旧ソ連に生きる朝鮮民族

☆第25回部落解放文学賞(記録文学部門)受賞作品

高賛侑(Ko Chanyu, ko@k.email.ne.jp)
(一九九八年一〇月執筆)

※呼称について:旧ソ連の朝鮮民族は一般的に、大陸側で居住してきた人々は自らを「高麗人(コリョサラム)」と、サハリンで居住してきた人々は「朝鮮人」と呼称する。但し、近年は「韓国人」という表現も増えている。その他、「朝鮮」と「韓国」の厳密な区別は煩雑なため、本文では現地の慣例や当事者が語った表現に従って記述するのを基本とする。


目次

  1. カザフスタンで開かれた国際ワークショップ
  2. タジキスタンからの報告
  3. フルンゼ実験農場にて
  4. 高麗日報と朝鮮劇場
  5. もう一つの民族史
  6. サハリンは涙の島
  7. 民族教育のともしび
  8. 離散家族の運動
  9. 高麗人の故郷パルチザンスク
  10. 我々は彼らの兄弟といえるのか
  11. 在中、在米、そして在日

 「高麗人は中央アジアに農業をもたらすために、骨身を惜しまずに働いてきた。なのに再び奴隷の身に陥ってしまった」

 鄭棟柱氏は重い口調でそう語った。

 「ウズベキスタンやカザフスタンの人々は高麗人に向かって、『ここは俺たちの土地であって、お前たちのものではない。ロシアに出て行け』という。だがロシア人からみれば、『お前たちはカザフ人であり、ウズベク人であるから、入ってくるな』ということになり、どこにも行く所がなくなってしまったのだ」

 鄭氏は韓国で「今日の作家賞」、「新農民文学賞」を受賞した中堅作家である。彼は一九九二年に初めて中央アジアを訪れた。目的はシベリアをテーマにした小説の素材を得たいという「多少軽い気持ち」の取材旅行だった。だが、現地に足を踏み入れた瞬間から、自分がいかに無知だったかを思い知らされた。

 「この仕事は最初からわたしを圧倒した。わたしが経験したどの歴史よりも真摯で切々たる生存の証拠が真っ青にうごめく巨大な混沌だった。・・・わたしは小説を書く前に、恐怖政治の犠牲になったシベリア韓人の報告書を作成することを決意した」。そして二年にわたる長期取材に取り組んだ結果、『カレイスキー・もう一つの民族史』(ウリ文学社。「カレイスキー」はロシア語の「朝鮮人」の意)という長編ルポルタージュを上梓したのである。

 私もまた、かつて多少軽い気持ちで旧ソ連に住む高麗人に興味を抱いた。そして手探りしながら資料を入手していくにつれて、想像を絶する歴史の秘話に引きずり込まれていった。

 同書から深い感銘を受けた私は、日本語で翻訳出版したいと申し入れた。日本語版の『カレイスキー・旧ソ連の高麗人』(東方出版)は今年(一九九八年)五月に刊行された。それを機に、毎日新聞大阪本社の企画で鄭氏と私は対談を行った。

 「とはいえ高麗人はソウルやピョンヤンが受け入れてくれるわけでもない。行くあてもない彼らこそ、地球上で最も悲惨な民族の一つだ。わたしが高麗人のことを書こうとした理由は、まさにその点にあったのだ」

 鄭氏の話を聞きながら、私の脳裏には、現地で出会った高麗人たちの顔が走馬灯のごとく甦った。

一 カザフスタンで開かれた国際ワークショップ

 「現在、旧ソ連全体の人口は二億八五〇〇万人であり、そのうち高麗人は四五万人います。カザフスタンでは人口一五〇〇万人のうち、高麗人は一一万人を占め、極東で生まれた人が二二%、カザフで生まれた人が六二%、その他が一六%です。高麗人は勤勉で、ユダヤ人に次いで教育レベルが高く、どの民族よりも優秀だと称賛されています。高麗人は各地の集団農場の発展に多大な貢献を果たしてきましたし、いまでは社会のあらゆる分野で活躍しています」

 演壇に立つアルマトイ高麗人協会の代表が胸を張って報告を行う。

 一九九三年九月、所はカザフスタンの首都アルマトイに建つカザフ科学アカデミー(カザフスタンの首都は一九九七年にアクモラに移転した)。かの地で日本側とカザフ側による初の国際ワークショップ「離散朝鮮民族と多民族共生体の未来像」が二週間にわたり開催された。ワークショップは一七、一八の両日に開かれたシンポジウムで幕が上がった。日本からの参加者は二八名で、在日韓国・朝鮮人および韓国からの留学生と日本人がほぼ半数ずつ。現地からは科学アカデミー会員など、高麗人約一〇〇名が参加した。最初に報告を行ったアルマトイ高麗人協会代表は、高麗人が科学、産業、文化等すべての面で重要な任務を果たしていると語っていく。「いま高麗人の前に提起されているのは、近年始まった市場経済化・民営化の流れにいかに対応するかという問題です。高麗人は集団農場で中心的な位置を占めてきたので、急速な改革に対応しつつ、一抹の不安も感じています。こうしたなかで、私たちの協会には、高麗人に対する意識改革を一層促進することが求められています。現在、協会には四万人の会員がおり、協会の活動はカザフ政府からも理解を得ています。私たちは高麗人に対し、政治的意識と経済的知識、技術の向上、そして民族意識の向上をはかる役割をになっています」

 報告者は最後に「高麗人は長年にわたって原住民とともにこの地を開拓してきました。私たちの協会の方針は、今後もカザフの土地で暮らしながら、民族の言語や文化を継承・発展させ、伝統や慣習を復活させることです。そのためぜひ先祖の祖国や海外の同胞の皆さんの協力をいただき、関係を深めていきたいと思っています」と強調して演壇を降りた。私がこのワークショップに参加したのは、高麗人の真実をこの目でたしかめてみたいという宿望を強く抱いていたからだった。

 私は在日朝鮮人二世である。祖国の分断、異国暮らし、民族差別・・・自らの選択の余地なく不条理な境遇のもとに生まれ落ちた者にとって、「民族」は常に生の根底にうごめいている。大多数の在日同胞と同様、民族的な自覚をもてないまま、差別の重圧に押しつぶされていた日々・・・。

 高校三年のときに先輩の影響を受けて民族的アイデンティティに目覚める契機を得て以後、在日としての生き方に正面から取り組むようになった。小説や戯曲の創作活動、あるいは自ら創刊した情報誌の編集作業を通じて、在日のビジョンを模索してきた。

 その過程で、世界には五〇〇万人を越す在外朝鮮民族が存在することを知った。最近の統計によれば、中国に一九六万人、米国に一八五万人、日本に六六万人、独立国家共同体(旧ソ連)に四五万人が居住している。ということは、韓国の四三六七万人、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の二二三四万人のほかに、実に全民族の七%以上もの人々が外国で暮らしていることを意味する。にもかかわらず彼らの存在は本国でも日本でもほとんど視野の外に置かれ、資料は皆無といっても過言ではない状態だった。以来、在外朝鮮民族の実態に強い関心を寄せてきた。それは在日朝鮮人の一人として生まれ育った自己の民族的アイデンティティをより客観的な視点からとらえなおしたいという思いにほかならなかった。

 在日同胞は日帝植民地時代の歴史の産物として「在日」するという特殊なアイデンティティを受け継いできた。が、同時に私たちは、世界各地で異国に住んでいる人々と共通する「外国人」としての普遍性をもになっているはずだ。とすれば、まず他国に住む朝鮮民族の実態を知ることから、自己の特殊性と普遍性をより明確に把握しうるのではないかと考えたのである。

 とはいえ在日朝鮮人にとって、海外旅行はさほど容易なことではない。なぜなら外国人登録証の国籍欄が「朝鮮」となっている者は、再入国許可証やビザの取得に制約がついてまわるからである。

 八〇年代末期になり、ある程度規制が緩和されてからようやく中国とアメリカを訪問することができた私にとって、次にぜひとも行ってみたい国が旧ソ連だった。それは単に朝鮮人が多数居住する残りの一国という理由だけではなかった。一冊の本を通じて、旧ソ連在住朝鮮人の戦慄すべき歴史を知らされたからだった。

 一九九一年に『在ソ朝鮮人のペレストロイカ』(凱風社)という、高麗人に関する初めての日本語版の本が刊行された。主な内容は、カザフスタンで発行されている朝鮮語新聞「高麗日報」の主要記事を翻訳したものだった。

 同書には、高麗人がロシアの極東地域に移住しはじめたのは一八六〇年代以降のことであり、一九一七年のロシア革命当時には約二〇万人が居住していたと記されていた。高麗人はハバロフスクやウラジオストクに韓人村をつくり、三五〇の朝鮮学校を建て、新聞を発行し、ラジオ放送や朝鮮劇場も運営した。

 ところが一九三七年に突如悪夢が襲いかかった。スターリンが高麗人に対し、中央アジアへの強制移住を命じたのである。理由は、ソ連が日本と戦争状態になった場合、高麗人は日本軍のスパイになる恐れがあるからだとされた。九月から一六万人とも一八万人ともいわれる高麗人がシベリア鉄道でウズベキスタンやカザフスタンに送り込まれた。迫りくる酷寒のなか、多数の人々が命を失った。

 生き残った人々は砂漠地帯を開拓し、米や野菜の種をまいた。やがて高麗人は農業を発展させ、集団農場の指導的な地位についていった。ソビエト政権はしかし決して民族的な権利を保障することはなく、あらゆる民族文化の抑圧政策をつづけた。

 こうした経緯を経て、一九四五年の第二次世界大戦終結後には、大半の高麗人が「ソ連」国籍を取得するにいたった。そして若い世代が朝鮮語を知らないばかりか、一世の人々でさえ忘れてしまうほどの状況になったのである。

 高麗人の意識に変化があらわれたのは、一九八六年以後のことだった。ゴルバチョフによるペレストロイカが進行するなかで、旧ソ連内の少数民族のあいだでは民族的アイデンティティをみなおそうという機運が高まった。

 高麗人に劇的な影響を与えたのは、八八年のソウルオリンピックだった。このときソウルの実情が初めて旧ソ連のテレビで放映された。従来、米帝国主義の植民地とばかり宣伝されてきたソウルが、実はモスクワをはるかにしのぐ大都市に発展していることを知った高麗人の胸に、先祖の祖国に対する誇りが芽生えてきた。

 一九八九年五月五日、全国の高麗人の結集軸となるモスクワ高麗人協会が結成された。これを皮切りに、各地に高麗人協会、高麗文化センターなどがつくりだされ、民族の言語や文化を学ぶ運動が広がっていった。九〇年五月にはより高度に組織化された全連邦高麗人協会が結成された。さらに同年九月に韓ソ国交が樹立されるにいたって、高麗人の祖国熱はますます高まっていった・・・。  同書を通じてこのような概要を知ることができたが、次々と疑問がわき上がってきた。強制移住という信じがたい犯罪がなぜ計画されたのか、どのように実行されたのか、中央アジアで高麗人はいかなる処遇を受けたのか、現在の境遇はどうなのか・・・。現地に行って真実を知りたいという思いがこうべをもたげた。しかし何のつてもなく、ロシア語も知らない私が中央アジアに行くのは絶望的と思わざるをえなかった。

 ところが思いがけないチャンスに巡り合った。九三年の夏、新聞を読んでいた私の目はコラム欄に釘付けになった。日本人と高麗人の映像作家が協力して、九月にカザフスタンでワークショップを開催することになり、参加者を募集しているという内容だった。ためらうことなく主催者に連絡をとり、参加を申し込んだ。九月一五日、成田空港で顔を合わせた参加者一行はアエロフロート機に乗り込んだ。アルマトイは地図上の距離よりはるかに遠い。モスクワまで九時間飛んだあと、国内線に乗り換えてさらに五時間戻ってくることになるからである。現地時間一六日の早朝に空港に到着すると、晴れ渡った空の下に雪化粧したアルタイ山脈が美しく輝いていた。

 出迎えに来たのは、高麗人の記録映像作家であるラウレンティー・ソン氏だった。一九四一年にカザフスタンで生まれた彼は、全ソ国立映画大学脚本科卒業後、カザフフィルム撮影所で劇映画の脚本執筆・演出を担当したのち、八八年にカザフスタン作家同盟傘下に独立プロダクションを設立。ピャルヌ国際視覚人類学フェスティバルでA・スラーピンシェ賞を受賞した「ヴァドルの大地」など多数の作品を発表してきた。滞在期間中のすべてのプログラムはソン氏によって進行されていく。

二 タジキスタンからの報告

 二日間のシンポジウムでは、双方から計八名が報告を行った。カザフ側の報告は、高麗人の実情を知るうえで参考にはなったが、まだ自由にすべてを語れる状況ではなかったためか、表面的な解説にとどまっているような印象を拭うことはできなかった。しかし隣国のタジキスタンからただ一人参加したタジキスタン高麗人協会会長キム・ビクトル氏の報告は、身の毛のよだつような強烈な衝撃を与えた。

