『AWC通信』2000年10月号(第24号)


目次


定例会報告

フィジー・多民族国家の相貌 〜民族対立報道の検証

難民支援協会スタッフ 金田 崇さん

 南太平洋島嶼国のひとつであるフィジーは、その海の美しさから日本の、とくに若い世代の観光客を魅了している。新婚旅行の行き先としても人気がある。

 しかし、そんなリゾートのイメージで語られるフィジーが、いったいどういう国なのかはあまり知られていない。武装集団によるクーデター騒ぎが起こる国、先住フィジアン、インド系を中心として幾つかの民族がともに暮らしている国、フィジーと聞いてそんなことを思い浮かべる者は稀であろう。

 フィジーに、日本語教師として、また村に行って家を建てるNGOの一員として1年4ヶ月滞在した金田崇さんに、報道される「民族対立」の背景をはじめとして、フィジーの実状を話していただいた。文化人類学や民族学に造詣の深い金田さんの話は多岐に及んだ。

最新の技術と伝統が見事に同居

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 フィジー諸島共和国は300ほどの島からなる島嶼国で、人口のほとんどをフィジー系(51.0%)、インド系(43.2%)が占める多民族国家である。とくに首都のスヴァは他の島嶼国からの出稼ぎが多く、「民族の坩堝(るつぼ)」といった様相を帯びているという。

 主要な産業は砂糖生産と観光であり、周辺の南太平洋島嶼国のなかでも豊かな国である。南太平洋委員会の本部も置かれ、地域では影響力が強い。

 フィジーに暮らした印象として金田さんは、「最新の技術と伝統的な生活が見事に同居している」という。

 都市で、国連の職員など西欧的な価値観のなかで仕事をしている者が、30分バスに乗るとまったく違う世界に帰ることになる。何を達成したかで評価される世界から、ひとり突出することがかえって評判を落とすことになる村社会に帰っていくのだ。もっと判りやすくいえば、仕事場ではインターネットにEメール、村には電気もガスもないといった暮らしぶりなのである。そんな「両極端の世界」が同居し、うまく対応しているところに感動を覚えた、と金田さんは振り返った。

フィジーの土地制度

 フィジーの土地制度は、英国の間接統治時代にフィジーの伝統的な土地制度を簡略化して制度化された。

 まず、ネイティブ・ランドと呼ばれる先住フィジー民族所有の土地が国土の83%に及ぶ。これは個人が所有するわけではなく、マタンガリと呼ばれる氏族に属することになる。

 国土の10%を占めるフリーホールド・ランドは英国植民地時代以前にヨーロッパ人が購入した土地で、現在ではその大部分がインド系所有の土地となっている。これに政府保有地などが加わり、フィジーの国土は形成されている。

 人口比を考えると、先住フィジアン所有の土地が83%と、土地利用に関してはインド系に比べ圧倒的優位に立っているように見えるが、そうはいえない現実がある。島国であることや、国土のほとんどが熱帯雨林のジャングルであるフィジーでは、場所によって土地の利用価値が大きく異なることになるのだ。375万エーカーのネイティブ・ランドのうち、200万エーカーはアクセスが不可能な土地であったり、熱帯雨林のジャングルであったり、いわば何も産み出さない土地なのである。現金収入につながる耕作地は、80万エーカーほどしかない。

 対してインド系が所有する土地は、海沿いの平地など利用価値の高い、いわば一等地が多い。

 フィジーでは「常に土地問題が議論の争点」だと金田さんはいう。人口増加によって土地を持たない人口も増えている。また、先住フィジアンの乏しい利用価値の高い土地が氏族内で細分化され、その土地から得られる収入だけでは一家が暮らしていけないことも多く、その結果、都市に出稼ぎに出ることを強いられる。

 こうした現実に、とくに若者の間では恒常的な不満が募っているようだ。出稼ぎ先で、酒や薬物に溺れる者も少なくないという。そんな先住フィジアンの若者の不満を「誰かが掬いあげたらすぐに暴力行為につながるんじゃないかという思いはある」と金田さんはいう。

フィジーのインド人

 フィジーへのインド人の大量移入は、植民地時代のプランテーション経営に労働者としてインド人を導入したことから始まる。1879年から導入されたインデンチャーと呼ばれる年期契約奉公制度は、インド人をサトウキビ農園の労働者としてフィジーに連れてきたもので、1916年まで続いた。インド人は5年契約で働き、さらに5年働けば帰国の旅費を支給され、またフィジーに定着する権利を得るという条件のもとにフィジーに渡った。インデンチャー時代、およそ6万人のインド人がフィジーに移り住み、60%が残留の道を選んだという。

 国際社会において、この頃のフィジーの評判は芳しくない。現地人の労働者をインド人労働者よりも優遇する政策は、英国の植民地ではどこでもあったことのようだが、とくにフィジーにおいては、インド人労働者の処遇はインド人に苦力(クーリー)、単なる労働力としてのイメージを据え付けるようなものであったという。

 クーデター騒ぎの報道では先住フィジアンとインド系とのもともとからの対立が露呈したと書かれることが多いが、インデンチャー時代が終わる頃までには、目立った対立は記録されていない。むしろ、もともとの対立は主従関係にあったヨーロッパ人とインド人にあった。ここが「意外に見逃されがち」だと、金田さんはいう。

 そんな主従関係の打開を計ったインド人の動きが20年代以降には活発になる。インデンチャー制度の撤廃要求をはじめとして、教育環境の整備などインド人の権利を主張する動きが見られるようになる。

 その動きにともなって、インド人労働者のストライキが頻発するようになる。こうしたインド人のストライキへの対策の過程でヨーロッパ人と先住フィジアンの関係が強化されたという側面もあるようだ。また、「インド人は信用できない」というイメージも生まれた。

