『AWC通信』2000年11月号(第25号)


目次


定例会報告

ノグンリ、それから

翻訳家 大畑正姫さん

 外信を注意深くチェックしておいでの方なら、1999年9月29日にAP通信が、ある奇妙なニュースを配信したのを憶えておられるだろう。題して『ノグンリの鉄道橋』。朝鮮戦争開始直後の1950年7月、アメリカ軍が韓国のノグンリという村の鉄道橋で、避難民を数百人集めて無差別殺人したというものである。犠牲者はほとんどが女性と子どもで、ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件にも匹敵するという。このニュースは大きな衝撃とともに迎えられ、すぐさまニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、日本の報道機関でも採り上げられた。だが、このAP報道の数年前から密かにこの事件を嗅ぎ付け、追い続けていた1人の韓国人ジャーナリストがいたのである。彼の名は呉ヨンホ。彼は既に1994年の時点でこの事件のことを知り、取材を続けていた。そしてその成果をAP通信の報道の直後、1999年10月に、本にして発表した。この書物は、近く日本でも翻訳出版される(『ノグンリ、それから』太田出版)。私たちは、この本の翻訳者である大畑正姫さんを招き、ノグンリ事件の意味、そしてこの事件が明らかになった今、韓国はどう変わりつつあるかを語っていただくことになった。

事件はいかにして立ち現れたか

p200011a.jpg

 ジャーナリスト・呉ヨンホは韓国の月刊誌『マル』の記者だった。彼は「韓国の中のアメリカ」というテーマで韓国でのアメリカ兵の犯罪を追っていた、「民族愛に燃える青年」でもあった。

 それは1994年5月のこと。彼は本屋で一冊の本を手に取った。それは『主よ、われらの痛みを知りたまえ』と題した小説だったが、彼はその内容に目を見張った。

 そこには米兵による虐殺事件のことが描かれていたのだが、それが極めて真実味があったのである。この著者・鄭殷容はすでに70歳を越えていて、これが初めての小説であるという。だが、初めての小説で、こんなに重いテーマを選ぶだろうか。もっと叙情的な作品も書けたはずではないか……。

 この「小説」は、真実ではないか。そう考えた呉は、数日後、この本の著者に会いに行った。予想は当たっていた。ここに描かれていた虐殺事件は実際に起こったものであり、著者の鄭殷容自身、この事件で自分の子どもを2人失っていたのである。

 6月2日。呉はソウル南東にある、ある小さな村を訪れた。そこで彼は、そこに架っている鉄道橋を視察した。ノグンリ。ここが虐殺の現場だった。そしてこのことが、この悲劇的な事件をふたたび明るみに出すきっかけになって行ったのである。事件からすでに、50年近くの月日が流れ去っていた。

ノグンリでなにが起こったのか

 それでは、ソウルの南東約160キロにある小さな村ノグンリで、1950年7月に何が起こったのか。

 その日、ノグンリ近くにいた韓国人避難民たちは、米兵により鉄道橋の上に集められた。すると、いきなり上空に戦闘機が近づいたかと思うと、避難民たちを機銃掃射し始めたのだ。

 彼らは橋の下に逃げ込んだ。その数は300人にも上ったが、米軍は攻撃の手を緩めなかった。避難民たちが、橋の下を流れる小川から水を飲もうとすると狙い撃ちされた。これには、避難民の中に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の兵士がいると米兵が疑っていたことと、報復の意味合いがあったのではないかと考えられている。この状況が3日も続いた。すべてが終わると、鉄道橋は死体に埋め尽くされていた。

AP報道の反響

 AP通信の電撃的な報道があった後、ペンタゴン筋ではその内容を否定していた。たとえばコーエン国防長官は「そのような主張を裏付ける根拠も資料もない」と言い、カルデラ陸軍長官は「朝鮮戦争当時の資料は混沌としている。そのような公文書はない。米兵が訓練不足だったことはあるかもしれないが」とあいまいな答えをした。だが、クリントン大統領が記者会見で、調査が必要かという問いに対して「その通りだ」と答えると、コーエン国防長官も一転して「徹底調査をしてほしい」と言いはじめた。アメリカNCC(教会協議会)のキャンベル事務局長は「徹底した真相究明、被害者に対する賠償を。事件を明らかにした米軍参戦兵士の勇気をたたえる」と発言し、朝鮮問題の研究で有名なブルース・カミングス教授は「真相究明を南北で行おう。このことは、朝鮮半島の統一にも寄与するだろう」と言っている。

