『AWC通信』2000年12月号(第26号)


目次


定例会報告

ベトナム・「社会主義的民主化」の行方

大学教員 中野亜里(なかの あり)さん

 長期にわたるアメリカとの泥沼の戦いを経て、国家再生の道の歩み始めたベトナム社会主義共和国。1976年12月に開催された共産党第4回大会は、ベトナムはプロレタリア独裁国家であり、国家権力の基盤は「労農同盟」と社会主義的知識人層であると規定した。そして、資本主義の段階を経ずに以後20年で社会主義的工業化を達成することを目標とした。

 しかし、それは前途多難な船出であった。頑なに南北統一、社会主義改造を追求する共産党指導下のベトナムの内外情勢は、とても不安定なものであった。対外的には、1978年以後中国との対立が顕在化し、国内では南部の急激な社会主義化が失敗、ボートピープルの流出を招いた。76-80年の経済5ヶ年計画は破綻し、弱体化したソ連・東欧からの援助も減少した。まさに八方ふさがりの中、共産党は86年12月の第6回党大会で大きな賭けに出た。ドイモイ路線の採択である。

 ドイモイは、(1)民主化・公開化、(2)対外開放、(3)市場経済を柱とし、国際的孤立と経済困難からの脱却を目指すものだった。ドイモイ路線採択後、15年を経たベトナムの実態はどうなっているのか。ベトナム研究者の中野亜里さん(早稲田大学・國學院大学非常勤講師)が解き明かして下さった。

ドイモイ後の国家政策

 国際関係と経済状況の改善のために採られたドイモイ路線は、ソ連のペレストロイカにならったものではなく、民衆の切実な改革の願いに突き動かされたもので、あくまで国益に沿った政策であった。また、ハノイ指導部は新思考外交、全方位外交を実行し、「敵を減らし友を増やす」、「対外関係の多角化・多様化」の方針の下、イデオロギーに関わりなく、ASEAN(東南アジア諸国連合)、アメリカ、日本、フランス等との関係改善を目指した。また、資本主義は認めないが、国営企業主導下で私営経済も認めていくという、「社会主義志向多セクター市場経済」路線が導入された。

 1980年代末からのソ連・東欧諸国の社会主義体制崩壊に直面し、ベトナム共産党は同諸国はマルクス・レーニン主義に忠実でなく、ブルジョア的民主主義を目指したから失敗したと批判した。当時、東欧の改革を支持した党思想文化委員長のチャン・ドは解任された。

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 1989年の中国の天安門事件等をきっかけに、欧米諸国はアジア諸国の人権問題に対して圧力をかけたが、ベトナムもその例外ではなかった。このような状況下で、ベトナムの党指導部、知識人の間で、「人間の権利」と「公民の権利」、「社会主義的法治国家」建設、「社会主義的民主主義」理念等についての議論が発展した。95年にASEAN、98年にAPECに加盟したベトナムは、アジア・太平洋地域国家としての立場を強調するようになった。ハノイ指導部は、欧米に対しては、アジアには独自の民主主義や人権の理念(「アジア的価値」)があると主張し、「個人主義」とは特権を濫用して私腹を肥やすものとして、これを否定した。ASEANの内政不干渉原則、「多様性の中の統一」という理念は、ベトナムにとっても都合のよいものだった。それは、自国の体制を変更することなく、異なる政治体制の国々と協力することを可能にするものであった。

 対外環境を好転させ、1990年代半ばには年9%の成長率を達成したベトナムであったが、97年にはタイを震源地とする金融・通貨危機が襲った。共産党支配の正当性の根拠であった経済発展が停滞し、ベトナムはASEANの後発国としての立場から、地域の「均等発展」「地道な発展」を主張するようになった。国内でも、経済発展に伴う貧富の格差が問題視されるようになった。しかし、アジアの経済成長の「秘訣」とされてきた「アジア的価値」を否定するまでには至らず、ベトナムは基本的に外資に依存した従来の発展路線を維持した。タイの金融・通貨危機を招いた構造上の問題は、ベトナムとも共通しているにもかかわらず、現実には金融管理や外資運用システムの見直しには至っていない。

ベトナムにおける民主主義

 共産党一党支配体制を続けてきたベトナムに対し、民主主義の実現を求める内外からの圧力が存在する。欧米からの政治的圧力には、ハノイ指導部は「文化相対論」と「発展度論」で応じている。前者は、民主主義の理念は各国の文化や歴史的背景によって異なるというもので、後者は、経済発展が遅れ、教育水準が低い国では民主・人権意識の未発達はやむを得ない、とする論理である。そして、ハノイは民主・人権問題に関する欧米の圧力を「和平演変(武力を用いずに社会主義体制を転覆させようとする陰謀)」として警戒し、「ベトナムでは基本的人権は保証されており、政治犯、宗教弾圧は存在しない」と言っている。