 インド人社会の多様化もこの頃から始まった。それまで、フィジーに暮らすインド人のほとんどはインデンチャー時代に労働者として渡ってきた者ばかりであった。それが1920年代になると、フィジー国内でそれなりの人口を占めていたインド人労働者を対象にした商売を目論むインド人がフィジーにやって来ることになる。それまでとは違い、出稼ぎ慣れした、出身地、信仰を異にするさまざまな「インド人」たちがフィジーにやって来ることになったのだ。その結果、「インド系」もひじょうに多様化することとなった。

 「こうしたインド人とサトウキビ農園の子孫を一緒に考えて、フィジーではインド系の人々が経済を握っていると考えるとちょっと短絡的ではないか」と、金田さんはいう。

 

クーデター騒ぎの背景

 今回のクーデターは、長年のインド系と先住フィジアンの民族的確執が噴出したものであると報道されることが多い。しかし、金田さんは異なった見方を示す。「パワーをもった人たちのパワー配分」といった要素が今回のクーデターの背景にあると金田さんはいう。

 フィジー人は既得権益に強く固執する性格が強いという印象を、金田さんは感じている。土地制度に関しても、地代の収入を得られる者と得られない者の確執には並々ならないものがあるという。

 クーデターの首謀者スペイト氏は「フィジーの先住民のために文民クーデターを実行した」と演説した。スペイト氏は、これまで「タウケイ運動」と呼ばれる先住民運動に一度たりとも関わった実績はない。それでも「フィジー人の利益を代表している」と発言するとその理念に先住フィジアンの心が「持っていかれる」現実がある。そんな民族間の心情は深刻な問題だとしながらも、「スヴァのような都会で、インド系の学校、先住フィジアンの学校といったように棲み分けがしっかりとしているところに行くと民族対立は深刻なんじゃないかと思う。けれど、離島や田舎に行けば必ずしもそうじゃない、ってところが見えてくる」と、フィジー滞在からの印象を付け加えた。田舎に行けば、インド系と先住フィジアンの通婚も珍しいことではないという。

 土地問題、インド人移入の経緯と詳細に語られ、そんな印象で締めくくられた金田さんの話は「民族対立に揺れる島」フィジーを見る新たな視点を与えてくれる。

(山本 浩・フリーライター)
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西ティモールでの併合派民兵たち

〜いまだ突破口の見えない「和解」〜
青山 有香

 「UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)クパン事務所には、出ていってもらいたい」。インドネシア領西ティモールの首都クパンを拠点とする併合派東ティモール人政治組織UNTAS(Uni Timor Aswainティモール戦士同盟)の代表者、フィロメノ・ホルネイ氏は言った。「何故か」と訊ねる私に氏はこう答えた「彼らは活動報告や情報などを地元民、併合派や難民に一切伝達しない。彼らが何故何ここにいるのか、何をしているか不明瞭にしたまま人の土地(併合派の拠点クパン)を占領するのは許せない」。

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8月30日、クパンのデモで。
アイタラクのリーダー、エウリコ・グテレスは
いまもなお併合派民兵にカリスマ的影響力を持つ。
横断幕には「われわれは社会情勢の犠牲者だ」
などと書かれている。

 西ティモールにいる併合派と民兵らは、未だに東ティモール独立という投票結果を事実として受け止めていない。今でもなお、「UNAMET(国連選挙監視機構)は不正をした」、「PKF(国連平和維持軍)やUNHCR(国連難民弁務官事務所)といった白人らが東ティモールを食い物にする」など言って鼻息が荒い。住民投票実現を可能にしたハビビ元インドネシア大統領のことも激しく批判している。「ハビビが東ティモールを国連、白人に売り渡した。おかげで私たち併合派や難民は苦労をしている」と。

 在西ティモール併合派民兵とUNTASは、今年8月30日、クパンの西ティモール政府庁で大きなデモを起こした。民兵組織アイタラクのリーダー、エウリコ・グテレスはじめ約千人の民兵らとUNTASメンバーは、西ティモール州知事ピエト・タロ氏に嘆願書を渡した。その主旨は、インドネシアに併合派と難民に対する支援を望むこと。東ティモールへの国連・欧米人による支配に反対してほしいことなどだった。エウリコ、民兵組織サカのリーダー、ジョアキンとUNTASメンバーのジョアナ・ソアレスらを筆頭に約千人の併合派たちは、「裏切り者」ハビビの顔写真をタロ氏の目の前で焼き捨てた後、自分たちがいかに東ティモールを愛しているか、東ティモールのために闘っているか、難民のことを思いやっているか訴えた。タロ氏は、やれやれといった顔をしながら「皆さんの言い分は承知しました」といったありきたりの答弁をした。

 「難民が東に帰りたければ、それは自由だ。UNTASは一切干渉しない」と前出のホルネイ氏は言った。「UNTAETやCNRT(東ティモール民族抵抗評議会)が帰還後の安全を確保するなら私も帰りたい。私が帰ろうといえば、全ての難民は直ちに帰還するだろう。難民を帰還させないのはUNTAET、CNRTなのだ」。さらに、「問題は、彼らが併合派や難民を不当に扱うことだ。併合派民兵は人権侵害をしたというが、シャナナ・グスマオ(CNRTリーダー)も1975年に親インドネシア派の人々を殺したのだ。私たちだって被害者だ。シャナナが人権法定で裁かれるなら、東ティモールで独立派との共存も考えてもいい。でも、東ティモールの西側20%の土地は併合派に譲渡されるべきだ(20%という数字は、昨年の住民投票でインドネシアへの併合、自治州案が約20%の支持率を得たことから来るもの)。私たちは、東ティモールにインドネシア人として帰還したい」と言った。

