『AWC通信』2000年9月号(第24号)


目次


定例会報告

エスニックタウン、新宿・大久保の共生社会

外国人とともに住む新宿区まちづくり懇談会(共住懇)代表 山本 重幸さん

 新宿区大久保1丁目。ここにはなぜか、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の石碑が立っている。そう、八雲はかつて大久保に住んでいたのだ。彼は松江から市ヶ谷富久町を経て、この地で生涯を終えた。

 現在、多民族の街として名高い大久保は、その昔から外国人が多く住む街でもあった。この地域で外国人との共生を図ろうとする「共住懇」(外国人とともに住む新宿区まちづくり懇談会)の代表・山本重幸さんに、大久保の歴史や現在の様子についてお話しをうかがうことになった。会場は当然のごとく“大久保”である。

大久保とはどんな街か

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 大久保には明治時代から公務員住宅などがあり、小泉八雲が住んでいたことがあった。大正、昭和期には旧陸軍関連の住宅も増え、このころから孫文、蒋介石などアジアの留学生が来ていた。

 また、1950年代にはすでにかなりの外国人(在日韓国朝鮮人)が暮らしていたのである。

 1980年代、世界では人口移動の大波が起き始めた。人々は、国境を越えて移住し始めた。もちろん日本も、その大波からの影響を逃れるわけにはいかなかった。

 その頃(1980年代後半)ちょうどこの国は、バブル景気に沸いていた。各地で地上げが始まり地価が高騰していくのだが、新宿駅周辺部と比較すると大久保周辺は影響が緩やかだった。

 もともと新宿駅周辺には家賃2万円台の安い住宅が多かった。また、新宿区には「住宅条例」があり、あまり簡単に入居差別をするわけにはいかなかったのである(新宿区の「住宅条例」は、このころの地上げによる住宅難から高齢者、母子世帯、低所得者に加え、外国人も含めて保護しようという住宅政策である)。

 それに加えて、この地域には外国人のための日本語学校が急増しはじめた。なかには学校とは名ばかりの就労斡旋業者も混ざっていた。とはいえ、ここに、大久保において外国人を受け入れやすい土壌が成立したのである。そして、90年代から爆発的に外国人の数は増えていった。

 世界にはロサンゼルスのリトルトーキョー、横浜の中華街など、外国人街はいたるところにある。だが、そのような街と大久保とは決定的に違うところがある。

 それは、大久保が“マルチ・エスニックタウン”である、ということだ。

 大久保には民族的な棲み分けがなく、いろんな民族が混在している。これは世界的に見ても希有のことである。

 なぜ、このようになったか。それはよく分からない。

 おそらく、外国人の定住性が低く、短期間で入れ替わってしまうということが一つの理由かもしれない。また、マルチエスニックタウンとしての歴史が浅いから、とも言えるのかも知れない。

外国人の流れ、ビジネスの移り変わり

 「共住懇」では、94年から『おいしい“まち”ガイド』という、大久保の外国人レストランを紹介するパンフレットを作成している。当初、記載されたレストランは24軒だった。

 ところが、96年には48軒、99年には67軒と、店舗数は確実に増えている。

 また、大久保における外国人によるビジネスも広がりを見せ、レンタルビデオ、旅行会社、ホテル、エステ、美容室、リサイクルショップ、外国人向け不動産業、薬局、鍼灸院など、じつに多岐にわたっている。98年の調査(「まち居住研究会」による)ではこの地域の外国人の商店は160軒以上で、しかもこれは看板を掲げたものだけだから、実際にはもっと多いのだろう。

 現在、新宿区の居住人口は約264,000人。また、外国人登録者は約23,000人(住民比率:7.6%)。ただし、これは外国人登録者数だから、現実にはそれをかなり上回る外国人が住んでいるのだろう。多い国籍は、韓国、中国、ミャンマー、フィリピン、アメリカの順である。

 だが、いつもこの順番で外国人の数が並んでいた訳ではない。

 もともと大久保には在日コリアンが多かったが、やってくる外国人にはある種の「波」があり、ある時はフリリピン、ある時はタイ、中国、韓国というぐあいに変化してきた。

 これには、「送りだし国」の国内事情もその要因としてあるのだろう。ある国が貧困の中にあるとき、「日本に行けば儲かる」というブームが起こり、それが日本渡航につながったりするのだ。

大久保の日本人の対応

 90年代になって大久保の外国人が爆発的に増えたとき、地域の日本人住民には動揺が起った。「外国人が増えるのは困ったことだ」と考える日本人もいた。

 実際、外国人同士の暴力事件も起こり、外国人による犯罪も増えた。日本人とのあつれきも生じた。身近な生活環境に「見知らぬ他者」が入ってきたことへの漠然とした不安が広がった。

