『AWC通信』2000年1月号(第16号)


目次


定例会報告

アジアのスラムにおける住民運動の現状

東京大学経済学部大学院博士過程  五石 敬路さん
開発が急ピッチであればあるほど、所得格差の拡大や農村の疲弊、都市の膨張など、生じる歪みも大きい。その矛盾の一つの現れがスラムである。開発の歪みのなかで弱者という立場に追い込まれた人たちは、自らをどう組織化し、どう対処してきたのだろうか。韓国を中心に、アジア各国のこれまでの流れと現状を見る。

スラムの状況と政策の移り変わり

――戦後のスラムには、アジアだけでなくアフリカ、中南米も含めた共通した状況があった。その状況の変化に伴い、政府の対応も移り変わってきた。――

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 多くのスラムは、農村から一定のスピードで人びとが市街地へ流れてきたのがそもそもの始まりであり、1960年代後半から70年代前半にかけて政策的にも注目されるようになった。第三世界では、経済開発を行えばスラムの解消もできるという楽観的な幻想があった。しかしその理論ではうまくいかないことがわかり、60年代後半、都市問題がクローズアップされるようになった。その中で、2つの大きな政策が出た。1つは、農村の開発をし、農村から人びとが出ないようにくい止めることである。中国のように、農民が出てきたら強制送還したという例もある。2つ目の政策は70年代から出てきたものであり、都市部の開発も必要であるという考えに基づくものであり、都市部のスラムの実体がおもにILOなどの国際機関の間でクローズアップされるようになった。

 1960年代、開発に対する考え方の主流は、鉄鋼や造船、機械など、工業部門の大企業を国が援助して興せば、その開発の恩恵が徐々に貧困層にも落ちていく(Trickle-down)というものであった。日本のODAはいまだにそう考える傾向がある。このTrickle-down政策の中で、とくに韓国では、スラムというのは都市部の環境を悪化させる病理であるから、これをなくせば都市問題は解消されると考えられた。この考えに基づいて住民の強制撤去が行われたが、撤去された人びとが別の場所に移ってしまい、逆にスラムが増えてしまった。そこで、次に政府は市街地の郊外に代替地を用意し、移住させるという政策をとった。

 韓国に限らず、途上国一般では、代替地で水道などのインフラを整備し、土地そのものを不法ではなく合法化させたところ、今度は地価が高くなり、低所得者層の人びとが住めなくなってしまった。政府が低所得者層のために用意した公営住宅では、人びとが入居権を転売し、結局そこには中・上流階級しか残らず、貧しい人びとはさらに周辺の地に移動していった。このように、経済が発展すると都市部が膨張し、スラムがドーナツ状に残るという現象が起きる。

韓国の強制撤去問題と貧民運動

――1996年にOECDに加盟し、国民所得が年間1万ドルを越え、先進国の仲間入りをした韓国。スラムといってもほかの第三世界のスラムとは状況が異なっており、多くの人がイメージする「スラム」とは違う。以前は「貧民運動」と言われたが、状況が変わり、現在では「住民運動」と言われている。中産層で起きた日本の住民運動とは異なり、スラムの低所得者層の中から生まれた韓国の住民運動にはどのような背景があったのか。また、運動組織にはどのようなものがあるのだろうか。――

 1988年のソウルオリンピックを契機に、80年代後半に韓国の再開発が活発化し、新自由主義の流れが韓国でも起きた。その流れを受けて行われた政策が「合同再開発」であった。この開発政策の特徴は、政府が事業に関与せず、責任を持たない事業展開をすることである。具体的には、住民が建設業者を選定し、住民と建設業者が合同で再開発組合を作る。財閥(=建設業者)は、財産を持っている住民には移住費を融資して規制を緩め、山の急斜面に高層アパートを与えるという方法である。元々そこに住んでいて土地や建物などの財産を所有していた住民には、入居件は与えるが余ったものをすべて一般のマーケットに分譲するという流れを繰り返すうち、地価が高騰する。住民は入居権を売って儲け、政府は国有地の売却で儲かり、財閥も高層アパートを建てることで儲けていく。この政策の下では、新たに土地を探せない借家人という一番困る人以外はカネが儲かるというしくみになってしまう。その中で、学校がない、緑もまったくないなど都市環境が悪くなっていった。

