『AWC通信』2000年5月号(第19号)


目次


定例会報告

北朝鮮食糧難民の現状

ビデオ:『北朝鮮の少年たち、中国へ逃れる』(ビョン・ジェソン監督)
解説:上野 哲史(うえの てつし)さん(日中恊働「飢民」支援フォーラム)
 今回の定例会では、本誌前号の「友好団体紹介」欄掲載の日中恊働「飢民」支援フォーラム(以下日中フォーラム)との共催で、韓国のビョン・ジェソン監督のビデオドキュメンタリー作品『北朝鮮の少年たち、中国へ逃れる』を上映し 、日中フォーラム事務局スタッフの上野哲史さんに解説していただいた。

私たちをも逆照射する『北朝鮮の少年たち、中国へ逃れる』

 ビデオ『北朝鮮の少年たち、中国へ逃れる』の描く世界は、「中国に逃れた北朝鮮の少年たち」の中国吉林省延辺朝鮮族自治州での「暮らし」と、そこに至る故郷の現状を語るインタビューによって、外の世界の人々の「人道」にストレートに訴える秀作だった。ナレーションがない故にか、かえって少年たちの現在進行形のドラマのすさまじさを実感する。誤解を恐れずに言えば、ここには「かわいそうな少年たち」は登場しない。皆、過去よりも現在をどう生き抜くかが最大の問題だからだろう。それは文字通りの意味でのドキュメンタリー=記録ではなく、画面の向こうにしまわれる「記録」を、外の世界の私たちの現在に重ね合わせるという記憶化を強いるものでもあった。そして、それが最終場面で、逃げるために渡ったはずの中朝国境の川、豆満江を再び中国側から故郷に渡って戻ってゆくシーンで終わるがゆえに、私たち観る者は少年たちの帰りゆくその先にある「祖国、朝鮮民主主義人民共和国」の政治についても思いを馳せないわけにはいかない。つまり私たちの現在をも逆照射する性質の映像表現でもあった。

 ところで、この定例会の報告を私が引き受けたのは、私自身がビデオ上に登場する少年たちと同様の身に置かれた少年たちに昨年夏、ビデオの「ドラマ」の舞台である延吉、図門で出会っていたからでもある(本誌No.11参照)。

 少年たちはそこにたどり着く過程で、既に多くの「悲惨」を背負わされていたが、しかしやっと越境してきた、そこでの現在もやはり「飢民」である現実を背負わされていた。過ぎた「悲惨」と現在進行形の「悲惨」との軽重は比べようもなく、また相手が見ず知らずの日本人であってみれば語るべき多くの言葉を持ってはいなかった。でも、それ故に語り口があまりに淡々としていたことが印象に残る。話される身の上話が両親の餓死であればなおさらのこと。そして私は恥ずかしい話ではあるが、取材の現場で、彼らとどうかかわれるのか、にわかには答えが出なかった。もちろん「国境の向こうの問題」に関わるとき、政治家でもない我々にどれ程の正解があるのか私は寡聞にして知らない。

 それでもあえて「難しい問題」に挑戦する人たちの活動は、それ自体勇気づけられるだけでなく「正解」を求めるヒントにはなるという思いを、報告をまとめながら感じている。

「脱北難民」の現状

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 さて上野さんの話から、この間の北朝鮮の食料危機のおさらいをしよう。「90年代前半から慢性的な食料不足が起こってきて、その結果として慢性的な飢餓状況も起こってきた」というのが「言うまでもない北朝鮮の情況」だ。「具体的な数字として上げられるのが98年にWFP(世界食料計画)が調査した、生後6ヵ月から7歳までの子どもの16パーセントが急性の栄養失調であり、なおかつ62パーセントが慢性の栄養失調である。これは100人いたら78人が何らかの栄養失調であると思えと言うことですよね」

 私の世代(40代)の子ども時代は、栄養失調は、健康優良児という今では死語となった言葉と対になっていたから、それほど特異なものではない。一方で飢餓という言葉は、枯れ枝のような肢体と腹だけが異様に膨らんだ「ビアフラの子どもたち」の映像を連想させる。よって栄養失調と飢餓とは直接結びつかないのが一般的だろう。私自身も97年に行った北朝鮮に食料危機の取材がなかったら、「栄養失調と飢餓」とは別物と判断したに違いない。しかし私が見た栄養失調の子どもたちが、日本だったら簡単に治る病気でも体力のないためにさまざまな病を併発し死に至るしかない現実に、栄養失調は充分に死因足り得ることを知った。たしかに医者に言わせれば「栄養失調」で死ぬなどということは北朝鮮の食料事情においてもないのだろうが、素人目には栄養失調を「死因」と呼ぶ方がより現実的であるというむごい事実はいかんともしがたくあるのだ。それは疲弊しきった国家財政が人々の生活を直撃し、慢性的に老人や子どもたちを死に追いやっていたとも言える。