 UNTAET側も、併合派との対話を考えている。が、だからといって彼らの意見は併合派の考えとはけっして相容れるものではない。「東ティモール問題には、国連にも責任があるしシャナナを裁けというのも理解できなくない。が、今はまず犯罪者のインドネシア国軍の軍人や民兵らを裁くのが先だ。そうでなければ先に進まない。いろいろ考えていると政治はできない。悪を裁いて白黒はっきりさせる。それが<正義>だ」。「併合派は東ティモールの独立を認め、共存していく気なら帰ってきてもよい。しかし、インドネシア人としてではなく。20%の土地の分割譲渡にも応じられない」と、東ティモール首都ディリのUNTAET執行部職員は語った。

 「対話」「和解」と唱えられてはいるが実際は至難の業だ。その二つの語は、独立派、併合派と国連各々にとってけっして同じ意味を持たないように思われる。東ティモールの公用語がどうのということ以前の問題なのだ。何のための「対話」「和解」か。国連と二派の東ティモール人が、それをしっかり理解しないまま中途半端なことをし続けると、新たな火種を作り出すことになる。

 9月6日、東西国境近くのアタンブアでUNHCR事務所が民兵らに襲撃され、3人の職員が殺害された。西ティモールは、現在かなり危険な状況にある。国連などの援助団体が活動を休止しているため、難民はますます苦境に陥っている。弱い立場にある者がいつも悲惨な目にあう。皆が問題解決のためにどうすべきかを真摯に考え、早急に行動しなければならない。本当に東ティモールを愛しているなら。

(あおやま ゆか・ジャーナリスト)
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在日クルド人の5年間(前編)

なぜ彼らは日本へやってきたのか
西中 誠一郎

2000年8月15日

 今年8月15日、埼玉県の市民会館の集会室に、日本在住のクルド人100名近くが集まった。そのほとんどが、トルコ南東部出身のクルド人男性である。20歳代の若者が多い。

 この日の集会は、クルド人の民族自決権を求めてアブデュッラー・オジャラン議長を党首とするPKK(クルディスタン労働者党)がトルコ軍に対して武装闘争を本格的に開始した1984年8月15日から、16年目にあたる記念集会である。会場には、オジャラン議長の写真やPKKゲリラの写真が掲げられ、彼らとの連帯やクルディスタンの自由と平和を求めるスローガンが、クルド語や英語で書かれて貼り出された。演壇上の人が次々入れ替わり、民族楽器に合わせてクルド民族やゲリラの歌を歌い、演説や詩の朗読が続いた。会場の人たちは、手拍子を送り、口笛を鳴らし、オジャランとクルディスタンの自由を求めるシュプレヒコールを繰り返し、黄・緑・赤3色のハンカチーフをくるくる回して、手に手を取って踊り続けた。

 彼らクルド人にとって、この日の集会は、クルディスタンの春を祝う3月のネブローズ祭や11月のPKKの創設記念日と並び、長年の迫害や同化政策の中で失われた民族の誇りを取り戻すための祭りでもある。踊りの輪の中には、少数だが、彼らの恋人や結婚相手の、日本人やフィリピン人、ロシア人女性、そして小さな子どもの姿もあった。それは彼らが来日してからの時間の長さも物語っている。会場に集まったクルド人のうち、70人ほどが日本政府に難民申請している。そのうち多くの人が、1994年から96年にかけて来日した。認定を受けた人は、まだひとりもいない。

1990年代のクルド難民、そして来日

 クルド人は、アラブ人・ペルシャ人と並ぶ中近東地域の三大先住民族のひとつで、その人口は2500万人とも3500万人とも言われる。クルド人の土地を意味する「クルディスタン」は、チグリス・ユーフラテス川の上流地域の山岳地帯を中心にその広さはフランスの国土に匹敵するが、第一次大戦後、トルコ・シリア・イラク・イラン・旧ソ連の5カ国に分断併合された。「クルディスタン」は、国境をはさんで様々な利害対立が存在し石油などの地下資源も豊富なため、絶えず複雑な国際政治に巻き込まれ、それぞれの国内で厳しい弾圧を受けてきた。

 とくにトルコ共和国には5カ国で最も多い1000万人を越えるクルド人が居住するが、自治権の主張はもとより、公的な場でのクルド語の使用の禁止や、名前や地名をトルコ風に強制的に換えさせられるなど、民族的な文化や権利の主張は厳しく禁じられ、クルド民族の存在そのものが長い間否定されてきた。トルコ建国当初から抵抗も相次いだが、治安部隊や警察により弾圧され、クルド人社会のトルコ化も強制的に進められた。

 しかし、1970年代に入り、クルド民族のアイデンティティを主張し、クルディスタンの植民地化の状況に対して意識的に取り組む活動が芽生え始め、1978年に、反植民地主義・反封建主義・反帝国主義を掲げたクルド人のマルクス主義組織、PKK(クルディスタン労働者党)が設立された。1980年のトルコの軍事クーデターでPKKも大きな打撃を受けたが、その前後にゲリラ基地の拠点を海外に移し、84年8月15日に、クルディスタン独立のための武装闘争を再開した。以来、PKKはおもにトルコ南東部の農村地帯でクルド人の大衆的な支持を急速に伸ばし、国境地域の山岳地帯を中心にトルコ政府軍との武力抗争を展開した。