 そのような中で、新宿区役所が動き出した。

 91年11月に新宿区役所は、「外国人とともにつくるまち−新宿区の国際化をどう受け止めるか−」というコミュニティ講座を開いた。このときの参加者有志が集まってできたのが「共住懇」である。

 現在、大久保にはそのほかにも外国人を支援する団体がいくつかある。

 もちろん、まだまだ問題はたくさんある。しかし現在、これまで経験を積み重ねたことにより、大久保は比較的落ち着いている、と言えるだろう。

 それどころか、大久保では、今や地元商店街のお客の平均6割が外国人である。そのようなこともあり、この地域では外国人の存在を無視しては生活が成り立たなくなってきているのだ。

 地域社会での苦闘の数々を見ていこう。

 例えば、大久保小学校。ここでは今や、片方の親が外国人である児童が常時30%を超えている。そして、児童の親に日本の教育をいかに理解してもらうかという教師の努力も続けられているのである。

 不動産屋も、かつては「外国人お断り」だったが、今では「外国人OK」の看板をわざわざ掲げている。

 また、ある公共看板は5ヶ国語で表示されている。

 新大久保駅。ここには、ハングル、中国語の定期券申し込み用紙がある。

 「明洞」というレストラン。ここはコリアン料理の店のはずだが、なぜかメニューに「カレー」がある。韓国人とネパール人が結婚して、仲むつまじく「カレー」を出しているのである。

 ゴミ置き場にも、ゴミ出しのルールを綴った英語、中国語、ハングルによる注意書が貼られている。

 いまの大久保には新来コリアンが多い。だから、この地の韓国系教会では、時間をわけて日本語、ハングルによる礼拝を行っている。そして、同時通訳もある。

 ちょっと珍しいところでは、チュニジア料理の店。日本人とチュニジア人のカップルが経営している。

 西大久保公園では毎朝、太極拳を演じる人々の姿が見られる。ある台湾出身者が公園で教えているのだ。そこに日本人のお年寄りたちが集うという、ほほえましい光景が展開されている。

 そして、地元商店街も手をこまねいて見ているだけではない。「売り出し」には外国語のアナウンスを交え、商店街イベントには留学生に頼んで模擬店を出してもらう、といった試みもしているのである。

 現在の大久保の共生社会は、地元の人たちのこのような地道な努力のうえに成り立っていると言えるだろう。

 「大久保は、世界に類例のないマルチエスニックタウンです。だから、手本とするべきものがないんです。この街が、世界から注目されるモデルケースになることもありえます」

 山本さんは誇らしげに語った。

 会場の人々は、これから大久保はどうなっていくのかを知りたがった。だが、山本さんは慎重に断定を避け、「まとめないほうがいいと思うんですよ」と、さらりと言った。

 そのさわやかな笑顔が印象的な定例会だった。

(杉岡 幸徳・フリーライター)
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ルポルタージュ

終わらない紛争

〜非常事態宣言下のインドネシア・アンボン〜
笹岡 正俊

マルク州・北マルク州に非常事態宣言

 これまでに、4000人から1万人が死亡、40万人以上が難民化したと報じられているインドネシア東部マルク諸島の「宗教紛争」。イスラム教徒とキリスト教徒の血で血を洗う争いは、ジャワからイスラム過激派の組織する聖戦部隊が進入することで一段と激しさを増した。今年5月中旬以来、アンボン市街各地で陸軍兵士に支援された聖戦民兵とキリスト教徒住民との間で激しい銃撃戦が繰り返されている。

 終わりを見せない争いを前に、ワヒド大統領は6月27日、マルク州・北マルク州に非常事態を宣言。その3日前、私はアンボンのキリスト教徒地区に入った。市街各所では銃撃戦と焼き討ちが行なわれており、街の大通りはドラム缶や土嚢などで幾重にもバリケードが張られていた。ほとんどの商店がシャッターを下ろしており、にぎやかだった街はすっかりなりをひそめていた。衝突地点周辺に暮す女性や子どもは、山の中に張られたテントに避難し、アンコット(乗合バス)の運転手は避難民の荷物や食料を運ぶために奔走していた。

非常事態宣言後も引き続く聖戦民兵の攻撃

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建物の影にかくれてイスラム勢力の
動きをうかがうキリスト教徒たち

 非常事態宣言から2日後、私はマカッサルへと脱出した。このときアンボンの治安は少し回復に向うきざしを見せていた。しかし、聖戦部隊による攻撃はその後再び激しさを増すことになる。