 それが現在も続いている。「映画の中でも出てきましたが、見た目からして発育不良とわかると思います。つまり15歳くらいだと思ってみていたら実際は17歳だったと」。しかもことは難民だけではない。「北朝鮮には食料援助のNGOがいくつも入っているのですが、その彼らが言うに、北朝鮮で飢餓状況を見るのは難しいことではないと。首都ピョンヤンで誰でもいいから人民の子どもをつかまえて年齢を聞いてみれば、あなたが思っていた年齢より必ず2つや3つ年下に見間違っていたことに気づくだろうと」

 こうした情況で日中フォーラムは、その少年たちとどうかかわってきたのか。「北朝鮮の飢餓に対して何かをするのではなくて、中国に河を渡って逃れてきた『脱北難民』の支援をしています」「国境の川の豆満江(トマンガン)を渡って来た人たちは、北朝鮮にいるときから中国のどういうところに行けばお金がもらえて、米の飯が食えるというようなことがかなり伝わっているようで、そういう情報を聞いて来た人たちや、何度も中国に来てまた北朝鮮に戻るということを繰り返す人たちもいるようです」。韓国の難民支援団体「グッド・フレンズ」によると、その数は99年度で30万人にものぼるという。

取締りを強化する中国政府

 「その『脱北難民』と中国で接触するルートを見つけてからずっと支援を続けてきた」と言う上野さん自身も昨年7月〜8月に現地に行ったが、ビデオ撮影時と比べ情況が変化してきたという。「私が難民なのかなと推測できるひとはほとんどいなかった。地元の人たちは『(国境付近の)取り締まりがきつくなったからいなくなった』といいますが、これは難民が永住、つまり北朝鮮という国を、あるいは家族を捨てて中国に留まって暮らすために西の奥地の方まで逃げるケースと、国境付近で何らかの支援をしてもらったら直ぐ北朝鮮に戻るということを繰り返すケースに分かれてきたからだ」と上野さんは見る。これは中国政府が「脱北難民」を取り締まりの対象としているからだと。

 取り締まりは難民支援の中国人にも累が及ぶ。「だいたい3000元から5000元の罰金。中国の東北地域での10ヵ月から1、2年分くらいの収入に相当する」というのだ。中国政府が「脱北難民」を国際条約にいう難民と認定せずに「飢民」と呼び、不法入国者と見なす政策による。これについて、今年になってやっとUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が強制送還者を難民認定すべきと抗議をしたことから、上野さんは情況は好転する可能性が出てきたと言うが、ともかく現状が厳しいことに変わりはない。

 こうした情況下で、日中フォーラムは難民を援助している現地の中国人(主に朝鮮族)の支援者と直接コンタクトして、その支援者を支援していると言う。日本で集めた義援金は、現地でその中国人から難民に現金で分配されたり、「永住」を希望する難民の衣類や、あるいは移動費や、仕事や住居の手配の費用に使われる。支援者1団体または1個人に渡す5万円は、分配されて難民一人200元 (約2500円〜3000円)で、17人をサポートできる計算だ。難民の話によると、これで70キロの米が北朝鮮内で買えるという(つまり北朝鮮の中でも市場では米が買える情況もあると、中国の支援者の話が紹介された)。「私たちの活動は完全に合法なのに、現地の支援者が難民を支援する事は非合法になってしまうので、残念ながら私たちは、その支援者が誰なのかはお教えできません」。本来NGOはオープンな活動を旨とするが、ここではそうはいかないもどかしさがある。

活動のスタンスをめぐって

 ところで「大多数の日本人は『北朝鮮は怖そうな国だ』ということでタッチしない。少数の『親北朝鮮』の立場か、『北朝鮮の非人道的な政策に抗議すべきだ』という立場に極端に分かれる。私たちは積極的に北朝鮮にかかわっているが、政治的な立場に一切触れないとうこと原則にしています。触れなくても現に食糧難で困っている人たちがいるという事実があれば、支援活動にはそれで充分。いい意味での『政治的無指向』を取ることで、北朝鮮に対するいろいろな立場の人たちに参加してもらいたい」。この意見にもまた賛否両論あろう。だが、活動しながら討論するという方法もある。少なくとも現地の「飢民」は結論を待っていられない情況に置かれていることだけは事実だ。

(豊田 直巳・フォトジャーナリスト)
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あるひとりのクルド人の死

〜「難民問題」の落とし穴〜
中川 喜与志

日本でも100名を超えるクルド人難民申請者

 中東の地・トルコよりクルド人たちが日本に押し寄せ、日本政府に対して政治難民としての受け入れを求めているというと、多くの日本人は驚くに違いない。入管当局がいっさい情報公開しないので、クルド人たちによる難民申請の数は正確には把握できないが、クルド難民弁護団(団長:伊藤和夫氏)が支援しているだけでも約40名、全体で100名を超える。日本における民族別の難民申請件数では、おそらくこのトルコ国籍のクルド人たちが最も多い。元来それ自体が大きなニュースとなる出来事だ。にもかかわらず、日本のマスメディアは特に注目を払おうとしないし、その背景を探ろうともしない。