 韓国側はどうだろうか。韓国国防省は初めは事件の存在を否定していた。だが、10月2日に金大中大統領は急転して「米国と協議しつつ韓米共同調査を」と発言した。

 また、5日にはルービン国務省長官も「韓国政府と緊密に協議し全容解明する」と言明し、ここにアメリカ政府も事件の本格調査に乗り出すことになったのである。

 11月2日にはアメリカは第三者による諮問機関を設置した。もうここにきて、アメリカもノグンリ事件を見過ごすことができなくなってきたのである。

 そして11月12日。事件の生存者4人が訪米し、虐殺の証言をした米兵と劇的な対面をした。彼らはその後、アメリカ国防省すらも訪れている。

 だが、事がそれほどすんなり運んだ訳ではない。その後、アメリカ側は調査報告書を韓国側になかなか明け渡そうとしなかった。それを受けて2000年4月に在米韓国人弁護団が「資料を出さなければ訴訟も辞さない」と訴えたこともあった。また5月にはアメリカの新聞“Stars and Stripes”が「AP報道に疑いがある」と主張した。これについては、AP側がすぐさま反撃している。

 このような反響をまきおこしながらも、このAP報道は2000年3月にジョージ・フォーク賞、4月にはピューリッツァー賞の言論部門・追跡報道賞を受賞しているのである。

ノグンリ、それから

 この劇的なノグンリ事件報道の後、次々とアメリカ軍による住民虐殺事件が明るみに出されていった。また、60年代にDMZ(非武装地帯)で韓国兵を使って枯葉剤を撒布させたり、漢江でホルムアルデヒドをたれ流したり、基地周辺で重油を流出させたりの在韓米軍の所業が明らかにされていった。

 そして2000年6月15日。韓国の金大中大統領が平壌を訪れた。歴史的な南北首脳会談である。これ以後、朝鮮半島情勢は劇的に変ったのである。それとともにタブーは解かれた。韓国でも、在韓米軍そのものの問題を真正面から問う声が大きくなり始めたのだ。たとえば、沖縄やプエルトリコのビエスケ島と連帯して、メヒャンリ(梅香里)のアメリカ軍射爆場の閉鎖を求める運動や、環境問題の観点から米軍基地の存在を問う動き、また不平等な韓米行政協定(SOFA)改定を求める運動が起こっている。

 また、「米軍虐殺蛮行真相究明を求める全民族特別調査委員会」も発足している。この「全民族」とは「南北朝鮮」ということだ。2001年6月にアメリカで、朝鮮戦争における米軍の犯罪を問う「戦争犯罪法廷」を開こう、という動きが沸き起こっているのである。このような情勢を受けて大畑さんは、「南北首脳会談以後、朝鮮半島における米軍の存在は大きなネックになっている。近い将来、彼らは一部撤退せざるを得ないだろう。そして、その道を切り開いたノグンリ事件は劇的な位置にある」と言う。

 さらに大畑さんが訴えるのはこういうことだ──こうした一連の動きからも、軍隊・基地・安保条約といったものの本質をみることができる。それは、いちばん被害を受けるのが女性と子どもということだ。女性にとって軍事は、一般的に縁遠い存在であるにもかかわらずである。だからこそ女性に軍隊の問題について関心を持ってもらいたい。そして人間が人間であり続けるために、戦争の問題を真っすぐ見つめていくことが必要だ、と。

 そしてそのことこそが、原著の副題が示す通り「20世紀の野蛮との訣別」へとつながっていくのであろう。

(杉岡 幸徳・フリーライター/AWC会員)
目次へ戻る

在日クルド人の5年間(後編)

いま、日本社会に求められているもの
西中誠一郎

日本政府の認識不足

 前編で述べたように、トルコでの迫害に加え、来日してからも、彼らが置かれた状況は、難民認定申請の過程ひとつとっても非常に厳しい。私は、「難民不認定処分」や「異議申し出却下」を取り消すための裁判を傍聴しているが、法務省や入国管理局側の準備書面を読む限り、まともに原告側の抗告に応じる気配はない。例えば、今年5月に提出された準備書面では、クルド難民申請者のことを「クルド系トルコ人」と記述し、内容もトルコにおけるクルド人問題の存在をはなから否定し、PKKの活動も「テロ行為」と決め付けている。また、「国際慣習法上、外国人の入国及び滞在の認否は、当該国家が自由に決し得るものであり、条約等の特別の取決めがない限り、国家は外国人の入国又は在留を許可する義務を負わないのである」と1978年、つまり日本が1981年に難民条約・議定書に加入し、現行の「出入国管理及び難民認定法」(入管法)が施行される以前に最高裁で出された判決を前提にして、「難民条約上の保護を与えるかどうかの判断は、各国の主権的判断にもとづいて決定すべき事項である」としている。