 1990年代に入ると、トルコ政府軍の軍事行動は激しさを増し、クルド人が多く住む町や村を無人化するための空爆や強制移住が相次いだ。そのピークが、1992年から95年にかけてと言われている。この間、破壊され無人化された村や町の数は3000を超えたという。来日したクルド人たちも、ちょうどこの時期に、本人や家族がトルコ軍や警察の暴力や拘束を受けたり、同胞に銃口を向けることを嫌い兵役を拒否した人たちが多い。また、小中学校時代に、クルド人であるということで差別や体罰を受けて退学し、長じてゲリラ活動を支援したり、兵役中に民間のクルド人に銃口を向ける上官と言い争いとなり、厳しい拷問を受けた人もいる。

 このような状況の中で、300万人のクルド人たちが故郷を追われ、難民として、国内の都市や欧米諸国に移住を余儀なくされた。しかし排外主義や移民規制がヨーロッパにおいても強まる傾向の中で、トルコからビザなしでも入国することができる「経済大国」の日本へ向かう人たちも出てきた。その数は約500人、今までに日本国政府に難民申請したクルド人はのべ150人を超えると言われている。しかし、来日しても入管の収容や強制送還を恐れて難民申請しない人も多く、その正確な人数は分からない。いずれにせよ、100万人いると言われているヨーロッパのクルド人コミュニティや30万人のアメリカのクルド人コミュニティに比べて、その数は少ない。しかし、100人を超える難民申請者数は、日本においてはインドシナ難民やビルマ難民に次ぐ多さである。

難民申請の現状

 彼らの多くは、来日してすぐに難民申請したわけではない。特に初期に来日した人は知人もなく、言葉も分からずに、その日の暮らしに困り果てた人は多い。夜、公園で寝泊まりしながら、イラン人に混じって働いていた人もいる。

 日本に難民申請の制度があることを知ったのも、最初の頃は偶然だったことが多い。20歳を過ぎたばかりの若者が、命がけで体ひとつで国から脱出して、異郷の地で生活に追われ、オーバーステイ状態で1年2年が経っても何の不思議もない。そして1996年暮れあたりから難民申請が相次ぎ、1997年にクルド難民弁護団が結成された時点では、90人近いクルド人たちが自分で難民申請していた。

 クルド人の難民申請に対して東京入国管理局は過敏に反応した。97年7月には「60日要件」を理由に、矢継ぎ早に4人の難民申請を却下した。また、難民申請中のクルド人に対しても、オーバーステイであるということだけを理由に自宅で逮捕し、入国管理局(十条入管)の収容場に収容した。また10月以降、難民不認定の決定と同時に、収容のための召喚状を手渡し始めた。いずれも、日本政府が加入している「難民条約」に著しく違反した行為であり、難民申請者の認不認定が確定する前に入管施設に収容することは、日本の難民行政においても前例がないことだった。

 弁護団は、ただちに難民不認定に対する「異議申し出」の手続きを進め、翌年1998年2月、法務大臣と東京入国管理局に対して、難民不認定の処分の取り消しと難民申請者に対して収容令書を発布してはならないことを趣旨とする行政訴訟を起こした。この裁判は現在も行われている。しかし、97年98年の間に、退去命令を出されて牛久の収容所に移された2人を含む17人が入管に収容され、うち16人がトルコに帰国した。彼らの大半が、入管施設に収容され続けているよりは危険覚悟でトルコに帰ったほうがまだまし、と判断したためであった。そして、3年経った現在も、牛久の収容所に1人が収監され続けている。

 1999年秋、日本政府に難民申請中、あるいは認定を却下され「異議申し出」中に帰国したクルド人の中に、帰国後、殺害されたり、長期にわたり刑務所に拘留され、裁判にかけられている者、数名がいることが、弁護団への連絡や現地調査で判明した。

 彼らの容疑は、いずれもトルコの治安当局により、「PKKの日本責任者」と見られたり、「日本から反政府組織に援助金を送金していたこと」や「PKKのオジャラン議長の写真と一緒に写っている写真から、PKKの支持者であるとわかった」というものである。

 治安当局の押収品の中には、日本での難民申請者の名前がわかる資料や、集会等で一緒に写った写真もあったと考えられ、彼らと一緒に日本で活動していたクルド人の難民性が新たに生じたとして、1999年12月に30数名が2度目の難民申請を行った。2000年2月から3月にかけて、この難民申請者に対する入管(大手町入管)のインタビューが集中して行われたが、1997年の1回目の難民申請者に対する過剰反応とは異なり、2000年9月末現在まで、入管の反応は特にない。

(にしなか せいいちろう/ビデオ製作・フリーライター)
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日本の難民認定制度の現状と課題

難民支援協会事務局長 筒井志保さんに聞く

認定者数の増加をどう評価するか

 米国や西側諸国からの圧力もあり、'78年からインドシナ難民を受け入れ始めた日本。81年には難民条約に加入し、82年には出入国管理及び難民認定法が制定された。しかし、特別枠でこれまで1万人以上が受け入れられてきたインドシナ難民を別とすると、難民認定者数は極めて少ない。94年以降は、認定者が毎年1人という状況が続いた。ところが、98年、99年はそれぞれ16名に増えた。「いろいろな方面から批判を受けるので、ある程度、認定者の数を増やしておこうという意味合いもあるのかもしれません。ただし、これは大変喜こばしい傾向だと思います」

 だが、今後もこの傾向は続くのだろうか。筒井さんは必ずしも楽観視していない。今年は9月8日の時点で認定者がまだ6名、しかも内訳は4人家族と夫婦のようなので、実質的にはまだ2件とも言える。そして、難民としては不認定だが在留特別許可が認められるケースも、正確な数字こそまだ公表されていないものの、98年に比べ99年、今年は減っているのではないかと思われる。そして、認定者数が2ケタに増える中で認定の新たな基準ができたと思うか、難民認定と特別在留許可の場合のラインがある程度あると感じられるかという問いに、「現時点では基準やラインなどが作られていると考えるのは難しいのでは」と言う。「なぜなら、難民を難民であるかどうか認定するという行為は簡単に出来るものではなく、難民の生死にかかわる事柄であるので、認定手続きをもつ他国においては数十年という長い月日をかけ出来上がっているのが実態であるからです」