 「旧ソ連の崩壊後、わたしたちも民族の言葉を取り戻し、伝統的な文化を継承するのがいかに大切なことかを認識するようになりました。しかし現在タジキスタンに住む高麗人にとって、その課題は二次的なものとなってしまいました。いま最も切実な課題は、いかにして生き延びるかという問題なのです」

 彼は開口一番ロシア語でそう切り出した。年齢は三五、六歳だろうか。抑制のきいた口調で語るにつれて、会場は異様な沈黙につつまれていった。

 「わたしたちの実情を知っていただくため、まずタジキスタンに住む高麗人の歴史についてお話したい」

 と彼はつづけた。

 タジキスタンに初めて高麗人の一家があらわれたのは一九四一年だったといわれる。その後急増するようになったのは、五〇年代末期から六〇年代初頭にかけてのことだった。ほとんどはウズベキスタンやカザフスタンからの移住者であり、八九年には一万三五〇〇人になっていた。

 高麗人は砂漠地帯に田畑をつくり、豊かな暮らしを築いていった。国家レベルでも生活レベルでも、他の民族との違和感はなく、平穏な暮らしが維持されていた。だが突如発生した紛争によって、平和は無惨に崩れ去った。

 タジキスタンの人口は五〇〇万人で、そのうちロシア人、高麗人、ドイツ人、アルメニア人、タタール人などのマイノリティは三五万人にすぎない。タジク人は大半がイスラム教徒であり、居住地域によって四つの勢力に分類されている。その四勢力が武力衝突したのである。

 内戦は一九九〇年二月、首都ドシャンベで勃発した。首都は三日間無政府状態に陥った。死者は二六人、被害を受けた者は数千人をかぞえ、あらゆる民族が巻き添えをこうむった。ドシャンベには六六〇〇人の高麗人が住んでいたが、彼らは中立を守ったため、比較的軽微な被害ですんだ。

 しかし一時小康を保ったのちには、もっと凄惨な事態が待ち受けていた。五月から一一月までタジク人同士の血で血を洗う抗争が激化していったのである。死者は公式の統計によるものだけでも二万人に達し、ほかに三万人が行方不明になった。高麗人も流弾によって一〇人の死者が出たことが確認された。

 「犠牲者はただ殺されただけではなく、非常に残虐な方法で虐殺されました。生きたまま皮をはがれたり、手を切り取られ、目をえぐられ、頭を切断されたりしました。ある高麗人女性は小学校で子どもが虐殺されるのを目撃したし、彼女の隣人は逃げてきた人をかくまったために殺されました。本当にわたしたちはどうしたらいいかわからない状態なのです」

 かぞえ切れない人々が国外に避難していき、国内では五〇万人が難民となった。高麗人は六〇〇〇人に半減した。だが脱出するのも決して容易なことではない。道は遮断され、唯一の交通手段はモスクワとドシャンベ間を結ぶ飛行機便だけになった。脱出が困難だった理由は交通手段のためだけではなかった。カザフスタン、ウズベキスタン、ロシアや極東地域などに逃れようとしても、受け入れてくれる所がなかったのである。

 「高麗人協会の事務所はドシャンベの郊外にあり、被害を受けた人々に服を与えたり、子どもの教育費を出してあげたりしてきましたが、状況はますます困難になっています。いま高麗人協会が果たすべき役割は、何ものも恐れずにこの事態に対処していくことです。わたしたちはこの紛争に対し、積極的な中立を堅持しています。紛争に介入しないだけでなく、他の少数民族とともに、法の侵害に反対する立場を表明してきたので、国家の指導者たちからも高い評価を受けてきました」

 タジキスタンには少数民族がつくった一一の団体がある。それらの団体は九一年一二月に合同委員会を結成し、大統領と最高人民会議に対して少数民族を保護する法律を制定するよう要請し、準備した法案を可決させることができた。

 ドシャンベは非常事態宣言下にある。状況は徐々に改善されつつあるが、なかなか解決されない原因の一つは、世界の大国の政治的な影響を受けているからであり、もう一つは、周辺諸国から大量の武器が流れ込んできているからである。アメリカはタジキスタンでイランの影響力が強くなるのを阻止しなければならないと考えている。ロシアは、旧ソ連のなかで唯一共産党が支配するタジク政府の存在を認めたくないため、たとえイスラム原理主義であっても、「民主派」をとなえる側を支持している。

 「近隣の諸国がタジキスタンの紛争解決のために支援を送ってくれているのは本当にありがたいことです。特にわたしたちにとってうれしいのは、韓国が援助してくれていることです。ただわたしたちはこの事態を、決して高麗人だけの問題として分けて考えたくはありません。少数民族全体に共通した問題なのです。だから韓国に対しても、高麗人だけを助けてほしいといってるのではありません。すべての民族が共に助け合って生きていかなければならないのです」

 静まり返った会場にキム・ビクトル氏の声だけが流れつづけた。激することなく淡々と語る口調がかえって聞く者の胸をえぐった。彼は報告の最後を次のように締めくくった。

 「わたしは若いときはそれほどでもありませんでしたが、年を重ねるにつれて、自分が高麗人であるということを強く感じるようになりました。たしかに言語の喪失は民族性の喪失に密接に結びついています。今後、高麗人協会としては民族の言葉や文化を残すために努力していきたいと思っています。

 タジキスタンでは伝統的にお客さんを大切にもてなす風習がありますが、残念ながら、いまは皆さんをお招きすることができません。しかしいつの日か平和が訪れたときには、きっと皆さんをご招待したいと思います」

 キム・ビクトル氏の話は私にとって、民族紛争は凄惨な命の奪い合いにまでいたるものだということを初めて身近に実感させるものだった。彼が演壇から降りてきたとき、私は通訳を呼んで近寄っていった。バッグから小荷物を取り出した。何かのときに役に立つかと思って手土産用にもってきていた数本のカセットテープだった。

 「このテープには民族の伝統的な民謡や現代音楽が入っています。お役に立つなら、高麗人協会で使ってください」

 といって手渡すと、彼は相好を崩して

 「ありがとう。わたしたちにはこういう物が絶対的に不足しているのです」

 といった。予期した以上の喜びを全身であらわす様子に、私は熱いものがこみ上げてくるのを押さえることができなかった。

三 フルンゼ実験農場にて

 二日間のシンポジウムを終えたあと、ソン氏は私たち一行を高麗人の生の生活現場にいざなってくれた。強制移住当時から高麗人が住み着いてきたウシトベの「フルンゼ実験農場」でホームスティを体験するのである。

 アルマトイから北へ三五〇キロ。ソン氏がチャーターしたバスは「これで無事に目的地に着けるのかな」と不安をおぼえるほどのしろものだった。市街を抜けると、道路の両側には荒涼とした大平原が果てしなく広がり、はるか彼方に雪をいただくアルタイ山脈がのぞまれる。カザフスタンの面積は日本の八倍に達する。いま中央アジアのど真ん中を走っているんだという感慨にひたりながら、一時間ほどたった頃、突然後部座席に座っていたメンバーたちが騒ぎ出した。

 「あれ、変な臭いがするぞ」

 「何か燃えてるんじゃないの」

 振り向くと、室内に黒煙が漂っている。

 「運転手さん、止めて!」

 と女性が叫ぶ。

 急停車したバスを降りてみると、なんと後輪の部分から火が吹き出している。タイヤが燃えているのだ。運転手はゆっくりと近づき、布切れでたたいて火を消した。ソン氏が苦り切った表情で文句をいうが、運転手はニコニコ笑っている。スペアタイヤがないらしい。しばらくすると、乗り合いバスが通りかかった。運転手はバスを止めて何やら交渉を始めた。タイヤを譲ってくれというわけだ。無事に話がまとまり、修理を終えて再出発したのは二時間後のことだった。

 目的地に着いた時刻は深夜の一二時をまわっていた。暗闇のなかで、ソン氏が村人を呼びに回った。姿をあらわした人々によって、私たちは二、三人ずつ分散してそれぞれの家に案内された。

 私が宿泊することになったのは、農場長のパク・ニコライエフ氏宅だった。家では奥さんと息子、娘、それに奥さんの姉が寝ずに待っていた。さっそく用意してくれた夜食には、ご飯とキムチが出た。ほかの民族文化は失われても、食文化だけは伝統が残されている。この間、まったく口に合わない食事ばかりだったため、キムチは口のなかでとろけそうなほどおいしく感じられた。

 翌朝、パク氏に農場の暮らしについて聞いてみた。ウシトベの人口は六万人で、うち高麗人は七〇〇〇人。フルンゼ実験農場ではさまざまな民族からなる六五〇世帯が暮らしており、約半数が高麗人だという。

 「高麗人は昔は苦労したが、一生懸命土地を耕し、農場を発展させてきた。いまではみな裕福な生活をしているし、ほかの民族とも仲良く暮らしているよ」

 彼の言葉どおり、家には七〜八もの部屋があり、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など主な電化製品はすべてそろっている。テレビはロシア語三チャンネルとカザフ語一チャンネルが放送されていた。

 私の最大の関心事は、もちろん強制移住の体験を聞き出すことにあった。

 「一九三七年当時は、どんな暮らしをしていたのですか」

 「わしはその頃、まだ四歳だったから、ほとんど記憶が残っていない」

 「現地の人々は高麗人に対し、どんな対応をしたんですか」

 「カザフ人はみな親切にしてくれたよ」

 「住む所はどうしたんですか」

 「現地の人の家に泊めてもらったり、小屋を建てたりして、何とかしのいでいたね」

 つらい過去を振り返りたくないのか、あるいは農場長という立場のためなのか、詳細な状況を語ってくれようとはしない。私は自分が知りえた内容を確かめる形で質問を投げかけていった。

 「住む所がなくて、洞窟をつくって住んだ人もいたという話を聞きましたが、それはどういうことですか。地面を掘って住んだということですか」

 「小高い丘がある所では、斜面の土を掘って洞窟をつくったんだよ」

 「新たに農業を起こすのは相当困難なことだったと思いますが、種はどうしたんですか」

 「高麗人は極東から来るときに、米や野菜の種をもってきたんだ」

 「カザフは砂漠地帯だから、土地を耕すのは大変だったでしょうね」

 「この辺りはもともと雑草しかはえないような荒れ地で、農業なんかまったくない所だった。それにここの土地は塩分を含んでいたので、初めの頃は塩分を抜くために相当苦労したそうだ」

 塩分が、なぜ?という疑問が脳裏をかすめたが、うかつにもさほど重要なこととは考えなかった。もっと具体的な体験を聞きたかったが、過去の話題を避けるような気配が感じられたため、深入りできないもどかしさが残った。

 この日、一行は車に分乗して農場内を見学してまわった。真っ青な空の下に緑の農地が広がり、はるかかなたにうっすらと山並みがみえる。案内役の青年の説明によれば、農場全体の総面積は六九〇〇ヘクタールで、農地は三四〇〇ヘクタール。田圃では黄金色の稲穂がこうべをたれ、畑では高麗人やカザフ人のおばさんが野菜の収穫に精を出している。農場では、徐々に新しいシステムが導入されつつあった。個々の農民は、農場から土地を貸り、一年間指定された農作物を栽培する。収穫物は半分を農場に拠出し、残りの半分を自分の取り分とする。農場の収穫物は、国家が一定量を国定価格で買い取り、残った分は自由に販売したり、他の農場や企業とのあいだでバーター式に物々交換したりする。農場内には、その他農産物の集結場や脱穀場、牧場、自動車修理工場などがあちらこちらに点在している。高麗人やカザフ人、ドイツ人、タタール人などいろんな肌の色の人々が、ロシア語を共通語にして何の違和感もなく共同作業している光景は、私の目に新鮮な映像として焼き付いた。

 その夜、農場本部会館で村人との懇談会がもたれた。農場側からは幹部一〇余名と青年たちが参加し、パク氏が農場の説明を行った。

 「フルンゼ実験農場が設立されたのは一九二九年だった。当時は主にロシア人が中心となって、ごく小規模の農業が行われていただけだったが、一九三七年に高麗人が入ってきてから本格的に農業が発展するようになった。高麗人は土地を開墾し、米を栽培した。この一帯は米を栽培することのできる北限地であり、高麗人が開発した稲しか育たない。

 その後、カザフ農業大学と協力しながら、たまねぎ、大豆などいろんな野菜の品種改良につとめてきた。いまでは米の生産量は年間三〇〇〇〜四〇〇〇トン、たまねぎは一五〇〇トンになった。酪農にも力を入れてきた。現在、一五〇〇頭の牛を飼育し、七〇〇〜八〇〇トンの牛乳と一五〇トンの肉を得ている」

 パク氏は農場がカザフ国内で最も成功したコルホーズの一つに発展したと誇らしげに報告した。質疑応答に入ると、私たちのメンバーは次々と質問を浴びせていった。

 −−強制移住以後、高麗人にはどの程度の自由があったのか。

 「以前はほかの土地への移住が制限され、選挙権もなかったが、スターリンの死後、認められるようになった」

 −−ユダヤ人やドイツ人などヨーロッパ系の人々はいつ頃から移住してきたのか。

 「第二次世界大戦中に大勢入ってきた。彼らには移住の自由が認められたし、ほかの少数民族も戦後、もともと住んでいた地域が復興するにつれて帰っていく人が多かった。しかし高麗人は遠い極東地方から移ってきたため、帰るべき所がなかった」