 7月1日から7日までの間に、3つのキリスト教徒の村が聖戦部隊とそれを支援する陸軍兵士によってほぼ完全に破壊された。これら3つの村のうち、島北東部に位置するワイ村への襲撃は、その後もしつこく繰り返される。ワイ村は、7月初旬の襲撃ですでに壊滅状態となっていた。しかし住民たちは村を離れることなく、廃墟となった集落にテントを建てて暮していた。30日、その彼らを聖戦部隊が再び襲撃した。住民たちは日曜の礼拝中だった。暴徒の中には軍服を着たものもいたという。

 この襲撃で住民たちは集落裏手の森の中に避難した。しかし聖戦部隊は執拗に住民たちを追いまわし、相手かまわず銃を乱射。これにより女性を含め23人が殺された。住民たちは5日間森の中を歩き、アンボン湾の付け根に位置するパソ村に避難した。長い道のりをはだしで歩いたため、彼らの多くは足に多くの傷を負った。パソ村にむかう途中少なくとも11人が力尽き、死んだ。

紛争の仕掛け人

 インドネシア大学教員T・トマゴラは、8月2日付『ジャワ・ポス』紙で、マルク紛争を陸軍の一部が計画したテロだと述べ、紛争の「火付け役」としてウィラント(元国軍司令官)、スディ・シララヒ(ブラウィジャヤ師団司令官)、スアイディ・マラサベシ(国軍参謀長)ジャジャ・スパルマン(国軍指揮・幕僚学校長)の名を挙げた。彼らがマルクを混乱させようとしたのには、(1)騒乱を利用して陸軍の地域掌握力を高める、(2)スハルト不正蓄財疑惑の追及を阻害する、(3)東ティモール人権侵害裁判を阻害する、という3つの目的があるという。

 一方、ニューキャッスル大学教員G・アディチョンドロは、7月18日付『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙で、聖戦部隊への資金提供者としてフアド・バワジール元蔵相(スハルトの金庫番と言われている)、およびジャヤンティやバリトー・パシフィックなど、スハルト側近財閥の名を挙げた。ワヒド大統領やユウォノ・スダルソノ国防相も、名前は挙げてはいないものの「ジャカルタのお金持ち」がこの争いに関わっていると公言している。

 スハルト権威主義体制下で「おいしい」思いをしてきた守旧派政治エリート・反改革派将校。民主化により息の根を止められそうになっている彼らが、生き残りをかけて行なった大規模な殺人と破壊―それがこの争いの真相であるとする見方が濃厚になりつつある。インドネシアはこの巨大な犯罪にどのように立ち向かうのか。紛争の真相究明、および扇動者への確固たる法的措置は、真の民主化を進めてゆく上でインドネシアが避けて通ることのできない重要な課題である。

(ささおか まさとし・インドネシア民主化支援ネットワーク)
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「宴」のあと

〜サミット後の沖縄に待ち受けるもの
豊田 直巳

警備員に阻まれた地元住民の声

 沖縄サミットで「沖縄のこころ」はどれほど世界に、いや日本に伝わったのだろうか。たしかに7月20日の嘉手納基地包囲の「人間の鎖」は、あらためて沖縄の基地問題をクローズアップさせただろう。だが重要なことは基地問題の存在ではなく、基地が具体的に強化あるいは恒久的に存続されようとする現実そのものではないか。少なくとも自身の仕事でいえば「人間の鎖」がつながったことをして「成功」(主催者の言)ではなく、少しでも沖縄から基地が縮小、あるいは撤去されなければ「成功」とは書けない。

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 サミット開催中も名護市内に「ピース・プラザ」と名付けたスペースを確保してヘリ基地移設反対、ジュゴン等の自然環境を守れと訴えた市民の一人は、「(サミットの沖縄開催は)明らかに基地と引き替えのものでしかないと思っていますね。これまでと同じで、海洋博だ何だとお祭りして沖縄の問題を片づけようみたいな。僕らは直接被害を受ける地元ですよ。ですから個人的にはサミットに反対です」「アメリカと日本の政府がやることだから、極東の安定に基地が役立っていますという方向でサミットを活用するとしか考えられないですよね」と話した。しかしそうわかっていても、誰もが「サミットに反対」と言えるわけではない。地元の市民団体、労組、政党など20団体で構成する「海上ヘリ基地建設反対・名護市政民主化を求める協議会」(通称ヘリ基地反対協)は組織としてはサミット反対と言えなかった。「政党など、いろいろな立場の人がいながらもヘリ基地反対という点で共同してやっているところですから」とだけ事務局長は言っていた。事実、2年前に市民投票取材の際に基地反対派の事務所で活躍していた方が「名護サミット推進市民会議」の事務局で働いていたのに出会った。そうした情況の中では基地反対と言うのが精一杯ということだったろう。その結果が「ピース・プラザ」の開設でもあったし、「ヤンバル・ピース・ウエーブ」と名付けた一連の平和行事でもあった。

 しかし、サミットの沖縄開催を決めたときから日本政府の側は地元住民の声を聞く耳など持ち合わせていない。「予定地」の市民運動である「命を守る会」と「ヘリ基地いらない二見以北10区の会」は、サミット時にクリントン大統領、森首相に「本当の住民の気持ちというか、こころというか、それを届かせたいですよね」と署名を集めてきた。そしてクリントン来訪に合わせて、炎天下を3時間かけて名護市内からサミット会場まで2000余名の署名を携えて歩き通した。しかしそれはあまりにあっさりと警備の警察官によって部瀬名の会場入り口で阻まれてしまった。もちろん「理由」などなく。

「地元の要望」?

