薬物が詩作にいかに影響を与えているか、ドラッグの効用など、色んな文献を漁って修士論文を書いたんですけれども、これが教授の怒りを買って博士になれなかったんです。「お前は学問をなめている。これはアカデミズムへの挑戦ではないか」と。そこで大学から追放されてしまったんです。だからアカデミズムとか大学に対する反発は大きいですね。へらへらした文章を書くのはその反動かもしれません。

取材ノート

 昨年、『のまど』の記事を書くためにカンボジアへ行ったのが初めての取材旅行です。メモを取ったり、写真を撮ったのも初めてのことです。今までは日記もつけないし、メモも写真もとらなかったんです。正確なルポを書くわけじゃないので細かいデータは要らないし、間違えていてもいい。記録のないほうが強烈なものが書けるのかな、という気がするんです。忘れてしまっていることはくだらないことでしょう。メモを取ると必要ないことまで思い出してしまうから、ぼんやりしたものしか書けないのではないかな。これは今後の課題ですけれど。

旅行ライターの先に

 僕の文章はルポじゃないんですよ。エッセイであり、詩(うた)です。物書きはなんでも書けなければいけないと思っていますから、旅行ライターというのは切っ掛けであって、それで終わるつもりは勿論ないんです。今は旅行を通して世界の事情を書いていきたい。世界の事情とは、僕のことです。僕が世界なんです。大袈裟かもしれませんが。

 僕は存在意識が希薄なのかもしれません。アイデンティティーは他人に決めてもらうものだと思いますし、書くということは自分を訴えるための手段にすぎない。事実の向こうに自分が隠れてしまうのは嫌ですから、自分自身を意味もなく表現したいですね。

 将来の目標は、という質問に「ノーベル文学賞をとること」と笑って語る杉岡さん。「ライター」と印刷された名刺にその場で「自由作家(フリーライター)」と書き加えていた。

(インタビュー・構成/牧 良太・フリーライター)
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情報交差点

会員動向

南風島渉

1月13日、訳書『暗黒のアチェ―インドネシア軍による人権侵害』が発売されました。

目次 日本語版に寄せて/はじめに/軍事作戦地域(DOM)時代 /DOM解除と新たな軍事作戦/中央政府のアチェ問題への対応/結びと提言/その後のアチェ

著者・Tapol 、翻訳・南風島渉、発行・インドネシア民主化支援ネットワーク、発売・コモンズ、定価800円

西中誠一郎

MXTVにて1月18日、「在日クルド人の描く絵の世界」が放映されました。(撮影・西中誠一郎/プロデュース・豊田直巳)

「3年ほど前に出会ったクルド人画家アフマッド・アミン・スミコさんは、現在、緊急援助のNPOで働く建築技師でもあります。今回は丸木美術館で開催中の美術展「Piece For Peace 2000」への出品に合わせて急遽編集しました(豊田直巳さんの項参照)。同番組のビデオをご希望の方には実費(送料込み1000円)でお送り致します」(西中/tel 070-6515-0170)

杉岡幸徳

1月20日発行『のまど』2月号に「カンボジアビーチを行く」が掲載されました。カンボジアのシハヌークビルという街にあるビーチを紹介し、そこに暮らす人びとの暮らしぶりを綴った紀行文です。「カンボジア=アンコールワットという紋切り型からそろそろ解放されたほうがいいでしょう。また、カンボジアといえばすぐに地雷の話を持ち出したがるジャーナリストも反省して頂きたいと思います」(杉岡)

青山有香

『週刊金曜日』2月16日号に「東ティモール 自主独立へ向け国際支援を APCET第四回会議報告」が掲載されました。「東ティモールに自由を! 全国協議会」の派遣により同会議に出席した青山さんが、会議の報告とともに東ティモールが置かれた現状を伝えています。なお、青山さんには来月のAWC定例会でご講演いただきます。

豊田直巳

埼玉県の丸木美術館で開催中の「企画展 Piece For Peace 2000」に作品が展示中です。

会期 3月31日(土)まで/所在地:埼玉県東松山市下唐子1401/TEL:0493-22-3266/午前9時〜午後5時/月曜日休館/入館料 大人700円、中学生・高校生500円、小学生350円/交通 東武東上線・森林公園駅下車より3.5キロ、タクシー12分。東松山駅南口より市内循環バス「唐子コース」運行(土日祝除く)

イベントのご案内

パネルディスカッション「帰らなくていいの? フジモリさん―ペルーで何があったのか?」

日時:3月11日(日)13:30〜16:30/会場:カンダパンセ8階大会議室(千代田区西神田3-9-10、TEL:03-3265-6366。JR水道橋駅西口歩5分、地下鉄九段下駅歩9分、地下鉄神保町駅歩9分)/参加費:一般800円、学生500円(予約不要)/共催(順不同):RESODEP(ペルー民主化連帯ネットワーク)、社団法人アムネスティ・インターナショナル日本、ピースボート・ペルー2001キャンペーン

「無実のゴビンダさんを支える会−Justice for Govinda! 結成集会」

 電力会社OL殺人事件の被告人として一審では無罪判決を受けたものの、再勾留のうえ、控訴審で逆転無罪判決を受けたゴビンダ・プラサド・マイナリ氏(ネパール人)。新たな証拠が出てきていないうえでの再勾留、控訴審における判決まで4ヵ月というスピード審理―。こうしたなか、最高裁での裁判へ向けて彼を支える会が発足する運びとなり、結成集会が開催されます。捜査から報道、裁判にわたる、この事件が孕んださまざまな問題点を再検証するうえでも有意義と思いますので、ぜひ足をお運びください。(白取 芳樹)

日時:3月25日(日)午後1時半〜/場所:労働スクエア東京・601会議室(東京都中央区新富1-13-14)

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編集後記

最近気になった記事を一つ。「大地震もカースト制度のひびを入れられなかった」(11日付朝日新聞)インド西部地震に襲われたグジャラート州の町アドイにできたテント村が、身分制度であるカースト対立のために誰も入居していないと報道している。救援団体による炊き出しも30メートル離れた別々の場所で調理しているという。カースト制度の根深さと報道の真偽を確かめたい(や)

今月号の「情報交差点」は会員動向を中心に構成してみました。いかがでしょうか。このコーナーはこちらから情報を発信するだけではなく、情報を受信する機能も持たせていければと思っています。みなさまからのご意見、ご要望、情報もお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。(し)

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月刊リキシャ2001年3月号(通巻第29号)
2001年2月24日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社リキシャ編集部

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