 しかし、自発的に現体制の改革と民主化を求めるベトナム人もいる。党内では、かつて東欧の改革を支持して失脚したチャン・ドをはじめとする批判勢力が存在する。党外では、反体制的知識人や宗教者の活動がある。前者では、政治犯として投獄され、釈放後も四六時中公安警察の監視を受けている生物学者ハー・シー・フー、後者では統一仏教会のティック・クアン・ドなどが国際的にも知られている。統一仏教会とは、南部を拠点とした政府非公認の宗教団体である。南北が統一された時、多くの宗教団体は国家が公認する宗教組織に編入されたが、それに抵抗して独自の活動を続ける団体は、当局の弾圧や嫌がらせの対象になっている。

 農村住民や在外ベトナム人の組織も民主化の重要なアクターである。1997年、北部のタイ・ビン省、南部のドン・ナイ省などの農村で住民の抗議行動が顕在化し、国際的に注目を集めた。党官僚が住民から税金を高く取ってそれを着服したり、汚職や横領が甚だしいことが直接の原因であった。農村の暴動は、共産党による「末端レベル(農村)の民主化」政策の引き金となった。

 在外ベトナム人の中には、「自由ベトナム連盟」などの組織的運動がある。彼らは祖国の民主化のために全世界に向けてベトナムの内情を訴え続けている。インターネットを利用して国内の情報を伝えたり、洪水などの災害が発生した時には、祖国同胞のための支援活動も行なっている。しかし、南北統一後に国外に逃れた在外ベトナム人の組織は、反共色が強いこともあり、ベトナム当局との建設的な対話は難しい。

 「ベトナムの民主化は、基本的に上からのものであり、下からの民主化にはまだ年月がかかる」と中野さんは言う。共産党は人民の利益代表であるという前提があるため、党・政府にとっての民主化とは、党の指導性の強化を意味している。党は、1991年の第7回大会と96年の第8回大会で、「民主集中原則」、「人民の主人権」(注)の強化を再確認した。99年2月から施行されている「末端レベルの民主化政策」では、農村における人民主人権の実現が目指されているが、これは党の上位レベルが決めた路線・政策を下位レベルが正しく理解し、実行するための政策である。ベトナムでは、現在でも地方自治という概念が存在しない。また、党内では99年5月から「批判・自己批判」、「整党」運動が行なわれている。党指導部は、「四つの脅威(経済発展における格差、社会主義路線からの逸脱、和平演変、官僚主義・汚職・モラルの頽廃)を警告し、党内の浄化を図っている。しかし、整党運動が党内の権力闘争に利用されている面もある。

ベトナムのいまとこれから

 ベトナムの政情はまだ渾沌としているが、今後の展望はどうであろうか。「冷戦期に社会主義の最前線として戦い、多くの犠牲者を出したベトナムは、社会主義『志向』を変更するわけにはいかない。しかし、ソ連の社会主義モデルが崩壊してからは、社会主義とは何かを明確にできず、また現時点ではその必要もない。社会主義とはいつか到達するべき理想であって、そこに至るまでには、当面、非民主的なことや不平等など、社会主義に反する現象があってもやむを得ないということです」と中野さんは説明する。

 現在の「民主化」政策は、党の指導強化のための法・システムの制定作業といったミクロ的手続きに終始している状態だ。国家の生き残り策として始まったドイモイは、現在は党の生き残り策となっている。そして、国権(党権)主義と人権の緊張は、これからも続くだろう。下からの民主化の可能性について、中野さんはまだ明確な見通しは立たないと言う。「ハノイにはまだレーニン像が立っていますが、あれを民衆が引き倒すのが東欧的な改革だとすれば、ベトナムでは、ある日気がついたらレーニン像が消えていて、それを誰も気にしない、というような感じで、なし崩しに変化していくのではないでしょうか」。急激な大変革よりも、漸進的な改革の方がよりベトナムらしい、と中野さんは見ている。

 多くの国民は、かなり高い水準の物質生活を享受しており、若者は一般的に政治的関心が薄い。うまくすれば、自分たちが具体的にイメージする幸福(商売をしたり、自家用車を持つことなど)に手が届くかも知れない、という時代には、誰も大きな政治的変動は望まないだろう。大変動があっても、却って弱い立場の人々が苦しむだけだろう、と中野さんは言う。

 現在のベトナムはたくさんの矛盾を抱えている。対外開放路線をとりつつ、政治・社会の安定と民族的アイデンティティを保持しなければならない。独立・自主・平等互恵の対外関係を主張する一方、外国の投資・援助に依存しなければならない。世界市場への参入のため貿易自由化を求められているが、国内産業(特に国営企業)は保護しなければならない。競争を奨励して経済を活性化すると同時に、貧富の格差、社会的不公平、失業問題にも対処しなければならない。

