『AWC通信』2000年3月号(第17号)


目次


定例会報告

香港・マカオの将来と一国二制度の行方

マカオ返還後を考える
城西国際大学教員 塩出浩和さん
昨年12月20日、ポルトガル統治下にあったマカオが中国に返還された。中国共産党政権には、香港に次いでマカオでも「一国二制度」を成功させ、将来の台湾統一につなげたいという狙いがある。返還後の香港とマカオ、そして一国二制度の将来を、昨年末に『可能性としてのマカオ』を出版された塩出浩和さんにお話いただいた。

マカオは本当に中国に還ったのか

 1997年に香港が、1999年にマカオが中国に返還されました。中国は、それぞれの資本主義制度を50年間は変えないという考えに基づいて、ヨーロッパ諸国に支配されてきた領土を回収したのです。中国という一つの国に二つの社会制度が存在する「一国二制度」を50年間維持することは、中国とイギリス、ポルトガルとの各共同声明で決められています。

 では、香港とマカオは本当の意味で中国に帰ったかというと、そうではありません。主に一般の中国人にしてみれば、「一国二制度」は不正義と言えます。その理由のひとつとして、一般の中国人は中国領土となった香港やマカオに自由に入ることができないという制限が挙げられます。「マカオ特別行政区基本法」によると、「大陸部の住民がマカオに定住する場合は、大陸部関係部門の審査と許可を得なければならず、人数は厳しく制限されている。観光、会議出席、親戚訪問でマカオに来る場合も、認可手続きを取らなければならない。マカオの祖国復帰後もこの点は変わらない」とあります。マカオは中国人にとっては出入国管理されている地域で、たとえパスポートを持っていたとしても制限されています。かつて沖縄が日本に返還されたときは、入域審査も必要なく自由に往来ができるようになりました。このことに比べてみても、香港やマカオは中国一般の人にとっては、まだまだ遠い場所、きわめて遠い植民地なのです。

 一方、人の移動の不自由さに比べ、モノや情報の移動という面から見ると、香港・マカオと大陸間の垣根は非常に低くなっています。テレビやインターネットを通じた消費生活の情報は、広東省では無制限に近く入ってきていて、都市部では、香港やマカオと同じような消費生活が実践されています。

 このように、香港やマカオが返還されても、大陸からは自由に行くことができない、しかし香港やマカオからは人もモノも情報もたくさん入ってくるという状況のなかで、金儲けの機会から阻害されている大陸の人々の間では不満がでてきています。一般の中国人にとっては、何を食べられるか、どういう家に住めるかということが言論の自由より大事なこと。実際、この不満が農民の政府機関うちこわしという事件にあらわれています。香港・マカオの返還は、中国社会の不安定要因になるのではないかという危惧もあるのです。

 一方、「一国二制度」は、中国大陸だけでなく、香港やマカオ住民にとっても不正義でありえます。香港やマカオの資本主義制度が変わらないと知って喜んだのは、そのことによって利益を得ている人たちだけでした。規制が少なくて税率が低い香港は、収入が多い人にとっては天国ですが、一般市民にとってみれば、失業保険もない、解雇は自由、社会保険や年金制度も不十分など、不安要素が多くあります。50年間資本主義を維持するという約束は共同声明なので国際法的な拘束力があります。一般の人々にとっては、共産主義社会が、社会的弱者への援助を国際法上、放棄しているともとれるのです。

成功した国家と失敗した国家

 「一国二制度」は、80年代のはじめにトウ小平が提案したものです。これは香港やマカオの返還のために思いついたものではなく、20世紀内に中国が実現しなければならないと考える台湾統一をどうしようかと悩んだときに、一つの国に二つの制度を共存させるということを思いついた結果です。これを1980年代の半ばに行われていたイギリスとの間の香港返還交渉に利用しました。一国二制度をまずは香港でやってみようというわけです。

 しかし、同じ一国二制度を適応させる問題といっても、香港・マカオというふたつの植民地の回収と、台湾と大陸の統合は全く性質が異なる問題です。香港とマカオの返還は、非中国人に占領されていた地域を回収したものですが、台湾の場合は、仲間割れしている中国人が中国人自身の問題を統合という形で解決するということになります。

 分裂国家や分断国家の再統合には、ドイツの例があげられます。経済的に強い西ドイツが国力的に劣る東ドイツを合併したという例です。言ってみれば西ドイツという「成功した国家」が東ドイツという「失敗した国家」を吸収した結果、社会的な統合はいまだされていません。