 そしてサミットから1ヶ月、事態はあまりに早く動いた。「米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市への移設・代替施設建設問題で、候補地に決まっている辺野古地区の市民団体が週内にも、基地を沖合3キロの海上に建設することなどを求める案を岸本建男名護市長に示し、実現を要請する。」(『読売新聞』8月20日)。2年前の名護市の市民投票の際の「条件付き賛成派」が中心となった「久辺地域振興促進協議会」なる組織による「要請」だという。これは25日に日本政府と沖縄県、そして名護市の3者による「代替施設整備協議会」が発足することに合わせての動きらしい。いわば形式的にも「地元の要請」を整えて、一気にヘリ基地の移設を強行しようということだろう。確かに「要請」する人々がいることは事実だ。だが「シャブ中毒と同じ」と喩えられるいびつな「基地財政」「基地経済」が背景にあることを抜きにして「地元の要望」とするのは傲慢だろう。既に96年の県民投票でも、98年末の名護市市民投票でも「基地NO」の答えは出ているはずだからである。日米政府にとって都合のいい「沖縄のこころ」だけが利用されてはなるまい。

 
(とよだ なおみ・フォトジャーナリスト)
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アジア型近代化のなかの韓国、北朝鮮、日本

―『1960年代論』の著者・三上 治さんに聞く

 1960年代に新左翼系の運動でリーダーとして活躍した三上治氏が、最近『1960年代論』(批評社)という著書を刊行した。その中で三上氏は1965年の日韓会談(その結果として日韓基本条約が結ばれた)に言及し、植民地支配に対する謝罪も賠償もない「稚拙な戦後処理」だったと批判するとともに、それに対する日本の新左翼の反対闘争も韓国の学生たちと真に連帯できるだけの思想性を持ったものではなかったと振り返っている。

 日韓基本条約は現在進められている日朝交渉の過程で改めて問題とされるだろう。また、当時の韓国も現在の北朝鮮も独裁政権だという点では共通点を持っている。そこで、日韓条約から日朝交渉に至るアジアの現代史について、三上治氏に話を聞いた。

日韓闘争の構図

――まず、日韓会談に対する反対闘争の状況を簡単に説明していただけませんか。

三上:日本政府は、おそらくベトナム戦争が背景にあったのでしょうけど、南ベトナム政府をアメリカが支援する輪をつくるという流れの中で日韓会談を行い、戦後処理をしようとしたのでしょう。韓国の朴正熙政権は経済援助で体制を強化するという目的がありますよね。それに対して北朝鮮や中国は冷戦体制の強化ということで反対していました。

 韓国の学生たちは、北朝鮮や中国と同じ立場からということではなく、独立的な立場から日韓会談に反対していたと思います。朴政権に対する民主化闘争なんですね。日本の新左翼も、北朝鮮や中国と同じということではなく、韓国の学生たちと連携して反対闘争を進めようとしていました。しかし、そのことがどのように普遍的な立場として主張できるのかという点を思想的に深めることはできませんでした。

――日本人の加害者としての責任を追及し、謝罪や賠償を求める運動は当時もあったのですか。

三上:北朝鮮や中国はそういう責任を追及する立場でしたから、それに同調する形での日本加害者論もありました。しかしそれとは違う独立的な立場での加害者論は可能だったはずなんですけどね。

――独立的な、というのは。

三上:北朝鮮や中国の立場に立つことは、その政治的立場に立つことを意味します。それは北朝鮮や中国の独裁的な政治的立場は批判しないことにほかなりません。独立的というのはあの戦争において日本が中国大陸や朝鮮半島で演じた加害者としての行為を批判するけれど、北朝鮮や中国の政治体制への批判はやるということにほかなりません。

アジア的近代化の光と影

――北朝鮮や中国の場合、スターリン主義だというだけではなくて、かつて日本が植民地化したり侵略したりしたところだという問題もあります。ですからソ連や東欧よりは批判がしにくかったという側面もあるのではないですか。