 これからのベトナムはどうなるのか。多くの問題や矛盾を克服し、民衆による真の民主化が実現するのはいつか? 私たちは、今後も見守り続ける必要がある。

(青山 有香・ジャーナリスト)
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KSD・アイムジャパン/政官癒着の構造の背景にあるもの

蜂谷 隆

KSDと外国人研修制度

 ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)の古関前理事長ら幹部3人が業務上横領の疑いで逮捕された。KSD問題は大きな山場を迎えたといえよう。今後、業務上横領−私物化というだけでなく、自民党に対する不透明な資金の流れについての実態の解明が進むものと見られる。

 KSDは、中小企業経営者の福祉向上を目的に多くの事業を行っているが、その事業の一つが「外国人技能実習制度」による外国人研修生の受け入れである。中小企業国際人材育成事業団(アイム・ジャパン)を設立、古関氏自らが理事長を兼務していた(辞任したので現在は空席)。インドネシアに続き99年にはタイから、2001年からはベトナムからの受け入れを計画している。受け入れ団体の最大手である。

 KSDおよびアイム・ジャパンが政治と密着したのは、アイム・ジャパンの設立だけでなく技能実習制度を自分たちに有利に適用してもらうためだった、と私は見ている。ただ、多くの問題を抱えている技能実習制度からすれば、政治がらみのアイム・ジャパンの問題は、あくまで一つの問題に過ぎない。技能実習制度による研修生の受け入れが、中小企業の労働力確保策でしかないこと、発展途上国への技能移転という建前すらが崩れていることにこそ、最大の問題があると言わなければならない。

 アイム・ジャパンは91年12月に設立された。80年代後半からのバブル経済の中で極端な人手不足となり、人手を確保できない中小企業の中には労務倒産するところさえ出てきた。人手の確保は中小企業にとって死活問題となっていた。経済団体や業界団体はこぞって外国人労働者の受け入れの提言をまとめ、政府に対し要望を行っていた。

 こうした中でKSD傘下のKSD豊明会は、90年7月「外国人研修生受け入れ機関設立構想」を打ち出し、同年11月に「豊明会中小企業政治連盟」を結成したのである。KSDもそうだったが、当時経済団体は、政府に対する要望を研修生という形での受け入れに的を絞っていた。というのは、政府は「単純労働をする外国人の入国を認めない」という基本姿勢を変えようとしなかったからである。

 こうした産業界の強い要望を受けて、臨時行政改革推進審議会(第3次行革審)は、91年12月に「技能実習制度」創設の提言を行ったのである。91年12月はアイム・ジャパンが設立された時である。KSDは技能実習制度での受け入れが間近いと見て、急きょアイム・ジャパンを設立したのである。

例外事項を利用したアイム・ジャパン

 「技能実習制度」は、最初の1年は研修を受け、技能評価試験に合格すれば事実上の就労である「実習」に移る制度である。当初は合計で2年だったが、97年4月から「実習」を2年に延長、合計3年となった。

 行革審の答申を受けて、労働、法務、通産など各省が具体化に動いた。約1年間にわたり内容のすりあわせを行い、技能実習制度は93年4月に実施された。すでに設立されていた研修生の受け入れを支援する国際研修協力機構(JITCO)の役割を位置づけるとともに、政省令を92年12月に改正、実施時には指針を打ち出すなど体制整備を行ったのである。

 92年の1年間は、政治家と官僚が技能実習制度の内容をめぐって駆け引きを演じていた時期である。アイム・ジャパンにとって自ら描く事業の構想を実現するためには、いくつかクリアしなければならない問題があった。

 技能実習制度は、あくまで本国の職種と同じものを日本で研修を受けることになっている。旋盤工は日本でも旋盤の研修と実習を受けるのである。建前とはいえ技能を向上させるのが、制度の趣旨なので当然のことである。ところが、アイム・ジャパンはそれでは多人数の受け入れができないと考えていた。

 法務省の90年8月の告示では、研修生の5つの要件の1つとして「申請人が本邦において修得しようとする技術、技能もしくは知識を要する業務と同種の業務に外国において従事した経験を有すること又は申請人が当該研修を受けることを必要とする特別の事情があること」を上げている。この要件は92年12月の告示でも継承されている。