 中国と台湾の場合は、これと逆のことが起きます。中国は一般の台湾人からしてみたら「失敗した国家」。1949年に建国した中華人民共和国は、1950年代末には大躍進政策を行い経済的打撃を受け、その後は文化大革命で政治的な大混乱にも陥りました。その結果として、人口こそ12億人も抱えているものの経済的には中低位国に甘んじています。また、54の少数民族を抱え、さまざまな政治的な不安定要因も解決できないままでいます。政治体制も中国共産党という一党独裁体制が続き、市民の政治的な自由は与えられていません。これに対して、台湾は国際社会から認知されていないにも関わらず、「成功した国家」です。経済的にも、民主化という面でも、国民統合の面でも。自分たちのリーダーは自分たち自身の投票で選べるし、政治的な発言も自由だし、経済的には1人あたり2万ドルを越えるような国民所得を獲得し、アジアでは日本、シンガポールに次いでいます。もし、中国が台湾を統合するとなると、「失敗した国家」が「成功した国家」を統合することになります。成功した台湾の人たちが、失敗した国家のなかに統合されることに納得いくはずがありません。

 しかしそれ以上に、台湾の一般の人々にとってみれば、台湾がひとつの政治的実体としてほぼ50年間存在してきたという事実が重要です。台湾人アイデンティティーのなかで育っているし、選挙によって戒厳令体制とは関係のない民主的な総統が生まれ、ますます台湾の自立傾向は高まっています。

 このような理由から、台湾に香港やマカオのような一国家二制度を容易に適応することはできないと、中国の政治指導者も心得ています。そこで台湾地域の自治権を大幅に認め、台湾自身の軍事力を持つことも可能であると認めるようになりました。しかし、大陸の指導者がそこまでは許したとしても、国家主権の問題は譲歩できない、という大きな壁があります。主権の問題というのは(1)国語の問題(2)国旗の問題(3)国際機関に加盟すること、の三つです。実際、一つの国に政府は一つであるという原則を中国はとても大事にします。現在も一国家二制度といいながら、香港やマカオは、中央人民政府の直轄地であり独立した政府ではなく、一定の自治権を授けられているだけです。この解釈を将来の台湾統合に適応するのは難しいでしょう。

 一方、台湾では、国民の大多数が中華民国の現状維持を願っていますが、それが難しいということも理解しています。中国の人民解放軍がだまっていないということを知っているのです。台湾の人々は自国の主権の不完全性というものを、受け入れつつあります。1972年のニクソンの中国訪問では、アメリカに見捨てられたという意識を強く持ちました。そして国連から閉め出されてもう30年が経とうとしています。そのような経験のなかで、自分の国が国際社会から認められていないという免疫ができているのです。

 台湾の人は主権の不完全性を認めています。あとは、中華人民共和国がいかに国家主権を譲歩できるかが、一国二制度の将来を決める要因となるでしょう。

マカオ返還に一国二制度の将来を読む

 マカオ返還は香港返還以上に、中国の一国家二制度の将来を見るうえで大きな指標となります。香港が600万人であるのに比べマカオは45万人、香港は旧総主国がイギリスという大国でマカオはポルトガルという弱小国。マカオの返還過程において、中国はほとんど主張を押し通すことができました。香港は中英対立のなかで返還されましたが、マカオは中国ベースで返還できたわけです。マカオには、中国の人権政策や民主化抑制政策に対して正面きって反発する政党はありません。マカオ独自の社会制度を、マカオで何でもできる中国がどう守っていくかを見ることで、本当の意味での中国の政治指導者が考えている一国二制度の許容範囲が見えてくると思います。日本のマスコミはマカオ返還についてあまり取り上げませんでしたが、一国家二制度の将来を見るうでで、マカオでの展開は重要視すべきなのです。

(芹澤 和美・フリーライター兼エディター)
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あいまいな国のあいまいな出入国管理政策

〜求められる政府の説明責任と議論の開示〜
白取 芳樹

「私は収容されるよ」

 Gさん(イラン人)はいらついていた。入国管理局による結果通達を3日後に控えた2月6日。「私は入管に捕まるよ。そしたらこれどうするよ」。そう言いながら1枚、2枚とペルシャ絨毯を広げて見せてくれた。小さな物で30万円、大きな物は300万円するという。「これ、友たちと2人で購入した。デパートに売ろうと思ってる。収容される前にどうするか、頭痛いよ」。隣の部屋には修理中の絨毯が数枚干してある。色が滲んでしまったものは上から液を塗り直し、刺しゅうが傷んでしまったものはカンナなどを利用して1枚1枚、手作業でていねいに修理していく。