 難民申請しているクルド人たちはほぼ全員、トルコのクルド人非合法マルクス主義組織PKK(クルディスタン労働者党)の支持者たちだ。紙面的な余裕がないので、背景をざっとだけ述べておこう。80年代末よりトルコ東部ではトルコ軍とPKKの戦闘が激化し、政府閣僚の口から「東部では実質的に内戦が起こっている」との発言が飛び出すまでになった。90年代に入ると、トルコ軍はついにPKKを支持する村々をすべて物理的に破壊する政策を取り始めた(「村の無人化政策」と呼ばれた)。この政策は94〜95年にピークを迎え、故郷を追われたクルド人の数は300万、破壊された村・町の数は3000を超えた。この大規模な農村破壊はクルド人たちをトルコ西部の大都市へ、欧州各国へと避難させた。さらに東部=クルド人居住地域がトルコの経済発展から構造的に取り残されてきたため、農村破壊を引き金に一種の“民族移動”とも呼べる現象が現れた。そして一部のクルド人たちは欧州での入国規制の動きを見て、はるか極東の“民主主義国家”=日本へと避難してきたのだ。興味のある方は、ずいぶん以前のものだが、拙稿「トルコのクルド人問題」(『エコノミスト』97年1月27日号)、「トルコからクルド難民がやってきた」(『週刊金曜日』97年7月18日号)を参照されたい。

民族としての認知を求めていることへの視点を

 ここで1人のクルド人難民申請者のことを記そう。その名はムスタファ・クズマズ、トルコ・アディヤマン県出身の元小学校教師。年齢は40代半ば。彼がクルド人として日本で難民申請の口火を切った1人だ。申請の動きはいま述べたトルコ・クルディスタンでの状況に符合し、96年から始まっている。じつは私は、97年初頭に彼から申請の是非について相談を受けている。その時、私は、日本の入管体制の後進性、日本のジャーナリズムのクルド人問題に対する認識の低さ、日本人の難民支援運動があまりに弱々しいこと…などを話した。もっと正直に白状すると、「これ以上、自らの身を危険にさらすべきではない。それに見合うだけの意味があるのか」とまで言って、日本での難民申請に反対したのだった。ムスタファの顔に失望の色が浮かんだ。それでも彼は申請に踏み切り、その時、20数名の在日クルド人も彼に続いたのだった。ムスタファは古くからの左翼活動家であり、かつて5年間の獄中経験もあった。名前は間違いなくブラックリストに載っており、治安機関は彼の居場所を追っていた。展望のない日本での難民申請、それ自体をトルコ政府は新たな反国家活動、分離主義活動と見るだろう申請却下で強制送還されたなら、いかなる迫害が待っているかは火を見るより明らかだった。「これ以上……」と言ったのはそういう意味だ。

 なぜ自らの身を危険にさらすのか? 彼は「クルド人は歴史的にトルコ共和国の政治的・軍事的・経済的な弾圧によって世界中に散らばった。クルド人という民族としての存在は否定されてきた。国際社会も認めない。だからこそクルド人は世界のどこにいようが、民族としての存在を主張していかねばならない」と。民族的な義務だというのである。こうも言っていた。「トルコ政府発行のパスポートを燃やして、私の国籍はクルド人、祖国はクルディスタンとあくまで主張したら、日本政府はどうするだろうか…」と。

 そのムスタファの申請は、入管法上の規定、入国後あるいは難民となる事由が生じてから60日以内に申請しなければならないという「60日規定」であっさり却下。異議申立てをするものの、その過程で他の仲間たちの申請も次々と却下。絶望した彼は、一昨年秋、自ら帰国する。ロシア・アゼルバイジャン経由でトルコへ密入国。拘留・釈放を経て、以降ずっと週何日かの取り調べを受けていたらしい。そして昨年7月、殺害される。現地の新聞は「自らの息子がナイフで殺害」「殺されたムスタファはPKK日本支部の責任者」と大きく報じた。

 ひとりのクルド人の友人の死を感傷的に、あるいは日本人として罪の意識で書き記しているのではない。クルド人たちが民族総体として国家から政治的、経済的そして暴力的迫害を受けている、何よりも民族としての存在の認知を要求しているという認識を持たなかったなら、この問題は何ひとつ見えてはこない。さもないと、簡単に「政治難民か経済難民か」というトラップに陥ってしまうということを言いたいのである。

(なかがわ きよし クルド人問題研究家/ライター)
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チェチェン侵攻の深層

