『AWC通信』2000年8月号(第22号)


目次


定例会報告

スリランカ紛争〜人々は何を求めているのか

ラジャ・スーリヤさん

 インド南東に浮かぶ、北海道よりも少し小さい島国、スリランカ。紅茶や宝石、上座部仏教遺跡などで知られる楽園の島は、1983年以来、紛争とテロの島として悪名を知られている。多数派であるシンハラ人政権と、タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)との衝突は今年に入って激化し、スリランカ紛争は深刻な「民族対立」として報道されている。しかし、この島の凄惨な歴史は、何に根差しているのか。シンハラ人とタミル人の民族対立は本当にあるのか。

 82年からスリランカの民主化運動に関わり、身の危険を感じて90年に海外へ避難したあとも、母国と海外を行き来しながら平和を訴え続けるラジャさんに、スリランカ紛争の背景をうかがった。

南洋の小国スリランカ

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 スリランカは、人口約1850万人のうち、シンハラ人が74%、タミル人18%、ムスリムが7%を占めている。シンハラ人の多くは仏教徒であり、タミル人の多くはヒンドゥー教徒である。ほかにもキリスト教徒、イスラム教徒が共存する多民族、多宗教国家である。タミル人には、父祖の代からスリランカに住んでいたいわゆるスリランカ・タミルと、イギリス植民地時代にインドから連れてこられたインド・タミルがいる。また、90%以上という識字率は、アジアでも非常に高い部類に入る。

 スリランカはポルトガル、オランダを経て、1802年にイギリスの植民地となった。146年にわたったイギリス植民地時代は、スリランカの教育や文化などに多大な影響を与えた。東インド会社を通じて香辛料や宝石、象牙などが輸出され、また紅茶やコーヒーのプランテーションが拓かれ、ココナッツやゴムの栽培も行われた。

 イギリスの支配に対立、抵抗を続けたシンハラ人に対し、イギリス政府は紅茶プランテーションの労働力不足を補うために南インドから貧しい農民をスリランカへと運び込んだ。これがいわゆるインド・タミル人と呼ばれる人々だった。給料も支払われない重労働ながら、衣食住が供給される環境に、スリランカへの移住に応じるタミル人は増加した。イギリスも支配に従順なタミル人を重用し、管理職育成のためタミル人を自国に留学させたりした。逆に植民地支配の経済構造から取り残されたシンハラ人の目には、タミル人も支配者層の一部であるように見えた。

政策が作り出した「民族対立」

 1948年に英連邦自治領として独り立ちしたスリランカ(当時はセイロン)には、「イギリス人支配層の思惑通りのシンハラ人、タミル人富裕層による政権」が作られたとラジャさんは指摘する。この統一国民党政権から、後にスリランカ自由党が分裂、1956年にB.J.バンダラナイケ政権が発足し、憲法を改正して、悪名高い「シンハラ・オンリー政策」を断行した。仏教の国教化、シンハラ語の公用語化などを憲法に盛り込んだこの政策こそが「タミル人に対する差別の始まり」だった。

 現実には、バンダラナイケ自身は英国生活が長かったせいでシンハラ語の読み書きはできなかった。彼は信念を持ってこの政策を進めたのではなく、「多数派であるシンハラ人の、単なる人気取りのためだった」とラジャさんは言う。

 その後、スリランカでは1970年に世界で最初の女性首相、シリマオ・バンダラナイケ(B.J.バンダラナイケの妻)首相が誕生。多くの期待を集めたが、タミル人政策に手を付けることはなく、紅茶プランテーションのタミル人労働者がおかれた劣悪な労働環境も改善されなかった。

 「エリートとお金持ちのための政権が続き、政権関係者はどんどんお金持ちに、そして一般市民の生活は苦しくなっていった」とラジャさんは指摘する。たとえばB.J.バンダラナイケは59年に権益の争いをめぐって暗殺されるが、このとき彼は300エーカーもの土地をイギリスから与えられていた。権力者による国有財産の私物化に、一般市民の政府への信頼は失われていった。

 こうした状況下、71年には学生や新聞記者、大学教授ら知識人による民族解放戦線が組織され、政府への異議申し立てや政治改革要求を開始。しかし政府の弾圧は熾烈を極め、2万人ともいわれる人々が殺された。

紛争勃発と政治背景

 72年にスリランカは英連邦を脱し、完全独立を果たした。しかしその後も統一国民党とスリランカ自由党は政権の座を取り合いながらも、政策は何ら変わらないままだった。77年には統一国民党のジャヤワルダナが憲法を変え、大統領制を導入、自らその座について全権を掌握した。一方で、国民の生活改善への施策は何ら為されないままだった。また、タミル人の権利回復という公約も守られることはなかった。

 このころから、タミル人はタミル統一解放戦線やLTTEを結成、シンハラ人政権に対する抵抗運動を組織し始める。そして83年、LTTEが国軍兵士13人を殺害し、ついに紛争に火蓋が切られた。この事件に対し、政府軍と深い関係を持つ民兵組織が、コロンボに住む一般のタミル人市民に対する計画的な攻撃、殺害を開始して大暴動となり、民族間に対立と緊張を持ち込んだ。そしてこの事件が、以後のLTTEの強硬な姿勢を生むことになった。

 80年代、LTTEはインド南部で訓練を受け、勢力を強めていった。その背景には、親米政策をとるスリランカの統一国民党政権と、それを嫌うインドのインディラ・ガンディー政権の確執があったといわれる。87年にはラジブ・ガンディー政権が「スリランカ紛争解決のため」、インド軍5万人を「平和維持軍」としてスリランカへ進駐させた。しかしこの「平和維持軍」はシンハラ人とタミル人の居住地域の分離を進めることになり、多くの難民が発生、シンハラ、タミル両方の市民の生活を圧迫するものとなった。