 彼は1991年に来日、精密機械部品製造工場に就職した。だが、仕事中にひきつけをおこし、今でもたまに激しい頭痛に襲われる。これでは会社勤めは難しい。そこで、ペルシャ絨毯修理工だった経験を生かし修理請負業を始めた。「時間をかけて日本で治療を続けしっかり直したい」。それを理由に、ほかの超過滞在外国人21名とともに昨年9月1日、在留特別許可を求めて東京入国管理局第二庁舎へ出頭。入管は異例の速さで10月下旬には全員の違反審査を終了した。近年ではほぼ認められている日本人との結婚を理由としたケースでは、最初の呼び出しまでに半年かかることもざらだ。法務大臣の裁決までには短くて1年、長くて2年半かかることもある。だが4日前にはすでにFさん一家(イラン人)が許可、Mさん一家(ビルマ人)は不許可となり、Mさんは収容された。新聞各紙は、子どもが日本で育ち本国での生活が難しくなっている場合などについては許可する方針を法務大臣が固めていると報じていた。だから、そうではない自分は不許可になり収容されるとGさんは思ったのである。

Gさんがあえてリスクを冒したわけ

 「彼が何で出頭理由をケガの治療にしたか知ってる? 私たちがこれまでまだ認められてない理由で出頭するでしょ。だから自分だけ簡単な方法では悪いと思って私たちに合わせてくれたんだよ」。同じ出頭者のひとりがGさんの気持ちを代弁してくれた。自分が在特適用範囲を広げるための先駆にという気持ちもあった。そんな彼だったが、呼び出し2日前の2月7日、交際を続けていた日本人女性との婚姻を届け出た。結局、ケガを理由とした彼とAさん(バングラデシュ人)は2月9日に不許可となったが、病気が配慮されその日のうちに仮放免された。一足先に行政訴訟に踏み切ったビルマ人のMさん一家とともに直ちに行政訴訟するかは未定。一つ言えること、それは今後、彼が家族を形成し、より強固な生活基盤を着実に日本に築いていくことだ。そうなれば、もはや日本政府は彼に在特を認めないわけにはいくまい。これは子どもがまだ2歳であることが難点となったものの、難民の性格を持ったビルマ人のMさん一家にも当てはまるかもしれない。

求められる生活基盤形成という実態への対処

 この21名の行動を支援するAPFS(Asian People's Friendship Society)には、滞在が長期化している超過滞在外国人から、彼らを一定の条件のもと一律に合法化する「アムネスティ」を希望する声が以前から寄せられていた。だが、日本政府に実施の意思はまったくない。そこで出てきたのが、彼らが日本で滞在資格を得る唯一の方法「在留特別許可」の適用範囲を徐々に拡大するという方法だった。そして議論が重ねられ、日本で育ち日本語を母語とする子どもの教育上の必要性、仕事中のケガによる長期的な治療の必要性という二つの理由に絞られた。

 2月14日には全員に結果が通達された。4家族が在特取得、1家族と2個人は不許可。結果や法務大臣の記者会見から判断できるのは、日本で育ち日本語を母語としている子どものいる家族には在特が認められる道が開けてきたこと。唯一認められなかった家族の子はまだ2歳、認められた中でいちばん結果が微妙だった家族の最年長の子は小学校6年生だった。

 日本政府が日本人との血縁関係以外にも生活基盤の形成という要素を考慮する可能性を開いたことには一定の評価ができる。だが、「新基準」の詳細な内容がはっきりしたわけではない。これは在留特別許可が「権利」ではなく、あくまでも退去強制手続きの中で個々のケースに与えられる「恩恵」という性格であることにも起因する。現状では可否理由開示の必要もない。

 だが問題の根底には、越境の日常化、超過滞在者を含む外国人の生活基盤の形成と定住化の進展という実態がある。それが後追いされる形で在特適用範囲が徐々に拡大されていく可能性もあるものの、密室での検討と決定によりあいまいな形で進められることに委ねるべきではないのではないか。政府に説明責任を求め、開かれた形でより広範に議論がなされ、社会的合意が形成されていくべきだろう。それがまた、超過滞在者のみならず、難民認定のあり方や在日外国人全体の権利への視点にも結びついて行くことになるのではないだろうか。

(しらとり よしき・編集者、本紙編集人)
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四月韓国総選挙の焦点

〜民主化の新たな挑戦〜    
大畑 龍次

世界第二の「不正腐敗の社会」

 2000年を迎えて発表された世論調査によると、韓国国民の一番の願いは「不正腐敗のない社会」だった。裏返して言えば、韓国社会が「不正腐敗の社会」であることを示してもいる。国際機関の調査でも、中国に次いで世界第二の「不正腐敗の社会」なのだそうだ。こうした現実は、韓国の民主化の水準を示してもいる。

 金泳三政権の誕生を民主化元年とすれば、今年は七年目にあたる。したがって、その民主主義はよちよち歩きの民主主義でしかない。金泳三政権時代にもそれまでの軍事政権の「体質」を感じさせたのは、彼の政治スタイルだけではなく、旧時代から一気にオサラバできないものだからだ。