 このようななかで、1990年代に起きた韓国の貧民運動の組織として、「全国撤去民連合会」と「住居権実現のための国民連合」がある。前者は撤去のみを扱い、政府と徹底対決のアプローチをとるため、非合法運動も辞さない傾向がある。一方後者は、徹底対決のみではなく、もう少し住民の日常的な生活を視点に入れ、協同組合などを作って共同体として自分たちの生活を安定化させていくという指向性を持つ。それぞれの下にはさらに「撤去民対策委員会」と「借家人対策委員会」という組織がある。1980年代に韓国でも民主化運動が盛んになり、一部の活動家と住民がタイアップして政府に徹底抗戦をした。その後、借家人たちを保護する法律ができたことなどは、「全国撤去民連合会」タイプの運動成果と言える。しかし、こういった徹底抗戦は少数先鋭になり、住民が疲弊し、運動を継続させることが困難になってしまうという問題がある。一方、「借家人対策委員会」のほうは、公共住宅に入ってからいっきに世帯数が増え、その中でこれから地域の事業をどのようにうまく展開できるか、また他地域の住民とどのように共存していけるかが課題と言える。

アジアのスラム住民運動の事例

――韓国だけでなく、タイ、フィリピン、バングラディシュ、パキスタンなど、アジア地域ではどのような住民運動が起きていて、どのように分析できるのだろうか。アジアのスラムで起きている新しい試みは、日本のドヤにも応用できるのではないだろうか。――

<闘争路線のアリンスキータイプと参加型のグラミン銀行タイプ>

 アメリカの公民権運動の活動家、アリンスキーが始めた住民運動は、NGOの活動家たちが地域に入って住み込み、住民指導者を発掘して教育・訓練を施し、さらに彼らにほかの住民たちの組織化、意識化をさせていくという形態である。アリンスキーに影響を受けた牧師たちが韓国やフィリピンで広めた形態で、アジアの住民運動の始まりがこのタイプといえる。韓国の「全国撤去民連合会」に代表される80年代からの反撤去運動はこのタイプである。

 一方、バングラディシュで生まれたグラミン銀行タイプは、アリンスキータイプのように、組織化、意識化、理念、共同体のような理想を掲げるのではなく、お金や働く場を提供するなど、実利供与を掲げることで住民の参加を計るタイプである。協同組合、商業銀行、村落共同体、信用組合など、いろいろな組織のプロジェクトとつながり、これらの関係を開発することで住民の組織化を計るという形態である。

<アジアの各地域での事例>

コミュニティ抵当事業(フィリピン)…スラムの土地を譲渡してくれるように地主と交渉し、そのためにNGOが入り込んで住民を組織化する。その際、行政組織とNGOが融資をし、地主から譲渡を受ける住民組織を抵当にする。住民たちは地区の整備や住居の建設に当たる。

土地分有事業(タイ)…現在不法に占拠している土地を、合法的に賃貸で分け与えてくれるように地主と交渉する。そのためにNGOが入り、地主は、住民たちが地区整備や住居建設をする周りの土地を開発する。現在は地価高騰のため、ほとんど行われていない。

低コストハウジング(フィリピン、タイ)…スラム住人がまかなえる程度の低コストで、住居を建設していくやりかたであり、アメリカや中南米でも盛ん。

行政主導スラム改善事業(韓国、インドネシア、タイ)…行政主導の方法はほとんどが失敗しているが、韓国やインドネシアでは比較的成功した例がある。

オランギー・パイロット・プロジェクト(パキスタン)…オランギー(人口100万人のスラム)で、政府公社が上下水道を引こうとしたが料金が高く、また行政能力上の問題もあり、住民が引こうとしなかった。そこでOPPというNGOが技術支援をして、各地域に小さな住民組織を作り、そこで自分たちで配水管を作り近くの川に排水をするというしくみを作った。この方法はグラミン銀行タイプに分類され、アジア地域で注目されている。