 そこで、アイム・ジャパンはこの例外事項である「特別の事情」を「相手国政府が認めるのであれば」と読み替えさせたのである。元々の意味は、途上国にない技術や技能を日本で研修を受ける場合と考えられる。にもかかわらず、このように解釈させたのである。当時の法務委員会で法務省から答弁を引き出した。この時に自民党参議院議員の村上正邦氏が動いたのであろう。見返りに92年の参議院選に向けて架空の自民党員を大量に作りだし、(村上正邦氏)資に対して金を提供したのではないだろうか。

 このほか、92年12月の大臣告示では研修生受け入れの大幅緩和が実施された。こうした点についても圧力をかけたものと見られる。

アイム・ジャパンと政官の癒着構造

 アイム・ジャパンの問題をどのように考えたらよいのだろうか。

 まず第一に、政官との持たれ合いの構造ができていたことである。11月8日付読売新聞によると、監督官庁である労働省は、アイム・ジャパンに対し3年に1回行わなければならない立ち入り検査を過去一度も行わなかったという。アイム・ジャパンは専務理事と常務理事として労働省のOBの天下りを受けているが、このほか法務省、外務省、警視庁などからも多数天下りを受けている。こうした中央官庁との“太いパイプ”によって事業をスムーズに進行させようとしただけでなく、行政のチェックを甘くさせていたのだろう。

 このほか、JITCOの賛助会員にアイム・ジャパンの会員を多数登録させている。99年3月時点の団体の傘下企業会員は5047社だが、アイム・ジャパン傘下の企業はこのうち1347社も登録している。JITCOに対して有形無形の圧力を与えていたのである。

 さらにインドネシア政府と92年に協定を結ぶ際に、大物政治家だけでなく高級官僚を使った形跡がある。政官を使ってインドネシア政府を動かしたのだとしたら、一民間団体がなぜそのようなことが可能だったのか。日本の政界とインドネシア政府に対して多額のカネが動いていた可能性は否定できない。こうなると「行政の甘さ」というレベルではなくなる。政官とアイム・ジャパンの癒着の構造あるいは持たれ合いの構造ができていたと見るべきではないだろうか。

 アイム・ジャパンでは、これまでにパスポートの取り上げや強制貯金(いずれも抗議によって是正された)など研修生に対する人権問題や“逃亡事件”を引き起こしている。しかし、問題はアイム・ジャパンだけでなく、他の団体も同じような“トラブル”を多数引き起こしていることである。アイム・ジャパン以上に悪質な例も少なくない。「残業代の不払い」、「技能を習得させず単純労働を強いた」という例は枚挙にいとまがないほどである。

技能実習制度にこそ問題が

 なぜこうした問題が生ずるのか。それは技能実習制度自体に問題がある。同制度は建前としては「発展途上国に対する技能移転」とか「国際貢献」をうたっているが、実態は中小企業の人手確保策となっている。93年に実施されてから、長期不況に突入しバブル期の「人手不足」は解消し「人手過剰」となったとされているが、製造業の現場や建設現場など3K職種では、依然として人手の確保はむずかしい。零細企業はさらに深刻となっている。

 こうしたところに外国人研修生が貴重な労働力として使われているのである。ある団体のホームページを見ると「メリットは突然の欠勤・退社がない、費用が安くなること」などということが堂々と書かれているのである。技能移転など鼻から関係なくなっている。

 発展途上国への技能移転といいながら、そもそも対象職種(55職種92作業)はすべて日本側の都合で決められたものである。途上国が必要とする職種について日本が答えたものではない。

 技能の習得も日本語の研修も受け入れ団体や企業によってばらつきが大きい。熱心な経営者や研修担当者もいるが、ろくに教えようとしない人もいる。つまり手抜きしようと思えばいくらでもできるのである。制度として技能の習得を保障するものになっていないところに問題がある。

 アイム・ジャパンの場合は、すでに述べたように日本での研修内容は、それ以前の職種と異なっても構わないものとなっている。電機関係で働いていた人が、日本で建設の職種の研修を受けたというようなケースは多いのである。インドネシアNGOネットワーク(JANNI)がインドネシアの研修生に対して行った聞き取り調査では、58%の人が希望する職種とまったく異なる(カテゴリーも異なる)職種に回されたと答えている。これでは技能移転を期待しようにもムリだろう。

 外国人研修制度は、あくまで帰国後に役立てるために技能を習得するものでなければならない。この点から技能実習制度を根本的に見直すべきである。少なくとも現在のような「労働力確保策」という受け入れ企業に対するインセンティブは最大限薄める必要がある。

 しかし、こうなると中小企業は労働力を確保できなくなる。中小企業経営者が労働力確保の要求をすること自体を非難することはできない。外国人労働者を受け入れを認めることで対応すべきなのではないだろうか。

(はちや たかし・ジャーナリスト)
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それでもインドネシアを援助しつづける日本