「制度圏政党」と「三金政治」

 金大中政権も大同小異で、こうした韓国政治を特徴づければ、次のように整理できるだろう。

 第一に、既成政党の政治的な立場は極めて保守的で、その政治路線に明確な違いを感じさせないこと。在野勢力がひとまとめに「制度圏政党」と呼ぶに足る政治的立場の共通点が見られる。その理由は朝鮮半島が二つの国家に分断されているという状況に求められる。この状況では社会主義政党は存在できず、似たり寄ったりの保守性をもつのは当然だし、アメリカが許しはしない。

 第二は、韓国政治が、政治ボスの支配下にあること。これは金泳三、金大中、金鐘泌などの政治ボスを中心にした政治状況を「三金政治」と呼んでいることからも分かる。いちおう政党政治の姿をしているが、政策中心の政党政治ではなく、ボス間のパワーゲームというのが現実だった。この何年かの野合ぶりを見ればわかろうというもの。

 第三に、これらボスたちは地域の利害を代表していて、政治が激しい地域対立構造であることだ。現在の韓国では与野党は地域的には東西対立になっている。南北の分断に加えて東西対立があるということである。

 このような韓国政治の保守性、権威主義、地域主義などの傾向は韓国国内でも指摘されてきたし、既成政党のなかでも「政治改革」の声が挙がっていた。しかし、それには限界がつきものだった。そこで、韓国政治の一層の民主化は、既成政党の外部から進められざるを得ない。

韓国民主主義の新しい段階

 この4月13日に韓国は総選挙を迎える。金大中政権は二年間の中間評価を受けることになる。今回の総選挙では、これまでの制度圏政治だけではなく、韓国民主主義の新しい段階を感じさせる政治潮流の胎動が始まっている。

 第一に、進歩政党の挑戦だ。進歩政党は56年の進歩党から90年代初めの民衆党までさまざまに試みられてきたが、議席を獲得できないできた。今度の総選挙には民主労働党と青年進歩党が挑戦する。とりわけ注目されているのは民主労働党。韓国労働運動を主導している民主労総や貧民連合などの大衆組織がバックにあり、これまでの知識人中心の進歩政党とは一味違う。金鐘泌の自民連の支持率に迫る勢いだ。進歩政党の試みは、地域利害から労働者などの社会階層の利害へと政治を転換することを意味している。

 第二の注目は、市民運動の反公認・落選運動だ。この1月20日に旗揚げした「2000年総選市民連帯」は、制度圏政治家の政党公認反対ないしは落選させなくてはならない政治家リストを二回に分けて発表した。腐敗・無能力議員の数は113名。市民連帯には400余の市民団体が参加し、国民の80%以上が市民連帯運動を支持しているという。全国的な100万名署名運動、各駅頭での集会やデモが繰り広げられ、各地方組織が活動を始めている。かつてないほどの市民団体、学生運動、労働界、宗教界などが合流ないしは支持を表明し、歴史的な市民パワーの爆発になろうとしている。大統領直選制を闘いとった87年6月抗争の再現と言われている。

 国民会議などの新党・新千年民主党は市民連帯に好意的な対応だが、ハンナラ党、自民連はそれぞれ民主党との「癒着論」、「陰謀論」と位置付けて鋭く対立している。保守的な腐敗議員の一掃を目指す市民連帯の「有権者革命」は、民主党、進歩政党に有利な情勢を切り開いている。これまで韓国民主化運動の推力は、ある時は学生運動であり、ある時は労働運動だった。そして今、市民パワーがその推力になりつつあるという点でも、韓国民主主義の新しい幕開けを感じさせる。

 しかし、韓国政治の保守性、権威主義、地域主義は根強い政治風土となっているだけに、進歩政党と市民パワーがどれだけ食い破れるかは予断を許さない。それでも、韓国民主主義の新しい段階には違いないだろう。

(おおはた りゅうじ・釜山在住)
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台湾、アジア最初の共和国

鹿島 拾市

なぜか集会で中心にいる「おっさん」たち

 中国脅威論を喧伝する保守派メディアが、久しく忘れていた死蔵品を押入れから引っ張り出すように、台湾について語り始める。だがそこに求めているのは、斜陽の帝国を慰めてくれる都合のよい「親日国」でしかない。あるいは偉大な指導者を求める人々は、司馬遼太郎を愛読するという李登輝を持ち上げる。あるいはガイドラインやTMD、中台関係の緊張といった東アジアのキナ臭い動向を憂慮する人々は、その火種になるかもしれない余計者のような台湾の存在自体を、困惑の面持ちで眺めているかもしれない。しかし彼らは肝心な疑問を取り残している。