マイクロ・クレジット(ネパール、インド、バングラディシュ、ボリビア、インドネシア、アメリカなど)…1970年代以降、政府主導で政府系金融機関や開発公社が公共事業に対して低利で融資をしたが、政府の財政負担が増え、腐敗、汚職もあった。さらに開発の恩恵が貧困層に届かず、回収率もとても低いという問題があり失敗していた。そこにバングラディシュで、担保が不要で4〜5人の住民グループで責任を持つというグラミン銀行が生まれ、当初の否定的な予測を裏切って返済率は98パーセントという成果を出した。その後世界中にこの方法が広まったが、最貧層にはまだ行き届いていず、自立的な経営が困難なためまだ援助に頼らざるを得ないというのが現状である。

フード・バンク…本来廃棄するはずの食料を、いろいろな所から集めてホームレスや低所得者層の人たちに渡す方法であり、ある場合には、地域の活動組織に持っていき加工して安く販売する。これは資源の有効活用、雇用の拡大、基本的な食料問題の解消につながるので、日本でもできるのではないだろうかと五石さんは考えている。しかし規制があるため、なかなか実現には至っていない。フードバンクの発祥の地、アメリカでも発達し、2600万人に食料を提供できているという実績がある。

ボランティア銀行…ボランティア、介護などの労働時間をボランティア銀行の口座に預金し、地域貨幣として労働時間ぶんを払い戻してサービスを受益するという、地域コミュニティのしくみである。失業対策、良心的なサービスの提供、家事労働の外部化などにつながる。日本でも、山谷では地域の需要があるためこの試みを取り入れるという話しもあるようだ。

開発政策、思想的なパラダイムの現状

――1950年代から現在にかけて、開発政策理論は変化をとげた。NGOや開発機関が、開発経済学に影響を与えたと言える。――

 従来の開発政策は、まだ住民間の信頼関係が成立していない中で行われることもあった。信頼関係の確立と社会統合こそが経済成長の前提条件なのであり、1990年代のNGOや住民運動は、この信頼関係の確立を重視しているので、その点で意味があるのではないかという実感が五石さんにはある。

 これまで、スラムの問題は、近代社会の中で労働者がどのように発展するか、という近代化モデルとしてとらえられてきた。そこには農村、スラム、近代セクターをどう発展させるかという視点しかなかったが、実際のアジアのスラムを見ると、日雇いなどの非常に不安定な職業に就いていた貧困層が、小規模農地を持ったり自営業主になったりすることによって生活が安定し、教育も受けられるようになって次世代の人たちが次の近代セクーに出ていくという構図がある。マイクロ・クレジットなどはまさにこの自営業主を育てることが目的である。

 これまでの開発政策パラダイムを振り返ると、1950から60年代にかけてダムや大工場などを政府主導で行い、恩恵を下層部にもたらすというトップダウン方式があった。70年代には、国が福祉政策を支援することによって財産の再分配を計る政策がとられたが破綻し、現在ではNGOなどが行う住民組織作りのほうが有効と思われている。80年代には、市場万能的な考えが主流になったが、現在では貧困層を痛めつけるだけという考えに変わり、90年代には、住民の組織化など制度面での整備を重視すべきではないかという考えになっている。

Q&A〜質疑応答から

Q:スラムの定義は?

A:一般に、農村から都市へ出てきた人たちが作るものである。調査にはインフォーマルセクター調査とスラム調査とあり、前者は賃金や労働形態など労働面に注目しており、後者は道路や家などの住居環境(合法、非合法も含め)に注目している。さらに、その社会で一般にスラムと認識されているところがスラムであろう。

Q:日本にはいつまでスラムがあったのか?