 またこの時期、スリランカ南部では、民族解放戦線が活動を再び活発化させていた。彼らは「すべてのスリランカ人の平等」を訴えたが、政府は弾圧作戦を展開、シンハラ人犠牲者を中心に10万人規模の死者を出した。

戦争をくいものにする当事者たち

 スリランカ紛争はなぜ解決しないのか。ラジャさんは「政府、LTTEの双方に責任がある」と指摘する。スリランカ政府は相手が誰であろうと、自らの権益を脅かす存在は徹底的に弾圧する。民族解放戦線への弾圧がそのいい例であり、そこには民族は関係ない。また、LTTEもそのあまりに強硬な姿勢で、穏健派タミル人までも標的にしてテロを仕掛けている。

 「政府とLTTEのせいで、すべての民族が苦しい状態に置かれています。政府もLTTEも、『民族紛争』を口実に、紛争状態から利益を得ているのです」

 LTTEはタミル人差別への抵抗を訴えて闘う一方で、大規模な船会社を所持し、密航、密輸などで多大な利益をあげているといわれる。また、戦闘で発生した負傷者の臓器をオーストラリアで売りさばく臓器売買にも手を染めているという。それらはいずれも紛争状態だからこそ成り立つビジネスだ。

 またスリランカ政府も、紛争解決を訴えることで国民に我慢を強いている。政策の失敗も何もかも、「紛争のせい」と言い訳をする一方で、政治家たちはあいかわらず私腹を肥やしている。

紛争解決に向けて

 「政府軍は、LTTEをいつでもうち負かすことができるはず」とラジャさんは言う。スリランカ北東部にわずかな支配地域を持つLTTEを、政府軍が本気で囲い込んで補給路を断てば、紛争はおのずと解決するはず、というのがラジャさんの意見だ。しかし現実には、政府軍とLTTEは、互いに攻撃しては休み、決して状況を最後まで進展させようとはしない。それはあたかも、息長く紛争を続けることを画策しているようにも見える。

 「スリランカ政府軍もまた、紛争状態のおかげで多くの予算を獲得しています。武器をLTTE側に横流しして金を儲けているという話もある」。83年以降、スリランカはずっと非常事態法下にあり、それは今も3ヶ月ごとに更新されている。結局は一般市民の生活を犠牲にして、それぞれが紛争を食い物にしている現実があるとラジャさんは指摘する。

 また、こうした状況を批判する勢力には、今も政府の厳しい弾圧が加えられる。「シンハラ人とタミル人の間には、民族対立と呼べるものはない」。実際、都市部では両民族は混住し、仲良くやっている。この紛争は「民族対立ではなく、富裕層と一般市民の社会階層の問題」であり、和平よりも自己保身や利益誘導を優先する政治家たちの態度の問題だとラジャさんはいう。

 現在、スリランカに供与される援助の6割は日本が占めている。「そのお金は、結局戦争や殺人のために転用されています。それが本当にスリランカ国民のために使われているのかどうか、援助する側の責任として、日本政府も考えて欲しい。IMFや世界銀行の援助の条件は、いつも経済的なものばかり。人権のため、国民生活のためといった条件こそ必要なのではないか」

(南風島 渉・報道写真記者)
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定例会報告・修正版

ミレニアム台湾変天 −私の見た台湾総統選−

ジャーナリスト 和仁 廉夫(わに ゆきお)

はじめに

 『AWC通信』の21号に私の名前で「ミレニアム台湾変天−私の見た台湾総統選−」が掲載されました。しかし、これは編集部が作成したもので、私の講演趣旨とは相反する理解が所々に見受けられます。

 読者は私が内容を了承したものとして読まれると思いますが、ライターからも、編集者からも事前に本人に内容確認はありませんでした。このように、信念に反する内容を掲載されたことは、重大な名誉毀損と受け止めております。

 このような私の抗議に、幸いにも編集部より遺憾とする連絡が入り、私の文章を掲載させていただく権利を得ました。そこで、台湾総統選をめぐる私の見方を前号で歪曲された点を中心に、あらためて説明し直したいと思います。

台湾政治を見る基本は、エスニックの理解から

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 陳水扁(民進党)連戦(国民党)の両陣営で使われていたのは台湾語(ビンナン話・フクロウ語)でした。私が北京官話(國語・普通話・マンダリン)を聞いたのは3月18日深夜、国民党本部前の「李登輝下台(李登輝はやめろ)」「宋楚瑜回来(宋楚瑜は国民党に戻ってきて)」を叫ぶ宋楚瑜支持者たちの集会でのことでした。

 北京官話は外省人(中国人)の言語ですから、国民党主流派(本省人主体)の連戦陣営では使われません。学校教育では北京官話が國語として教えられているのでほとんどの人が中国語を理解しますが、人口の8割を占める本省人家庭では、ふだんは台湾語が使われているのです。北京官話にアイデンティティを覚える外省人はわずかに13〜14%。これでは選挙に勝てませんから、外省人の宋楚瑜候補自身、選挙では無理して覚えたての台湾語を使っていました。壇上の宋楚瑜候補が話す台湾語のシュプレヒコールに、集まった支持者が呼応できないという場面が、あちこちの集会で見受けられたのです。

 なお、選挙後の国民党本部前の「李登輝やめろ」集会では、おびただしい数の「青天白日旗」(中華民国旗)が打ち振られていました。これも陳水扁陣営の集会では、まず見られなかった光景です。

陳水扁は断じて李登輝の後継者ではない!