 そもそも「台湾」とは何か、そのような名前の国は、実は存在しない。「台湾人」という民族を認める民族学者も、おそらくは一人もいないのである。

 台湾の政治について書かれた本を何冊か読んでみれば、あるいは訪れた時に、新聞を判読し、書店や大衆集会などを観察してみれば、この九州よりやや大きめの島の社会が持つ自立的・民主主義的エネルギーとでも言うべきものの強さに、誰しもか驚かされるに違いない。

 台湾の新聞・テレビを観ていると、ありとあらゆる階層の人々が、自らの権利を主張してゆずらないようにみえる。残土の不法投棄取り締まりに抗議して市役所を取り囲む100台以上のダンプ。不審火で焼失した違法建築の施設地下街の再建を求めて「街頭闘争も辞さない」と叫ぶ商店主。地価の高騰に抗議して、都心の一等地に夜通し座り込む中産階級。原発建設に反対する住民投票は、日本より早く、広域で行われた。昨年の大地震の際は、駆け付けたボランティアを行政がもて余した阪神大地震とは異なり、行政より速い民間各種団体のネットワークで、救援が進められたという。その一方で、地震によって手抜き工事が発覚したマンションで、住民が建築会社の社長に対する大衆団交を開いたのは、何と被災からたったの一週間後のことだった。何というにぎやかさであろうか。

 気がつくのは、ひとつは階層・戦術・テーマの多様さに比べて、急進的観念があまりふるわないこと。人々は、もっと自前の利益や怒りから行動しているようにみえる。もうひとつは、学生運動が相対的に弱いこと、これは、日本も含めた東アジアの政治風土からすれば、異質である。学生が政治的前衛となるのは、国家主導の近代化の過程で、彼らが次世代のエリートとして発言権を持つからだとすれば、このことは示唆的ではないだろうか。

 かわりに大衆的な集会で中心にいるのは、圧倒的に「おっさん」たちである。デモの時には、自分の経営する会社のものとおぼしき軽トラに横断幕を貼りつけ爆竹を投げつつ行進する。スピーカーからは、軍歌調の「台湾魂」か「軍艦マーチ」。これは私がかつて見た「台湾の国連再加盟」要求のデモの一場面である。

 韓国やシンガポールとともにNIESとしてくくられ、あるいは華人系の国のひとつとしてくくられ、通俗的には「二〇年前の日本」と見なされている台湾。しかし私はむしろ、東アジアにおける異色ぶりにこそ、注目すべきだと思う。その特異な歴史を、少したどり直してみる。

特異な歴史

 明代まで、台湾は海賊が逃げ込む亜熱帯の島でしかなかった。その後、食い潰した福建省などの農民が移住・開発をはじめ、鄭成功の時代を経て清代には、犯罪の温床として厳しく統治されるようになった。台湾はこの頃、「三年小乱・五年大乱」という難治の地とされたが、その背景には鄭氏時代以来の反清秘密結社の活発な動きがあった。

 1895年、日清戦争の勝利で台湾の割譲を得た日本は、台湾北部に軍を上陸させる。事前に何の説明もないまま本国に見捨てられた台湾住民は、全土で壮絶な抵抗を行った。近代兵器で武装した日本軍に対して、竹やりや旧式銃で抵抗し、多くの女性たちも参加したこの闘いは、数カ月かかって鎮圧されたが、ゲリラ的な抵抗はその後も繰り返された。日本軍との戦闘で戦死し、あるいは処刑されたものは数万人に及ぶ。

 この時、抵抗の旗印は「台湾民主国」だった。百数十日しか存在しなかったとはいえ、これは議会を一応備えたアジア最初の共和国であった。ここに、「台湾人」の源流がある。

 日本統治への抵抗はその後、合法的な手段を通じて持続される。第一次大戦後の、世界的な民族自決の潮流の中で慎重な形で自治を求める「台湾議会」要求運動が高揚した。

 運動の中心を担ったのは、多くの知識人を結集した「台湾文化協会」であり、彼らは「台湾人意識」の啓発に努めた。1928年には、女性革命家の謝雪紅などによって「台湾共産党」が結成され、その網領に「台湾共和国の建設」が掲げられた。

 今日の台湾の成功を日本統治に帰す論調があるが、台湾の民主主義が、日本の法律を最大限に活用したこの時期の抵抗を通じて成長したという意味でなら、それは正しい。治安警察法などで弾圧され、被告席で闘った知識人たちは、戦後は国民党への抵抗の前面に立つことになるのだ。