申請者が置かれた状況

 申請者数は96年以降急増している。要因としては、ある特定の国からの難民申請者が一気に増えたという事情もあるが、難民申請の存在や申請方法が当事者の間で以前よりも認知されるようになってきたこともあると筒井さんは指摘する。これは、NGOや弁護士などによる情報発信も大きな要因としてあると言う。それにより、「60日ルール」(入国、あるいは難民となる事由が生じてから60日以内に申請しなければならないという入管難民法上の規定)の存在を入国する前から知っている人、在留資格のあるうちに申請する人も最近は出てきたように思うと言う。だが一方で、申請方法を知っても手続きをしない人もかなりいるのではないかと言う。その理由には、潜在的な申請希望者に在留資格のない人が少なくないことがある。したがって、日本で難民認定者数がきわめて少ない状況もあり、あえて送還のリスクを負ってまで申請しようとする人の数はかなり抑えられてしまうだろうと筒井さんは言う。「それでも、申請者には在留資格のない人のほうが多いと思います」。迫害の恐れから逃れて日本へ来ることもあり、非正規滞在、非正規入国者が多いことは当然推察される。最近は、東京では難民手続き中は収容されずに違反調査が進んでいくようになったが、大阪、名古屋では収容されたことが今年に入ってあったという。現状では、在留資格のない難民申請者にとって収容は深刻な問題となっている。

未確立な日本の難民認定制度

 98、99年の各16名の難民認定内訳ではビルマ人が多い。その要因には、本人の難民性、支援者の頑張りや国際関係上の理由に加えて、入管当局にとっても情報がある程度入手しやすいという背景もあるのではないかと筒井さんは言う。逆に言えば、国によってはかなり情報不足という状況がある。情報が不十分なまま調査官が申請者のインタビューを始めてしまうという話を弁護士等から聞くことがあると言う。ただし、それは調査官の問題として片付けてしまうべきものではなく、調査の時間も十分な研修も与えられず、調査官が成熟したレベルまで育っていかないという、日本の難民認定手続きそのものに原因があると筒井さんは指摘する。

 開示される不認定理由にもそれは表れる。多くのケースにおいて、60日ルールに抵触している場合はそれが、そうでない場合は「本人が難民であることを証明する十分な証拠がない」が理由になることが多いが、客観的な証拠は認定する側も協力して集めるべきものであり、「十分な証拠がない」だけでは説明不足であると筒井さんは言う。オーストラリア、ニュージーランドなど難民認定制度の先進国では、不認定理由が40頁にわたって報告されたり、裁判判決がインターネット上で公開されている。したがって日本の場合は、情報公開が不十分であるというよりは、実際のところ不十分な不認定理由しか提示し得ないのが現状であって、それもまた日本の難民認定制度が未成熟であることの一つの現れではないかと言う。

 「難民認定制度の『濫用者』の問題も、考えていかなくてはならない課題ではありますが、ただそれのみを切り離して議論するのではなく、難民性の判断能力の向上も含め、制度の確立がきちんとなされるなかで議論されるべきだと思います」。こう筒井さんは言う。最近になって、成田空港にある、窓が一つもない上陸防止施設での長期勾留や難民申請の「水際阻止」の実態、警備会社による暴行の問題が再びクローズアップされてきた。こうしたことにも、背景のひとつとして難民認定制度の不確立があるのではないかと筒井さんは指摘する。「申請されたら対応が大変なので、難民認定の手続きに乗らないようにするという意図は、幾多のケースから読み取れます」。難民調査官に対しては、近年はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)や国際法の研究者らを招いての研修に力が入れられつつあるという。「ただ、一般の入管職員の人事異動のローテーションの中に難民調査官も入っています。しかし、これだと自分たちの難民性判断技術を成熟していこうという気力や蓄積を断ってしまうような気がします。やはり、難民調査官の独立性、専門性を高める制度が必要ではないかと思います」

国際的な潮流

 国際的に見ると、難民は紛争や災害などで生じるそれも含めると、90年代に入りそれまでの10倍以上に増えているという。だが一方で、難民条約は冷戦時代における「西側」の「東側」に対する道具という性格を持っていた側面があり、今日ではそのような要請はなくなった。「国際的には現在、難民保護は過渡期に入っています。受入国は受入数を減らそうとする方向ですし、欧州では難民に対する社会保障を充実させすぎだという議論も出てきています。UNHCRの国際会議でも難民条約の今後がテーマとなりつつあります。でも、その一方で難民は増え続けており、移民問題とともに難民問題は爆発寸前の状況になってきています」。ただ、欧州の場合はあくまでも高いレベルの保障を確立してきた上での議論であり、日本ではまず制度をしっかり確立させる必要があるということですよね、という問いに、「そうですね。ただし、入管や法務省の問題を指摘するだけではなく、私たち市民側も積極的にこの問題への取り組みや支援体制を作っていかなくてはならないのではないかとも感じています」と答えてくれた。

(構成/白取 芳樹・編集者)
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南北首脳会談後の韓国在野勢力

小池 和彦

 6月の南北首脳会談の結果、北朝鮮に関する韓国の世論はガラリと変わったと言われる。一切肉声が伝えられていなかった金正日がテレビ画面に登場し、陽気に冗談を飛ばしたのだから当然のことだ。夢だった南北統一は現実にありうることだと思われるようになった。