 日本の右翼ジャーナリズムを中心に「実は李登輝は隠れ陳水扁支持だった」「陳水扁こそ李登輝の真の後継者である」という言説が流れています。私はこの見解に与しません。選挙戦終盤、台湾の学界と財界の李登輝ブレーンの一部が陳水扁支持に回り、陳水扁勝利の流れを作ったのは事実です。しかし李登輝・陳水扁両人はこのような「情意投合」関係を否定しています。

 実際、李登輝は自らの有力な後継者候補であった宋楚瑜(外省人)を党外に追いやってまで、腹心の連戦(外省人と本省人のハーフ)を後継者にしました。これはまぎれもなく李登輝の人事です。

 実際、総統選では無所属の宋楚瑜候補が国民党公認の連戦候補をはるかに上回り、陳水扁に肉薄する得票を得ました。強力な指導力と政治手腕で国民党に君臨し、反対勢力を封じ込めてきた李登輝ですが、党内外の李登輝に対する不満の前についに力尽きたのです。3月18日夜から李登輝党主席を辞任を決意するまで国民党本部前から動かなかった反李登輝派の存在こそ、李登輝によって疎外された人々の積年の怨念をよく示しています。

 李登輝が台湾の民主化に果たした功績は評価されるべきでしょうが、日本の李登輝絶賛には、別な政治的意図が働いています。つまり、李登輝の民主化を称賛し、返す刀で北京の共産党一党独裁をネガティブに見せる手法です。中国に問題があるのはわかりますが、この手法は正しくありません。

陳水扁を勝利させたもの

 陳水扁政権を成立させた第一の要因は国民党の分裂選挙、つまり李登輝政権内部の矛盾にあります。第二に、民進党主流(美麗島派など)が長年の白色テロ(高雄事件・林義雄事件など)に抗しながら、台北・高雄などの地方議会・首長選に勝利して、地方レベルで民生の拡充や黒金政治の払拭に実績をあげて政権担当能力をアピールしたことが挙げられます。第三に、陳水扁候補が選挙戦で超党派の「全民政府」建設を呼びかけ、党派の対立や四大エスニック集団(本省人・外省人・客家人・原住民)の族籍矛盾をこえた穏和な新中間路線に徹したことが挙げられます。陳水扁への投票が、ただちに「台独」票を意味しないという安心感も、現状維持志向の強い有権者に支持されました。

東アジア民主勢力のねじれ

 台湾政界と東アジア各国の政治勢力との関係を見ますと、国民党が伝統的に日本の自民党台湾ロビィや日本の財界と緊密な関係を保ってきた一方で、民進党の反主流グループに起源し、1997年に新たに組織された建国党や、民進党反主流と重なる建国連盟は自民党の防衛族や自衛隊・警察OB、石原慎太郎など国家主義者グループと結びついてきました。

 野党では民主党の仙谷由人議員らが主宰する「東アジア改革フォーラム」が国民党・民主進歩党・および新党の議員を日本に招き、自らも台湾に乗り込んでシンポジウムを主催するなど、民主化された台湾と新たな関係構築をめざしたことがあります。しかしこれは中国政府にかなりの不快感を与えたようで、菅直人代表(当時)の訪中前後には既に頓挫していました。いっぽう日中国交回復運動を推進してきた社民党(旧社会党)や、中国共産党と関係正常化に踏み切ったばかりの日本共産党は、中国政府に対する政治的配慮が優先されますから、台湾問題に党として独自の対応が取りにくい現状にあります。

 このように、日本の政財界は与野党ともに民進党主流とのパイプが細かったのですが、今回の「変天」を受けて、自民党はさっそく村上正邦参議院議員会長(神道政治連盟会長)らを台湾に送り、陳政権や民進党との関係作りに素早い動きを見せました。民主党も日台議員連盟(30人)を組織して、台湾との関係づくりに乗り出しています。

 華人世界の相互関係で見ますと、国民党外省人派に起源する新党は、「中国人意識」というエスニックで共通の基盤に立つ香港政界にパイプがあります。日・中・台が領土主権を主張している尖閣諸島(中国名釣魚島)問題では、金介壽台北県議をリーダーとするグループが、香港・マカオの民主派と共闘して基隆から船団を派遣して魚釣島の上陸に成功したことがあります。香港世論は民主派も含め台独に否定的な立場ですから、民進党との関係づくりはまだまだ研究段階といったところです。

 先日、香港の立法会(国会)で民主建港連盟という親中派政党が「台湾独立反対動議」を提出して可決されました。定数60人の議会で反対したのは、前線という民主派小会派の4人と、無所属の1人だけでした。

 「民生の向上」や「人権の尊重」という点では、台湾の民進党は韓国の金大中政権を支える新千年民主党、日本なら民主党・社民党・共産党、香港では民主党・前線など民主派に通底する理念があるはずです。しかし、華人世界の複雑なエスニック対立や日本に根強い冷戦以来の中国ロビィ(革新勢力)と台湾ロビィ(保守勢力)の対立構造が障害となって、相互の関係はかなりねじれています。

陳水扁政権の今後

 台湾の「変天」とは、一握りの外省人による国民党一党支配から、本省人を主体とする台湾人の政権が出来たことを意味します。国共内戦以来の半世紀あまり、少数者が台湾のすべてを支配するには暴力装置が必要でした。国民党の副産物である「黒金政治」(暴力団と政治資金の癒着)は李登輝時代にますます悪化したという事実があります。国会議員の一割、地方議員の大部分が黒社会という異常事態は、政権交代による徹底洗浄が必要だったのです。