台湾住民を失望させた国民党の登場

 強権的で腐敗した国民党の登場は、間もなく台湾住民を失望させた。1947年、大規模な反乱が爆発する。映画『悲情城市』などによって日本でも知られているこの二・二八事件は、暴動のレベルにとどまるものではなかった。自治と民主化を求める「事件処理委員会」が各地に結成され、一種の二重権力状態が台湾全土につくり出されたのである。

 しかしこの反乱も、二万人以上の死者を出して弾圧され、その後も、台湾知識人を根絶するほどの「白色テロル」が吹き荒れた。これより80年代まで、台湾の歴史には、人々の無数の抵抗と、これに対するテロルが刻まれている。

 86年に初の野党「民主進歩党」が「党禁」を破って結成されるなど、民主化のうねりが高まる中で、蒋介石の息子の蒋経国総統が急死、偶然の産物として、副総統の李登輝が台湾人(本省人)として初の総統に就任する。この後の、上からの改革と下からの民主化の達成については、ここで改めて書く必要はないだろう。ひとつだけ書いておけば、台湾の民主化は決して李登輝が上から分け与えたものではないということだ。大久保利通やマッカーサーのような「偉大な」転轍手によってレールが切り替えられるという形でしか変革を経験していない日本人が、そう思いたがるのも無理はないかもしれない。

 こうしてみてきた時、台湾人意識とその民主的自治意識が、大陸から棄民された人々の、開拓と抵抗の経験に根差したものであることが分かるだろう。それは決して、長すぎた日本統治で生活や文化が大陸と隔たっていったからとか、二・二八事件のしこりだとか、あるいは本省人と外省人の「民族対立」だというような皮相な要素に還元できるものではない。

たたかうブルジョアジー

 誰でも思い当たるように、台湾住民の歴史は、アメリカの歴史と似たものがある。台湾人の形成史において、血の幻想をともなう「民族主義」の色彩は希薄である。抵抗の軸は、血の幻想としての「中国人意識」ではなく、その地に住むものとしての自治を求める政治的権利にあった。「台湾人意識」は、その自覚以外のものではない。これは、東アジアのナショナリズムの系譜の中では、驚くべき異端である。(香港の民主派が、同時に中国人としてのナショナリストであることも想起して欲しい)

 こうした歴史を背景とした今日の台湾経済は、他の東アジア諸国同様に開発独裁の産物ではあっても、やはり異質である。台湾経済は、国営や国民党営(!)の多い大企業と、台湾(本省)人中心の中小企業に分かれるが、その主役は圧倒的に中小企業の方であり、輸出の60パーセントは彼らが担っているのである。私が見たデモの「おっさん」たちは、その経営者であり、アジアでは珍しい「たたかうブルジョアジー」だったわけだ。

 国家によって創出され、系列を中心に組織された法人資本主義日本と比べた時、社会が持つ自治意識・権利意識が大きく異なるのも当然といえる。

 台湾共和国という夢は、こうした歴史の中にはらまれてきた。今も、どこでも自らの権利を主張して抗議する分からずやの人々の迫力の中に、それは息づいている。

 二度にわたって憲法を押し付けられ、天皇制がもたらした敗戦を「平和主義」なるごまかしで切り抜け、東西冷戦によりかかる形で空虚な政治図式だけをつくってきた日本に住む私たちにとって、「台湾人」の民主主義が備えた逞しさは、まぶしく見えるだろうか。日本のアイドルに群がる親日的な人々などとタカをくくっている場合ではない。「台湾」に学べ。

(かしま じゅういち・文筆業)
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ヨコハマのドヤ街から(前編)

自分を問う作業としてのニッポンの路上
出口 綾子
 アジアのスラムに関する昨年11月の五石敬路さんの定例会を受け、今度は経済的には豊かなはずの日本に、なぜ多数の路上生活者がいるのかを、横浜・寿町から考えたい。

川向こうの町、寿の表情

 2000年を迎える年末年始、横浜では晴れの日が多かった。「これでおめぇ、雨でも降ったら大変よぉ」。67才のドヤ生活者、トンボさんは、炊き出しを手伝いながらそう言った。実態は何も変わらないのに、天気によって町の表情が違って見えるのは、寿町でもどこでも同じだ。

 横浜市中区といえば、本牧、山手などの一等地があり、山下町や元町、中華街は一年中、老若男女でにぎわっている。寿町は、中華街の北門から中村川を挟んで徒歩わずか3分のところにある、大阪の釜ケ崎、東京の山谷に次ぐ、日本で3番目に大きいドヤ街である。人口6500人のうち、60才以上が3分の1を占める高齢化の進んだ町だ。高度成長期には港湾事業をメインに日雇い労働を支えたこの町も、高齢化が進み、職安から仕事に行けるのが一日平均2.5人という現状では、もはや日雇いの町と呼ぶことはできない。今では、若くても何らかの理由で地元を出ざるを得なかった人、精神や身体に障害のある人も流れてくる。