三上:北朝鮮や中国の体制をいわゆるスターリン主義として批判することはさして意味がないと思います。北朝鮮や中国の政治体制を僕は左翼政権というより独裁政権としてとらえます。僕はそれをアジア的専制とでも言うべきものだと見ています。戦前の天皇制と同じものだとみているのです。現在の北朝鮮はとくにそう見ていいと思います。天皇制は日本の近代の推進力になったのですが、その限界を露呈させたのが敗戦です。中国が文革で挫折したり、開放体制に移行を強いられているのはこれと同じことです。北朝鮮もやがて同じことを経験するはずです。僕は戦前の天皇制を批判するのと同じ観点で北朝鮮や中国の独裁体制を批判します。

 これはアジア型近代の限界の指摘でもあります。近代国家はリベラリズムとナショナリズムを二つの柱にするのですが、アジア型近代はナショナリズムに重点がおかれてきたのです。ナショナリズムに重点がおかれてきたことの問題でもあるわけです。ナショナリズムというのは国家意識ですが、その形成が近代西欧とは違うのです。違うこと自体はいいのですが、そこに内包されている欠陥は問題なのです。

――著書の中で天皇制の軍隊の「擬似デモクラティックな性格」に言及していますね。

三上:ヨーロッパの軍隊では将校は貴族出身、兵隊は平民ということで、社会階級が軍隊内の階級を決めていたのですが、日本の軍隊はそうではなくて平等で、これこそが国民の軍隊だと言われていたのです。こういう要素が国民的という幻想の根拠でした。しかし、アジア社会は階層的な不平等は少ないのですが、それと引き換えに自由がないんです。近代社会で重要なのは平等よりも自由の概念ですから、根本的なところが欠けているのです。自由の空気が薄いということは個人の尊厳ということが軽んじられるということと同じです。

――北朝鮮は出身成分で階級が決まり、建国前に資本家だった家族は孫子の代まで最下層に位置付けられると聞きますし、誰か一人が逮捕されるとその家族全員が強制収容所に送られてしまうといいます。それでも近代化の過程にあると見ていいんでしょうか。

三上:家族が連帯責任を負わされるのは日本だってつい最近まで同じでしたよ。戦前の日本にも華族、士族、平民といった身分はありました。現在の北朝鮮は戦前の日本と似ていると考えていいんじゃないですか。

 日本の場合はそれが敗戦によって変わったわけですが、中国は同じことを文化大革命の挫折で経験したわけです。北朝鮮もいずれ同じことを経験するんじゃないですか。北朝鮮の解放というのはそういうことでしょう。

 近代化といっても、戦前の日本の近代化と戦後の日本の近代化ではタイプが違います。北朝鮮は戦前の日本と同じタイプと考えていいんじゃないですか。

――しかし、そういう形で戦前の日本や現在の北朝鮮を一括りにしてしまうと開発独裁論と同じになりませんか。

三上:それは違います。国民国家や近代国家の作り方の問題です。西欧の近代国家に対抗するためにアジア的な国家がたどらざるをえなかった問題なのです。それは歴史的な必然という要素を持つのですが、限界もあるのです。民主主義や自由ということに直面することは避けられませんし、それらに必然的に敗北していくと考えればいいのです。

――金大中はマハティールらが「アジア的価値観」を持ち出して民主主義を制限するのを批判していますが、あれは民主化が達成されたから後知恵で言えるだけですか。

三上:金大中だって民主化をめざして闘ってきたわけでしょう。日本にも天皇制を批判した人は大正デモクラシー以降たくさんいたわけじゃないですか。戦後になってから天皇制を批判しはじめたんじゃなくて。

 そういうときに独立左翼的な観点が大事なんです。かつてのような資本主義か社会主義かというイデオロギーではなく、世界解釈の観点としてです。

独立左翼の可能性

――かつては独立左翼といえばソ連や中国とは違う本当の共産主義をめざすということだったと思いますが、そういう観点は現在でも成り立ちますか。

三上:成り立つと思います。本当の共産主義という場合の中身が問題なんですが。僕は共産主義という言葉はもうどうでもいいと考えています。かつて、人々が共産主義というイデオロギーに見いだそうとしていた思想(人間的な自由の獲得など)の現在的な姿を求めればいいのです。かつて共産主義という言葉でイメージされていた課題などは変わってきています。例えば、資本主義の高度化で「プロレタリア革命」は終わったと思います。人類史の矛盾がプロレタリアートに体現されていて、プロレタリアートの解放によってほかの社会的な解放の課題も解決される、という主張は成り立たないでしょうね。権力の問題については、ブルジョアジーが権力を取るかプロレタリアートが権力を取るかということではなく、誰にとっても望ましい権力形態はどういうものかを考えなければならない。戦争についても、正しい戦争と正しくない戦争があるのか、そうでないとしたらどういう立場が可能か、という新しい問題が提起されなければなりません。