 −−高麗人とカザフ人は特別な問題なく共存してきたといえるのか。

 「カザフスタンは多民族国家だ。カザフ人は高麗人が強制移住されてきたときも親切に迎え入れてくれたし、協力し合って農場を発展させてきた。国家の政策によって生活は向上してきたし、何の問題もなく仲良く暮らしている。老人のなかには生まれ故郷である極東の沿海州に帰りたいという人もいるが、ほとんどの人はここで住むことを希望している」

 パク氏の説明はいかにも公式発表的なものに感じられた。一人が苛立ったような口調で質問した。

 −−高麗人は過去に非人道的な強制移住を強いられたわけだが、それに対してロシア政府に補償を求めようという考えはないのか。

 一瞬場内が静まり返った。パク氏がおもむろにこたえた。

 「強制移住は歴史であると同時に、現在につながる問題でもある。わたしの親戚も強制移住のときに亡くなっている。しかし補償問題は将来的には提起されるかもしれないが、いまは考えていない。当時、スターリンの取り巻きのなかに誤った情報を上げた人たちがいたのかもしれない。スターリンだけを責めるのは間違っている」

 引きつづき質問を行う者はいなかった。懇談会が終わると、手作りの料理が運ばれ、食事会が始まった。とはいえ三々五々集まって飲み食いしながら雑談を交わすだけで、同胞の宴会につきものの歌や踊りが出る雰囲気でもない。何よりも若い世代と会話ができないので、いっこうに盛り上がらなかった。

 早々に切り上げて、私はパク氏とともに帰路についた。そのときパク氏が弁解するようにつぶやいた。

 「さっきは政治的な質問がたくさん出てきたが、わたしがみんなのいる前で『スターリンが悪かった』といえるわけないじゃないか」

 パク氏も村人たちも多くを語ろうとはしなかったが、断片的な話からだけでも強制移住当時の過酷な状況はうかがい知れた。シベリア鉄道で牛馬のごとく運ばれてきた高麗人は、中央アジアの各地に分散させられた。住む所のない人々は藁葺き小屋や洞窟をつくって雨露をしのいだ。真冬には零下四〇度にまで下がる地で、生き地獄のような苦しみを味わった。恐ろしいのは飢えと寒さだけではなかった。伝染病が発生し、衰弱しきった人々に襲いかかったため、多数の死者が出た。しかしこのような環境のなかでも、高麗人は強靱な生命力で生き抜いていった。人々は血のにじむような努力で土地を開墾し、農場を築いた。不毛の放牧地帯に農業をもたらした高麗人は、やがて現地の人々の敬意を受けるようになり、コルホーズの指導的な地位についた。やがてフルンゼ実験農場はカザフスタンで最も成功したコルホーズの一つにかぞえられるほどに発展した。

 一九四〇年代になると、スターリンでさえ高麗人の業績に驚嘆のまなざしを注ぐようになった。すると今度は、新たな政策を考案した。収穫競争をあおり立て、優秀な成果をあげたコルホーズと指導者に対して「赤いレーニン勲章」や「英雄」称号を与えることだった。高麗人は血の汗を流しながら昼夜の区別なく働いた。どの民族よりも多数の労働英雄を輩出した。その代償に、無理な労働がたたって多くの人々の身体が破壊された。

 ソビエト政権はスターリンの死後も、少数民族抑圧政策を継続した。高麗人の労働を評価し、さまざまな分野の幹部に登用することはあっても、決して民族的な権利を許容することはなかった。融和策の一環として新聞社と朝鮮劇場が維持されたほかは、いっさいの民族学校の再建も民族文化の復興も認められることはなかった。高麗人は朝鮮語の継承はおろか、いかに早く朝鮮語を忘れてロシア人になりきるかに腐心した。こうして高麗人の言語も文化も根こそぎにされたのである。

 旧ソ連が崩壊して以後、農場は新たな困難に見舞われるようになった。制度が変わったのに、政治・経済的な混乱がつづいたため、新しいシステムが十分に機能せず、かえって生活が苦しくなっていった。特に物価の高騰は深刻だった。この数年間に農作物の価格が数十倍になった反面、工業製品は数百倍に跳ね上がった。

 農場を見学したとき、私は案内役の青年にたずねた。「自主経済が導入されて、生活が良くなったと思うか」と。彼はいった。

 「プラスもあればマイナスもある。集団農場は発展させるのがむつかしい。労働意欲の面ではそれほど高まったという感じはしないし、若い者は農業を嫌ってビジネスに走ろうとする。本当に農業を守ろうとすれば、国家的な援助がなければやっていけないよ」

 話を聞きながら、モスクワで繰り広げられている左派と右派のイデオロギー争い、いや権力争いというものが、中央アジアの生活実態とはあまりにもかけ離れた世界の出来事のように思えてならなかった。

四 高麗日報と朝鮮劇場

 二泊三日のホームスティを終えた私たちはアルマトイに戻り、市内各地を見学することになった。私は高麗日報社と朝鮮劇場を訪問すると聞いて期待に胸をはずませた。高麗日報社と朝鮮劇場は強制移住より前に極東で創設され、長年にわたり高麗人のシンボルとして存在してきた。とりわけペレストロイカ以後、厳しいくびきから解き放たれてどのように変貌を遂げてきたのかをこの目でたしかめたかった。

 高麗日報社は十余階建てのビルの一角を占めていた。室内を案内してくれたのは文化芸術部主筆の梁元植氏。一九三二年に平安南道で生まれた彼は、五三年に北朝鮮から留学生としてモスクワ国立映画大学に派遣されたが、六〇年頃に北朝鮮で粛清が起こったために帰国できなくなったという経歴の持ち主だった。アルマトイに移ってカザフ・フィルム映画撮影所に入り、ドキュメンタリー映画監督となって活躍したのち、八四年に高麗日報の前身である「レーニン・キチ(レーニンの旗)」に入社した。

 「高麗日報の歴史は一九二二年にさかのぼります」

 と、梁氏が語りはじめた。

 「最初は極東地方の韓人村で『赤い星』という名称で誕生し、翌年『先鋒(アバンギャルド)』と改称されました。強制移住のときには、当局によって廃刊にされましたが、三八年にカザフスタンで『レーニン・キチ』として復刊しました」

 高麗日報は七八年にカザフ共和国政府の決定によってカザフ共産党中央委員会機関紙となった。それにともなって社屋は現在地に移され、新聞は旧ソ連全土に住む高麗人向けハングル紙として普及された。八〇年代には最大発行部数二万部にまで拡大した。

 「以前は紙面づくりにはいろいろ制約がありましたが、ペレストロイカとグラスノスチが進展した時期になると、社内でも報道の自由に対する欲求が高まっていきました。一九九〇年に出版法が改正され、検閲や制限が撤廃されました。新聞社の経営が独立採算性に移行するともに、わたしたちは九一年一月に名称を高麗日報と改め、大胆な紙面作りに踏み切りました。それまでタブーとされてきた強制移住の体験談や、北朝鮮・韓国に関する率直な見聞記なども掲載し、各地で芽を吹き出した民族運動に同調して精力的なキャンペーンも展開しました。ところが現実はわたしたちの予想を裏切りました。自由化の進展と反比例して、購読部数が大幅に減少しはじめたのです」

 私は耳を疑った。以前読んだ資料では、紙面を刷新して以後、読者から歓迎を受けたと記されていたのではなかったか。

 「部数が減少した原因として、物価が急騰したため、新聞発行の経費が三五倍に跳ね上がったこと、旧ソ連の崩壊後、各共和国が独立したため、全土に普及できなくなったこと、さらに高麗人の生活状態が不安定になったため、より切実な経済問題の方に関心が片寄っていったことなどがあげられます。わたしたちは若い世代にも読んでもらうためにロシア語のページを設けたり、ハングル(韓国文字)とロシア語を併用したり、発行回数を減らしたりあらゆる試みをやってみたが、どうにもなりませんでした。アルマトイには一万六〇〇〇人の高麗人がいますが、いまでは部数は二五〇〇部にまで落ち込み、ハングルとロシア語を混合した四面の新聞を週に一回発行しているだけです。スタッフは三五名いて、多すぎるので何とかしなければならないのですが・・・」

 梁氏の額には苦渋に満ちた皺が刻まれていた。横にいた論説委員のチョン・サンジン氏があとをついだ。

 「わたしたちの新聞にとって最大の悲劇は、高麗人の九九%がロシア化し、民族の言語を失ってしまったことです。どの民族にとっても、民族語で書かれた新聞は必要ですし、高麗人は高麗日報を通じてのみ、自分たちを取り巻く情報を知ることができます。しかし現在の読者の大多数もハングルを読むことができず、ただ民族的な自覚で購読をつづけてくれているだけなのです。つまりだれがつくり、だれが読み、だれが財政を保障するかという三つの条件がみな行き詰まっているんです。将来的には自己資金で運営していきたいんですが、いまはカザフ政府の援助と、韓国や米国の民間団体からの支援を受けながらどうにか維持している状態です」

 記者たちは唯一の民族新聞を守るために歯をくいしばって努力をつづけてきたが、財政難が進むにつれて、優秀な記者たちが次々とビジネス方面に転職していった。梁氏たちは「いま各地にある高麗文化センターでハングルの学習が行われており、いずれは読者が増加するだろう」と希望的観測を述べていたが、現実的にはきわめて可能性の乏しい見通しだと思わざるをえなかった。

 私たちはつづいて朝鮮劇場に向かった。朝鮮劇場は、以前に写真をみたときの感動が残っており、いつの日かぜひ行ってみたいと思いつづけていた所だった。それは駐日ソ連大使館が発行する『今日のソ連邦』一九八九年六月号に掲載された「カザフ共和国の朝鮮人」という特集だった。カザフの各界で活躍する高麗人たちの模様を描いたルポのなかでも、朝鮮劇場の活動ぶりはひときわ印象的だった。

 朝鮮劇場は極東地方で創団されて以後、朝鮮語による演劇や歌舞を上演する唯一の劇団として人気を集め、多数のスターを生みだしてきた。ペレストロイカ以後には、民族的な古典やオリジナル作品をより充実させるとともに、改革路線にマッチしたレパートリーにも意欲的に取り組みはじめた。シェークスピアの「オセロ」、ゴーゴリの「検察官」、オストロフスキーの「雷雨」などの作品を朝鮮語に訳して上演した。カザフ国内はもとより、ウズベク、キルギス、極東地方など高麗人が多数住んでいる地域にも盛んに巡業に出かけ、北朝鮮や中国とも交流を進めた。劇団のリ文芸部長の話として、「最近はうれしいことに、われわれの劇場の客席が再び満員になるようになりました。いまやここは朝鮮人たちが交流する主要な場所、彼らの言葉が使える場所なのです。ここはまた、若いお似合いの男女を引き合わせる場所としてもよく利用されていますよ」という言葉が引用されていた。掲載された十余枚の舞台写真は、俳優たちの生き生きとした表情を写し出していた。

 朝鮮劇場は高麗日報からさほど離れていない所に建っていた。大きなパオのような白壁の円形劇場であり、建設時にはさぞかしモダンな建築物として賞賛されたことだろう。ところが近くに寄るにつれて、建物全体が相当朽ちていることに気がついた。劇場内に入ると、いたる所にひびが入り、いまにも崩れ落ちそうな気配が漂っていた。客席に座った私たちに、劇場の責任者が説明を行った。

 「朝鮮劇場は一九三二年にウラジオストクで創団されました。世界で最も伝統のある朝鮮劇団であり、また旧ソ連で唯一の朝鮮劇団でもあります。朝鮮劇場は一九三七年にカザフスタンに移転し、六八年にアルマトイにこの建物が建設されました。現在、劇団員は一二〇名で、演劇部と音楽部に分かれています。

 わたしたちは高麗人が住んでいる所ならどこへでも巡業に行ってきましたし、モスクワで上演をしたこともあります。しかし最近は非常に良くない状態にあります。旧ソ連が崩壊したあと、劇団はカザフ政府の管轄になりましたが、国家的な援助は激減してしまいました。以前のように、ほかの共和国に巡回公演しに行くこともありません。それどころか、この劇場で公演をすることさえできなくなってしまったんです」

 建物が老朽化して危険なため、観客を動員して上演活動を行うことができず、いまは稽古用にしか使用していないというのである。

 この日は特別に舞台をみせてくれることになった。作品は「梁山泊」をテーマにしたミュージカル風の演劇だった。華やかに繰り広げられる舞台は、かなり高いレベルのものだったが、広範な観客を引きつけるほど吸引力があるとは思えなかった。