 町を歩いていると、白昼公然とノミ行為が行われている。倒れて頭から血を出している人、炊き出しの長蛇の列に並ぶ人びと、私の顔をジロジロ眺めて通り過ぎる人もいるが、視線をそらさずゆっくりと行動していれば話しかけてくれる人が多い。顔見知りになった人と偶然すれ違ったときは、満面の笑みで挨拶を交わしてくれる。

失業でも人権でも語れない路上

 1999年現在、日本の路上生活者数は厚生省の発表でも2万人を超えたといわれている。この調査結果によれば、東京23区内では、1998年8月からの1年で約1.3倍、横浜市では1.8倍と急激に増えた。民間団体の調査では、大阪だけで3万人を超えるといわれている。その背景には、不況による失業問題が密接に関係していると報告されている。しかし、失業問題がこんなに深刻になるずっと前から、路上生活を強いられる人はいた。深層はもっと別のところにあるのではないか。

 ドヤや路上の問題を考えるとき、私は「人権」という用語で安易に語りたくない。この絶対的な正義の前で、私たちは路上という現実を直視することをやめ、路上の人びとを生んだこのニッポンの社会を省みることをやめてしまう、そんな気がするからだ。1983年には横浜の山下公園で、1995年には大阪の道頓堀で、中学生や若者による野宿者殺害事件が起きた。現在も、同様の深刻な事件は各地で多数起きている。これらのことに対し、大人や社会全体がなんといえるだろうか。「野宿者にも人権があるから襲ってはいけません」とでもいうのだろうか。結局は「あそこへ行ってはいけません」といって、問題の本質からも野宿者からも遠ざけてしまう学校や親。それがさらなる地域からの追い出しを生む。道頓堀の事件を犯した青年は、幼い頃からてんかんを持病としており、いじめられ続け、社会から追い出しをくらい続けてきたことがわかっている。いわばいじめ、排除の連鎖が事件を生んだとも言える。

異都憧憬

 野宿する人を「ホームレス」ということがある。家がないという意味の「ホームレス」。しかし彼らは本当に帰る家がないのだろうか。家族も親戚もないのだろうか。

 60才の順子さんは、若い頃から野宿を繰り返し、熊本、釜ケ崎、名古屋、山谷と渡り歩いてきた。横浜には数年前から野宿をしていて、この年明けから寿町のドヤに住むことになった。結婚して娘が3人いたが、酒とギャンブルに明け暮れて家庭を振り返ることのない夫と、娘が成人してから別れ、家を出た。順子さんが一人で各地を転々としていても、娘たちは彼女を引き取ろうとはしなかった。順子さんのほうでも、互いに縁を切りたいと思っているような親子関係の中に戻る気はしなかった。娘たちが今どこにいるかは知っている。しかしもう二度と連絡をとりたくない、と涙ながらに話してくれた。

 いじめや追い出し、人間関係の希薄さが連鎖する日本社会。まずはこの中で、私たちがどのような立場に立っているかを振り返らねばならない。自分の位置がわからないままに、先入観だけで野宿者を排除したり、また「救うべき援助の対象」として見ていても、何も変わらない。順子さんのようなケースは決してめずらしくはない。親が子を捨てる、残された家族も互いに絶縁したいと思う、そんな崩壊した人間関係を身近に知る私にとっては、とても人ごととは思えない。同じことが学校で、職場で、この日本社会のあらゆる場で起きている。

 遠い地で、自分の家族を想う気持ちは、野宿を強いられる者にとって共通の心情だ。短歌を趣味とするトンボさんは、そんな仲間たちの想いを詠んだ。「ふる里に帰りたくても戻れない/仮寝の宿に子らを思いつ」。

(でぐち あやこ)
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亜洲人声(7)

笹岡 正俊さん(大学院生・AWC会員)

 クスクスという小動物をご存じだろうか。インドネシア東部、パプアニューギニア、オーストラリアなどに生息するイタチのような愛らしい生き物で、インドネシアでは保護動物に指定されている。

 小柄だがたくましい腕っぷしの髭面の男が、このかわらしい動物のことが気になってしかたないというのだから可笑しい。しかし、これが彼の手だ。専門であるインドネシア東部セラム島奥地の村では、クスクスを常食としている。人びとの暮らしの中でもっとも身近なモノに注目し、そこから地域を読みとり、固有性を明らかにしていく。さらには、その多様な地域性にそぐわない中央集権的な政策を批判していく。