 国民党時代の白色テロに対する真相究明など、封印されてきた現代史の解明も期待されます。歴史教育も『中華民国史』から『台湾史』へと大きく転換しはじめています。新台湾紙幣から孫文の肖像を取り除く作業や、台湾語の公用語化も進められるでしょう。いっぽう、両岸関係は陳水扁自身から中国を挑発することは考えにくく、「三通」など、経済関係を中心に人的交流・相互理解はますます発展するものと考えています。

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レポート

「記憶と忘却」

〜ベネディクト・アンダーソン氏講演会報告〜(6月13日、京都精華大学)
安喜 健人

 ナショナリズム、国民国家研究の書として「古典」の位置を占める“Imagined Communities”(邦題『想像の共同体』、NTT出版)の著者、ベネディクト・アンダーソン氏がこのほど来日し、京都でも「記憶と忘却−インドネシアと台湾のナショナリズム」と題した講演を行った。独裁政権による長期にわたる支配から脱却し、「民主化」のプロセスを歩み始めたとされる両国の現在と今後について、氏の見解は大いに注目されるところであろう。

 インドネシア研究者としては40年を超えるキャリアを持つ氏だが、残念ながら台湾については全くの門外漢。「大統領選の直後、1週間台湾に滞在して得た見聞以上のことは分からない」とあらかじめ白状した上での講演となってしまったという事情もあるので、ここではインドネシア情勢に絞って講演の内容をまとめてみた。

「虐殺」の記憶と忘却

 アンダーソン氏は講演の1カ月程前にジャカルタを訪問、「パッコルバ」という名の組織(邦訳すれば「スハルト新秩序体制下の犠牲者同盟」)の会合に出席している。参加者は、スハルト政権時代に政治犯として捕らえられ、虐殺と虐待に満ちた刑務所生活の辛酸をなめ尽くした共産党員と党シンパが中心で、ほとんど60歳を超える老年者ばかり、300名以上が集まったという。

もちろん、スハルト時代にこのような会合を開くことは不可能であったし、このような人たちは存在しないという前提でスハルト体制は成立していた。また、彼らが真の「インドネシア人」であると認められることは絶対に無かった。それだけに、かつてのナショナリズム高揚期、インドネシア・ナショナリズムを象徴するスローガンとして盛んに用いられた「ムルディカ(=解放)!!」という合い言葉が、集会の冒頭で大合唱されたとき、アンダーソン氏は特別の感慨をもったという。

 彼自身、かつては非同盟中立の第三世界主義に共鳴し、思想的にはスカルノや毛沢東を支持していた。1965年の「九・三O事件」を「コーネル・ペーパー」に取りあげたことで、スハルト政権のインドネシアに10年以上入国を拒否され続けた経験を持つ。

 この「九・三O事件」は、インドネシア共産党によるクーデター未遂事件であり、スハルト率いる国軍の大弾圧で、1965年から翌1966年の間に推計100万人から200万人にも及ぶ人々が、国軍はもとよりイスラム教の青年運動家や世俗的ナショナリストたちによって大量虐殺されたとみられる、国民同士の殺し合いである。

 昨年、政権の座に就いたワヒド大統領、メガワティ副大統領は、民主化への「改革者」であると自称するが、両名共にこの虐殺に深く関与・介入した政治集団の指導者でありながら、虐殺への関わりを一切認めていない。ワヒドは、ムスリム政党の虐殺関与を一部認め、共産党合法化の容認発言をするなど、「国民的和解」への動きを見せてはいるものの、メガワティはこの件に関していまだに口を固く閉ざしている。

 アンダーソン氏はこの事実について、事件の記憶がインドネシア人、インドネシアの指導者にとって「いかに重い過去であるか」を示すものだと指摘したが、インドネシア「民主化」の動きが、いかに脆い土壌の上に成り立っているものでしかないのかを端的に表している事例であるとも言える。

インドネシアの今後の課題

現在、あるいは将来にわたってのインドネシア改革の課題として、アンダーソン氏はまず、「市民(Citizen)を本来の意味に戻す」ことを挙げる。スハルト時代には、政府に統治されている存在、ないしは家来といった意味でしか「市民」は理解されていなかったが、「自分の国のために何かをする」という、市民が持っている倫理的・政治的役割を取り戻すという意味である。実際、中国系インドネシア人は、スハルト体制下では社会的・政治的な役割を与えられることが一切無かった、ワヒド内閣になって変化し、文部大臣などの要職に中国系インドネシア人の知識人が採用された。この事例を、アンダーソン氏は肯定的に紹介した。

 さらに、インドネシアのナショナリズムの方向性として、氏は「共有される国民文化」の必要性を挙げる。これはつまり、従来の同国の学校教育は、国家のイデオロギー的コントロールの下で極めてお粗末なものでしかなかったため、エリートたちは子どもに国内教育を受けさせることを嫌い、海外の学校へ通わせた。その結果、非エリートの子どもたちとの間に共有される文化が育たなかったと氏は指摘、「学校教育を再びナショナル化する必要」を説く。

ナショナリズムの両義性?