 歌手や舞踊手によるアンサンブルも上演された。男性歌手がポップス系の歌を披露したとき、何か様子が変だと思っていたら、彼は録音テープに合わせて口をパクパク合わせているだけだった。マイクが故障しているのである。舞台をみていると、楽しむどころか、痛ましさを感じるばかりだった。高麗日報と朝鮮劇場は、強制移住以後あらゆる民族文化が抑圧された時代にも存続しつづけてきた。それはソビエト政権が少数民族文化を保護しているというプロパガンダに利用するために例外的に認めたものではあったが、高麗人自身の懸命の努力があってこそ維持されてきたのも事実である。にもかかわらず、ペレストロイカ、旧ソ連崩壊を経てようやく自由を獲得した時代になって、内的要因から瓦解が始まったのはあまりにもアイロニカルな現実といわざるをえない。今回のワークショップの主眼はあくまで相互交流にあり、つっこんだ調査を目的としたものではなかったが、高麗人が激変した情勢に対処するために暗中模索している様がうかがわれた。といってもカザフスタンではまだせっぱつまった危機感というほどのものは感じなかったのだが、帰路に立ち寄ったモスクワではいっそう殺伐とした光景に遭遇した。地下鉄やバザールなどのいたる所で年老いた物乞いや物売りの姿が目に入る。人々の表情は暗くよどみ、笑顔を目にすることはほとんどなかった。モスクワに着いた日の夜、田鉉秀氏という青年が宿舎を訪ねてきた。私と同室の李氏の友人だった。田氏はソウル大学で大学院を修了後、二年前からロシア東洋学研究所に留学している。私たち三人は近くにある平壌レストランで食事をすることにした。

 「ぼくは南や北のどちらか側に立つのではなく、祖国の分断の原因を旧ソ連側の資料にもとづいて客観的に明らかにしたいと思っているんです」

 と田氏はいった。そのため一九四五年から六〇年代にいたる資料の研究に没頭している。但し、資料をコピーするには、一枚につき三ドルも請求されるため、初年度の夏には毎日朝から晩まで資料の書き写し作業だけをつづけた。

 彼の研究によれば、一九四五年の祖国解放当時、ソ連軍は「解放軍」として北朝鮮に駐留したとされているが、実際は徹頭徹尾自国の利益を追求したのにすぎなかったという。「ソ連は四八年に北朝鮮から撤退するまで三年間の駐留期間に要したすべての費用を北朝鮮に負担させました。土地改革を一カ月間で遂行させたのも、ソ連側の要求にもとづいたものです。それだけではなく、ソ連軍は北朝鮮に豊富だった金、銀、銅などの鉱産物を大量に持ち帰ったんです」

 田氏の話を聞きながら、私は高麗人の不遇な状況に対し、祖国が何らの対応もできなかった理由が飲み込めたような気がした。

 田氏は自分がみてきたモスクワの実情についてこう語った。

 「この国は旧ソ連の崩壊によって、政治だけでなく、経済、文化、精神のすべてが崩壊してしまいました。クレムリンではいまでも権力闘争がつづいているが、人々は完全に脱政治になっています。ただ高麗人の場合は、祖国統一のために積極的に努力しようとかいうことではないが、心のなかではだれもが先祖の祖国の発展を願っているし、またそこに希望を抱いているといえるでしょう」と。

 奇しくも私たちがウシトベに滞在中だった九月二一日に、エリツィン大統領は人民代議員大会と最高会議の機能を停止し、連邦会議を新設するという重大発表を行った。そして日本に戻って二日後の一〇月三日、反エリツィン派のデモ隊と特殊警察部隊・内務省軍のあいだで市街戦状態となり、翌四日にはついに最高会議ビルに対する総攻撃がくわえられた。テレビが伝える画面はすさまじい攻防戦を映し出していた。しかし一般市民たちは「それどころじゃない」といった表情で日々の営みに潜り込んでいたことだろう。人心を離れた政治家たちのパワーゲームには誰も期待をかけていないからである。

 ビジョンを失ったCIS(独立国家共同体)の絶望感は深い。モスクワを離れる前日の九月二九日、街は終日みぞれのような初雪に見舞われた。体を震わせながらクレムリンの近辺を歩いた私は、襲いかかってくる冬将軍を前に、人々はどのように命をつないでいくのだろうかという危惧をおぼえた。

五 もう一つの民族史

 カザフスタンから帰ったのち、高麗人に対する関心は癒されるどころか、ますます執拗に胸の底でくすぶりつづけた。表面的な概要は把握できたものの、生身の人間の足跡にまで踏み込んでいけなかった歯がゆさがつのった。

 高麗人に関する資料を可能な限りさがしてみた。一九九一年に韓ソ国交が樹立されて以後、韓国では一時期高麗人に対する関心が高まり、学者や新聞記者、在米韓国人研究者によって書かれた幾種類かの本が出版されていた。だがいずれも限られた範囲内の文献や体験者の取材を通して執筆されたものばかりだった。

 九五年の春、ハンギョレ新聞の書評欄を開いた私の目が一点に引き寄せられた。『カレイスキー・もう一つの民族史』。鄭棟柱という作家が長期取材して著した労作と評価されていた。さっそく取り寄せた私は、たちまち本の世界に引きずり込まれた。高麗人の歴史と現状が、膨大な資料と多数の体験者の証言にもとづいて克明につづられていた。とりわけショックを受けたのは、強制移住の真相と、現在の中央アジアの実情だった。

 他の資料では一切ふれられていなかったが、同書によれば、実は高麗人に対する迫害は、強制移住の四年前から始まっていた。

 一九三三年から三五年にかけて、高麗人の民族学校教師、公務員、高級将校などに対し、ソビエト党幹部地方研修会が開かれるという名目の召集がかけられた。対象者は数日間の合宿をするだけだろうと思って参加したが、再び家に帰ってくることはなかった。この間に粛清された高麗人は二万七〇〇〇人にのぼった。

 つづいて三五年から三七年にかけて、民族的な意識の高い高麗人たちが召集された。彼らは徹底した洗脳教育を受けたのち、ロシアの犬になる誓いを立てて中央アジアに送り込まれた。やがて大量に送り込まれてくる高麗人を、同じ高麗人によって統制させ、あたかも中央アジアへの移住が高麗人自身の要因によって行われたかのように仮装するためだった。こうした周到な準備段階をへて、三七年九月から翌年一月にかけて強制移住が強行されたのである。

 同書で著者は、強制移住の理由について新たな視点を加えている。「これまでに把握されている強制移住の原因は二つある。第一に韓人のスパイ行為、第二に中央アジアへの農業人力の供給である」としたうえで、それらの理由に根拠がないわけではないが、十分な解答とは思えないと指摘する。

 スパイ行為を働くのは、他の民族にも可能性があるし、まして高麗人は日帝植民地統治の犠牲になった身であるのに、積極的に日本に協力するはずがない。また高麗人の農業生産能力がいかに優れていたといっても、あえて極東地方の農業を放置し、犯罪的な方法まで使って全員を移住させるとは考えにくい、と分析する。

 そして著者は「強制移住の根本的な理由を正確に把握しようとすれば、スターリンの登場という特定の歴史的状況を理解しなければならない」と主張する。スターリンは権威主義、専制主義を強化するため、「我々の外にも、内にも敵がいる」という脅迫観念を助長し、「いたる所にひそんだ敵」に攻撃を加えた。すなわち強制移住の最も根元的な理由は、「スターリンという個人の資質と不可分の関係にある」と結論づけるのである。高麗人はしかし、辛酸を乗り越えて生きつづけた。農業を成功させ、一定の社会的地位を築いた。そして前述したとおり、八〇年代の後半に入ると、ペレストロイカの進行とソウルオリンピックが契機となって、高麗人のあいだでも民族的アイデンティティを取り戻そうという機運が爆発的な広がりをみせた。民族運動は旧ソ連の崩壊を迎えてピークに達した。ところが同書には、その後、中央アジアで新たに発生した驚くべき状況が報告されていた。

 ソビエト政権の崩壊とともに、カザフスタンやウズベキスタンなどの各共和国は独立を勝ち取った。すると各共和国では、かつてロシアに抑圧されてきた反動から、急激な民族主義が台頭してきた。公用語をロシア語から各民族語に変更する方針が打ち出された。それだけではない。すべての分野で民族色を復活させるため、他の民族の幹部たちを追放しはじめた。さらには一般市民のあいだでも他民族に対する暴力的な排撃運動が広がっていった。そのため膨大な数のロシア人がロシアに脱出していっただけでなく、他の少数民族も国外への脱出を余儀なくされたというのである。

 高麗人も例外ではなかった。幹部職から引き降ろされ、職場や農場を追われた。そのためロシアや周辺国への避難を試みようとしても、どこも受け入れてはくれなかった。途方にくれた高麗人のあいだで、極東地方に帰ろうという運動が持ち上がった。先祖が開拓した極東の地に唯一の希望を見いだし、資金を寄せ合って準備に着手した。しかし政治・経済的な混乱状態にある極東地方もまた彼らが戻ってくるのを歓迎してはくれなかった。当局者との交渉は難航をきわめた。その間に、ロシア全土にインフレの嵐が吹き荒れた。資金はまたたく間に紙屑と化してしまった。そのため極東帰還計画は、一部の人たちが移住しただけで頓挫してしまった・・・。

 同書を通じて、多くの謎が解け、多くの新事実を知らされた。とりわけ私がカザフスタンを訪問していた時期に、すでに各地で民族排他運動が激化していたという事実には愕然とした。同時に、高麗人の歴史において極東地方が占める重要性を改めて認識した。極東はまさに高麗人の血と涙と汗がしみ込んだ地だった。

 いつか極東地方に行ってみたいという思いが込み上がってきた。窮すれば通ず、その思いは意外と早く実現することになった。私が客員研究員として所属している大阪経済法科大学アジア研究所が、ハバロフスクにあるロシア科学アカデミー極東経済研究所と交換研究員の提携を結んでおり、その縁で招待を受けることができたのである。一九九六年九月、未知の地に向かって単身で飛び立った。

六 サハリンは涙の島

 ハバロフスクはユーラシア大陸の東の端に位置する。新潟からアエロフロート機で約二時間、飛行機から見下ろすと、果てしない荒野のなかのオアシスのように緑につつまれた街が忽然とあらわれる。飛行場には宿所となる極東経済研究所の職員と、通訳をつとめる女子大生のリューダさんが迎えにきてくれた。リューダさんはハバロフスク教育大学四年生。間もなく日本の文部省の招請により北海道教育大学に一年間留学することになっている優秀な学生だが、奨学金が六月までしか出ていないため、機会があれば通訳のアルバイトをしているという。

 ロシアは大別すると、西方から西ロシア、中央アジア、西シベリア、東シベリア、極東に分けられる。そのうち極東と呼ばれる地域には、アムール州、サハ共和国、沿海州、ハバロフスク州、ユダヤ自治州、サハリン州、マガダン州が含まれる。

 沿海州を中心とする地域に朝鮮人が移住したのはいつ頃からか。

 従来、朝鮮人の移住は、ロシア側の資料により一八六〇年代からとされていたが、実際は一九世紀初頭に端を発する。当時、朝鮮半島の北端に位置する咸鏡道は中央政権から見放された極貧地帯だったため、一八一二年に「洪景来の乱」が発生した。李朝政府は討伐隊を派遣して激しい弾圧を加えた。逐われた農民たちは豆満江を越え、まだ無国籍地帯だった沿海州へ逃れていった。彼らをたよって、飢えた農民たちが次々と沿海州に入っていった。ロシアと清国は一八五八年に愛琿条約、一八六〇年に北京条約を結び、ウスリー川(中国名「黒龍江」)の東側をロシア、西側を清国の領土とさだめた。ロシアは極東およびシベリアの開拓に乗り出した。一八六一年に制定されたムラビヨフ移民法は土地の払い下げ、税金の免除など、ロシア人移民にきわめて有利な条件を提供するものだったため、多数のロシア人が流入してきた。高麗人は未開地を開拓するためのかっこうの低賃金労働力だった。小作人となった高麗人は強靱な忍耐力で土地を開墾した。味をしめたロシア政府は、高麗人を定着させるため、巧みに帰化政策を利用した。

 一八八二年当時、一万人程度だった高麗人が一気に激増するのは、一九一〇年に朝鮮半島が日本の植民地にされて以降のことだった。故郷での生活を維持できなくなった農民たちは続々と国境を越え、一方は中国・東北地方へ、他方は沿海州へと流れていった。また多数の独立運動家も国外に移っていき、ウラジオストクは抗日闘争の拠点となった。一九一七年のロシア革命当時、極東の高麗人は二〇万人に達していた。初期の流民やその後裔たちはロシア国籍をもち、相当な地位についていたため、白軍を支持した。これに対し、新たに入ってきた人々は赤軍を支持したため、同族同士が敵味方に別れて争う悲劇が繰り広げられた。一九一八年に入ると、日本がシベリア出兵を行ったのを皮切りに、英、米、加、伊などの諸国も軍隊をウラジオストクに派遣した。特に日本は反革命軍を強力に支援するとともに、朝鮮人独立運動家に対する弾圧を強化した。