第10回インドネシア支援国会議を受けて
佐伯 奈津子

人権侵害がつづくインドネシア

 11月12日。この原稿を書いていると、「平和のための民衆大会議」が開催されているインドネシアのアチェ特別州から数分おきに電子メールが入ってくる。会議に参加しようとして、地方から州都バンダ・アチェに向かった民衆が、インドネシア治安部隊に拘束された、射殺された、道路が封鎖された、などなど。ここ数日で死者は170人にのぼっている(警察発表では死者16人と異常に「少ない」)。会議を主催しているNGO、学生活動家にも危険が迫っており、急遽、13日にアチェへ向かうことにした。

 ワヒド政権に変わり、インドネシアは民主化・改革の道を歩んでいる、というのが一般的な見方だ。しかし現実には、アチェでも西パプア(イリアン・ジャヤ州)でも人権擁護を訴える声は軍・警察の暴力で押しつぶされているし、軍が扇動していると言われるマルクや中部スラウェシ州の「宗教対立」は、まったく出口が見えなくなってしまった。

援助によるしわ寄せ

 むしろ軍の統制がきかなくなっただけ、スハルト時代以上に深刻な人権侵害が起きているインドネシアを、相も変わらず援助しつづけるのが日本だ。10月17、18日、東京で第10回インドネシア支援国会議(CGI)が開かれた。9月はじめ、西ティモールで東ティモール避難民救援にあたっている国連職員が殺害されたのを受けて、今回のCGIの行方は注目されていた。世銀、アメリカ、ヨーロッパ諸国が、インドネシアの人権状況と援助を結びつけた発言をするなか、日本だけは「インドネシアの政治と経済問題は結びつけない」として、結局53.3億ドルの借款・贈与のうち15億8000万ドルを供与することを表明した(ちなみにアジア開銀が13億ドル、世銀が12億、アメリカが2.7億ドルとつづく)。

 もっとも53.3億ドルのほとんどが2000年度までの未執行分であり、新規援助は5〜6億ドルにすぎない。しかし公的・民間あわせて1500億ドルの対外債務を抱えるインドネシアの草の根の人びとにとって、新たな借款が出されるということは、さらに重荷が増えることにほかならない。1999年にユニセフが、「30年の間に、インドネシアの海外債務は1500億ドルを超えた。つまり毎年50億ドル払うことになる。もし毎年500万人の赤ん坊が生まれるとしたら、彼らはそれぞれ1000ドルの債務を背負っていることになるのである」という報告を出している。

 言い古されたことだが、スハルト政権が対外債務に依存して進めてきた開発は、決して草の根の人びとを利するものではなかった。開発の恩恵を受けたのは、スハルトやその取り巻きなど一部であり、その利権を守るため、スハルト政権は人びとに対してむき出しの暴力をふるった。貧富の格差の拡大、環境破壊、天然資源の搾取、強制的な土地収用などの問題も発生した。そのうえ人びとが債務返済という重荷を背負わされるということは、割が合わない話だ。

 いま、インドネシアでは反債務運動が盛んである。少なくとも、スハルトや取り巻きの懐に消えたと言われる(世銀自身も認めた)30%を帳消しにしてほしいという運動だ。公正で持続可能な発展を目指し、「債務の罠」から抜け出すため、その鎖を断ち切るよう求められている。

草の根の人々に役立つ援助を

 しかし、よくよく考えてみれば、インドネシア経済が停止し、債務が返済されなくなっていちばん困るのは、最大債権国の日本かもしれない。インドネシア経済が動いているよう見せかけるという、おのれの利害のために、日本はインドネシアを援助しつづけている。「債務の罠」に陥ったのは日本のほうなのかもしれない。でも、人権や民主化に配慮せず、日本の国益のためにインドネシアに援助をばらまいてきたのだし、援助でもうけてきた日本なのだから、それも自業自得なのだろう。

 別に援助を停止するよう訴えたいわけではない。真に人道的な援助は、政治と関係してはならない。援助がどのような使われ方をするのか、本当に草の根の人びとの役に立つのか、人権や環境などに配慮しているか、そういった当たり前のことを日本政府に考えてもらいたいし、そのためには、わたしたちが声を上げなくてはならないのだと思う。

注:インドネシア支援国会議(CGI)

 対インドネシア二国間援助及び国際金融機関援助をインドネシア政府と協議しつつ取り決めるインフォーマルな協議の場。

 今回は、日、米、加、英、仏、豪、アジア開発銀行、世界銀行、IMFなどの21カ国、11国際機関が参加し、 インドネシア側からは、経済財政産業担当調整相、蔵相などが出席。 決定額はインドネシアの2001年度の資金需要を満たしている。 なお、今回の出資決定額で2番めに多いアジア開発銀行の資金の約7割は日本からである。