 このアンダーソン氏の「ナショナル化」という発言には、正直ぎょっとさせられた。当然の反応というべきか、後半の質疑応答の時間では、現在の日本において我々が直面しているネオ・ナショナリズムの跋扈という憂々しき事態や、世界各地で頻発する泥沼の「民族紛争」の悲劇について質問が相次いだ。『想像の共同体』の中のあまりにも有名な一節として、アンダーソン氏自身も、「たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。この想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数百万の人々が、殺し合い、あるいは自らすすんで死んでいったのである」と述べている。

 ところが、これらの質問に対するアンダーソン氏の答えは、あまりに単純明快なものであった。曰く、「私はナショナリズムについて積極的に考えている。日本にナショナリズムが無かったら、法律を守るという行為をどうするのか。ナショナリズムは社会的な接着剤である」「ナショナリズムが常に否定的である必要はない。ナショナリズムは将来指向的である」

 氏は、著作のタイトルに「幻想」(illusion)ではなく「想像」(imagine)を用いた理由として、「真実でありながら真実でない、現実でありながら現実でない」想像上の産物として共有される概念としての共同体を論じたのだとも説明したが、私は氏の発言を「為政者層の暴言」の類に近いものと受け止めざるを得なかった。現在、日本をはじめ、世界各地で鼓舞されているナショナリズム称揚の動きは、自ら呼び込んだグローバリズムの拡大によって、逆にその存在の根拠が希薄化した「国民国家」の為政者による、既得利権確保のためのものではないのだろうか。

「国民国家」の超克

 あまりに多様な文化、伝統を持つ民族が入り交じる地域に、「パッ・ハルト(おやじ・スハルト)」を中心とした封建的・権威主義的な家族主義を拠り所に成立していた「インドネシア国家」。ポスト・スハルト時代を生きる民衆にとって必要なのは、果たしてアンダーソン氏の言うところの「市民」としての自覚や「教育のナショナル化」、そしてインドネシア・ナショナリズムの再構築なのだろうか。

 私はそうは思わない。WTOやIMF世銀体制、そして圧倒的な軍事覇権を背景にしたパクス・アメリカーナのグローバリズムの猛威のもと、世界規模でますます拡がる貧富の格差、飢餓、環境破壊…。語の真の意味での「民主化」とは、これに抗する「民衆」の国境を越えた水平のつながり、そして武藤一羊や天野恵一らが唱える、軍事や暴力や経済覇権に依らない「民衆の安全保障」の希求ではないか。「国民」という集団的アイデンティティの排他性を乗り越え、国籍や人種などの単一のカテゴリーの特権化や本質化を拒絶し(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社)、国民国家超克の具体的ヴィジョンをいかに描いていけるのか。「インドネシア民主化」の課題とは、すなわち、我々に課せられた「日本の民主化」という重い課題であると言えるのではないだろうか。

参考文献:

(やすき たけひと・AWC会員)

編集部注:

『想像の共同体−ナショナリズムの起源と流行』("Imagined Communities", 1983)

 ナショナリズム研究の「新しい古典」とも評価されるベネディクト・アンダーソン氏の著書。“Nation”(国民)を「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」と定義し、それがマス・コミュニケーションの発達など近代化の過程でイメージとして構築された過程を論証した。その後、日本では月刊誌『世界』(93年8月号)に、論文「〈遠隔地ナショナリズム〉の出現」が発表された。こちらは、グローバリゼーションの進展、とりわけメディアのさらなる発達と大量移民によりナショナリズムが「遠隔地」で再生産される過程を論証するとともに、エスニシティへの視点を喚起している。

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スポットライト

「見えない存在」としての“OCW”

〜台湾における外国人労働者問題の現状〜
於勢 知之

台湾で出会ったフィリピン人労働者

 台湾北西部、中歴駅から徒歩5分の距離にあるカトリック教会。痴呆症老人のケアテーカーであるフィリピン人女性と話した。日曜日のミサに出席する何百人のフィリピン人のなかの1人だ。「うちのおばあちゃんボケちゃってて、いつも財布を置いた場所を忘れるの。財布を盗んだだろって、私がいつも疑われるのよ」

 台湾には、彼女のようなケアテーカーや、ドメスティックヘルパー、建設業、漁師など単純労働に従事する外国人労働者が現在約30万人いる。内訳はフィリピン人が約11万3千人、タイ人約14万人、インドネシア人約4万7千人。台湾の総人口約2200万人に対する人口比は1%超だ。彼らはOCW(Overseas Contract Workers)と呼ばれ、企業駐在員や語学教師など専門的能力を持つ外国人労働者とは立場が異なり、国家間契約により特定の国から「輸入」され単純労働に従事する。政府が定期的な雇用状況を調査しOCWを必要とする産業部門と雇用人などの条件を決定。労工局がOCW雇用に必要なすべての申請手続きと承認を行っている。

 OCW受け入れは1989年に決定され、92年に開始された。原因は急激な経済成長と社会の変化による単純労働力不足だ。1970年以降、毎年5〜9%という並外れた経済成長。失業率は約2%を推移し労働力不足が発生した。また経済発展により生活レベルが向上し、「3K」職は嫌われる職種となった。深刻な単純労働力不足に悩まされた企業は、不法外国人労働者を一時的な解消策として採用した。

 同時に産業界は外国人労働者雇用の合法化を要求し世論は分裂した。労働力不足を解決し経済成長に役立つという賛成派と、台湾人労働者の福祉を低下させ社会を不安定にするという反対派。妥協案として、不足分の労働力のみを受け入れ、永住権は認めないという条件付きでOCW受け入れが決定された。

台湾におけるOCWの地位

(1)OCWをめぐる諸条件

 OCWは「安く、使い勝手の良い労働力」だ。平均月給は2万新台湾ドル以下と台湾人の半分に満たない。彼らは逃走防止手段として月平均3千新台湾ドルの強制貯金を課される。最長滞在期間は3年。一度滞在期間をまっとうすると、再びOCWとして台湾に戻ることは制度上不可能となっている。OCWとして台湾に再入国するには、密入国かパスポート偽造しかない。家族を伴っての来台は許可されず、6ヶ月毎の医療検査で、妊娠や法定伝染病感染が発覚すれば強制送還だ。