〜「ロシア帝国」に屈服しない唯一の民族〜
林 克明
「石油利権」「クレムリン内部の権力闘争」「『国際テロ活動』の撲滅」――。ロシアによるチェチェン侵攻の理由として、外部で説明される際に登場する言葉である。だが、チェチェンを取材してきた筆者は、報道には出てこないが、別のもうひとつの理由があるのではないかという。

 2月上旬の首都グローズヌイの陥落以降、チェチェン領域はもとより、ロシア連邦全土で民族浄化が進行している。

 96年の統計でチェチェン領内に住むチェチェン人は約90万人、ロシア内に住むチェチェン人は約10万人である。約1億5000万人のロシア連邦の中で、チェチェンは人口でも面積でもロシア連邦の1%に及ばない。いったいなぜこのような少数民族への攻撃にロシアは躍起となっているのか。多くの専門家などが「石油利権」「クレムリン内部の権力闘争」などといろいろな見解を述べてきたが、私は納得がいかない。もちろん、間違いではない。だが、95年初頭からこの問題を取材し始めた私は、当初からチェチェン攻撃の「本当の理由」を感じとっていた。そして、うすうす感じていたものが、最近では「確信」に変わりつつある。その「本当の理由」というのは、ロシア人のチェチェン・コンプレックスに他ならない。

 ロシア帝国時代から現在にいたるまで、ロシア人優越主義は根強い。したがってロシア人は、少数民族を蔑視し迫害している。蔑視とは、相手を自分たちよりも低く見るということだ。ところがチェチェンに対しては、ロシア人は、自分より低い位置にいるはずの民族が、じつは自分たちより自由で誇り高く、精神性をもっていると無意識のうちに感じているのではないか。そして、そのことに自分自身では気づいていない。

 チェチェンとロシアの戦いは、古くは400年前にもさかのぼる。ロシア帝国は、チェチェンを含むカフカス地方を植民地化しようと攻撃を続けてきた。とりわけ19世紀、植民地化の最終戦争「カフカス戦争」の50年間は激しかった。そして、カフカス諸民族のなかで最も果敢に抵抗したのがチェチェン人である。10月革命後の内戦時代も独立に向けて抵抗し、スターリン時代になっても屈しなかった。第二次大戦中には、民族丸ごと列車に詰め込まれ、中央アジアのカザフスタンなどに強制移住させられた。このとき人口の半分が失われたという。その後も抵抗は続き、1991年の独立宣言で双方の対立は決定的になった。94〜96年の戦争、そして99年9月から現在までと戦争が続いているわけだ。

 この数百年の間、チェチェン人はロシアにひざを屈していない。現在のロシア連邦内に住む多くの少数民族は、基本的には帝国の支配に屈服している。つまり、チェチェン人とは、「ロシア帝国」に屈服しない唯一の民族なのである。そこがロシア人は気に入らない。

 この生命力の強さ。しかしチェチェン人が強いだけならば、ここまで生き延びてこなかっただろう。数100年の間に30年から50年のサイクルでロシアに大量虐殺されてきた不幸な民族でありながら、人間性を失っていはいない。年長者を敬い、弱者には共感を示す。そして社会的地位の高い人とそうでない人の間でも「俺とお前」という感じの接し方がされる。長い歴史のなかで、国王や貴族階級というものは一度も存在しなかった。そして彼らは、外からきた人間を神様の贈り物と見なして、最大限のもてなしをする。

 それは、敵であるロシア兵でも同じだ。前回の戦争から、徴兵されたロシア兵の捕虜に対し、殺さずに自分たちと同じ食事を与え、母親のもとに返していた。そして自分の息子を戦場まで探しにくるロシア兵の母親たちを暖かく迎えていたのである。自分の家族や友人を殺している人間の母親なのに。

 いまも民族絶滅といっていい状況なのに、チェチェン人はまだロシア人そのものを拒否してはいない。ロシア人がチェチェン民族全体を犯罪人として見るのとは対照的である。ほとんど報道されないこうしたチェチェン人の特徴を、ごく少数のロシア人はわかっている。そしてまったくわからないように見える人も、感じ取っている部分があるのではないか。

 いまロシアでは、知識人、マスコミ、政治家、庶民、人権活動家、ロシア正教会が、チェチェン攻撃をヒステリックに叫んでいる。チェチェン攻撃で大成果をあげたKGB出身のプーチンは、治安機関の強化、学校での軍事演習復活をもくろみ、「内部の敵」たるチェチェン人弾圧をエスカレートさせている。このままでは、間違いなくある種のファシズムに突入すると思う。ロシアの人々は、自由を恐れ、自由を愛する人を恐れている気がしてならない。

<<お知らせ>>

チェチェン難民救援募金

日本カフカスクラブ

(はやし まさあき・ジャーナリスト/著書『カフカスの小さな国』小学館)
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インタビュー 台湾総統選挙後特別連載企画

今後の台湾、わたしはこう思う!(1)