(さえき なつこ・インドネシア民主化支援ネットワーク)
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韓国・早期景気回復の背景(2)

政権交代が切り開いた改革への道
五石 敬路

徹底した改革を望んだ韓国の世論

 経済危機からの回復は政治的・社会的な条件に依存するところが大きい。例えば80年代の中南米における経済改革の挫折は、通貨切り下げにともなう安価な工業製品の輸入によって打撃を被る都市部の工業セクターとそこに働く労働者に、政府が譲歩した結果であることがしばしばあったのである。今回のアジア危機では、タイは自身ビジネスを営む政治家の強い影響力のために、マレーシアはプミプトラ(マレー人)企業の保護のために、インドネシアはスハルト一族の利権のために、それぞれ改革が拒まれた。

 戦闘的な労働組合で知られる韓国の場合、改革が成功するかどうかは、当初から労使関係の動向によるところが非常に大きいと考えられていた。金大中は、大統領選挙に当選するやいなや労働組合・政府・経営者を同じテーブルにつかせ(「労使政委員会」の発足)、懸案だった一連の労働法改正の妥結に成功した。その後、ラディカルなナショナル・センターとして知られる民主労総は、98年6月に予定されていた第二次労使政委員会の開催にまつわることで政府と対立したが、ゼネスト直前に政府案の受け入れを決議し、労使政委員会への不参加表明を撤回した。こうした民主労総の歯切れの悪い動きの背景には、世論の風向きが労組に対して完全に逆風になっていたことが大きかったと言われる。つまり、徹底した改革の継続を望んだのは世論だったのである。

倹約ブームと国産品愛用運動

 この世論の動向を端的に示す例が、危機下の韓国を席巻した倹約ブームであった。

 韓国では「過消費亡国病」といわれる程、国民全体の奢侈性がよく問題にされる。韓国国民の多くは、三年前に韓国を襲った経済危機の原因がこの「過消費」にあると考え、その真摯な反省がじつに様々な社会現象を生んだ。「金集め運動」はそのよい例だが、この運動は、外貨準備高の不足に対処するために、国民一人一人が自分で所有する金をテレビ局なり銀行なりに寄付し、国のために役立てようとする国家的なキャンペーンであった。実際のところの効果はともかくも、「金集め運動」は韓国国民の一致団結力を十二分に示してくれた。そのほかにも、危機以降は「IMF商品」が店頭に登場するようになった。例えば、余計な機能を全て取り除いた実用的な家電製品がその代表的な例である。また「IMFパーマ」なるものもあるのだが、これはカールを短く強くかけたもので、なかなかパーマがとれず効率的なところから、この名前で呼ばれるようになった。このほか、ブランド人気の衰退、結婚式の簡略化(「IMFドレス」もでた)、慶弔費の節約、海外留学に対する非難(ほとんどは無駄だと決めつけられた)、海外旅行の自粛(新婚旅行は国内が増えた)など、様々である。

 しかし、じつは韓国の「過消費」説には実証的な根拠があまりない。韓国政府はこの「常識」を意図的に利用し、吹聴したふしがある。というのは危機直前の96年に、韓国は後に致命傷となる大幅な経常収支赤字を出したのだが、この原因を政府は国民が外国の消費財を輸入しすぎるためだと説明していた。実際これに呼応して、危機後の韓国では「国産品愛用運動」が実に広範に見られた。例えば、「コーヒーは飲まない運動」というのがあった。コーヒーは基本的に輸入品であるので、その代わりに国産茶を飲もうというのがその内容で、このおかげか緑茶や玄米茶等の伝統茶の消費量はこの間30%も増加した(一方で日本文化の輸入解禁に見られるように、閉鎖的なナショナリズムを否定し、外に開かれた社会を志向するようになったのも、危機後の韓国国民における顕著な変化と言える)。

金大中政権による率直な反省

 ところが、経済学的に考えれば、これは為替レートが割高に設定されているせいであって、要はレートを切り下げればよいというだけの話なのである。実際、政府高官の中にはこの点を建議したものもあったが、しかし当時の政府当局は様々な政治的思惑からこれをにべもなく切り捨ててしまった。つまり政策の失敗のつけを国民の生活に転嫁しようとしたのである。

 金大中政権は『経済白書』において、「為替レート切り下げと構造調整は無視したまま、そのような消費形態を罪悪視する社会運動及び政治的呼号によって問題を打開しようとする旧態依然の現象」があったとして、政策の誤りを素直に認めている。この率直な反省は、政権交代があったからこそ、なされたものである。