 二〇年四月四〜五日、日本軍はウラジオストク近郊の韓人村に無差別攻撃を加えた。世にいう「四月惨劇」により一七〇〇人の高麗人が虐殺された。

 ロシア革命後の混乱がおさまり、二二年にソビエト社会主義共和国連邦が樹立されたのち、極東地方では一定の自治が認められた。高麗人は各地に韓人村を築き、比較的安定した生活を送ることができた。だがそれから十余年たった頃から、高麗人に対する恐るべき魔手が伸ばされていった・・・。私は研究所で一泊した翌日、職員の案内で街を巡った。市の総面積は四〇〇平方キロメートル、人口は約七〇万人。市街の中心部にはレーニン広場、カール・マルクス通りといった地名が残っている。デパート、銀行、郵便局、レストランなどが立ち並ぶムラビヨフ・アムールスキー通りを進むと、コムソモール広場に行き着く。その先には美しい大河アムール川が悠々と流れ、さらにその先には茫々たる原野を越えてはるかに中国・東北地方の山脈をのぞむことができる。ハバロフスクは旧ソ連時代には極東の拠点としての存在感を誇示してきた。旧ソ連崩壊後も、一時はロシア・中国・朝鮮半島をつないで一大経済圏を築いていくという青写真が華々しく報じられた。だがうたかたの夢は瞬く間に色褪せてしまった。インフレ、工場閉鎖、失業、マフィアといった、以前には縁のなかった負の要因が街を奈落の底に引きずり込んでいる。ハバロフスクの衰退は、極東経済研究所にも反映されている。同研究所は一九七六年に設立され、かつては極東地域の経済発展に関するブレーン集団の重責をになってきた。多数の研究者が出入りし、極東の資源開発、交通・情報網の整備、国際的な貿易推進などに関する研究、セミナー開催などが行われ、極東で最も権威ある機関として君臨してきた。そうした権威をしめすように、館内にはホール、大小の会議室、図書室、コンピュータ室からプール、サウナ、ティールームにいたるまでさまざまな施設が整えられている。しかし旧ソ連崩壊後は極度の運営難に陥り、いまでは一〇名足らずの職員が通っている以外は人の出入りもない。

 午後二時過ぎに研究所に戻った私は、今後のプランを考えた。さて、これからどうするか。前回のカザフスタンとはちがい、今回は一人で自由に動くことができる。とはいえ取材をするにも、何からどう手をつけたらいいのか見当がつかなかった。予備知識はとぼしく、知人は一人もいない。

 とりあえず食料を確保するため、路傍に設けられた小さな自由市場に行ってみた。すると一見して高麗人とわかるハルモニ(おばあさん)がわずかな野菜やキムチを売っていた。声をかけると、ハルモニは「日本から来た同胞に会うなんて初めてだよ」と顔をほころばせ、「こんな物しかないけど、持っていきなさい」といってキムチを手に取らせた。一世の同胞の人情はここにも確実に生きていた。

 ハルモニの名はソン・ミョンオクといった。私が取材の目的を話すと、「ちょうど明日は日曜だから、教会に行くんだけど、よかったらいっしょに行かないかい。韓国から来ている牧師もいるし、いろんな人が集まってくるよ」といった。願ってもないことだったので、ぜひついていきたいとお願いした。幸運にも、それをきっかけに、次々と同胞のつてが広がっていくことになる。翌朝、同じ場所でソンさんと落ち合い、市電に乗り込んだ。五、六番目の停留所の前に古びたロシア系の教会が建っていた。その一室を韓国系の純福音教会が借りて使用している。五年前に家族とともに赴任してきたという若い金相彬牧師が喜んで部屋に案内してくれた。室内には二〇人ほどの信者がいた。貧しい身なりの高齢者ばかりだった。

 信者たちは金牧師が二〇〇〇年前のエルサレムの話をするあいだ、黙々と耳をかたむけていたが、祈祷を行う頃になると、涙を浮かべ、酔ったように体を揺らしながら一心不乱に祈りを捧げていた。現世の生活苦からの救いを求めて神にすがりつくかのように。

 教会を出ると、ソンさんが「家に遊びにおいで」と誘ってくれた。家は自由市場から歩いて一〇分ほどの所にあった。

 「ソ連は完全に滅びたんだよ。物価は高くなるし、泥棒は増えるし。年金だけじゃとても生きていけないから、庭でつくった野菜を売ってるけどね・・・」

 家に着くと、ソンさんはため息まじりに語りはじめた。粗末な平屋が集まるこの一帯には、一〇〇人余りの同胞が住んでいる。いずれも数十坪程度の庭を畑にし、そこでとれた野菜を自由市場で売って生活の足しにしている。年金は男性が六〇歳、女性が五五歳から支給されるが、額は最後の五年間の給料によって異なる。ソンさんの一カ月分は二六万ルーブル(約五〇〇〇円)。自由市場で一日の場所代として二五〇〇ルーブルを払い、平均二万ルーブルほどの売上をあげるとしても、利益は三〜四〇〇円にすぎない。冬は零下三〇度以下に下がるため市場にも出られなくなる。「二、三年サハリンで働いてお金を稼ごうと思って来たのに、永久に故郷に帰れなくなるとはねぇ」ソンさんは日本による植民地時代に黄海道で生まれた。一六歳のときに結婚したが、とても食べていけない状態だった。日本は日露戦争の勝利によって南サハリンを獲得したのち、大量の日本人を送り込むとともに、廉価な労働力として朝鮮人を募集していた。ソンさん夫婦は生きるすべを求めてサハリンに渡ったが、まともな仕事がなかったため、夫だけが一年間北海道の炭坑に行った。一九四五年に日本の敗戦を迎えると、日本人には祖国への帰還が認められ、四六年から四九年にかけて二九万人が帰国した。ところが朝鮮人には帰国の道が閉ざされた。そのためサハリンには五万人の朝鮮人が置き去りにされてしまったのである。

 夫婦のあいだには息子四人と娘三人が生まれたが、娘一人は幼い頃に死んでしまった。子どもたちがみな結婚し、夫が亡くなったのち、ソンさんは九年前にハバロフスクに渡り、いまは孫娘と二人きりで暮らしている。サハリンで暮らした人々の数奇な運命は、ソンさんの友達キム・グァンジャさんのケースにもみることができる。

 キムさんは一九二四年に江原道で生まれ、一八歳のときに夫とともにサハリンに渡った。ところが夫は一年後に徴用で九州の炭坑に連行され、四五年の祖国解放後にようやく密航船で妻のもとに帰ってきた。サハリンでは戦時中、日本本土ほどの虐待はなかったが、むしろ戦後になってから生殺しのような苦難に見舞われた。

 「いまでも目をつぶればため息が出るよ。役場の日本人は『朝鮮人もすぐに国に帰してあげるから準備だけしておくように』といっていたのに、いつまで待っても帰れるものか。おまけに働く所はおろか、食べるものもなくなったから、草まで食べて命をつないだんだよ。あの頃、わたしは毎日海辺に行ってどれだけ泣いたことやら。サハリンは本当に涙の島だよ」

 戦後、ソ連政府は希望者にソ連国籍を与えたが、帰国の夢を捨てきれない多くの朝鮮人はあえて「無国籍」を選択した。法的にはソ連国籍取得者に準じた権利が認められていたとはいえ、実際の生活では居住区制限や就職差別などさまざまな面で苦汁をなめねばならなかった。

 祖国への帰還問題は戦後半世紀が過ぎたいまなお重い課題を引きずっている。この問題は七〇年代以降、ソ・朝・韓・日の思惑がからんだ複雑な経緯を経て徐々に解決されていった。九〇年代に入って日本赤十字社や韓国赤十字社の協力のもとに大半の一世たちが一時帰国を果たすことができたほか、永久帰国者も五、六〇名あらわれた。だがもし永久帰国したらどうやって生きていくのか、言葉もわからない子どもたちは連れていけるのかなど、深刻な問題がのしかかっている。近所のハルモニがやって来て訴えた言葉が胸に突き刺さった。

 「わたしらはここに来たくて来たわけじゃないのに、故郷に帰れなくなってしまった。そのため勉強もできなかったし、暮らしだってひどいもんだし。わたしは日本に賠償金を要求したいよ。それができないなら、いっそのこと日本がわたしらを飛行機に乗せていって故郷に放り出してくれたほうがよっぽどいいよ」

七 民族教育のともしび

 私は純福音教会に行ったとき、金相彬牧師から、高麗人の民族運動に熱心に取り組んできた人がいると知らされたので訪ねていくことにした。レーニン広場のすぐそばに建つ病院の事務室がチェ・ミブンさんの職場だった。十余年前にサハリンから移住してきたという彼女は、四〇代のキャリアウーマンという雰囲気だったので、何か明るい話題を聞けるかもしれないと思ったが、期待ははぐらかされてしまった。

 「一九九〇年に全連邦高麗人協会が結成されてから、ハバロフスクにも高麗人文化センターができて、一時は民族性を取り戻そうという活動が相当活発になったけど、いまじゃみな有名無実化してしまいましたね」いまさらそんな話をしても始まらないといった表情がうかがえる。

 「ソウルオリンピック以前は、相当民族差別があったんですか」

 「そりゃ法律上の差別はなくても、日常生活ではロシア人からずいぶん差別されましたよ。市場で買い物をするときでも、並んでいたら、ロシア人にどかされたり。それがソウルオリンピックがきっかけで立場が逆転してね。ロシア人は国が傾いてから誇りも何もかも失ってしまったけど、その反対に、高麗人は発展した先祖の国があるんだということが希望になっていきましたからね。でも、運動がちょっと活発になってくると、北朝鮮や韓国が介入してきて、北系か南系かという問題が起こってきたし。そのうちロシアの経済があまりにもひどい状態になったから、生きていくのに精一杯で、それどころじゃなくなってしまったんですよ。まったくだれがこんなことになると思ったことか。ロシアには土地がないの、資源がないの? 本当にロシアはどうしようもない国ですよ」

 「いまでは朝鮮語に対する関心は全然なくなったんですか」

 「全然ないともいえないけど。七七号学校というロシア人学校では、高麗人の子らが朝鮮語の授業を受けていますよ」

 「えっ? それはどこですか」

 「ちょっと待ってね」

 チェさんはすぐに電話をかけたが、誰も出ないようだった。

 「そこで講師をしている人がいるんだけど、留守のようね。もう一つ、この近くにある音楽学校の教室を借りて、週に一回夜間学校が開かれていますよ。もし行きたかったら、講師を紹介してあげますけど・・・」

 二日後、講師のイム・バレンチナさんを訪ねていった。彼女はモスクワ放送ハバロフスク支局でアナウンサーをしている四〇前後の女性だった。支局はアムールの川辺にそびえ立つ高層ビルのなかにあった。ここでは取材活動は行わず、モスクワから送られてくるニュースの原稿を朝鮮語に翻訳して読むのが仕事である。職員は支局長を含めて三人全員が高麗人だった。

 夕刻になり、イムさんとともにバスで音楽学校に向かった。数名の講師が忙しそうに授業の準備をしていた。一年前、韓国から来た牧師が高麗人文化センターを訪ねてきて、「子どもたちのために韓国語を学ぶ場をつくってあげたい。財政は教会が責任をもつから、高麗人文化センターの名前で開講してほしい」と申し入れたのを機に「韓国語学校」が設けられたとのことだった。

 授業が始まった。上級班と下級班の二教室に分かれ、一二歳から一九歳までの約五〇名の青少年が学んでいた。教科書は韓国の教育部国際教育振興院が編纂したものを無償でもらい受けて使っている。三種類の教科書には、レベルに合わせて、日常会話や日記、手紙、童謡、童話、物語などが載っており、ロシア語の説明がつけられていた。

 授業は簡単な韓国語とロシア語を混ぜながら進められた。子どもたちは真剣なまなざしで講師の顔をみつめている。ハバロフスクに着いて以後、暗い現実ばかりを目の当たりにしてきた私は、ホッと胸をなで下ろすような清涼感をおぼえた。数日後、第七七号学校を訪ねていった。市街からバスで二〇分ほどの所に鉄筋コンクリート二階建ての校舎が建っていた。一七〇〇人の児童生徒が在籍し、高麗人の子は約一〇〇人。そのうち三、五、六、七学年の約七〇名が高麗人の子を中心とするクラスに編成され、チョン・マンソク夫妻が二学年ずつ担当して毎週二時間朝鮮語や民族文化、風習などを教えている。

 「朝鮮語の授業は一九九〇年から再開されました。わたしは以前、化学や地理などの教師をしていたんですが、市の教育部から要請を受けてこの学校の講師になり、朝鮮語だけを教えるようになったんです。いまハバロフスク市の学校で朝鮮語を教えているのはここだけなので、遠くから子どもを送り迎えしたり、この付近に引っ越してきた同胞もいます」

 とチョン氏は語る。親の希望があれば、ロシア人の子どもも受け入れている。

 「できればほかの学年でもやりたいと思うし、よその学校でも朝鮮語を学びたいという希望はけっこう多いんですが、何しろ先生がいないんですよ。朝鮮語もロシア語も知っていて、そのうえ師範専門大学を卒業して教員免許を持っている朝鮮人なんてほとんどいないからね。講師料はごくわずかだから、わたしたちだってほかの仕事を掛け持ちしないと食べていけないし」

 週に二時間だけなので不十分とはいえ、一、二年すれば読み書きができ、七年生くらいになるとかなり会話も上達するそうである。教科書は北朝鮮のものを生徒全員に配布する一方、韓国の教科書も参考にして自分で教材を作成する。北朝鮮と韓国で文法や表記の仕方が異なる部分もあるからである。チョン氏はため息をつくようにつぶやいた。