 60年代から70年代にアメリカでベトナム反戦闘争が盛り上がりましたね。あれはプロレタリア革命を目指すものではありませんでしたが、共産主義に対する戦争は正義だ、という戦後のアメリカ民主主義型の戦争観が根底から批判されたわけですよ。ベトナムの社会主義型の戦争を評価したわけでもありません。ということは、戦争そのものを根底から批判する基盤はあるのです。

――戦争ということで言えば、最近の湾岸戦争やユーゴ空爆ではベトナム戦争のときと違ってアメリカの側にある程度の正当性があるのではないですか。

三上:介入する側のアメリカはリベラル・デモクラシーの論理で、対抗する側は民族主義です。両方ともダメなんですね。さきほど言った近代国家の二つの側面を代表しているんです。この両方を乗り越えられるかどうか独立左翼は試されているといえるでしょう。

 コソボ問題は東アジアにとっても重要です。日本と韓国、日本と沖縄、韓国と北朝鮮、中国と韓国の間で、冷戦時代には向き合わなくて済んだ問題が表に出てくるかもしれないですよ。そのとき、旧ユーゴを舞台としたような民族的な対立の渦が出てきて、それに巻き込まれていくのか、民族的な対立を超えていくような関係が形成できるか、という大きな問題が出てくるはずです。そのときどんな回答が用意されるのか、世界観を含めて問われるのです。文化的・宗教的な差異を政治的対立にしない方法はあるかということなどです。

日朝交渉をどう見るか

――最後に現在の日朝交渉に関してお聞きしたいのですが、北朝鮮は過去の植民地支配に対する謝罪や賠償を要求し、日本は拉致問題を優先させようとしています。これについてはどう見ればいいですか。

三上:北朝鮮だけではなく、韓国についても、さらに中国についても、過去の戦争についての清算は行われていません。これをまずきちっとした形で処理して、その過程で人道問題も取り上げていけばいいと思うんです。二次的な問題ですよね。近代100年の歴史の中で生じた大きな問題を当面の問題を持ち出してしのごうとするから不信感を持たれるんじゃないですか。

――現在の北朝鮮の政権は歴史的な問題を解決する相手としてふさわしいのでしょうか。拉致問題や北朝鮮国内の人権問題を理由にして食糧支援に反対する主張については。

三上:北朝鮮の体制を助けることになるから食糧支援しないというのは政治主義ですよ。食糧支援によって現在の体制は生き残るかもしれないし、逆に民衆が政府に疑問を持つようになるかもしれません。五分五分です。食糧支援しないことによって北朝鮮の民衆から恨まれることになるかもしれないというリスクだってあります。北朝鮮の民衆に支援するのだという観点に立って大胆にやればいいんですよ。

――ありがとうございました。
(インタビュー・構成:小池和彦)
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再統一の動きをクールにみる若者

7月28日、安ミヨン【ソウルIPS】
去る6月13〜15日に平壌で開かれた南北首脳会談以来、朝鮮半島の統一問題がにわかに現実味を帯びた形で語られ始めてきた。だが、将来に予測されることをいま一度冷静に考えてみる必要があるだろう。ここに掲載する記事は、国際連合経済社会理事会のカテゴリー1に登録されている非政府組織(NGO)で、世界各地の放送網に衛星を使ってリンクし特派員が集めたニュースを配信しているInter Press ServiceのWebサイトに掲載されているものである。ここ半年ほど北朝鮮に関する記事を掲載してきた本誌も、参考としてここに紹介する。

 南北朝鮮の50年ぶりの歴史的な出会いは、双方の市民にとって感動的なものだった。しかし、若者はそんな問題には関心がなく、いつの日か南北統一を夢見る老人を冷ややかに見ているようだ。

 6月13〜15日の南北首脳会談以来、北朝鮮が外交舞台に積極的に出るようになり、新聞をにぎわせているが、にもかかわらず、最近の調査によると、韓国の生徒たちは、南北が将来統一しようがしまいが「関係ない」と答えているのだ。実に、対象となった13歳から15歳まで生徒の、わず30〜40パーセントしか統一が必要と考えていないことがわかった。

 平和的統一を目指す非政府組織(NGO)の代表、金スンマン氏によると、「多くの生徒は、統一にはコストがかかりすぎると答える」という。

 子供たちの反応は、根拠がないわけではない。ずっと専門家が言いつづけてきたことだ。つまり、ピョンヤンが本当に統一を望んだとしても、南北の経済格差を考えると、いますぐ統一を強いるというのはばかげているという分析が圧倒的だった。