 これに対して日本で気になるのは、危機を招いた橋本政権の最大の問題が消費税アップをはじめとした緊縮財政政策であり、今年11月の内閣不信任案をめぐる政界の動きにおいてマスコミでもてはやされた加藤紘一が、当時は党幹事長の要職にあり、この政策を積極的に推進していたという点である。さらに、彼はなおも当時の政策は正しかったと強弁し、同じ主張を繰り返している。引き続く金融危機にもかかわらず、政権交代がなされない日本の民主主義における機能不全が、このような悲劇を招いた根本問題と言える。

(ごいし のりみち・アジア開発銀行研究所)
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北朝鮮拉致問題はなぜ重要なのか

〜「救う会」会員・原良一さんに聞く〜

 再開された日朝交渉において、日本政府は拉致問題の解決を第一に求めており、植民地支配に対する謝罪と賠償を要求する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府と対立している。また、日本政府が決定した50万トンのコメ支援に関しても、拉致問題を理由とした批判が集中した。拉致問題の解決は、日本の世論の最大の関心事となっている。

 そこで、北朝鮮の民主化を求める「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(RENK)の会員として活動する一方、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」(救う会)の運動にも参加している原良一さんに拉致問題について話を聞いた(なお、このインタビューでの発言はRENKや救う会の一員としてのものではなく、原さん個人としてのものです)。

拉致問題はなぜ優先課題なのか

――日朝交渉で対立点になっている「過去の清算が先か拉致問題の解決が先か」という問題について、原さんは拉致問題の解決を優先すべきだという意見ですね。その理由を聞かせてください。

原: 過去の清算は必要です。それも1965年の日韓条約に準じるのでなく、その見直しにもつながる充分な謝罪と補償をすべきです。

 しかし、それは基本的には過去の加害への事後処理なのに対し、拉致問題は現在も被害者の身柄が取られたままです。過去の清算を優先せよとは、パレスチナゲリラがハイジャック事件を起こしたときに「原因であるパレスチナ問題の解決を優先せよ」と主張するようなものです。

 一般市民にとって拉致問題は、過去に直接責任の無い「身近な隣人」が被害者であり、地域社会にも深刻な不安をもたらしています。それを棚上げにして国家のボス同士が談合して国交を結んでも、国民レベルでの信頼関係などできるわけがありません。

――日本政府が50万トンのコメ支援を決定したことについて、横田めぐみさんの両親が「拉致問題が解決されるまで食糧支援はすべきでない」と外務省に抗議しました。それに対し、国際政治学者の坂本義和氏が朝鮮総連の機関紙で「怒りを覚えた。自分の子どものことが気になるなら、食糧が不足している北朝鮮の子どもたちの苦境に心を痛め、援助を送るのが当然だ」とコメントしています。この問題についてどう考えますか。

原: 一般論としては援助はすべきです。しかし対北朝鮮援助には特殊な事情があります。援助活動は当局の監視と統制の下にあり、モニタリングも極めて限定されたものになっています。せっかく配った食糧が、当局によって「回収」されてしまうとの証言が多数あり、飢えた人々を救う効果より独裁政権を強化する副作用が上回っているのはほぼ確実、と私は考えます。現行の援助は「アウシュビッツへの援助物資をナチス党本部に送り届ける」のに等しい矛盾があります。

拉致問題と北朝鮮民主化

――原さんが所属しているRENKは北朝鮮の民主化を求めて活動していますが、民主化支援と拉致問題との関係を原さん自身はどう考えていますか。

原: 他国の主権を侵し、その一般市民を無差別に拉致することは最も悪質な国家犯罪です。そこに至るまでに朝鮮戦争の開戦責任や収容所など、国内での人権抑圧、韓国人の拉致などの犯罪を積み重ねていることを注視すべきです。そして諸悪の根源は金父子の独裁に帰結する以上、その打倒を目指すのは当然です。

 日本に限らず、どの国でも外国の人権問題は無視されがちですが、拉致問題では日本は不幸にも被害当事者であり無関心ではいられません。

――「救う会」の活動が右翼主導で行われていることについてはどう考えていますか。

原: 左翼が拉致問題を無視して取り組まないほうが問題なんです。右翼任せにしていれば運動に歪みが出てくるのは当然です。自らの怠慢と背信を棚に上げて左翼がそれをあげつらっても、国民の理解は得られません。

 私自身、つねにジレンマを感じています。北朝鮮批判の活動をしようとすると、思想・信条の全く異なる右翼・保守系団体・メディアと提携せざるをえません。主権侵害はともかく、一般市民への無差別な拉致という重大な国家犯罪に対して、世論の左半分が稼動していない現状を深く憂います。

――ありがとうございました。

参考:

(インタビュー・構成/小池 和彦)
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亜洲人声(13)