3月、長く続いた国民党政権から、これまで台湾独立を標榜していた民進党に変わった。この歴史的変換の出来事を台湾の一般の人たちやその周辺にいる人々はどう思い、今後台湾がどうなってほしいと思っているのか。様々な立場の人々に率直な胸の内を聞いてみた。

候美麗(ホウ ミレイ )さん(女性、42歳)

台湾出身 日本滞在21年 会社員

国民党について

 国内での国民党の影響がだんぜん大きかったものですから、私は学生時代まで国民党の方にシンパシーがありました。やはり中国共産党の批判や国民党を英雄視するような教育の効果が大きかったのだと思います。それが大人になっていく過程で、中国共産党もいいとは思わなっかたけれど、国民党もよくないと思うようになってきたのです。両親の世代の本省人は、国民党に抑圧された思いが強く、腐敗部分を見てきたこともあり、反国民党の意識が強いですね。また、本省人の間で国民党の評判は良くないのです。利権と権力が集中している国民党を支持する方が自分の商売が発展していく、という現実的な側面では支持する意味があるのでしょうが、やはりその腐敗ぶりはよくないと、本省人をはじめ様々な人々が思っていますね。李登輝の政治的な功績は認めるけれど、国民党に関しては批判的な人が多かったと思います。

今回の選挙について

 今回の選挙でいうと、国民党の連戦さんは現状維持派とみなされていましたが、現状維持派にも、中国からの武力介入を受けないのならやはり独立したいという人の方が多かったのではないかと思います。現状維持派には商売をしている人が多いから、中国に投資して利益も出てきたのに中国との関係が悪化したらその投資や利益がどうなるのか、ということに強い懸念を抱いているわけです。また、現状維持派となる理由として、独立したからといって台湾は今より本当によくなるのかと思っている人もいます。ですが、結局、武力介入への恐れが一番大きいと思います。

 私は海外に出てから独立派になりました。今回の選挙では私も台湾に帰国して民進党に投票しました。独立派の立場としては、独立すれば国際的な立場がよくなるということです。国際社会での台湾の認知がなされていないため、海外に出たときに台湾人の立場は非常に弱く、手続き上も不便な事が多いんです。たとえばイギリスに留学している友人の娘さんは、イギリスからドーバー海峡を渡ってフランスへ行くにあたって、ほかの台湾人以外の人は何の問題もなく行けるところ、彼女だけビザが必要といわれ、時間がないために結局行けなかったことがあったそうです。こういうことがほかのケースでもたびたびあり、本当にいやな思いをよくするんです。これはすべて国と国の間の問題です。やはり、台湾が独立した国家であればこういうことは起こらないと思います。

 また、中国に行った際に痛感したのですが、台湾と中国では思想や状況が違いすぎる。同じ「中国人」とは思えないくらいの習慣や考え方、あるいは経済状態の違いをまのあたりにして、統合は本当に難しいと思いました。

今後の台湾について

 独立の実現性については、中国のリーダーたちが独立を絶対認めないのですぐには難しいでしょう。

 陳水扁さんは台湾独立派だったけれど、総統になってから、独立に対するスタンスがずいぶんとソフトになりました。たぶん、現状を維持しながら徐々に変えていくのだろうと私は思っています。

 中国の民主化が推し進められたら一つの中国をめざす、という理想も語られていますが、私は個々の独立した国になっていく方が理想だと思っています。なぜなら、中国と台湾では本当に思想が違いすぎるからです。10億人もいる中国人が2000万人の台湾人の思想や価値観に近づくには莫大な時間を要すると思います。それだったら、協力しあう独立した国でいいのではないかと思うのです。

 私は「中国人」というよりは「台湾人」だと思っています。独立派になったときからでしょうね。言葉が通じるという面ではもちろん中国に対して親近感は持っていますし、考え方がまったく敵対してしまうというわけでもないのですよ。ただ、50年間も台湾で暮らしてきた台湾人が中国と同じであるといわれても、その中で育まれた違いや独自の文化の存在という事実は消しようがないですね。私には、独立することが中国と敵対する行為だとはどうしても思えません。一人の自立した人間であるということを社会に認めてもらいたい、というのと同じ理由で、台湾の独立を志向しているんです。台湾には、自分を中国人と規定している人も当然います。宋楚瑜さんを選んだ人には多いんじゃないでしょうか。

 現在、政府は三通(通商・通信・通行)政策を進めていますが、こういう経済的な交流・協力を深めていって、状況の変化が起こればいいと、私もと思っています。ただ、中国のマーケットは大きく、国際社会はその価値を十分に認めているわけです。だから、中国と台湾との兼ね合いのなかで台湾の国際社会での認知がなされていくわけで、やはり当分は、台湾側も様子をみるということになるのでしょうね。

(インタビュー:八尾・白取・大園、構成:八尾)
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香港民主派の心象風景・後編

〜台湾「独立」を見る眼〜
野田 健次
香港民主派は何を目指しているのか。また台湾の行方をどう見ているのか? 元香港駐在記者が民主派の思考にせまる。

天安門事件より領土問題?