 つまり国側は、法的には、クルド難民の存在そのものを認めることも、難民条約に加入していながらその条約を守ることも念頭にないのだ。あるのは、トルコ政府に対する外交的な配慮だけである。これでは、たとえ「60日要件」の問題をクリアしたところで、クルド人の難民不認定が取り消される可能性はない。おそらく国としては、結束の固い世界中のクルド人コミュニティや日本のクルド人の動きを注視しながら、500人くらいの人数なら、騒がれないように取りあえず放っておこうと考えているとしか思えないのだ。

 たしかに、クルド人の政治状況の変化に対する動きは敏感である。年3回の集会をはじめ、1999年2月にPKKのオジャラン議長が逮捕されたときや、死刑判決が出たり、健康状態の悪化が伝えられたときには、世界のクルド人コミュニティと連動してデモを企画している。彼ら自身の意思に基づく示威行動が許可されること自体は歓迎すべきことだが、それを理由に「テロ組織」であるとか、「難民性を判断しない」というのでは、時代に逆行する。現にヨーロッパ諸国では、オジャラン氏の死刑判決が出てから、死刑執行に執拗な反対の声が上がるのと同時に、トルコ政府ですらEU加盟をにらんで、国内のクルド問題への取り組みの必要性を認め始めている。オジャラン氏も、90年代後半に入ってからは、クルド人問題の武力によらない政治的解決に向けて、トルコ政府や欧州諸国に対して、活発に働きかけてきた。

 8月末に約半年間のクルディスタンや、イスタンブール、そしてモスクワ滞在を終えて日本に帰国したあるクルド人の友人(彼には在留資格がある)の話しでは、この数ヶ月の間に、オジャラン氏の処遇は改善され、トルコ政府がクルド語による学校教育や、クルド語放送も認める方向で動いているという。また、PKKゲリラとトルコ軍との衝突が激減したために、故郷の町も街並みが整備され、商売にいそしむ人も増えて、夜遅くまで、コーヒーショップやインターネットカフェに出入りする人が絶えないという。その一方で、8月中旬には、トルコ軍が国境を越境してイラク側のクルド人村を空爆したり、PKKゲリラを殺害したというニュースも伝わってきた。

日常生活の中で感じる不安

 正直なところ、5、6年にわたって日本で生活しているクルド人たちは、故郷に帰れるかどうか、判断がつきかねているのだと思う。日本での活動や、難民申請していることは、トルコ大使館やトルコへ帰国後に刑務所に拘留された人たちの押収資料を通じて筒抜けであろうし、帰国することで本人や家族に迫害が及ばないとも限らない。その一方で、何の援助も在留資格もないままに、肉体労働や工場勤務に明け暮れる日本での生活にも、そろそろ耐えられなくなってきている。「難民制度」に対する認知度も、警察や公共機関を含めて非常に低い。パスポートやビザをめぐるトラブルが頻発する。またオーバーステイの外国人が一般的に直面する、低賃金労働や労災、健康保険の問題なども、絶えず日常生活について回る。親戚や恋人を呼び寄せようとした人もいるが、多くの人が日本の空港で入国拒否された。一方で、ヨーロッパやオーストラリアに難民申請した彼らの親戚や友人は、短期間のうちに次々に難民認定を受けている。またヨーロッパのクルド人放送局から電話取材を受けて、「日本は経済的に豊かで難民の数も少ないのに、何で難民認定を受けられないのですか」と質問されることもある。まだ体力的にも、精神的にも若い在日クルド難民たちだが、彼らの忍耐も限界に達している。

 「難民制度」や「入管行政」の改善は早急に必要だが、生身の人間にとっては、現状をどう生き抜いていくのかが最も切実な問題としてあるだろう。日常生活の至る所にはりめぐらされた排他的な制度を基調にした日本社会の中で、「難民」や「不法滞在者」、「在日外国人」などについて、もっと根本的で広範な議論を深めていく必要性を強く感じる。

(にしなか せいいちろう/ビデオ製作・フリーライター)

参考文献:

目次へ戻る

韓国・早期景気回復の背景(1)