 しかし、以前から北朝鮮に近いとされ、弾圧も受けてきた在野の運動体は現在どのような状況になっているのか。当局の弾圧は弱まっているのか、それともかえって強まっているのか。そんな疑問を抱きつつ、私は8月に韓国を訪れた。

梅香里の反米軍闘争

 「梅香里米空軍爆撃演習場被害対策推進委員会」は、静かな農村の丘の上にある。もともとは村の会館なのだが、現在は爆撃演習場に反対する運動の拠点として使われ、旗や横断幕に覆われている。村会館のすぐ隣には鉄条網が張られ、その数百メートル先に機銃射撃演習用の標的が見える。さらにその先の海上には爆撃演習に使われる小さな島がある。この演習場は「梅香里国際爆撃場」という名がついており、在韓米軍だけではなく在日米軍も使用する。演習が始まると静かな農村に大音響がこだまする。

 ソウルからバスを乗り継いで一時間あまりのこの梅香里では、5月に演習中の米軍機がエンジン故障を起こし、搭載していた爆弾を投下して近隣の民家に被害を与えたため、演習場の閉鎖を求める声が一挙に高まった。私が訪れた8月11日には韓国学生自治会総連合(韓総連)を中心とする集会が開かれていた。

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機動隊と「対話」する学生たち

 この韓総連は親北朝鮮の主体思想派と言われており、韓国政府からは利敵団体との規定を受けている。しかし南北首脳会談後、状況はやや複雑になってきている。多くの学生たちが着ているTシャツにそれがよく表われていた。金大中と金正日が並んで歩いている写真がプリントされているのだ。南北首脳会談支持、ということである。当局も和解ムードを壊さないため弾圧を控えているという。

 韓国の運動体の集会は日本の運動体のものとは大きくスタイルが異なっている。歌や踊りが入るのだ。各地でキャンペーンを行っている学生のグループがそれぞれ前に出て自己紹介し、短い演説をする。その後、彼ら・彼女らは全員で歌を唄い、踊る。歌や踊りの内容は様々で、重苦しい闘争歌よりは軽快なポップス調のものが多い。演説の後に別のグループがチャンゴ(太鼓)の曲を披露する場合もある。集会の雰囲気はとても明るい。

 周囲をびっしりと取り囲む機動隊との関係もどことなく平和的だ。集会の場に座っている参加者とは別に、数十名ずつに分かれたいくつかのグループが機動隊と向かい合う。彼らはときどき歩き出し、機動隊と「おしくらまんじゅう」を始める。むりやり突破しようとするわけでもなく、しばらく続けると機動隊から離れる。少し時間が経つとまた同じことを繰り返すのだ。一つのグループが機動隊と「衝突」してもほかのグループは動かず、よく統制がとれているように見える。

 「おしくらまんじゅう」の最中に機動隊から盾や警棒を奪う学生もいるし、角材で鉄条網をたたいて壊してしまう学生もいた。別の場所では演習場に突入して逮捕された学生もいたようだ。しかし全体の雰囲気はそれほど険悪ではなかった。

 とはいえ、我々を案内してくれた全国仏教運動連合のソン・サンフンさんは状況をやや悲観的に見る。運動はやや下火になってきているというのだ。「7月は地元の住民が中心になって集会や抗議行動が行われていましたが、現在は学生が中心になっています。7月はBBCやCNNでも梅香里のことが取り上げられたのですが、それで安心してしまった面もあると思います」。この日の集会にきていた地元住民は「被害対策委員会」の委員長と副委員長だけだった。闘う相手が大きいだけに、闘争の継続には難しい面もあるのかもしれない。

歓送される非転向長期囚

 8月14日には漢陽大で「南北共同宣言貫徹と民族の自主・大団結のための統一大祝典」を見学した。南北統一を求めて以前から運動を続けてきた在野の諸団体によるものだ。

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「歓送」される非転向長期囚

 メイン会場はキャンパス内の陸上競技場なのだが、そこへ向かう途中では参加団体がそれぞれ数百人や数千人の規模で独自集会を開いていた。私はメイン会場で統一大祝典の事前行事として行われる非転向長期囚の歓送会に参加した。独自集会を開いたグループは三々五々メイン会場に集まり、歓送会が終わって統一大祝典が始まる頃には数万人規模にふくれあがった。

 非転向長期囚というのは、朝鮮戦争時に南でパルチザンとして戦って捕まった人や、戦後に北朝鮮から工作員として派遣されて捕まった人たちだ。昨年末の恩赦によって釈放され、6月の南北首脳会談で北朝鮮への送還が決まった。北へ帰れば英雄である。

 しかし、歓送会は彼らを英雄として称える趣旨のものでは必ずしもないようだった。会場のステージ正面には年老いた息子が母親と手をとりあう絵が掲げられていた。翌日の離散家族再会の会場でも使われていたものと同じである。非転向長期囚の問題を一種の離散家族問題として捉えているように見える。

 梅香里のときと同じように、集会は演説と歌と踊りで楽しく進行する。演説で繰り返し叫ばれるスローガンは「在韓米軍を撤退させて自主的に統一を達成するぞ!」。在韓米軍撤退と南北統一は在野勢力の二大スローガンとなっている。8月15日の前夜祭であるにもかかわらず、日本のことはほとんど演説のテーマにならず、南北統一と直接関係ないはずの米軍撤退が繰り返し叫ばれるのは印象的だ。

 最後は会場に来ていた数十名の非転向長期囚が壇上にあがり、ひとりひとり名前を読み上げられる。代表として一人が「統一が達成された日にまた会いましょう」と演説して締めくくった。