 「子どもたちには北にも南にも偏らないよう、両方とも教えてあげないとね。まったく、言語の問題を解決するためにも、朝鮮は早く統一しなきゃいけないよ」

 チョン氏は一九四〇年に江原道で生まれた。三八度線のやや北側に位置する景勝地金剛山の麓である。彼は八歳のときに兄とともにカムチャッカ半島に渡った。北朝鮮では四六年からカムチャッカの山林地帯に労働者を派遣していたので、兄も志願したのだった。

 ところが労働者は一〜三年契約で働きにいったのに、五〇年に朝鮮戦争が勃発したため、帰国できなくなってしまった。チョン氏も結局一一年間カムチャッカで暮らしたのち、ハバロフスクに移住した。曲折に満ちた半生を体験してきただけに、生徒たちの将来のために、祖国の南北の和解を願う気持ちは人一倍つのるようである。後日、リューダさんの在籍するハバロフスク教育大学に行くと、東洋学部の文学科と朝鮮語科で計三〇人ほどの学生が朝鮮語を学んでいた。九一年から再開され、受講生の八割以上がロシア人だった。朝鮮語科ではイム・バレンチナさんが講師をつとめ、短編小説を読み進めていたが、学生たちもすべて朝鮮語で発言しており、相当レベルは高かった。朝鮮語は高麗人の民族的アイデンティティを育むためだけでなく、ロシア人にとっても混迷から抜け出す活路を切り開く手段として、その地位を高めてきているのである。民族教育問題では、私は旧ソ連全土で抑圧されてきたと思い込んでいたのだが、サハリンでは様相が異なることを知って驚きを禁じえなかった。

 イム・バレンチナさんから紹介されて訪ねていったイム・スンジャさんは、四〇歳ほどの女性で、二年前に旅行会社を設立した。客の大多数は「ポッタリ・チャンサ」(風呂敷商売。ごく小規模の物品を扱う商売をさす)で韓国に出かける高麗人であり、そのほか北朝鮮やサイパン旅行などに行く人々も扱っている。

 彼女はまだ若いのに、かなり流暢に朝鮮語が話せるので、どこで習ったのかと尋ねると、なんと「サハリンで朝鮮学校に通ったからです」という返事が返ってきた。

 サハリンでは戦時中に日本人学校が多数建てられ、朝鮮人は否応なく日本語を学んだのだが、戦後になって間もなくサハリン州政府は朝鮮人の多数居住する市ごとに朝鮮学校を設立し、無料の義務教育を実施した。そのため朝鮮人の子どもたちはみな朝鮮学校に通ったのだという。その数は五七年当時で八七校、七〇〇〇人にのぼった。

 イム・スンジャさんの学校では、木造の校舎で一〇〇人の生徒が在籍していた。

 「メーデーやロシア革命記念日には、市内にあるすべての学校が集まって運動会をやるんです。そんなときは、朝鮮学校の生徒たちはロシア人学校に負けるもんかと一生懸命がんばって、いつも一位になったもんですよ」

 と懐かしそうに笑った。

 サハリンの朝鮮学校が閉鎖され、一般のロシア人学校と同様に再編成されたのは、フルシチョフ首相時代の一九六三年のことだった。イム・スンジャさんは「その背景には、ソ連と中国との関係が悪化したことが関係していたようです」というが、六三年から本格化した中ソ論争、あるいは六〇年代に入って次第に自主路線を強調しだした北朝鮮との関係などが影響していたのかも知れない。いずれにせよ、大陸側では民族教育が抑圧されたにもかかわらず、サハリンにおいては戦後一六年間にわたって公立の朝鮮学校が運営されていたとはまことに不可思議なことといわざるをえない。

 ともあれ、以前はとかく大陸側の高麗人からも蔑視を受けがちだったサハリン出身の朝鮮人が、いまでは日本語や朝鮮語を知っているためかえってうらやましがられる立場に逆転したのは皮肉なことである。

八 離散家族の運動

 モスクワ放送ハバロフスク支局と同じビルのなかに、北海道新聞社の支局があった。ハバロフスクにある日本のマスコミの支局は北海道新聞社だけであり、その他の社の支局はウラジオストクに設けられている。電話でアポイントをとって訪ねていくと、日本からの来客は珍しいらしく、伊藤特派員が喜んで迎えてくれた。「ハバロフスクは底の見えない不況にあえいでいます」

 と彼はいった。

 「数年前までは東北アジア経済圏の構想が国際的な関心を呼びましたが、いまは何の展望もないといえます。日本の商社はとっくに撤退しましたし、韓国の企業も事務所だけ残して、生産工場は建てようとはしていません。むしろ韓国の製品を販売するため、ここを市場として利用することを考えているだけですね」

 政治・経済の混乱だけでなく、マフィアの暗躍がいっそう世相を険しくしているという。

 「ロシア系のほかいろんなマフィアが勢力を争っていて、それぞれが政財界と癒着しています。二カ月前のこと、自動車の爆破事件が発生して警察の高官と運転手が死亡したんですが、これと関連して、後日、マフィアのボスと運転手が暗殺され、さらに同じ日の午後には別のマフィアのボスが射殺されました」支局にはステファーノヴというロシア人の助手が勤めていた。彼は「北朝鮮から派遣された森林伐採労働者が働く場所に行ったことがある」と話しかけてきた。チェグドミンはハバロフスクから一一〇〇キロ、夜行列車で二〇時間かかる。

 「現地ではガードがかたくて取材はできなかったんですが、労働はきついし、生活環境はひどいし、ロシア人にはとてもあんな仕事はできませんね。それにいまは仕事が減っているので、街に出てアルバイトをしている人が増えているんですよ」

 チェグドミンでは一九六七年から北朝鮮労働者を受け入れ、九〇年には一万人にのぼった。ロシア側は労働に対して、カネではなく、切り出した木材の三割を北朝鮮側に現物で供与する方式をとった。だがその後、鉄道運賃が高騰して国内市場での競争力が低下したため、生産は激減した。そのため労働者の多数が都会の建築・土木工事などに従事するようになった。そういえば、ハバロフスクの街角でも北朝鮮労働者が働く姿を何度かみかけたことがあった。彼らの境遇は、高麗人からも同情されるほど厳しい状態にある。

 伊藤特派員は貴重な情報を教えてくれたのち、「日本語が流暢で、わたしたちもずいぶんお世話になっている方がいらっしゃるので紹介しますよ」といって李柱鶴氏の名前をあげた。

 李氏は七二歳の高齢とは思えないかくしゃくとした老人だった。一九二四年に咸鏡南道で生まれ、四歳のときに両親に連れられてサハリンに来た。父は炭坑夫として働いた。李氏は日本人学校に通ったため、軍国少年として育てられた。四一年に東京に行き、東京外国語大学で一年半ほど勉強した頃に徴兵にとられてサハリンにもどった。祖国解放後、八年間朝鮮学校で教鞭をとったのち、五四年にハバロフスク教育大学に入学。勉学のかたわら、モスクワ放送でアルバイトをしたのが縁で、以後、六五歳まで三五年間勤務した。

 ロシア語、朝鮮語、日本語に堪能な彼は、八八年ソウルオリンピックの際にソ連選手団の通訳としてソウルに随行した。初めて肉眼でみたソウルの光景は、それまで人間の住める所ではないと教え込まれていたイメージを根底から覆すものだった。

 ソウル滞在中、顔も知らない親戚や、かつての教え子たちが訪ねてきた。彼らと話を交わすなかで、韓国にはサハリン在住同胞と生き別れになったままの家族が多数いることを知った。

 サハリン在住同胞の帰還運動は、一九五八年に朴魯学氏が「樺太抑留帰還者同盟本部」を発足したことによって本格的に動きだし、七一年には韓国で「樺太抑留僑胞帰還促進会」が結成された。この頃から日本でも高木健一弁護士を中心に運動が高まり、七五年に「サハリン裁判」が開始された。八四年にはサハリンの同胞と韓国の肉親が日本に来て初の再会を果たし、八九年からは韓国の永住帰国も実現した。

 李氏は九〇年に自ら「離散家族会」を結成して会長となり、以来、その運動のために余生を捧げてきた。

 「離散家族会は、北であれ南であれ、わが祖国という立場で運動を行っています。サハリンでは数年前から日本政府を相手に、日帝時代の強制連行や家族離散に対する補償を求める運動が起こりました。私はハバロフスクで暮らしている同胞のなかから対象者を探しだすための調査を進めており、いまのところ対象者は六〇〇人います。サハリンの同胞は日本によって強制的に連れてこられたのに、国に帰ることもできずに肉親と生き別れになってしまったんですから、日本政府が私たちに補償するのは当然でしょう」

 と語る表情には溌剌とした情熱が漂う。

 話題が、中央アジアから戻りつつある高麗人のことにおよんだとき、彼がいった。

 「ウラジオストクには以前から少しずつ帰ってきていましたが、最近は特に急増しています。数年前まで四〇〇〇人ほどといわれていたのに、いまでは一万五〇〇〇人くらいになっているし、これからもっと増えるでしょう」

 「でも極東側では高麗人の帰還を望んでいないようですが」

 「たしかにそうだよ。ちょうど今年の五月に、ウラジオストクの警察署長が『高麗人が中央アジアから多数戻ってくれば、いずれは自治州を要求するようになるだろうし、もし朝鮮半島が統一でもするようなことになったら、昔の渤海時代の領土を返せといってくる恐れがある』と発言して物議をかもしたことがありました。しかしそれでも中央アジアでは生活の見通しが立たないから、こっちに来るんだよ。特に昔、韓人村がたくさんあったパルチザンスクには、もう数千人が帰ってきているとか」

 パルチザンスクといえば、一九世紀以来の高麗人発祥の地である。何としても行ってみたいという思いがつのった。

九 高麗人の故郷パルチザンスク

 無理を承知で、金相彬牧師に、パルチザンスクに行ってみたいが、だれか現地の人を紹介していただけないものかと相談した。彼はしばらく考え込んだのち、「パルチザンスクにも教会があるので、わたしがいっしょに行って牧師を紹介してあげますよ」といってくれた。

 約束の日の夕刻、ハバロフスク駅で待っていると、金相彬牧師はアン・ビョングァン君を連れてきた。急用ができたため、アン君が代わりに案内してくれるという。彼は教会に所属しながら、布教活動の一環として子どもたちにテコンドを教える師範である。

 シベリア鉄道の寝台列車に乗り込んだ。強制移住の体験に少しでも触れるため、一度は乗ってみたいと思っていた列車だった。窓から外をみると、広大な平原とうっそうたる原始林が交互にあらわれ、空には満月が輝いていた。

 夜行で一五時間、パルチザンスク駅で降りると、いかにも人の良さそうなキム・ソンジュン牧師が出迎えてくれた。三年前に家族連れで赴任してきたという彼の説明によれば、パルチザンスクはこの年、村ができてちょうど一〇〇周年を迎えた。人口五万人の小さな農村で、高麗人は三〇〇〇〜三五〇〇人とみられる。

 彼の自宅で朝食をすますと、すぐにバスで移動した。最初に案内されたのは、信者のユ・クララさんの家だった。

 「わたしはパルチザンスクで生まれ、両親は農業をやっていましたよ」

 とハルモニは幼い頃を懐かしむように語りはじめた。

 「小学校三年のとき、ある日、学校で先生から『明日から学校に来なくていい』といわれてね。それから政府の人が家に来て、『引っ越すことになったから荷物をまとめろ』といって、五日後には貨物列車に乗せられたんだよ」

 私は緊張した。カザフスタンにおいてもハバロフスクにおいても、強制移住の体験談を直接語れる人に会うことができず、なかばあきらめかけていたのだが、ここで聞くことができるというのはまったく予想外のことだった。

 ユさんたちが着いたのはタシケントだった。駅にはどこかのコルホーズの人が迎えに来ていて、一一家族だけが先に電車を乗り換えて連れて行かれた。

 「そこは桃とか葡萄とかたくさんの果物や野菜が植えられていて、本当に美しくていい所だったね。病院も近くにあったし。初めは家がなかったけど、バラック小屋を建ててくれたから、わたしたちは何の苦労もなく暮らすことができたよ。民族差別もなかったし」

 一瞬、耳を疑った。強制移住の体験者のなかで、何の苦労もなかったという人がいるとは。カザフスタンとウズベキスタンとでは相当事情が違ったのだろうか。

 ユさんは遠い昔の記憶をたどりながら語りつづけた。

 「仕事は朝早くからよくやったよ。タシケントは暑いから、朝の五時、六時頃から畑に出て、一時頃になるとひとまず家に帰って休んで、それから夕方になってまた働きにいくんだよ。そりゃ遅く出てきた人は罰金をとられるけど、高麗人はよく働くから、たくさんの人が模範生として誉められたし、英雄になった人も多かった。ただ気候が合わなくて、子どもがたくさん死んでね。一つの家族で四人死んだ所もあったよ」多数の子どもが死ぬような状況が、なぜ「何の苦労もなく」という生活なのか。

 「ハルモニはいつウズベキスタンからこちらに帰ってきたんですか」

 「一九六二年ですよ」

 中央アジアの高麗人は、一九五三年のスターリンの死後、ようやく居住地の制限が解除された。六二年といえば、中央アジアで民族排他主義が台頭するよりはるか以前の時期だったから、比較的良き時代だったのか。