韓国と日本における改革の速度
五石 敬路

改革の速度が遅い日本

 経済危機に至る過程から危機からの回復の速度を表す表現として、「U字型」と「V字型」という言葉がある。「U字型」は底が丸くなだらかになっていることから、危機からの回復が遅い状態を一般に指している。1980年代前半のチリや世界大恐慌時(1930年代)のアメリカがそうだった。これに対して「V字型」は危機からの回復が非常に速い状態を指しているが、1995年のメキシコ経済が典型的に当てはまる。では、日本はどれにあてはまるかと言えば、実はどれでもないらしい。「国際通貨基金(IMF)」は、1990年代の日本経済を「L字型」だとしている。ちょっと寝そべった感じの「L」である。つまり、経済はなだらかに下降していって、だいぶ先の方になってようやく曲がり角をむかえる。

 チリにしてもアメリカにしてもメキシコにしても、経済が深刻な不況に突入してからおおよそ2〜3年後にドラスティックな改革が実施されている。日本は既に91年頃から深刻さが増してきているが、こうした国際的な経験則にならえば、日本では93年か94年頃に不良債権に対する抜本的な処理策が出されていてもおかしくなかったということになる。また、こうした改革が政権交代にともない実施されることが多いことを考えると、私は、まさに93年の夏に発足した細川連立政権がこれを担うべきだったのではないかという思いにぶちあたる。しかし、連立政権の最優先課題は政治改革であったのであって、不良債権問題は二の次であったし、当時の国民はそれを期待していなかった。

 97年11月には名だたる金融機関がばたばと倒れていったが、このように危機が全面化する以前までは、不良債権処理の問題が騒がれながらも、国民も自分たちがそれほどの深刻な状況にあるとは実感していなかったと私は思う。実際、92年8月30日に、当時の宮沢首相は不良債権処理への公的支援を示唆しているが、彼はこのとき、マスコミの総スカンを食っている。結局、98年10月には60兆円もの公的資金枠が設定されたが、これは国家予算の6〜7割という巨額である。処理が迅速であればこれほどにはならなかったに違いない。なぜ日本の改革の速度は遅いのか。

金大中政権後の韓国

 私は97年の年末から一年半ほど韓国にいたが、当時の韓国もまさにパニックの真っ只中にあった。危機に至るまでの韓国では、金泳三政権は見るも無惨なレイム・ダック状態にあった。また、韓国政府内の一部機関は危機が生じる可能性を早くから把握していたにもかかわらず、実際に金泳三大統領が危機を認識したのは、じつにIMFに緊急融資を要請する直前の97年11月になってからという証言が多くなされている。この点は側近が悪かったのか、それとも大統領自身が何か勘違いしていたのかはっきりとしないが、ともあれ当時の韓国政府が機能不全に陥っていたことは確かである。

 ところが、同年の12月18日に実施された大統領選挙で金大中が選ばれてから、韓国は変わった。しばらく韓国経済は不安定な状況にあり続けたものの、98年に年間-.8%であったGDP成長率が、99年には10.7%を記録したのである。金大中政権の特徴は、何よりも彼が死刑宣告まで受けた民主化の闘士であり、そのため改革に対する国民の広範な支持を集めることに成功した点にある。実際、今回の危機において、96年末から97年始めに起きた2大ナショナル・センターの労働争議が金泳三政権の弱体化を促進したという事情があったのに対し、金大中政権以降は労働争議が全国化、あるいは長期化することは結局なかった。そして、そのことが外資による直接投資の急増の背景ともなった。これは、ひとえに世論の労組への反発が予想以上に激しかったことと、労組の改革への協力(無論様々な条件付きであったにしろ)があった点によっている。

 もっとも、現在も韓国は危機から脱出したわけではない。解体された大宇財閥の処分問題や、現代財閥等の一部大手企業に経営破綻の懸念が浮上してきており、今後の韓国経済を担うと期待されたベンチャー企業も今年に入ってバブルがはじけてしまった。韓国政府は今年末にかけて、経営不振企業の退出や銀行の統廃合といった、さらにドラスティックな改革案を出してくることになっている。

 こうした紆余曲折を経ながらも、私はやはり今の韓国における変化のスピードはすごいと思う。韓国のドラステイックな変化は、何も政府の政策だけではない。国民の意識変化のスピードも目を見張るものがあった。私は、韓国のこれまでの改革の成功は、こうした国民自身の変化に支えられたものが大きいと考えている。この点について、次号で紹介したい。