 96年9月15日、香港人1万2000人が民主派系の「保衛釣魚台(釣魚台を守れ)集会」に集まった。この年の6月に行われた香港民主化運動のシンボルともいえる「6・4(89年天安門事件追悼)集会」の参加者はわずか5000人程度。民主派にとっては皮肉なことに「6・4」が唱える自由や民主よりも尖閣問題への関心の高さを思い知らされる結果となった。メインステージには民主党を中心に民主派諸派の幹部たちが並んだ。注目を集めたのは、民主化運動のシンボルであるマーチン・リー(李柱銘)民主党主席が壇上にいたことだ。彼はこの頃「6・4集会」の実行委員会から退き集会には一般席で参加していた。その理由は返還後の組織防衛のためと推測されていた。「愛国カード」を積極的に利用しようという民主党の意志の表れと言えただろう。また、台湾からは「新党」のメンバーが壇上に迎えられていた。大陸反攻派のアナクロ勢力だ。なぜ「国共合作」したかは言うまでもない。前回で述べたとおり、香港民主派は「1国2制度」の枠の中でしか民主を唱えることができない。民進党はもとより、公然たる隠れ独立派の李登輝が率いる国民党と組むのも具合が悪い。集会では、10月上旬に尖閣諸島海域へ向けて香港と台湾の運動メンバーが「抗議船」を出すことが宣言された。この集会で何人かの一般参加者に話を聞いた。壇上での勇ましいシュプレヒコールとは裏はらに、「昔(戦争)のことはもういいけど、領土問題は話し合いで解決してほしい」(茶髪の大学生)などと、意外なほど穏やかな声が多かったのが印象的だった。

香港民主派は「共匪」

 民主派主導の運動の盛り上がりに対抗するように、親中派陣営の全面的なバックアップを受けたデビッド・チャン(陳毓祥)が9月下旬に尖閣海域への抗議船を出した。9月26日、同海域で海に飛び込む抗議のパフォーマンス中に彼は事故死を遂げた。政治評論家出身の彼は、これまで何度か選挙に立候補してきたがいずれも落選。それで、返還後の選挙に保釣の愛国英雄として立候補するためなりふり構わぬ行動に走ったと見られている。皮肉なことだが、彼の死がヒステリックに運動を盛り上げ、民主派の抗議船に人々の期待が高まった。香港のメンバーらは10月7日早朝、魚釣島に上陸。ところがその際に香港側が中国の「五紅星旗」を島に掲げたことから、台湾側の強烈な抗議が集中した。「国共合作」はたちまちにして崩壊し、香港側のメンバーが泊るホテルを台湾人たちが取り囲み「共匪!」などの罵声がとんだ。「共匪」とは遠い昔、国民党が共産党ゲリラや紅軍に対して向けた一種の蔑称だ。民主と自由のため中国と戦ってきた香港民主派は、この言葉をいったいどんな気持ちで受け止めたのだろうか。そして、英雄として8日に凱旋した香港側メンバーだが、翌9日に香港の日本総領事館へ乱入して不法占拠する騒ぎを起こしたことから、当時「法治」に敏感だった市民とマスコミの非難が一気に集中した。直後に民主党副主席の楊森にインタビューし「法治より愛国や領土問題が優先なんですか?」と聞いてみると、「もちろんそんなことがあるはずはない。2人は充分に反省している」と楊は苦々しく言い訳した。同時期には、保釣運動を批判したコラムニストに排泄物が郵送される、生番組で運動に水を注すような発言をしたDJに抗議の電話が集中しDJが心労で入院する……などのうんざりする事件が頻発した。そんなこともあってか、運動の盛り上がりはうそのように急速に退潮した。こうして、香港民主派は「愛国のカード」の難しさを学習したのである。

「李登輝は日本人だ」

 返還前から一貫して香港民主派が求めるのは、完全な直接選挙の実施である。現在の選挙制度では、議会は直接選挙と職業別・団体別選挙が混在。首長選挙は間接選挙だ。では、完全直接選挙を実現した台湾を香港民主派はどう見ているのだろうか。香港民主派は、96年3月の台湾総統選や98年12月の立法院選などに視察団を派遣し、情勢の把握につとめてきた。その度に賞賛したものの、「黒社会が関与してクリーンではない」などと批判を忘れなかった。香港民主党の代表団が李登輝と会見した際、「釣魚台を守れ」と切り出し彼を当惑させたという逸話もある。香港人は、李登輝や民進党など「台湾独立」を唱える親日的な台湾人が嫌いなのだ。香港紙は、若き李登輝が学生服に身を包んでいる京大留学時代の写真をわざわざ掲載して「漢奸」ムードを煽る。背景にあるのは、前回で述べた基本法23条と「1国2制度」の呪縛である。今年4月12日に香港のケーブルテレビ局が行った台湾の呂秀蓮次期副総統のインタビューに対して、中国中央政府の駐港代表部である香港連絡弁公室の王鳳超・副主任が「台湾独立をあおり1国2制度を危うくするもの」と批判。これに対して香港の民主派やメディアは「報道の自由を侵害するものだ」と一斉に反発した。香港の報道・言論の自由は制約下にあるものの一応は基本法に定められている。中国の過剰な介入は「一国二制度」への信頼をかえって揺るがすことになる。5月20日の陳水扁総統就任まで、台湾がらみの話題が加速度的に増えてゆくだろう。民主派やメディアは、今後、台湾報道にどんなスタンスを取ってゆくのだろうか。