 「苦労はなかったのに、どうしてこちらに帰ってきたんですか」

 「そりゃ、やっぱり生まれ故郷がいいからね。わたしんとこは、ハラボジ(祖父)の代にここに来て、アボジ(父)、オモニ(母)も、わたしもここで生まれ育ったんだからね。わたしが朝鮮語を使えるのは、ここで朝鮮学校に通ったからさ。いまでもロシア語より朝鮮語の方が使いやすいほどだよ」私はずっと抱いてきた一つの疑問を投げかけてみた。

 「もし可能なら、朝鮮半島に帰りたいという気持ちはありませんか」

 するとユさんはとんでもないというように首を振った。

 「朝鮮は心のなかでは先祖の祖国だという気持ちはあるけど、そこに行って暮らすというのは考えたこともないよ。アボジ、オモニの時代にソ連国籍をもらったから、わたしは生まれつきソ連国籍だし。わたしらにとって、一番心が慰められる故郷はここなんだから」

 脳裏に、ハバロフスクで会ったハルモニの顔がよぎった。植民地時代にサハリンに連行された人々はいまだに「祖国に帰りたい」と訴え、曲がりなりにも自由意志で沿海州に渡った高麗人の後裔は「沿海州が自分たちの故郷」という。この両極端の差に、人間にとって祖国とは何かを考えさせられた。つづいてホ・タチアナさんの家を訪ねた。七〇代のホさんのほか、三名のハルモニが集まっていた。それぞれ五歳、六歳、一二歳のときにウズベキスタンに強制移住された人々だった。

 「あのときは山のなかで暮らしたり、モスクワなどに行っていた人を除けば、ほとんどみんな連れて行かれたよ」

 「突然だったから、とても家財を売ったりする余裕はなく、何もかも捨てていったんだよ」

 「貨物列車は一輌ごとに二階と仕切りをつくって、四家族ずつ入れられたんだけど、すきま風が入ってきて、ものすごく寒くてたまらなかったね」

 「食べ物は自分らで持っていった物と、列車で与えられた物を食べたりしたよ」いろんな人の話をつなぎ合わせていく過程で、次第に当時の具体的な状況がモザイクのように形づくられていく。

 「中央アジアに着くまでのあいだに、車中で亡くなった人も多かったそうですが、それはどうしてなんですか」

 「病気のせいだよ」

 と一人のハルモニが答えた。

 「タシケントまで一カ月もかかるうちに、ジフテリアかなんか、髪の毛が抜ける伝染病が発生してね。それなのに、治療もしてくれなかった。わたしの家族は、五人の子どものうち四人が車輌のなかで死んで、わたしだけが生き残ったんだよ。死体は車輌から降ろして地面に埋めたけど、かわいそうに、停まった駅の人にあずけただけの人もいたよ」

 「現地に着いてからはどうだったんですか」

 「わたしの家族はサマルカンドに行ったんだけど、そこは暖かい地域で、冬でも雪が降ることはなかった。でもトラホームやマラリアが発生して、たくさんの子どもたちが死んだね。都市には蚊はあまりいないんだけど、農村にはたくさん蚊が発生したからね」

 淡々と語るハルモニたちの体験には、想像を絶するような物語が秘められている。が、話は必ずしも悲劇的なものばかりではなかった。ホ・タチアナさんがいった。

 「でも最初の頃は畑もなくて苦労したけど、コルホーズで働いたら月給がもらえたし、食べる心配もなかったから、それほどつらいことはなかったね」

 ほかのハルモニたちも一様にうなずいた。三年前にパルチザンスクに帰ってきたというハルモニがいたので、理由をたずねた。

 「ウズベキスタンが独立したあと、少しずつ住みづらくなってきたから、高麗人はだんだん出ていくようになったんだよ。わたしのうちじゃ、息子が先にここに来てみて、こっちの方がいいからといって住む所を用意したから、わたしらも帰ってきたんだよ。でもわたしたちは向こうでいい家もあったし、暮らしも豊かだった。タシケントの方がハバロフスクより大きいし、人口も多いからね。決して食べていけないから逃げてきたわけじゃないよ」

 別のハルモニが口をはさんだ。

 「わたしもここに来た一番大きな理由は、ここが先祖の土地だからだよ。わたしの家族はね、強制移住のときも、ここの土を袋に入れて持っていった。それくらい先祖の土地に愛着があったからね」

 「ウズベキスタンが独立してから二、三年間は、たしかに高麗人は高い地位から降ろされたりしたけど、あとでまた昇格した人もいるよ。あんまりたくさんのロシア人や高麗人が国から出ていったため、働く人がいなくなってしまったからね」

 ハルモニたちは異口同音に、ウズベキスタンでの暮らしは豊かだったといい、沿海州は先祖の土地だから帰りたかったのだということを強調した。私は強制移住された地域や個別のケースによって、苦労の程度にもかなりの差があるのかと思った。

 「でもウズベク語が急に公用語になったため、ずいぶん不自由になったでしょう」とたずねたとき、一人のハルモニが答えた言葉が胸に響いた。

 「以前は学校ではロシア語で授業をしたけど、いまはウズベク語が中心になって、ロシア語の勉強は少しだけになった。ウズベク人はもともとウズベク語もロシア語も使えるからいいけど、高麗人はねぇ。若い人なら学校で勉強できるけど、わたしらみたいな年寄りはいまさら勉強もできやしないし。ウズベク人は国もあるし、文字も学校もある。でもわたしらは国もないから、ロシア語しか使わなくなってしまったし、名前までロシア式にしなけりゃならなかったんだよ」

一〇 我々は彼らの兄弟といえるのか

 沿海州には、大別して三つのパターンの朝鮮人がいた。(1)先祖の代から沿海州で居住していたが、強制移住によって中央アジアに行ったのち、もどってきた人々、(2)戦時中にサハリンに連行されたのち、五〇年代以後に大陸側に移住した人々、(3)戦後、および六〇年代以後に北朝鮮から来た人々、である。彼らはそれぞれ自分たちのエリアで暮らしており、相互の交流はほとんどない。沿海州という限られた地域だけみても異なった歴史を背負った人々が存在すること自体がカレイスキーたちの複雑な運命を象徴している。

 私は彼らの実情を世に知らしめたい思いにかられたが、自分の力量でその全貌を調査するというのは不可能であると痛感せざるをえなかった。

 ハバロフスクから帰った私の目の前には、一つの課題が浮かび上がった。それは『カレイスキー・もう一つの民族史』を翻訳出版したいということだった。自分で調査することができないのならば、『カレイスキー』を翻訳して普及するのが最も現実的で有益な仕事に違いない。

 とはいえ著者の鄭棟柱氏とは何の面識もないため、何かいい方法はないものかと考えあぐねていたところ、偶然の好機が訪れた。鄭氏は韓国における被差別部落民といえる「白丁」をテーマにした長編小説をライフワークにしていることから、部落解放研究所の依頼を受けて新作『神の杖』を上梓した。その出版記念講演会が昨年(一九九七年)二月に大阪で開かれることがわかったのである。当日、非礼をかえりみずに面会を申し入れた。鄭氏は即座に翻訳を快諾してくれた。

 だが翻訳作業は、多忙にかまけて遅々として進まず、ようやく今年(一九九八年)の五月に出版にこぎつけた。一カ月後、毎日新聞大阪本社で私と鄭氏の対談が企画された。再会した鄭氏は、出版が遅れたことを詫びる私の手をとり、「ご苦労様でした」と労をねぎらってくれた。

 私は対談というより、以前からいだいていた疑問に対する解答を得たかった。自分が知り得た情報と、『カレイスキー』に書かれた内容との相違点も含めて率直な質問を投げかけた。

 「以前、ウシトベに行ったとき、農場長は『高麗人は集団農場の指導的役割を果たしながら、豊かな生活を築き上げてきた』と誇らしげに語っていました。一面では、高麗人は強制移住されたのち、現地人の協力を得ながら苦労を共にしてきたという印象も受けましたが・・・」

 「それは違う。ウシトベは人間の住む所ではなかった」

 鄭氏は言下に言いきった。

 「大昔、その一帯は海だったので、塩分が多く、農業どころか、地下水さえ飲めない土地だった。原住民などほとんどいなかった。スターリンはなぜそんな所に高麗人を送り込んだのか。それは間違いなく死ぬと考えたからなのです」

 私は頭を殴打されたようなショックを受けた。五年前、ウシトベで「ここの土地は塩分が多いから苦労した」という話を聞いて以来、なぜ塩分が多いのかという疑問がずっとくすぶりつづけていたのだが、その謎が初めて明らかになった。しかもスターリンはロシア全土の地勢を調査したすえ、人間の生きることのできない土地を選んで高麗人を送り込んだとは!

 鄭氏は額に皺を寄せて語りつづけた。

 「シベリア鉄道でウシトベに送られた人々は二万人近くいましたが、ひと冬を過ごすあいだに多くの人が死にました。特に子どもや老人は半数に減りました。しかしそれでも生き残ったことが重要なのです。ウシトベは夏は四〇度、冬は零下四〇度にもなります。わたしはそこで人々が生き残ったのは、世界の不可思議の一つだと思っています」私はもう一つの疑問をぶつけた。

 「パルチザンスクに行ったとき、中央アジアから戻ってきた五人のハルモニに会いました。ハルモニたちはみな、『自分たちは中央アジアで不便な生活をしていたわけではない。沿海州が先祖の地だから帰ってきたんだ』と強調していましたが・・・」

 「高さん、だれでも見知らぬ人に悲しい過去のことは話したくないものです。しかし三度訪ねていけば、涙を流しながら本当のことを話してくれるでしょう。中央アジアでの生活がどうしていいわけがありますか。それに以前、ソビエト社会主義のもとでどれほど恐怖が大きかったことか。少しでも当局にとってまずい話をすれば、銃殺される恐れがあった。そのときの癖がいまだに残っているんです」

 完全に打ちのめされた心境だった。思えば、カザフスタンや極東地方で出会った人々が、真実を語っていなかったとして何の不思議があるだろう。遠い異国からやって来た一介の旅行者に話をするには、彼らの体験は過酷にすぎた。生と死の境界を越えてきた歳月を改めて直視するのは、身を切るほどの苦痛であろうことは想像してあまりある。意識的にであれ、無意識的にであれ、彼らが事実に口をつぐんだり、虚飾を加えざるをえなかった事実こそが、最も雄弁に彼らの苦悩と絶望の深さを証明しているのだろう。

 私はしばし絶句したのち、口を開いた。「では、現在の中央アジアの状況は?」「高さんが行った頃は、カザフスタンではちょうどコルホーズの責任者が高麗人から現地人に入れ替わりつつある時期でした。その後、重要なポストから降ろされたり、集団農場から農地を賃貸して働くようになった高麗人は少なくありません。多数の高麗人が国外に出ましたが、といってもタジキスタンやキルギスタンでは内乱がつづいていたため入ることができず、結局ロシアに行って無国籍者の物もらいとなって放浪しています。ロシアが国籍を与えないからです。カザフスタンやウズベキスタンに残っている人々も、そこが決して安住の地ではないことを知っているので、不安な日々を送っています。

 いま注目されるのは、ウズベキスタンから極東地方への移住が進んでいることです。以前、沿海州に移ったキム・テルミルという人が、ウスリースクで土地を借りて、ウズベキスタンから来た高麗人の村をつくる運動を進めているんです。すでに二万人が入ってきました」

 長年高麗人を拒んできた沿海州当局がようやく移住を認めたとのことだった。高麗人の前途が開かれることを願わずにはいられなかった。

 二時間にわたる対談の最後にたずねた。

 「わたしはこの本の翻訳作業を進めながら、一方では高麗人の実情を知らしめるという意義を感じつつも、他方では、それが彼らにとって何のプラスになるのかという疑問にとらわれてきました。鄭氏は著書のなかで、韓国人に向けて、『我々は本当に彼らの兄弟だといえるのか』と書かれましたが、在日同胞はどうすべきだと思われますか」

 「在日同胞は独特な民族教育の伝統を築き、民族学級や民族講師団をつくってきました。これは、ユダヤ人がゲットーのなかででも子どもたちに伝統や歴史を伝えていこうとしたことと同じものとしてわたしはみています。大切なのは、高麗人にお金や服を送るといったことではなく、民族を感じるようにしてあげることです。民族教育を行って、今後どう利用していくかということが問題なのではなく、民族の精神を失わないようにすること自体が重要なんです。

 苦痛を受けてきた人が最もご飯のおいしさを知るというように、高麗人を最もよく理解できるのは、彼らと同じような抑圧を受けてきた在日同胞だと思います。だから在日同胞にはぜひとも高麗人の実情を知ってほしいんです。韓国の人には、つまらない同情や偏見があるから問題が生じやすく、また韓国政府が何かをするのは外交的な限界がある。むしろ海外にいる同胞同士が協力し合うことが大切であり、その中心は在日同胞の民族教育のノウハウです。もし高麗人を何人か招請して現場を見せてあげれば、彼らは涙を流しながら、『いまや我々も目を開かなければならない』と感じることでしょう」