 こうした子供たちの反応について、京義大学の朴ミョンス教授は、こうした反応が「ひとつの朝鮮に対する矛盾の種になる」と警告する。

 仮に統一することになるとしても、恐らく数年、あるいは数十年先になるだろう。その時、時代を担っているのは、成長したこの懐疑的な子供たちということになる。もしそのときにもまだ統一を不必要な事業と考えているとなると、北側の人たちは差別や偏見を経験することになるかもしれないと、専門家は指摘する。

 1980年代にスパイ活動をしたとして死刑宣告を受けたことのある金スンマン氏は、こうした子供たちの懐疑心について「大人が間違った教育をしてきたことの責任を感じるべきだ。北朝鮮を憎むように教えてきたじゃないか」と厳しく批判する。

 朴教授も同じ意見で、韓国当局が生徒たちに「北朝鮮への恐怖」を植付け、イメージをつくりだしたと指摘する。

 ソウルの中学校教師をしている郭ホウォン氏は、南北首脳会談が子供たちにショックだったというのは、いかに金正日総書記を信じるに足らない人物と考えているかということの裏返しだと語る。子供たちは、学校でさんざん叩き込まれた教育のために、2人の金首脳の和解を認めるのが困難で、統一を望ましいことだと思っていないのだ。

 子供たちの反応と対照的なのはお年よりだ。数百万人がこれまで北にいる親族に会える日を心待ちにしていた。8月の離散家族再会の第1陣のメンバーを決める際も、400人の候補者枠に7万6000人もが申請した。

 もちろん、多くの韓国人は、ピョンヤンの政権に対して不信感を持っている。しかし、7万6000人が申請したという事実からも分かるように、1950〜53年の朝鮮戦争で生き別れた親族に再び会いたいという思いは年月を経ても消えないのだ。

 南北和解の流れは金大中大統領の「太陽政策」の基礎だった。彼は同時に国民に対し、南北首脳会談で過度な期待を持ちすぎることへの警告もし、「統一はいつか来る。しかしまずは共存共栄が第1歩だ」と呼びかけている。

 将来の統一で衝突を避けるためにも、若い世代の再教育が焦点になる。ある教諭は、北朝鮮の美しい部分についても教え始めていると明かしてくれた。例えば、英語や日本語に汚されていない美しい言語を取り上げているという。あるいは、シュミレーションで北朝鮮旅行を計画してみたり、統一した時の首都の名前や国花についての議論をしているという。

 「これまで統一に関する教育はすべて、政治的すぎた」と、教職員組合の統一チーム代表、李ジャンウォン氏は振りかえる。「これからはもっと文化的、社会的に中立な授業に変わらなければ」といい、「バイヤスのない形で教えれば、北朝鮮を自分たちと違う集団だと感じないだろう」と語る。

 別の「統一派」の人たちは、若者にメッセージが届くようにインターネットによる情報提供をしている。例えば金スンマン氏は、ネット上で「統一のための教育文化センター」の開設を準備している。そこでは、生徒たちが統一に関して議論できるだけでなく、統一問題に関するデータも取得できるようにする予定だ。

 すでに統一に関するウェブサイトはいくつか登場していて、中には、www.chatfind.co.krwww.shinbiro.comwww.ntime.comのように、若者に人気のあるサイトも出てきている。

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けがの治療で来日中の人権活動家、イエニ・ダマヤンティ

〜いま求められている彼女への支援
青山 有香

インドネシアで、東ティモールで

 人権活動家、イエニ・ダマヤンティを知る人が日本でどれくらいいるだろうか。インドネシアや東ティモールの問題に関心のある人なら、彼女の名前を聞いたことくらいはあるかもしれない。しかし、その数はまだけっして多くはない。東ティモール、マルク、アチェなどについては人々に認知されつつあるが、個々の活動家となると意外と知られていない。

 これから紹介するイエニ・ダヤマンティ(以下イエニ)は、インドネシア国軍当局に何度も命を狙われながらも、10年以上にわたりインドネシアや東ティモールのために闘ってきた。

 イエニは、66年にインドネシアのバンドンに生まれた。84年に大学に入学し、環境生態学を専攻した。当初からカリマンタンの原始林の環境問題に関心を持った。とくに、スハルトの開発独裁下で搾取される森林住民との交流から、彼女はインドネシアの環境問題が人権、政治問題と深い関わりを持つと実感した。

 また89年には、ジョグジャカルタのガジャマダ大学生バンバン君たちが当時禁書だったプラムディア・アナンタ・トゥールの小説を読んだことで警察に逮捕されたことに抗議し政治集会を開いた。その直後、彼女は同士たちとともに逮捕され、4日間警察に拘留された。このとき初めて逮捕拘留を経験した彼女は、その後、人権活動家として強い自覚を持った。