 中でも彼らにとっての最大の課題は、ブローカーへの早期の借金返済である。平均台湾7万新台湾ドルから8万新台湾ドルの仲介手数料の借金は、短期滞在、低賃金の彼らには重い。1年目の給料で速やかに借金を返済し、後の2年で稼がなければならない。

(2)OCWの抱える問題

 このような条件下にいるOCWは、日常生活でもさまざまな問題を抱えている。以下は、いずれも現地NGOからの聞き取りによる。

―ケース1:パスポート取り上げ

 台湾入国直後に雇用主、ブローカーがOCWのパスポートとARC(外国人登録証)を取り上げる。NGIO関係者によると、脱走防止のための半ば公然の行為である。国際法に抵触するものの、雇用主及びブローカーのパスポート取り上げを罰する国内法は無いという。

―ケース2:契約変更

 出身国で労働契約書にサイン後、仲介手数料を支払う。しかし入国直前にブローカーが別の労働契約書を提示、サインしないと台湾入国は不可能と告げられる。既に借金を抱え、契約書は中国語である。それで言われるがままにサインする。最初の契約は毎週1日の休日を定めていたが、後の契約ではOCWが自発的に休日必要無しと同意している文面を含んでいた。後の契約が法的効力を持つ。

―ケース3:税務署での2重徴収

 本国で領収書を取る習慣が無いOCWに対し、税務署員が領収書を意図的に渡さずに、OCWの支払った税金を懐へ入れてしまった。こうなるとOCWは税金の再請求が来ても支払い済みの証明ができないため、再び払うはめになる。

 また肝心の給与にも不正がある。法が定める最低賃金は15840新台湾ドル/月だが、それを下回る賃金で働いている例に何度か接した。だが違法な扱いを受けているOCWでも、解雇の危険を考えると訴え出ることは怖いと口をそろえて言う。OCWに対する法的保護が不十分で、1度本国送還になると2度と台湾にOCWとして戻って来れない。そうなると、借金を返済し国に送金するためには、我慢して安い給料でももらった方がいいという非常に現実的な判断をすることになる。この他、医療、労働災害、文化摩擦、また数千〜数万人いるといわれる不法労働者問題がある。

 そして、OCWの90%以上は独自の住居を持たない。工場内の寮や雇用主と同居し雇用主の管理下にある。外出は出来て週1回。NGOの中国語講師は「生徒が毎週末、仕事を休めるわけではないから教えるのは難しい」という。

 このように、OCWの生活は法律ではなく雇用主・ブローカーのさじ加減に左右される。法律的・社会的弱者であるOCWにとって、良心的な雇用者に当たれば、ある程度の給与と満足した生活を得れる。しかし悪い雇用者に当たれば、労働・生活条件は厳しく、反抗すれば契約解除、そして本国送還の危険をはらんでいるのだ。

(3)多くの台湾人にとってのOCW

 一般的に、台湾人の中にはOCWに対するネガティブなステレオタイプが浸透している。政府により行われた台湾人のOCWに対する意識調査では、約30%が安価な労働力として積極的に評価し、約70%が、台湾人の就業機会を奪い社会の不安定要因になるとして消極的な評価である。マスメディアは、OCWが銀行強盗や雇用主を殺害すると、「OCWによる犯罪」を強調して報道する。だが政府統計では、外国人の犯罪発生率は人口比で台湾人より低い。

 日本と比べて台湾の外国人労働者は依然「見えない」存在だ。日本では外国人労働者が「見える」存在になってきている。90年の単純労働への日系人受け入れ開始以降、労働のみならず教育、居住など様々な面で、日本人と接触を持つ機会が増えてきた。だが台湾のOCWに子どもはいないから教育問題は起こらない。独自の住居を持たず台湾人と隣住することはない。実際に台湾人がOCWを見るのは公園・広場に集まる姿くらいである。上野公園に集う外国人を見る日本人と似ている。

(4)労働組合にとってのOCW

 労働組合は、一般的に、不足した労働力を補う限りならOCWを受け入れ台湾人同等に扱うべきという態度だ。労働運動関係者は「台湾人が見つからない場合のみOCWを雇うといっても、企業が3日間、新聞の片隅に募集広告を出すだけ。募集条件は一般の台湾人が生活していけないレベル。必然的にOCWがその職に就く」という。だが、昨年9月高雄市で開かれた全国的な労働組合の大会では、労働力不足の解決方法との前提で、OCWを労働者として台湾人と同等に扱うべきという声明が大会決議に盛り込まれた。

(5)先住民族にとってのOCW

 また、単純労働職は教育の程度が相対的に低い先住民族がつく職業ともなっており、OCWは先住民の競合相手ともなっている。

彼らに対する支援の状況

(1)NGO

 OCW支援の中心的な役割を担うのが台湾各地にあるカトリック教会系NGOである。カトリック教会は外国人支援NGOを台北、中歴、台中、高雄などの台湾各地に設立し、約20年間にわたり一貫して外国人労働者を支援してきた。中でも前述の中歴のカトリック教会内にある“Hope Workers Centre”は常勤スタッフ3〜4名を擁する台湾最大級のOCW支援NGOだ。カトリック教会の世界的ネットワークを活用し、台湾人のほかにフィリピン人、タイ人が専任ソーシャルワーカーとして来台している。活動は実に多様で、通常の相談活動のほかに、労働、税関連の法律講義、台湾人労働者と合同の労働争議、中国語講座、ミュージックフェスティバルなどを行っている。相談可能言語も英語、タガログ語、タイ語、中国語と4言語に対応可能である。