 鄭氏の言葉は、私の胸の奥に深く染み込んだ。

 高麗人は、李氏朝鮮の棄民政策、日本の植民地統治、南北分断、東西冷戦、旧ソ連崩壊とつづいた巨大な歴史の流れによってその運命を翻弄されてきた。ソビエト体制が滅びたとき、新しい時代の到来を歓喜して迎えた束の間を経験しただけに、以前に劣らぬ混迷に直面した人々の絶望感はいっそう深いといえるかもしれない。

 今夏、ロシアがルーブルの大幅な切り下げを断行した結果、国内の経済秩序が大混乱に陥ったのみならず、全世界的規模の経済危機を派生させた。一〇月には全土でエリツィン大統領の辞任を求めるゼネストが決行されたが、指導者の交代によって、より良い社会が到来すると期待する者はいない。底知れぬ苦境にあえぐのは、ロシアの束縛から離脱したはずの各共和国も同様であり、新国家建設の明確な展望はいまだに描かれていない。そのなかで生きる高麗人が確固とした自分の居場所を見いだすのは、いったいいつのことだろうか。

一一 在中、在米、そして在日

 私はこれまで、旧ソ連のほかに、中国、アメリカの同胞社会も取材してきた。いま改めて思うのは、同じ在外朝鮮民族という立場にあっても、各国ごとにいかに状況が異なることかという実感である。

 まず中国の朝鮮族の場合、戦前の経緯については高麗人と重なる部分が少なくない。初期の移民は、高麗人と同様に一九世紀以降、故郷での生活苦から逃れるために中国・東北地方に渡っていったが、爆発的に激増するのはやはり韓国併合以後のことだった。一九一〇年当時一一万人だった移民は、一九四五年には二一六万人に達した。移民の八〇%は農民であり、未開の土地を開拓して農業を発展させた。また三〜四%は独立運動家であり、中国人といっしょになって激烈な抗日武装闘争を展開した。第二次世界大戦終結後、一〇四万人が北朝鮮に帰国したが、一一二万人が中国にとどまった。彼らは国共内戦に身を投じたのをはじめ、中華人民共和国創建のために多大な貢献を果たした。

 このような歴史的背景を踏まえ、毛沢東は在中朝鮮人に対し、恩恵として中国国籍を与えた。一九五二年九月三日には、朝鮮族が最も集中していた吉林省内に延辺朝鮮民族自治区を創立し、五六年には延辺朝鮮族自治州に昇格させた。

 私は八八年八月、延辺朝鮮族自治州に初めて足を踏み入れたときのカルチャーショックを生涯忘れることができないだろう。延吉駅に到着した瞬間、構内には朝鮮音楽と朝鮮語によるアナウンスが流れる。街に入れば、建物には漢字と朝鮮文字の二つの看板が掲げられ、朝鮮族同士の会話はすべて朝鮮語で行われる。自治州の長は必ず朝鮮族が就任するほか、幅広い分野で朝鮮族が幹部に登用される。小学校から大学まで朝鮮族学校が存在するのもちろん、朝鮮語によるテレビ放送、民族歌舞団、出版社等さまざまな施設が整えられており、伝統的な民族文化が鮮やかに開花している。朝鮮族は国籍上は中国人でありながら、民族的には朝鮮人という特有のアイデンティティに誇りをいだいていた。延辺の光景は、在日同胞の状況と比較すれば、天と地ほどの格差を感じさせるものだった。

 しかし文化大革命の際には、多数の朝鮮族が反革命分子として弾圧されたことは人々の記憶に深く刻み込まれている。また自治州の人口比で漢族が六〇%を越えたほか、行政当局内の実権が徐々に漢族に移行していくなど、微妙な問題も生じてきていることを見逃すことはできない。

 次に在米韓国人の場合をみれば、その歴史は九〇年前にさかのぼる。一九〇三年から〇五年にかけて、七二二六人の韓国人がハワイのさとうきび農場に渡り、奴隷と同様の労働を強いられたのが端緒だった。だが一九二四年以降、アメリカは東洋人の移民を厳しく制限したため、第二次世界大戦終結時点での在米韓国人は七〇〇〇人にすぎなかった。

 在米韓国人の状況が激変したのは、六五年に移民法が改正され、東洋人にも門戸が開放されて以後のことである。六八年に新移民法が発効すると、毎年一万人から三万人という人々がカリフォルニア州を中心に続々と移住した。ロサンゼルスの一角では、コリアタウンが生じ、みるみるうちに三キロ四方の街に拡大していった。

 私は九一年に初めてコリアタウンに入ったとき、目を見張った。飲食店から書店、病院、銀行にいたるまであらゆる業種の建物がハングルの看板を掲げて林立している。街では韓国語の会話が飛び交い、韓国の新聞が本国と同時発行される。

 在米韓国人の際だった特徴は、わずか二、三〇年のあいだに一八〇余万人もの人々が移民した点にある。韓国人は幅広いビジネス分野に浸透し、白人社会から「模範的マイノリティ」ともてはやされた。しかしあまりにも性急な上昇志向は、韓国人同士、あるいは人種間の葛藤を招いた。蓄積した矛盾が一挙に噴出したのが、九二年四月に発生したロス暴動だった。

 ところで当時、マスコミはコリアタウンが黒人によって狙い撃ちされたかのように報道していた。しかし同年九月に私が現地に飛んで取材した結果、全く異なる真相が浮かび上がった。コリアタウンが犠牲になったのは、暴動の震源地だったサウスセントラルに隣接する所に位置したからであり、決してコリアンの街だから狙い撃ちにされたわけではなかった。またコリアタウンを襲撃した黒人というのは、実は一部のギャング集団などにすぎず、実際に略奪行為をはたらいたのは、コリアタウン周辺に住むヒスパニックたちだった。

 さらに重要なのは、ロス市警が暴動発生直後から白人地域では厳戒態勢をしいておきながら、コリアタウンには翌日まで警官隊を派遣しなかった事実である。そのため街は無政府状態に陥り、暴徒の餌食にされてしまった。すなわちロス暴動は、もともと白人と黒人間の人種差別事件によって引き起こされたにもかかわらず、巧みにマイノリティ同士の対立の激化という形に利用されていったのだった。

 ともあれロス暴動は在米韓国人社会の思考パターンを根底から揺るがす転機となった。彼らは深い自省の念を込めて異口同音に訴えた。

 「韓国人はこれまで白人社会に食い込もうとして必死に努力してきたが、いざとなればあっさり見捨てられることが明らかになった。我々がロス暴動から得た教訓は、白人社会に対する幻想を捨て、韓国人としてのアイデンティティを取り戻し、マイノリティ同士の連帯を強めていくことだ」と(詳細は拙著『アメリカ・コリアタウン』参照。社会評論社)。

 では在日同胞の状況はどうか。

 周知のとおり在日同胞は、日本政府の極端な排他政策と社会的な偏見のもとで、根強い民族差別にあえいできた。自己実現をめざそうとすれば、日本人に帰化するか、スポーツ、芸能、ビジネス等の分野で活路をみい出すしかなく、それさえ通名を使うことが求められた。

 私は日本における差別は、他国と比較してもきわだったものだと思う。なぜなら以前はともかく、現在は他国で存在する民族差別というものは、主に個々人の感情に起因しているのに対し、日本の場合は法制度によって定められているからである。法的差別は一九八二年に施行された「出入国管理及び難民認定法」によってかなりの改善がみられたとはいえ、いまだに各種の行政差別が温存されている。その最も端的なあらわれが、民族教育に対する抑圧である。

 例えば、日本には一四〇余の朝鮮学校が存在するが、諸外国では想像もできないような差別を受けている。それは朝鮮学校が一条校ではなく、各種学校としての資格しか与えられていないからである。

 学校教育法は、その第一条で「学校とは、小学校、中学校、高等学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする」と定めつつ、同法第八三条で「第一条に掲げるもの以外で、学校教育に類する教育を行うもの」(専修学校を除く)を各種学校と規定している。そして外国人学校・国際学校は、単なる技能習得でない全人教育を行っているにもかかわらず、各種学校、つまり洋裁学校や料理学校などと同種の学校として位置づけられている。

 そのため、朝鮮学校をはじめとする外国人学校・国際学校の高級部の卒業生には、すべての国立大学、および半数近い公立大学、私立大学の受験が認められていない。また学校に対する教育助成金をみても、文部省からはゼロ、地方自治体からは一条校の一〇分の一しか支給されないため、保護者は極度に重い経済的負担を強いられている。一方、日本には韓国系の民族学校も四校存在し、そのうち在阪の二校のみが一条校の認可を受けている。ところが両校の場合、文部省の指導要綱によって民族科目の授業が大幅に制限されているため、生徒は母国語さえ満足に学べないというジレンマに陥っている。

 またこれらとは別に、大阪の公立小・中・高校では同胞や日本人教師の努力によって一四〇校で民族学級が運営されているが、正規の授業としてみなわれていないため、多大な困難をかかえている。

 私がとりわけ民族教育の問題を強調するのは、そこに日本の政策の本質が最も集約的に反映されているからである。民族教育は文字通り、民族的アイデンティティをもつ子どもを不断に育成していく場である。したがって民族教育を容認するか否定するかという問題は、当該政府がその民族の存在を容認するか否定するかという根源に帰着する。つまり民族教育に対する抑圧政策がつづくということは、民族排他主義的な同化政策が存続していることを端的に示しているのである。そしてこのような朝鮮人を差別する体質こそは、他の外国人、アイヌ民族、被差別部落、障害者等あらゆるマイノリティに対する差別政策を温存する結果につながっていることを見落としてはならない(詳細は拙著『国際化時代の民族教育』参照。東方出版)。

 以上にみたように、在外同胞の状況は各国ごとに相異なる特殊性を帯びている。しかしながらいずれの国で居住していようと、同じ在外同胞としての共通点をもっているのもまぎれもない事実である。

 一部の例外を除けば、在外同胞はみな祖国で生きていく基盤を確保することができないため、遠い異国に生活の糧を求めざるをえなかった人々だった。異国での民族差別のもとで、夢みた暮らしを得るのは困難だった。たとえ当該国の国籍を取得したとしても、ひとたび事が起これば真っ先に切り捨てられるマイノリティとしての悲哀を噛みしめてきた。その背景には、祖国が東アジアの小国であり、南北が対立する分断国家であり、在外同胞に対して強力な保護政策をとってこなかったという現実がある。祖国が弱小であればあるほど、その国の在外同胞が差別と偏見の対象にされがちだというのは、今日の国際社会の非情なリアリティである。それでも在日、在中、在米同胞の場合は、過去の試練を克服し、今日では一定の生活基盤を築き上げてきたといえる。だが高麗人の場合は、いま現在も展望のみえない日々を送っている点で、最も痛ましい人々だといえるだろう。

 在外同胞の前途は、決して安易に楽観視できるものではない。だが近年、在外同胞の存在に対する関心が急速に高まりつつあるのは注目に値する。

 今年の一〇月七日から一〇日まで、韓国の金大中大統領が日本を公式訪問した。このとき発表された韓日首脳の共同宣言のなかで、

 「両首脳は、在日韓国人が、日韓両国国民の相互交流・相互理解のための架け橋としての役割を担い得るとの認識に立ち、その地位の向上のため、引き続き両国間の協議を継続していくことで意見の一致をみた」

 という文言が明記された。

 九日夜には、大阪で催された在日同胞との懇談会において、金大中大統領は「いま世界各国で五〇〇万人以上の同胞が暮らしている。在日同胞には重大な任務がある。同化せず、民族の歴史や文化を知り、根っこのある韓国系日本居住民になってほしい。そのための支援は惜しまない」という趣旨の発言を行った。来日した韓国大統領が在日同胞問題についてこれほど積極的な言動を行ったのは初めてのことである。

 また本国や在日同胞社会においても、南・北の差異や思想・信条、居住国の違いを超えて連携を深めようという動きが活発化している。今後、世界各国で暮らす同胞のネットワークが加速度的に広がっていくことが期待される。

 国際化時代といわれる今日、世界は国民国家主義の時代とは大きく様変わりした。地球上には膨大な数の外国人および外国系住民が存在している。彼らはもはや歴史の負の遺産ではない。むしろ祖国と当該国とを結ぶ架け橋として、ますますその存在感を増しつつある。祖国は在外同胞と一体化してこそ、よりグローバルな視野を獲得することができる。またホスト国は外国人の権利を尊重してこそ、より豊かな共生社会を創造することができる。そして在外同胞自身は、民族的アイデンティティを堅持しつつ、居住国と祖国の双方の発展に寄与することによって、自らの可能性をより広げていくことができるのである。

 今日、世界のいたる所で民族問題が噴出している。日本も含め、私の知る四カ国の朝鮮民族のパターンには、各国に住む諸々の外国人の実態が凝縮されている。それゆえ私は今後も、在外朝鮮民族としての自己のアイデンティティに立脚しつつ、地球上のあらゆる民族問題に対して関心をもちつづけたいと思う。世界の主要国家に分散している朝鮮民族が真の解決策を提示できれば、全人類的な課題の解決に貢献することができるだろう。その意味においても私は、各国に生きる在外同胞の特殊性と普遍性を直視しながら、未来社会へのビジョンを探求しつづけたいと思うのである。(終)


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