獄中で交わしたシャナナ・グスマオとの書簡

 イエニが東ティモール問題に関わりを持ち始めたのは、当時ジャワに留学していた東ティモール人学生との交流をつうじてである。

 91年11月、東ティモールのサンタクルス虐殺事件に対し抗議声明文を発表したため、警察当局に4日間尋問を受けた。「今後、東ティモールに関して国軍の政策に干渉したら命はない」。そう脅迫されたイエニは、「私の命はあなたのものではない。神のものです」言い、抵抗した。

 93年12月にスハルト政権下のマドゥラ島ニパ村の農地強奪に抗議した農民4人が国軍に虐殺された際にも、イエニは抗議の示威行動を組織した。そして政府転覆罪で逮捕され、1年間の懲役に服した。その間、ジャカルタ郊外のポンドゥク・バンプ女性刑務所から、チピナン刑務所に囚われていたシャナナ・グスマオと獄中書簡を交わす。そして彼女は94年に出所した。

 95年4月、ドイツ人権団体の招待でスハルトはドイツのドレスデンを訪問した。その際、イエニは仲間の活動家とともにスハルト抗議デモを組織し、大統領侮辱罪で手配された。

 以来、98年5月のスハルト退陣まで欧州で亡命政治活動を行った。その間には、98年4月、在ジャカルタ、東ティモール支援団体ソリズモールの結成に参画した。

 99年8月の東ティモール住民投票では、選挙監視団キッペルのリーダーとして多くのインドネシア、東ティモール人監視員を統率した。現地経験が豊富なイエニは、国連や国際選挙監視団の優れた手本となった。

 その後、国軍、民兵らの暴虐行為に抗するため東ティモールに残ろうとするが、国軍、民兵が彼女を殺人リストに登録し捜索し始めたので、牧師の妻に扮し、西ティモール・クパンからジャカルタに帰国。東ティモールでの国軍による謀略を世界に訴えた。

テロの可能性も否定できない事故

 そんなイエニを国軍当局は執拗に狙い続けた。今年5月24日にソルダモール事務所が民兵らに襲撃され何人ものメンバーが大けがを負ったときは、彼女は幸いその場にいなかったので魔の手から逃れられた。

 しかしその直後、ジャカルタで友達のバイクに乗り走行中の彼女に軽トラックがぶつかってきた。イエニはその衝撃で右腕と股関節を複雑骨折、左ひざのじん帯損傷という大けがをした。ソリダモール襲撃の直後ということ、場所がソリダモール事務所の近くだったということから、これは単なる事故ではなく、テロである可能性が高い。

 ジャカルタの病院で右腕の手術をすませた彼女は、股関節、左ひざの処置は日本でしたいと望んだ。日本の高度な医療技術に絶大な信頼を持っているのだ。彼女の切なる願いに内外の有志たちが動いた。そのため彼女への支援金が少しずつ集まってきた。インドネシア、サラティガのアブディエル神学大教授・木村公一氏の呼びかけを受け、少しずつイエニ支援の輪は広がっている。

 すでにイエニは8月14日に来日。東京新宿区戸山にある国立国際医療センターで診察を受けた。彼女は、日本にしばらくいて、右腕股関節と左ひざにリハビリ中心の処置をすることになった。そして彼女はリハビリ病院に入院・通院し、傷害部の機能回復に励む日々を送ることになった。

 これからもイエニのけがとのたたかいは長く続く。いま彼女に必要なのは、より多くの人々からの支援である。これまでずっと声なき人々の声となり命がけで人権のためにたたかってきたイエニ。彼女の姿に心撃たれ、勇気づけられ、希望をもった人々は多い。今度は私たちがイエニを支える番だと思う。それは、搾取、抑圧されてきた人々への支援になるのだ。イエニへの支援をこころからお願いいたします。

(あおやま ゆか・ジャーナリスト)

 彼女の支援方法や連絡先、その後の動向については、AWCのWebサイトと次号でお伝えいたします。(編集部)

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編集後記

 朝鮮半島が活気づいている。それにつれて日朝関係もあわただしくなってきた。そしてこの間、新聞等では日韓交渉における米国の仲介を裏付ける公文書が公表されたりしている。そして、それはいかに会談当時、日本側が、韓国を戦前と変わらない支配者の感覚で見ていたかを物語っている。加害者としての歴史認識が不完全なのは今も解決できないでいる戦後補償の局面によく現れている。まったくひどい国だ。(や)

 日本の非正規滞在外国人にも2世が確実に増え、非正規滞在の未成年者が1万2千人との説もある。彼らの多くは日本語で育ち、日本の生活習慣を身につけている。強制送還されれば「母国」への適応には困難がともなう。「このままでは子どもに申し訳ない」と親が思っていたり、子どもから非難された親が言葉につまってしまうこともあると聞く。この問題への対処は今後ますます重要になるだろう。(し)

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月刊AWC通信2000年9月号(通巻第23号)
2000年8月26日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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