 「感動的」な行事ではあるのだが、私は苦々しい気分も感じないわけにはいかなかった。63人の非転向長期囚のうち、49人は工作員として派遣された者だ。1980年に大阪で原敕晁さんを拉致した辛光洙も含まれている。そういった人物を統一のための英雄として扱ったり離散家族として同情したりするのは行き過ぎではないだろうか。いや、ステージに掲げられている離散家族の絵は非転向長期囚の内実から数万人の参加者たちの眼をそらすためではないのか。

和解ムードの影

 北朝鮮の政治犯収容所の問題に取り組んでいる「北韓同胞の生命と人権を守る市民連合」のユン・ヒョンさんは、南北首脳会談後の韓国の言論状況を「浮かれすぎ」と批判的にみる。南北会談によって平和が来るのはいいが、人権問題もあることを忘れるべきではない、というのだ。

 ユンさんは8月に北朝鮮を訪れたマスコミの代表団を例に挙げる。北朝鮮は保守的な論調で知られる朝鮮日報が代表団に入ることを拒否したのだが、ほかのマスコミは結局のところそれを受け入れ、朝鮮日報抜きで北朝鮮を訪問した。南北和解の名のもとで不当な要求がまかり通ってしまっていることにユンさんは批判的だ。

 市民連合は北朝鮮からの亡命者(韓国では脱北者と呼ばれる)への支援にも取り組んでいるのだが、南北会談が実現したことで脱北者の間に「われわれは北朝鮮に送り返されるのではないか」と動揺が広がったという。もちろんそんなことはありえないのだが、北朝鮮の体制が少しも変わらないままに進む南北和解の動きは脱北者たちにとって不安以外の何物ももたらさないだろうことは想像できる。

 市民連合は8月に脱北者と大学生のボランティアによる慶州旅行を企画し、数十名が参加した。夏休みのレクリエーションである。そのような試みを通し、脱北者たちは韓国での慣れない生活の中で抱いている孤立感を和らげることができ、韓国の学生たちは脱北者や北朝鮮の状況について理解を深めることができる。このような地道な活動が「平和」や「統一」といった抽象的なスローガンに具体的な内容を与えていくことができればよいと思う。

(こいけ かずひこ)
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『いつかロロサエの森で―東ティモール・ゼロからの出発』
著者・南風島渉さん(報道写真記者)に聞く

 昨年、南風島さんが東ティモールについての本を出すと聞いて,私も楽しみにしていた1人だが、なかなか出版されないのでずいぶんやきもきしたものだ。住民投票とその後の一連の混乱で、マスコミが取材合戦を始め世間の関心を集めている今こそ本を出せば確実に注目されるのにと、余計なお節介で思ったりしたが、1年経って出版された本を手に取ってその考えが誤りだったことがわかった。

 南風島さんのこれまでの取材活動を考えれば、昨年のあの時期にもそれまで雑誌などに発表していた文章を切ったり張ったりすれば十分1冊の本にはなっただろう。それをあえてせず、発行をちょうど1年後に設定した編集サイドの英断と、よりわかりやすく、より深いものにしようと推敲に推敲を重ねてきた南風島さんの努力は賞賛に値する。

 「昨年の6月に出口さん(出版元のコモンズに勤務するAWC会員)から、東ティモールのことをよく知らない人に、この島にどんな人が住んでいて24年間どういう状態に置かれているか、日本人がそれにどう関わるべきかがわかる本を書かないかという話がありました。そのとき、政治的背景については僕より詳しい学者が本を書くだろうから、僕が書く必然性はない。それよりも1人の日本人が東ティモールに行って見たり、聞いたり、感じたことをまとめようということになったのです。

 ところが、予想に反してあのような悲劇が起こったため、原稿の量があっという間に370ページぐらいになってしまい、当初考えていた企画からだいぶ外れてしまいました。企画に合うようにするには短くしなければならなかったのですが、雑誌的にスパスパ切ってしまうとズタズタになって何がなんだかわからなくなってしまう。そこのところで随分苦労して、脱稿してからもこれでよかったのだろうかとずいぶん悩みました」

 東ティモール問題の解説を期待してこの本を買った読者は、物足りなさを感じるかもしれない。しかし、この問題の本質を理解してもらうという意味では間違いなく成功している。ノンフィクションを評価する言葉としては不謹慎かもしれないが、船戸与一の小説ばりの緊迫感の中、インドネシア軍の追求を逃れて取材する南風島さんの息遣いと、24年間沈黙を余儀なくされた東ティモールの人々の姿がシンクロし、この問題の本質が鮮明になってくる。

 「何よりもわかりやすさが大切。問題の本質をわかりやすく、効果的に表現できるなら別にメディアや手段にはこだわらない」と言う南風島さんの柔軟さこそが、人に何かを伝え、人を動かす力となる。ベトナム戦争についての岡村昭彦の本が、後に長倉洋海という優れたジャーナリストを生んだように、この本の影響でジャーナリストを志す若者が出ないとは限らない。そうした読者を惹きつけるには、何よりもわかりやすさと読んでのめりこむ面白さが必要なのだ。

 しかし、東ティモールの今後となると、決して楽観的ではない。

 「独立後、どのような体制の国家になるのかを判断する要素がほとんどありません。21世紀に最初に独立する国として、新しい民主国家のスタンダードを示せるのか、国連の主導で従来の平均的な『民主的』国家になるのかすらわからない。また、役割を終えたファリンテルの兵士たちを、国連平和維持軍のパートナーとして国境地帯に展開するという話ですが、そうなるとインドネシア軍と直接銃口をつきあわせることになり、、歴史を引き戻すような紛争が起きる可能性もあります」

 昨夏以降、現時点でこの本が東ティモールについて書かれた最初にして最後の本である事実は、この本が持つ価値を表しているとともに、相も変らぬこの問題に対する日本社会の関心の低さを象徴的に物語っているのかもしれない。