(のだ けんじ・ジャーナリスト)
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亜洲人声(11)

「固定概念が作られ流通していく過程を知りたい」

土屋 忍(つちや しのぶ)さん(東北大学教員・AWC会員)

アジアへの関心を深めた学生時代の寮生活

 私は北海道の出身で、大学受験のために東京へ出てきたのですが、予備校に2年間通っていたときに住んでいた安アパートに外国人が住んでいて、たまに話をしていました。そして早稲田大学に入学後、早稲田奉仕園に入寮しました。ここには男性のみの日本人寮と、国際部が運営している留学生寮が同じ建物の中にあり、寮生が共同生活をしていたんです。この早稲田奉仕園の園長がアジアに関心を持っていて、また、留学生寮で生活しているのはほとんどがアジアからの留学生でした。楽しくて、一緒によく遊びましたよ。東南アジアへもよく行きました。知り合った留学生に連れられて、彼らの実家におじゃましたり、そこから田舎のほうにもよく行きました。また、大学のゼミの学習も、タイやマレーシアで行ったりしていたのです。そして、現地へ行くたびに「語学は絶対にできないとだめだ」と思い、タイで語学学校に行き勉強もしました。

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 また、経済学部で西川潤先生のゼミに所属し、当時急激に増えた外国人労働者問題にも関心を寄せました。経済格差を背景とした労働力移動がおこるのは当前のことだと思っていました。当時盛んに言われていた「鎖国論」「開国論」について、よく彼ら留学生と議論したものです。この頃はとくに、こうやって知ったこと学んだことを他者にどう伝えるか、という表現方法の問題を考えていました。フィクションとノンフィクションをどうのように混じり合わせながら伝えるか、ということです。文献だけに頼るのではなく、取材・調査による実態報道も大いに意味があると考えました。さらに、それだけでは伝わりにくい人間同士の葛藤の部分などは、一つの「物語」として伝えた方が有効ではないか、とも考えました。

 卒業後は電通に就職しました。その動機には、たとえば外国人に対して日本人が持っている先入観の大元を探りたい、ということがありました。イメージが作られ流通するとき、広告やメディアの役割や責任は大きいと考えていたからです。また、入社試験の面接の際には「今後アジアから多くの人々が入ってきて一緒にやっていくことになるのだから、うまくやっていけるような仕掛けをつくってみたい」と話したんですよ。まあ、結局は力不足を感じ1年で辞めてしまいました。知らない人にあることを知ってもらうには、伝える側の情報力や表現力が絶対的に必要で、当時の自分にはそれほどストックされていないと実感したんです。それで、再度、学問の世界に戻ることにしました。

南方徴用作家との出会い

 今度は、東南アジアと日本の交流史をやろうと考えました。たまたま、南方徴用作家の歴史を知りたいと思い調べていたら、文学者たちのアジアでの体験から、作家の生き方、考え方、交流の在り方などが見えてきて、これは非常に興味深いと感じたんです。そこから交流史、文学史、表現史といった観点から作品をどう位置づけるかを考えるなかで、それらの作品を、単に作家論に還元するだけではなく、社会や個人に与えた影響や戦争責任といった観点からも考えていくべきだと考えるようになったのです。たとえば金子光晴の『マレー蘭紀行』が後世の立松和平の『アジア紀行』や沢木耕太郎の『深夜特急』などに影響を与えていることがよくわかります。このようなことを見たときに、文学作品の中で作られたイメージが流通する過程で社会や個人に与えていく影響は大きく、そこに光をあてて考えてみたいと思い、今度は文学の世界からアプローチしてみようと考えました。

 今は、歴史と文学の境界があいまいになってきているという状況の中で、自分が調べたことをどう表現していくかが大変重要なテーマだと考えています。また、この南方徴用作家について一区切り付けられれば、次は在日朝鮮人作家の作品と日本社会との関係や影響などをテーマにしたいと考えています。

(八尾 浩幸・本紙発行人)
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団体紹介(8)