ジャーナリスト 青山 有香(あおやま ゆか)さん

 全国1千万人(?)の熱心なAWC通信の読者の方なら、青山有香さんの名前はご存知だと思う。彼女は今年の5月にAWCに入会して以来、ほぼ毎号にわたって積極的に東ティモールとインドネシア関連の記事を送り続けているからだ。

 その原動力は何なのか。どのような思いで取材活動をしているのだろうか・・・かねてから関心を持っていたところ、うまい具合にインタビューの依頼が舞い込んできたので、さっそく彼女に伺うことにした。

 埼玉県に生まれた青山さんは、小さいときから、できたらアメリカに留学したいという気持ちがあったと言う。念願かなって高校卒業後、オレゴン大学に学ぶことになった。在学中、彼女は学生としてだけでなく、東ティモール人権活動家としても自覚することになる。

 青山さんは、東ティモールにおける独立問題、インドネシアからの弾圧のことは以前から知識としては知っていた。だが、「幼すぎて何もしなかった」と言う。彼女が本当にアクションを起こし始めたのは大学2年のときである。

 彼女はそのとき、たまたまインドネシアの文化人類学の講義を取っていた。クラスの課題のためリサーチをしていたとき、東ティモールの本当のひどさを知り、衝撃を受けた。そして今まで知識としては知っていながら何もしてこなかった自分に罪悪感を覚えた。「私はその罪をあがなうためにアクションを始めたのです。あのころ、東ティモールのことなんて周りの人に聞いても誰も知らなかった。誰も関心をもってくれなかった。でも、それは一日前の私の姿だったのです」

 アクションするのは責任なのだ。そう考えた青山さんはたった一人で行動を始めた。署名活動をし、大学のロビーに東ティモール関係の資料を置き、彼の地の現状を知ってもらうために動き始めたのだ。東ティモールアクション・ネットワーク(ETAN)のメンバーにもなり、東ティモールの活動家を招き講演してもらう。彼女の活動は日本に帰って来てからも続いた。

 そう、青山さんはアクティビストなのだ。「私がジャーナリストを志すようになったののも、それが理由です」と青山さんは言う。「伝えることも活動なんですから、ジャーナリストもじつはアクティビストなんですよ」

 ジャーナリスト・青山有香が生まれたのも、この瞬間だった。以後、彼女はAWCに入り、原稿を掲載し続けるかたわら「アジアウエーブ」「週刊金曜日」などにも寄稿し続ける。インドネシアの人権活動家イエニ・ダマンヤティの治療のために日本での世話人の一人として奔走し、本紙の25号ではイエニとビルマ人の活動家チョウ・チョウ・アイを引き合わせる、という実験も試みている。

 青山さんが伝えたいのは、東ティモールの政治、社会情勢だけではなく、普通の人々のことでもある。「東ティモールの人々は強い。あれだけのことを経験をしながら・・・。そして、すばらしい笑顔をつくるんです。今の混乱に満ちた状況の中にも、人々の暮らしがある。私はそれを写真なんかで伝えたい」

 では、青山さんは東ティモールがどうなることを望むのだろうか。僕はこの質問を青山さんがアクティビストだからこそ聞くのだが―「今の東ティモールは目も当てられない状況です。でも、あれだけ苦労して来たのだから、いい国を作ってほしいんです。東ティモールは長い間外部に支配されてきたけど、これからは自分の力で立ち上がり、ものを言い、考える新国家を作ってほしいのです。私たち国際社会はそれをじゃましないで協力していかねばなりません」

 青山さんは、ちょっとしんみりしてこう語った。僕はただ、その言葉に聞き入っていた。

(杉岡 幸徳・フリーライター、AWC会員)
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編集後記

思っていたとおりKSDの古関氏自らが理事長を兼務していた中小企業国際人材育成事業団による「外国人技能実習制度」を利用した外国人研修生の受け入れ事業の大不正もマスコミによって明るみに出てきた。今月号で詳しく取り上げたが、この「外国人技能実習制度」(2月定例会報告参照)はとんでもない制度で、これを国家が認め、運営している。信じられないことだ。国が人身売買のブローカー行為を認めているようなものといっても過言ではない。本当に早くやめさせないと日本は国民ぐるみでとんでもないことをやっていると思われかねない(や)

『AWC通信』も発刊から3年めに突入しました。次号でのタイトル変更を機に、今後、読者の方々への情報提供という観点からより内容面での質的向上を目指すとともに、原稿を寄せていただく執筆者の方々にいかに寄稿によるメリットを感じていただけるか、その方法も探ってゆきたいと考えています。みなさまからのアイデアも、ぜひお待ちしております。また、タイトル変更と合わせて、ある企画も予定しています。ご期待ください。(し)

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月刊AWC通信2000年12月号(通巻第26号)
2000年11月25日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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