(ごいし のりみち・アジア開発銀行研究所)
目次へ戻る

ビルマ民主化のために何ができるか

〜人権活動家の対談〜
チョウ・チョウ・アイ(ビルマ) vs イエニ・ダマヤンティ(インドネシア)

 ビルマ出身のチョウ・チョウ・アイさん(ビルマ女性連盟)は、1988年に起きたデモ弾圧事件(※)の後、騒乱を逃れ来日した。そして現在は、日本でビルマの民主化や人権問題に関する活動を続けている。

p200011b.jpg

 一方、インドネシア出身のイエニ・ダマヤンティさんは、ジャカルタにある東ティモール支援組織ソリダモールのリーダーであり、長い間にわたり、東ティモールやインドネシアの民主化のために活動してきた。現在は、ケガの治療のために来日し(本紙9月号参照)、療養生活を送っている。

 対談は9月に、イエニ・ダマヤンティさんの入院先、国立リハビリテーションセンター(埼玉県所沢市)で行われた。2人は、ビルマの民主化のために何をすべきか、どのような方法があるかについて語り合った。その様子をお伝えする。

※88年8月8日から9月18日までビルマ全土で、当時の軍事政権SLORC(国家平和発展委員会)とネ・ウイン首相に対し、民主化を求める人々がデモを起こした。デモは軍により鎮圧され、約6,000人の死者が出た。

ビルマ政府とインドネシア政府

イエニ・ダマヤンティ(以下イ):日本にはいついらしたんですか。

チョウ・チョウ・アイ(以下チ):88年です。

イ:88年? じゃ、あの蜂起の後にですか。

チ:そうです。あの後、騒乱を逃れ、多くのビルマ人同胞とともに日本へ来ました。

イ:日本には現在、何人のビルマ人がいますか。

チ:6,000〜7,000人です。

イ:そんなにいるんですか! その人たちも、ビルマ民主化のために働いてるんですか。

チ:はい。日本政府にビルマ民主化を支援するようロビー活動をしたり、集会やデモを行っています。

イ:活動的ですね。インドネシアでも、ビルマ問題に多くの人々が関心を持ち始めています。私のグループ、ソリダモールもビルマ民主化支援プロジェクトを始めました。ビルマの現状についてのアドボカシーや、民衆に対する人権侵害をやめるようにSPDC(国家平安回復評議会。現ビルマ政府)に忠告するよう、インドネシア政府に対してロビー活動をしています。

チ:どうもありがとうございます。

イ:インドネシアには、ビルマの人権問題解決のために働く責任があると思います。なぜなら、スハルト元大統領政権やインドネシア国軍は、ビルマ軍に対して軍事ノウハウや訓練を与えました。そして、それがビルマ軍の民衆に対する人権侵害に拍車をかけたのです。また、インドネシアは、88年にビルマのASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟を支持しました。まさに、軍事政権下のビルマを「弟」のように育ててきたのが「兄」のインドネシアなのです。ですから、インドネシア人である私たちは、ビルマ民主化のために働く義務があります。

チ:ありがとうございます。とても心強いです。おっしゃるとおり、インドネシアとビルマの民衆が協働することはとても大切です。ASEANという「屋根」の下、この両国は、国内でそれぞれ多大な人権侵害のケースを生じさせているにも関わらず、発展してきました。まさに兄弟のように。

国際社会から支援をどう得るか

イ:私は、ASEANを「東南アジア独裁政権連合」と呼ぶんです(笑)

チ:まさにそのとおりですね(笑)。ASEANの中でインドネシアは、あらゆる面で大きな位置を占めています。そして、ビルマもだんだんとそうなってきました。でも私は、ビルマ軍はある意味でインドネシア国軍より悪質なのではないかと思います。なぜなら、ビルマ軍はいとも簡単に民衆を射殺します。インドネシア国軍よりも民衆に発砲する率は高いのではないのでしょうか。また、それをとめる社会制度もビルマにはないですね。

イ:確かにビルマ軍は、私たちインドネシア人にとっても恐ろしいものです。インドネシア国軍は、法律上は、民衆への発砲を禁じられています。また、国軍は国際社会にどう思われるか、いつも気にしています。なぜなら、インドネシア経済は国際市場経済に開放されているので、諸外国の感情がインドネシアの国益に多大な影響を及ぼすからです。一方、ビルマ経済はまだまだ閉鎖的です。ですので、ビルマ軍はより容易に人権侵害ができるのでしょう。