ASPB ラオスの子どもに絵本を送る会

 私が小学校1年生のときに国語の教科書に載っていた『おおきなかぶ』。いまラオスの子どもに大人気で、かぶを引っぱるシーンでは、子どもたちもみんないっしょに声をかけるそうです。「ASPBラオスの子どもに絵本を送る会」は、「本に触れるよろこびを子どもたちに伝えよう」が原点ではじまったNGOで、ラオスでの本づくり、図書箱・図書袋の小学校への配布、先生を対象とした読書推進のためのセミナーの開講、子ども文化センターの開設、作家育成など多方面にわたって活動しています。

ラオスの子どもたちのおかれている状況

 ラオスは本州ほどの大きさで、国土の大部分は山岳・高原地帯です。人口500万人弱のうち少数民族が40%を占め、その数は60とも70ともいわれています。メコン河流域に住む人口の約6割を占めるラオ・ルン族は比較的教育を受ける機会に恵まれている一方、山間部の村では学校が設置されていないところもあり、民族間で子どもたちの就学率に格差があります。義務教育は5年間で、読み書きそろばん中心の授業が行われていますが、スポーツ・音楽・図画といった活動に接することはほとんどありません。また、親が子ども(特に女の子)を労働力と考えて学校に行かせないこともあり、卒業する前に学校へ来なくなる子どももいます。歴史的に語り部やお坊さんが中心の口承文化であり、文字文化にはほとんど馴染みがありません。フランス植民地時代に、少数のエリートのみをフランス語で教育する以外は愚民化政策がとられたのもその一因だといわれています。また、メコン河を越えてすぐ隣のタイからはバラエティーやドラマなどの映像が流れ込み、子どもたちはラオス語に親しむ前に刺激的な映像文化にさらされるというのが現在の状況です。

活動の大きな4つの柱

(1)本を増やす

 これまでで67種類、30万冊の本をつくってきましたが、教室で先生しか教科書をもっていない学校も多いのが実情で、本の数がまだ圧倒的に不足しています。絵本や昔話など、子ども向けの本の現地での出版を進める一方で、日本の絵本にラオス語の翻訳を貼って送るという活動もしています。

(2)本を読む場所を増やす

 ラオス国立図書館の「読書推進運動」に協力して、図書箱(140冊入り)や図書袋(70冊入り)に本を詰め、小中学校を中心に全国に届けています。屋根と柱だけで壁のない校舎もまだまだ多いなか、この図書箱や図書袋を広げたところが読書の場となるわけです。空き教室を利用した図書室の開設も進めています。

(3)本をつくる人を増やす

 本をつくる作家、絵描き、編集者など人材の育成は大きな課題のひとつです。編集の基礎や印刷のプロセスを学ぶためのセミナーを開設したり、民話絵本コンクールと題して、一般から民話を題材とした絵本を募集し、最優秀作品を出版化するなどしています。自分たちが子どものころに聞いた話が本になる価値のあるものであることをわかってもらい、身のまわりにある民話に目を向けてもらうための試みでもあるということです。

(4)自己表現の場をつくる(子ども文化センターの設立)

 読書室のほか、伝統の音楽や踊り、絵画などに触れられる施設で、児童館のような存在です。感じて、表現できる子どもたちを育てる場です。 わたし個人としては、欧米中心である日本の絵本のなかに、これからラオス人が文章を書き、ラオス人が絵をつけたという本を当たりまえのように手に取れる日がくるといいと思います。自分が小さいときに手にしていた本が実はアメリカのものだった、というのはよくありますが、自分が小さいときに好きだった本が大きくなって気づいたらラオスのものだった、なんていうことがあったら、アジアの色がもっとわたしたちの皮膚感覚に入り込んでくるのではないか、そんな気がしました。

(堀 径世・ライター兼エディター)

ASPB ラオスの子どもに絵本を送る会

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編集後記

またもやってくれました、石原東京都知事は! なぜ、この人が都知事になれたのか、本当に不思議でならない。横山前大阪府知事も最悪の人格者だったが、この石原都知事はそれ以下かもしれない。この人は公人が何人の人権をも遵守しなければならないという立場であることを理解しているのだろうか。ましてや、昔から共存、共生してきた在日朝鮮・韓国人や中国人の人々に対し、中傷や人権的な抑圧になるような発言をするとは信じがたい。この人をこのまま都知事でいさせていいのだろうか?(や)

週刊誌『AERA』の報道によると、この「三国人発言」に対する都庁への反応の声のうち、驚くべきことに75%は支持だという。だがそもそもこの発言は、具体的に誰を指そうとしているのか意味不明で、「不法入国」「不法残留」「資格外労働」などが頭の中でごちゃ混ぜになったような曖昧な言葉だ。それをムードだけで支持してしまう「排外的な」気運もまた、憂うべき事態だ。(し)

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月刊AWC通信2000年5月号(通巻第19号)
2000年4月22日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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