歩いて読み解く地域性

 学部の時、農工大で環境科学を専攻していたが、環境を自然科学的、技術的な切り口からのみ分析することには興味がわかなかった。それよりも、環境問題を引き起こしている社会のしくみが知りたかった。そんなとき、サラワク・キャンペーンの運動に目がとまる。日本が輸入する熱帯木材のうち約二割が使い捨てられているという現状を知り、大学の所在地である府中市に対して、市の公共事業に熱帯木材を使わないように求める陳情活動に参加。仲間六人で、生協の生活者ネットで署名を集めたり、府中市の議員に会ったりもした。「まずは身近な自治体を変えていこうと思った」。それが熱帯林の問題に関わるきっかけとなった。その活動の過程で東大の先生に出会い、現地調査に付き添った。初めてのインドネシア、セラム島。朝から夕までただひたすら森の中を歩き、奥地へと進む。たどりついた集落がその日の寝床となる。人びとの優しさに触れ、美しい風景に心打たれた。「こんな調査を続けられたら・・・」。いま、その先生こそが東大博士課程に在籍する彼の指導教官である。

 彼が書物などから得た造詣の深さは、周りでもちょっとした羨望の的となっている。しかし彼自身は飽くまでも「歩いて地域を見ること」の大切さを強く訴える。「初めに理論ありきではない」ということばの背景には、セラム島の最初の体験があるのかも知れない。

森の恵みを守ってきた伝統

 クスクスは保護動物なのに常食としているなんて違法行為ではないか、と思われたかも知れない。そう、違法行為だ。この矛盾を強いる社会のしくみや政策こそが、彼が注目するところだ。村人は、伝統的な慣習法によって森のあらゆる共有資源を管理してきた。それは、むやみやたらと乱獲するようなやりかたではなく、一定期間、ある資源についての採取を禁止し、持続性を守りながら収穫の増大を図るという方法である。しかしインドネシアという国家にとって重要な資源である森林はすべて国有化され、国家主導の管理、開発がなされてきた。学会でも長いこと、共同で管理される資源はいずれだめになるから公的介入が必要だという議論がなされ、それが国有化を正当化してきた。しかし実際は、その国家こそが、大規模プランテーションや計画性のない木材伐採をし、広大な森林を消失させ、そこで暮らしてきた人びとから豊かな恵みを奪ってきたのだ。かといって私有化してしまうと、従来の村の中での管理システムが崩れてしまう。いま彼が注目しているのは、村などが一体となって管理する「共有」という地域主体のオルタナティブな方法だ。これまで過小評価されてきた地元住民の資源管理能力を実証したい、というのが彼のテーマのひとつだ。

市民の側を向いた研究

 ひまを見つけては映画を観に行く。研究書、小説、ルポルタージュ。本は常に手放さない。鎌田慧、野村進のようなルポに関心がある。彼自身、マルクの辺境を歩いて実感した村の豊かさを、生き生きと描くのが夢だ。誰の目にも触れない研究論文よりかは、一般の人に向けた、おもしろくて実証性の高いルポを書いてみたい。「ジャーナリズム対研究」と境界を引くのではなく、市民の側を向いたジャーナリスティックな研究をしていくつもりだ。インドネシアとはずっと関わっていきたいという。

 二月から約一カ月、騒乱の続くマルクに赴く。宗教対立と報道されてきたが、彼はこれを否定する。もともと仲良く暮らしてきたキリスト教徒とムスリム。いま現に、キリスト教の避難民をムスリムがかくまっているというニュースも流れてきている。未だ実証的なことは言えないが、さまざまな利権、国軍や守旧派の関与、煽動者の存在などが背景にあると予測している。現地では、アンボン周辺の現状、避難民の状態などをレポートし、今後、日本のNGOがマルク騒乱に対してどのような行動を起こせるかを模索していくつもりだ。インドネシアをフィールドとするものにとって、避けて通れない開発と暴力の問題。今後は、そこにも積極的にアプローチしていきたいという。

(出口綾子)
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編集後記

▼先月は、この通信もお休みを頂きました。たった一ヶ月間だったのに、数人から、「AWC通信はどうしたの?」と聞かれたのでした。「こういう熱心な読者がいてくれた」と刊行冥利を感じた次第です▼さてこの間も、世界は矛盾と不正で渦巻いています。今年もフル回転でがんばりますので、よろしく!(Y)

▼2カ月ぶりの発行となりました。謹賀新年!▼今月号より大園浩史さんがDTP担当となり、3段組の導入などさっそく趣向を凝らして下さいました。今後もより読みやすいよう工夫してくださることでしょう。乞うご期待。▼今後は、定期的なミニ特集など企画面でもより趣向を凝らしていこうと思います。(S)

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月刊AWC通信2000年3月号(通巻第17号)
2000年2月26日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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