チ:私たちビルマ人民には、国際社会からの支援が必要です。

イ:ビルマに大きな影響力をもつ米国と日本に協力を求めましょう。米国がSPDCに対して人権侵害をやめるよう政治的圧力をかけて、日本が対ビルマ投資を中止するよう、日本政府にロビー活動する必要があります。

チ:それは、とてもいい考えですね。日米、そして諸外国政府がビルマ民主化のために強いアクションをとってくれれば、とても効果的だと思います。同様に、ASEANに対してもSPDCとの関係を見直すように各国が要請してくれるといいですね。

イ:まったく同感です。私たちみんなで協力して、ASEANの政策を変える必要がありますね。それには、SPDCと緊密関係にあるマレーシア政府に強くロビーしなければならないですね。ビルマの民主化を妨げる存在となっているマハティール氏に対し、対抗勢力のアンワル氏とともにアンチテーゼを出すとか。

チ:アンワル氏とともにマハティール氏に働きかけるというのは、とてもいい考えですね。マハティール氏のほか、UNHRC(国連人権委員会)のビルマ担当官も、たしかビルマ人だったと思います。UNHRCに対してビルマ問題についてアピールしていくことも効果があるでしょう。

イ:マハティール氏とUNHRC。この2者はこれからのロビー活動の主な対象にします。ところで、フィリピンとSPDCの関係はいかがですか。フィリピンはビルマ民主化に協力するでしょうか。

チ:そう思います。フィリピンはASEANの中でもっとも民主的な国家ですしね。

イ:フィリピンはビルマのASEAN加盟に同意しなかったんですよね。フィリピンがASEANの長になれるように、私たちインドネシア人は支援する必要があります。

チ:ビルマ人もね。タイの人たちも協力してくれるでしょう。「オルタナティヴ・ASEAN」という、タイを拠点にしたNGOがあります。タイやASEAN国家出身の活動家たちがビルマ民主化のために働いています。彼らと協力するのもいいですね。

イ:それはいい考えですね。インドネシアにはコフィファ氏がいます。彼女は、インドネシア女性問題の大臣で、とても優れた活動家でもあります。彼女はワヒド大統領とも親しいので、彼女と一緒にワヒド氏にビルマ民主化を支援するよう提言するのもいいでしょう。

チ:アウン・サン・スーチー氏も、協力するといいですね。

イ:「ビルマ民主化のための女性連帯」ですね。全世界で、女性活動家は人権を守るためとても重要な役割を果たしています。私たちができることは、政府へロビーし、メディアに軍政の横暴を報告させたり、国際的に反軍事独裁キャンペーンをしたりと、たくさんあります。これからも、いっしょにビルマの民主化へ向けて闘っていきましょう。よろしくお願いしますね。

チ:ぜひ、そうしたいです。これからもよろしくお願いいたします。

(聞き手・構成/青山 有香・ジャーナリスト)
目次へ戻る

緊急集会「日朝交渉と北朝鮮の人権」

 9月16日、北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の主催により「日朝交渉と北朝鮮の人権」と題する集会が都内で開かれた。南北会談や日朝交渉によって和解ムードが広がる中、あらためて北朝鮮の人権問題に注目することを呼びかける趣旨からのものだ。

 最初に報告した萩原遼氏は、アメリカのウィリアム・ペリー北朝鮮政策調整官が提出した「ペリー報告」を読み、米朝対決の時代の終わりを感じたという。そして、北朝鮮との対決よりも対話を志向するペリー路線はたとえ政権が共和党に移ろうとも今後十年変わらないだろう、次の焦点は南北関係と日朝関係だ、と予測した。

 1994年にアメリカは核疑惑に関して戦争を決断する寸前まで行った。しかしそこで分かったのが、戦争が起これば在韓米軍が全滅に近い被害を受けるだろうということだった。その予測がペリー報告につながり、現在の状況につながっている。

 この観点から見ると、南北会談はそれほど画期的な事件ではない。字面だけ見れば今回の共同宣言より1991年の南北合意書のほうが踏み込んだ内容になっていて、軍事条項まで入っていたという歴史もある。「画期的だと言えるのは金正日が一万人規模での離散家族再会を認めた時だ」と萩原氏は指摘する。それも8月のときのように一箇所に集めて会わせるのではなく、南北の自由な往来を認める形で実現すれば、北朝鮮は本当に変わったと言える。しかし、一万人規模の離散家族が往来し、北朝鮮の人民に豊かな南の現実が知られることを金正日は最も恐れている。

 次に川島高峰氏がフランスの人道支援団体「反飢餓行動」(Action Contre la Faim, ACF)が北朝鮮での人道支援活動から撤退した問題について報告した。