(2)在外公館

 また実質的な在台中フィリピン領事館(※)である“Manila Economic and Cultural Office, Extension Office in Taichung”も、9名の職員のうち1名を労働相談担当専任ソーシャルワーカーとして配置。フィリピン人に対する法律講座、有志の弁護士との連携による相談業務を行っている(※台湾・フィリピン間には、現在国交が無い)。

まだ見えない問題解決の前途

 NGO・NPOの援助手法は、(1)直接援助、(2)エンパワーメント(力をつけること)、(3)社会への働きかけ、これら3つに分類される。だが今のOCWの立場は直接援助するにも、エンパワーするにも弱い。最長3年の滞在期間。再来台が不可能であること。法制度の未整備。待遇に不満を抱いても、反抗して解雇・本国送還の危険を犯すより、借金の返済や本国への送金のために耐えて働かざるを得ない。だが公に訴え出ない限り台湾人には認知されないという悪循環を抱えているように思える。このような現状でHope Workers Centreと一部の協力的な労働組合は、OCWの立場の脆弱さを理解し、個人ではなく集団で、OCW単独ではなく台湾人との合同争議という手法を取ることにより、解雇の危険を緩和しつつ、台湾人の労働問題と連携し、社会にOCWの問題を訴えている。

 しかし、OCWが抱える問題の解決へ向けての前途は見えない。2000年に入り、OCWを毎年1万5千人削減し、滞在期間を6年へ延長する方針が発表された。また、台湾・フィリピン政府間関係の悪化によるフィリピン人OCWの締め出しと、ベトナム人OCWの受け入れが昨年11月より始まっている。景気と労働力の調整弁であり、そして時には政治に翻弄されるOCW。彼らの抱える課題がこれからすぐに解決されるとは思えない。

(おせ ともゆき・学生、多文化共生センター京都)
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報告

北朝鮮人道支援国際NGO会議

小池 和彦

 6月30日から7月2日にかけて、北朝鮮への人道支援に携わっている各国のNGO や国連機関の関係者により「DPRK (北朝鮮)人道支援国際NGO会議」が都内で開かれた。最初の2日間は実務者による会議、最終日の2日は記者会見と公開シンポジウムという日程で、人道支援の状況についてディスカッションが行われた。

依然として厳しい食糧事情

 北朝鮮の現状についての会議の参加者の共通認識は、若干改善されてきているが援助はまだ必要、というものだ。ユニセフのディラワール・アリ・カーン氏は北朝鮮の歴史を3つの時期に区分した。第1は社会セクターで多くのことを成し遂げた1994年までの時期、第2は食糧、水、医療などの状況が深刻な状態に陥った1998年までの時期、そして第3は急速に状況が改善されてきている現在までの時期だ。もともと工業国だった北朝鮮は人材が豊富で大きなポテンシャルを持っていることや、各国の政府やNGOによる援助が効果をあげたことなどを回復の要因とすることができる。ただし現在でも北朝鮮全体で供給されている食糧は、1人あたり1日150グラム、550カロリーにすぎず、まだ援助は必要だとカーン氏は言う。

 人道支援団体カリタスのキャシィ・ゼルベガー氏は、援助食糧は全人口の3分の1にしか届いていない、と指摘した。援助の絶対量が足りず、十分な量の物資を行き渡らせることができないためだ。ただし、世界保健機関(WHO)のエイギル・ソレンセン氏によれば、医療も含めた広い意味での人道支援は80パーセントから85パーセントの人々に届いている。

韓国人の北朝鮮認識の変化とNGOの役割

 韓国の同胞仏教助け合い運動の執行委員長を務めるソ・ギョンソク氏は、飢餓をきっかけにして北朝鮮の人たちに対する韓国人の見方が「敵」から「同胞」へと大きく変わったことを指摘した。韓国人は飢餓の状況を知って1997年に爆発的な募金運動を展開した。これは「1919年の独立運動に続く第2の民族運動」だという。もはや北の同胞を助けても「アカ」とは呼ばれなくなった。金大中政権の太陽政策はこの変化を精神的基盤とするものだ。

南北会談以降の状況について、ソ・ギョンソク氏は、「韓国のNGOの活動はさらに活発になるだろう」と予測しながらも、韓国政府が北朝鮮への援助に関するすべてをコントロールしようとしていることに懸念を表明した。政府はインフラの整備、企業は経済協力、NGOは人道支援、といったように役割を分担し、NGOに対して政府は補助金を出す形でサポートすることを提案した。

食糧支援は日本にとっても利益

 2日のシンポジウムで基調講演を行った武者小路公秀氏は、明石康氏の「朝鮮に食糧支援をすれば朝鮮が国際社会に対して持っている不信感を和らげることができる」という言葉を紹介した。食糧支援は北朝鮮にとってだけでなく国際社会にとっても利益がある、ということだ。北朝鮮での人権侵害を問題とし、体制の延命につながる食糧支援に反対している一部の団体については、「食糧援助を止めれば現在の体制は崩壊する」という間違った認識に基づいている、と批判した。

 欧米や韓国のNGOに比べ、日本のNGOの北朝鮮への人道支援は大きく立ち遅れている。現在では国連やNGOの機関が100名を超える規模で北朝鮮に常駐しているが、日本からは1人も常駐していない。この理由について、吉田康彦氏は国交がないことや世論の支援がないことを挙げた。北朝鮮の大多数の人々も日本を敵視している。しかし今後はゼロサム・ゲームではなく「ウィン・ウィン戦略」により、関係を改善することで中長期的に双方が利益を得るようにするべきだという。