 
(構成/松浦 邦彦・フリーライター)
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亜洲人声(12)

茂野光達さん(市民運動家)

 茂野さんは、これまでさまざまな市民運動に参加し、さまざまな団体の立ち上げに参画してこられた。いつもにこやかな笑顔を絶やさずに人と接する面倒見のいい人柄は、その外見からもえびすさんを彷彿とさせる。0C-NET(後述)で出会った茂野さんは、人があまりやりたがらない事務所の掃除や後片付けなどを、人が見てないときにそっとやるような人だった。今回の話もじつに謙虚に、じつに率直に話してくださった。

 私の学生時代は、ご存知のように学生運動がさかんな頃で、いわゆる全共闘世代になります。大学は学生のストライキでよく大学閉鎖をやっていて、授業がないことが多かったですね。ですが、私は運動スタイルの違いを感じた大学内の運動や組織には属せずに、当時田舎から出てきて暮らしていた大田区の運動に関わっていました。組合運動に参加していたんですよ。学生も多く、3分の1くらいは学生だったでしょうか。

 ちょうど運動に関わり始めた70年代は、沖縄の返還(復帰)運動が焦点でした。私自身も非常に関心を強く持っていました。大田区の運動関係者の中には、当然沖縄出身者もいる。彼らはやはり言葉の問題で悩んでいました。職場でばかにされたりする差別があったんです。だから、そのようなことをどう改善し、支援していくかという運動だった。したがって、大田区での場合は生活闘争だった。彼らと一緒に沖縄の歴史や言葉を勉強をしていました。でもね、わたしは大田区で沖縄のことに関わるまで、沖縄のことや戦争のことなど考えたこともなかっんですよ。それでいろいろ知るたびに、本当にもっともっといろいろなことを知らないといけないと思いましたね。

 その後、大学を卒業して、たしか75年くらいだったでしょうか、沖縄に行ったんです。これは、自分たちがこれまで沖縄のことなどで取り組んできたことが、本当に正しかったのかどうか、一度検証してみたいという気持ちにかられて行ったわけなんです。そして沖縄に行ってどう思ったかというと、やはり頭でっかちになっていたと思いました。これに気づかされるのに、ちょうどいい機会があったんですよ。たしか75年くらいから始まったと思うのですが、たまたま琉球弧の住民運動の交流合宿が開催されることになったんです。ここにはそれぞれの島々の運動に取り組んでいる人々が集まってきて、それぞれの問題を話し合うのだけど、偏見や差別の問題はほとんど出てこない。つまり、われわれが政治的なテーマとして取り組んできたことは、沖縄の人にとっては問題じゃなかった、ということに気づかされたんです。宮古島、西表島、石垣島、それに奄美大島など、彼らにとっては、これから島起こしや活性化、地元の政治の問題に取り組んでいくということが主要なテーマだったんです。

 その後、今までの反省もこめて、生活と労働を見直す形で運動に取り組んでいきたいと思い、「大田生活労働センター」を作りました。そして、労働相談や外国人問題などに取り組んでいきました。とくに外国人問題は、専門的な法律的観点や知識・経験が必要となってくることがわかりました。そこで、われわれの立場では手に余るということになり、専門家にも関わっていってもらいました。これを発展させる形で、現在の「OC-NET(外国人と共に生きる大田・市民ネットワーク)」を作っていったのです。日本語教室と相談窓口を事業の柱にして、94年にスタートしました。

 OC-NETはほかの外国人支援団体とも連携を綿密に取りました。その関係で他団体のスタディツアーに関わりフィリピンに行き、そのときに基地や売春、日比混血児(JFC)の問題などを深く知りました。とくに当時、日比混血児(JFC)に取り組む団体が無かったので、そのための団体を作ろうということになり、「JFCを支えるネットワーク」(『AWC通信』15号参照)の創立に関わりました。

 私がこのような活動をしてきたのも、もともと「第三世界」に関心があったからです。沖縄にしてもアジアにしても、日本は第三世界から資源を搾取しているという点で主従関係にあると言われてきたわけですが、もしそれが本当なら大問題だと思ったので、だったらその問題に関わっていこうと思ったのです。これについて少し補足しておくと、私は当時、北沢陽子、武藤一羊、小田実さんたちがやっていたべ平連の運動に深く影響を受けていました。つまり、良くも悪くも、市民としての生き方が問われているという気がしたんです。常に「あなたはどういう生き方をするのですか?」と問われていたような気がする。そしてこの意識は、自分の人生において非常に説得力のある問いかけだと思ったのです。

連絡先

 
(八尾 浩幸・AWC代表)
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編集後記

 ああ、日本のサッカーが、負けてしもうた〜(へなへなへな)/ここのところ、日本サッカーが勝ち進むたびに、密かに胸ときめかせていたというのに・・・/ちょっとほかのことがすっとんでしまっていたわたしでした。すみません! (乞う! 新ベストイレブン案)(や)

 伝聞だが、日本人に対して出身国の言葉をある学校で週に2回ほど教えている、ある知り合いの話。滞在歴は長い。「たまに生徒に、『先生はふだんは何をやっているんですか?』『先生はどういうビザを持っているんですか?』と無邪気に聞かれるんですよ。そんなときはとても淋しくなりますね」。最近彼は、長く交際している日本人女性との結婚を考えている。「在留特別許可の申請に入れば、検挙の心配はなくなるし、自分にも自身が持てるようになって、生徒にも正直に言えますね」。ちなみに聞いている生徒たちはけっこう“インテリ”である。(し)

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月刊AWC通信2000年10月号(通巻第24号)
2000年9月30日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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