 本誌7月号でも紹介した通り、反飢餓行動は北朝鮮当局により援助活動が阻害されていると判断して北朝鮮から撤退し、援助の具体的状況についての報告書を発表した。川島氏はこの報告書を詳細に分析した上で、北朝鮮への食糧援助に欠けているのは受益者との直接接触であり、撤退はやむをえない決断だった、と評価した。

 北朝鮮への食糧支援は民主化を促進するのか。この点について、川島氏は戦争直後の日本の例を紹介した。アメリカの調査団が戦略爆撃の効果について日本人に調査したところ、爆撃自体よりもそれと同時に撒かれたビラのほうが効果があったことが分かったという。ある人が拾ったビラを母に見せたところ、母は「アメリカは世界中の原料をすべて持っているに違いない。ビラにこんな立派な紙を使っているなんて」と驚いた。このように、モノに付随した情報は人間の認識を変えることができる。ただし、北朝鮮の場合は支援物資が届いているかどうかを確認するモニタリングが強く規制されるため、民主化と両立する食糧支援は難しい。

 三番目には北朝鮮から脱出して日本に来た金龍華氏が発言した。

 金氏は1988年、運行を管理していた平壌行きの列車を数時間止めたことの責任を問われた。「金日成に心配をかけた」という理由だ。強制収容所送りを確信した金氏は家族にも告げずに北朝鮮から脱出し、中国へ逃れた。

 中国では公安の目を避けながら生活していたが、1995年に小さな船で韓国に密入国し、亡命を申請した。ところが中国で賄賂を使って偽造した住民登録証がアダとなり、数年にわたる裁判の結果、結局は中国へ送還されることになってしまった。中国へ送還されればさらに北朝鮮へと送還され、極刑が待っている。

 1998年、金氏は韓国から脱出して日本へ渡ったが、不法入国者として逮捕され、やはり中国への強制送還命令が下された。金氏はその取り消しを求めて訴訟を起こし、現在も裁判を続けている。今年の3月には仮放免が認められた。

 金氏はこのような経緯を語った後、「韓国では『死ね』という結論を下されたが、日本に来てそれが変わり、感謝している」と述べた。

 四人目として、谷川透氏が日朝国交交渉で討議されている戦後補償問題について解説した。

 従軍慰安婦問題に関し、北朝鮮側は被害者個人への補償ではなく国家への謝罪と補償を求めている。「個人補償を求めている人は我が国にはいない」という。これに対し、谷川氏は「従軍慰安婦のような問題は個人補償が適当だ」と北朝鮮側の姿勢に懸念を示した。ドイツはベルリンの壁が崩れるまでは西ヨーロッパの国々に対してしか補償をしておらず、東ヨーロッパに関しては戦争の被害者が自由に意見を主張できるようになってから補償を始めている。

 集会の最後には、9月に第三回目として実施された日本人妻の里帰りに関する「守る会」の声明文が読み上げられた。五、六千人と言われる日本人妻のうち、里帰りできたのは数十名にすぎず、しかも里帰りの再開がそれ自身の必要性によってではなくコメ支援や国交交渉との取引によって進められていることを批判するものだ。

小池 和彦
目次へ戻る
友好団体紹介(11)

RINK(すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク)

−木村雄二さんに聞く−

活動の2つの柱

 「5年前までは会社勤めでした。仕事中、喫茶店に行くとごまかして、タイ人の相談にのったりしていましたねぇ。でも、活動の時間が足りなくなってきて、とうとう会社を辞めてしまいました」

 木村雄二さん。その名前は大阪府や和歌山県のタイ人によく知られている。彼の携帯電話番号は「困ったら木村さんへ!」と各地のタイレストランに掲示され、「はじめまして」と面識のないタイ人からの相談電話を受ける毎日だ。

 その彼が所属しているのがRINK(すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク)である。1991年8月に設立された、老舗の外国人支援ネットワークだ。外国人の人権擁護に特化し、加入メンバーは約300人。さまざまな問題に対応するため、法律、労働、医療など11の専門部会を持ち、外国人の相談への対応と行政交渉の2つを中心的に行ってきた。

 日常の相談活動では、事務局を中心に10人前後が対応している。労働災害、賃金未払い、国際結婚など事務局を通じて、または直接、事務局員に毎週約20件、年間でのべ1000件近い相談を受ける。他の事務局員も、木村さんのように、外国人コミュニティ内での知名度は抜群に高い。全員、無給だが、各自単独で問題に対処できる経験と知識を有する人々だ。RINKスタッフの専門性を頼りに、複雑なケースが他団体経由で回ってくることもある。