 南北首脳会談により、朝鮮半島の緊張緩和は一気に進んだ。しかし、武者小路氏は「あと6ヶ月が勝負だ」と指摘する。アメリカの大統領選挙で共和党のブッシュ候補が勝利すれば、アメリカの北朝鮮政策が転換して再び緊張が高まるおそれがある。そうならないために、現在のいい状況の中でできるかぎり多くの成果を確保しておくべき、ということだ。

(こいけ かずひこ・AWC会員)
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友好団体紹介(10)

徳島で国際協力を考える会

(TICO: Tokushima International Cooperation)

「地方」から発信するNGO

 日本で「国際協力」「国際貢献」という言葉が唱えられ始めてだいぶたつ。各地のNGOによる参加型ボランティア・プログラムなどにより、多くの人々が国際協力に親しみ始めている。しかし、NGOの多くは東京、大阪などの大都市にあり、その地域以外の人々にはアクセスしづらいのも現状だ。そのような状況のなか、地元の人々とともに国際協力を考え、実践していく地方発信型のNGOがある。徳島県麻植郡山川町にある「徳島で国際協力を考える会(TICO、代表三村誠二氏)」だ。

 TICOは1993年の設立以来、徳島で、世界の中の日本の役割を考え、地元発の国際協力の実践、そして豊かな地域社会形成のために活動してきた。戦争、貧困、飢餓などの問題で苦難を被むる人々への自立支援を共同作業により実践し、それにより得た知識、経験を、徳島を中心として地域の人々にフィードバックし、援助先および徳島での持続可能な循環型社会の構築を目指している。TICOの設立者で顧問の吉田修氏(外科医・山川町で診療所開業)はこう語る。「貧困にあえぐ国や地域に対し、ヒット・アンド・アウェイの活動ではなく、病気の予防といった根本的支援活動を、1つの地域で長く続けることが必要です」

 長期支援という目的を遂行するため、支援活動地域の一つであるアフリカ、ザンビアのルサカ市で、吉田氏は顧問として姉妹組織SCDP(コミュニティ持続可能プログラム)を常設。現在、3人の日本人常勤スタッフが農業指導を行う一方で、コミュニティ・ヘルスワーカー(地元保健婦)養成も行う。実際に栄養失調の小児をもつ母親が栄養学を学ぶ。吉田氏は言う。「母親が栄養について学ぶことで、子どもたちが目に見えて元気になる。いつか母親たちが得た知識がその地域に根づいて生かされれば」

 現地活動により得た知識、経験を地元徳島で生かすため、TICOは「地球人カレッジ」(国際問題についての公開講座。ザンビアのほかフィリピン、東ティモールなども取り上げる)や、一般人・学生参加型のザンビア研修ツアーなどを企画運営する。地球人カレッジはTICO手作りの国際協力講座で、世界で現在起きている諸問題はけっして遠い所での話ではなく、自分たちの生活に深く関連しているということをわかりやすく伝える。ザンビア研修ツアーの参加者は、中高生から高齢者までと幅広い。参加者は、現地での経験を通じ木や水の有難さを実感し、自分たちの豊かな生活を支えているものは何か、またそれはいかに脆いものかを学べたという。そして彼らは、学んだことを、彼らの地元社会に還元し、TICOの目的である持続的循環型社会の形成に役立てていく。

地元の人々からの反応

 TICO、SCDPに地元の多くの人々が共感、賛同し、いろいろな支援をしている。たとえば、「わらびの会」というグループは、吉田氏からザンビアなどでの問題について知った主婦たちが、自分たちに出来ることは何かを考え始めたことがきっかけでできた。彼らは、高齢化した農家の収穫を手伝うなどして得た収益金をTICOの活動資金として寄附している。また、山川町で吉田氏が開業する「さくら診療所」の駐車場で毎週土曜日に催される「山川げんき市」は、地元の人々が自家製の野菜、果物や苗を売って収益金をTICOの活動資金にあてている。TICOと地元の社会は互いに育て合い、それは世界に広がり、そしてそれが共存・協力関係を結んでいくことに繋がるのだ。

 NGOの多くが大都市にある状況のなか、TICOのような、地域社会にしっかり根づき、地元の人々1人1人が発信し、国際協力、人・町づくりを推進するグループはとてもユニークだ。国際協力とはけして大仰なことでなく、私たちみんなが各々の持ち場でできること。"Think Globally Act Locally"。この基本姿勢を忘れないで、とTICOは語り掛けるのだ。

徳島で国際協力を考える会(TICO)連絡先:
(青山 有香・ジャーナリスト AWC所属)
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編集後記

先日、戦後補償ネットワークが主催する「最近の戦後補償裁判の動向と課題」という報告会に出席した/今年で20世紀が終わろうとしているが、まだ今世紀半ばに起こったあの戦争に対する補償や謝罪が、当事者たちにできていないでいる/ひとえにこの国の政府の無責任な対応と認識のせいだ/しかし米国の戦争捕虜から起こっている多くの訴訟や最高裁の和解勧告、そして補償に対する議員立法化が進んだりと、このかたくななまでの姿勢が少しづつ揺らごうとしている/が、時間はない(や)

私の不手際により、5月の定例会でお話いただいた和仁廉夫さんには多大なご迷惑をおかけしてしまった。読者やAWC会員の方々へも合わせて、ここで深くお詫び申し上げます/さて、九州・沖縄サミット。赤いアイテムを身につけて基地拒否の意思表示をする行動も出た、嘉手納基地包囲行動。サミット後こそ「沖縄」に注目したい(し)

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月刊AWC通信2000年8月号(通巻第22号)
2000年7月22日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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