 行政交渉はもう1つの重要な活動だ。大阪府・市、入国管理局、法務省などへの交渉の中で、法律・制度の不備や運用、収監条件の粗悪さなどを訴えている。「個々の支援活動だけではもぐら叩きでしかない。問題発生の根底にある要因を改善する必要がある」。日本は国際人権規約の批准国。国際法は国内法より法的格付けが上だが、現場では、規約通り運用されていないのが実情だという。このほかに、在外公館や各団体との連携、Migrant Minority Festival、執筆活動などを手がけている。

 木村さんはRINKに加わる以前、殺人容疑のかけられたタイ人を支援するグループの代表だった。「ろくな法廷通訳がいないため、本人や裁判官、検事の発言が正確に通訳されず、一方的な裁判が進んでいた。無条件に外国人を擁護する訳ではない。しかし日本人と同じ条件で裁かれるべき。外国人であるがゆえに不利益を受けるのはおかしい」との思いを強くした。その後、RINKのメンバーとして継続的にタイ人への支援を継続。長年の功績はタイ政府にも高い評価を受け、昨年、20万バーツ(約60万円)の支援金がRINKに寄付された。

定住化進行への対応

 1980年初頭、100万人強だったアジア地域の移住労働者は、今や600万人を突破し、日本でも年々増加する外国人。外国人登録者数150万人のうち、在日韓国・朝鮮人は、とうに半数を割った。「人の流れは世界的な潮流。経済格差のある限り、その流れは止められない」。関西の空の玄関口、関西国際空港で、バッグの中に隠れたり、スチュワーデスに偽装し捕まったケースに出会ったこともある。タイと日本の初任給の格差は、首都バンコクで5倍〜10倍、地方ではさらに広がる。「日本も1960年代までは人の送り出し国だった。国籍、民族、在留資格を理由に人権を無視していいはずはない」。政府は、バブル期の労働力不足解消の手段として恣意的に超過滞在を黙認してきた。さらに、おもに中南米諸国から日系人を受け入れる政策を採った。「外国人は職を奪う」「治安の不安定要因」など、昨今の外国人排斥の言説に便乗し、外国人受け入れや定住化を阻む今の政府の態度は、都合がよすぎると木村さんは言う。

 現在、大阪府で出生する子どもの14人に1人が外国人の親を持つ。「ここ10年で、定住化は確実に進んでいる。仕事に就き、家族を形成する人が増えれば、定住化が進むのは当たり前。出産、子育て、教育、社会保障、そして外国人である限り当然ついて回る在留資格の問題は避けられない」。聞き慣れた「国際化」という言葉。海外への企業進出、留学などおもに国家間、文化交流に使われてきた。だが今日では、外国人の定住化という内なる住民レベルの国際化が進行している。そして定住化にともない、外国人は俗に「3カベ」と呼ばれる言語の壁、制度の壁、心の壁に直面する。外国籍「住民」に対して、日本人「住民」と同じレベルの生活をいかに保障するか。政府・自治体の政策が後手に回るなか、RINKはその先頭を走り続ける。

(インタビュー・構成./於勢知之・AWC会員)
目次へ戻る

編集後記

1年5ヵ月にわたって『ROJIN』5号の広告を掲載してきたましたが、この号で最後とします。購読者、執筆者、フォトグラファー、取材に応じていただいた方々など多方面にご迷惑をおかけしている状態であることは肝に銘じております。少しでも早く本紙に6号の広告を掲載できるよう精進します。さて本紙次号では、そのスペースに入るであろうお知らせにご注目ください(し)

ケーエスディー中小企業経営者福祉事業団が、様々な背任行為で世間を騒がしている。現在の報道では、KSDの代表者の背任行為や政官界との癒着構造がとりざたされているが、もう一つ重要なことがまだ世の中には発表されていない。それは、KSDの関連団体が外国人実習生・研修生制度を利用した事業を行っていることだ。(本誌4月号の定例会報告参照)A・W・Cにはこの問題を追いかけているフリーランスが数名いて、外国人労働者のがらみの話題では、かなり以前から論じられてきた有名な話だった。この件に関してもかなりとんでもない構造になっているので、来月号に特別報道する。(や)

目次へ戻る
月刊AWC通信2000年11月号(通巻第25号)
2000年10月28日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

トップページへ