A:ドヤは定住タイプではないのでスラムとは言えない。1960年代からなくなったと言えるのではないか。

(でぐち あやこ)
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イベント報告

北朝鮮強制収容所の廃絶を求める東京国際フォーラム

 12月11日、東京で「北朝鮮強制収容所の廃絶を求める東京国際フォーラム」が開かれた。北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会が主催したもので、会の共同代表である金民柱氏のほか、北朝鮮で収容所を体験したのち韓国へ亡命した安赫氏、フランスで北朝鮮の収容所問題に取り組んでいるピエール・リグロ氏、アメリカの上院で収容所問題に関する公聴会を実現させたスザンナ・ショルテ氏、中国の収容所(労働改造所)で服役した経験を持つハリーウー氏が参加した。

 最初に発言した金民柱氏は、1950年代末に始まった北朝鮮への帰国事業に関する朝鮮総連の責任を厳しく指摘した。朝鮮総連の「地上の楽園」という宣伝を信じて北へ渡った10万人のうち、約2割の者が強制収容所に送られているという。今年の9月に朝鮮総連が活動方針を大きく転換し、朝鮮労働党の宣伝から在日同胞の権利擁護へと活動の重点を移したことについて、金氏は「40年間の活動をすべて否定するものだ」と指摘した上で、帰国事業の責任を明らかにすることなく活動方針を転換しても信用できるわけがない、と批判した。

 韓国から参加した安赫氏は、無断で国境を越えて中国を旅行しただけでスパイとされ、強制収容所へ送られた経験を持つ。出所した後、同じ時期に出所した姜哲煥氏とともに北朝鮮から脱出し、手記を発表した(『北朝鮮脱出』文春文庫)。彼は『シンドラーのリスト』に触発されて『ヨドク・リスト』という本も書いており(『ヨドク』は彼が収容されていた収容所の名前)、これを映画化して強制収容所の実態を世界に訴えたい、と語った。

 中国の収容所(労働改造所)で19年服役したハリーウー氏は、中国の収容所の状況について彼自身が撮ったスライドを交えて報告した。彼は人民解放軍が行っている経済活動の中には囚人の労働によって担われているものが含まれていることや、合弁事業という形で日本企業が関与している例さえあることを指摘した。アメリカには収容所の製品の販売を禁じる法律があるが、日本にはないという。

 フォーラムは強制収容所の廃絶を求める東京国際宣言を採択して終了した。

Webページ:北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

(レポート/小池 和彦)
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スポットライト

台湾大地震と台湾アイデンティティ

坂本 廣

援助隊への評価が意味するもの

 9月21日の台湾大地震は真夜中1時45分前後に発生した。その後、台湾の大惨事に対して各国から援助隊が駆けつけた。一番乗りした日本の援助隊への評価も高かった。アメリカ等の他の先進国からの救援隊にも注目が集まったが、オーバーオールを着てシンプルな装備で活躍したロシア援助隊も人気が高く、旧共産国・貧乏国といったマイナス・イメージが大きく好転したようだった。

 こうした海外の支援活動の対応への評価が高いのには、援助隊の活躍自体に対する評価は当然だが、中台関係と国交の問題という背景を抜きにしては考えられないだろう。

 台湾は世界一のパソコン生産基地という経済力を誇るが、世界には中台問題ゆえに台湾と国交を持っていない国が圧倒的に多い。しかし、今回の地震で国交のない多くの国々から援助隊が来たことで、台湾の人たちが感じていたであろう「孤立感」のようなものが緩和されたのではないだろうか。台湾が台湾として認識されているということを実感した事件でもあったと思う。援助隊を派遣した国への感謝の念が強いのも、こうした事情が反映されているだろう。

中国の対応への反発

 ロシア援助隊に注目が集まった背景にも、中台問題が見え隠れする。ロシア援助隊を載せた飛行機が中国領空を通過するのを中国当局が拒んだせいで、迂回したロシア隊の台湾到着が大幅に遅れたというのだ(中国側は否定)。

 また、国連総会で、中国の唐家セン外交部長が「わが国で起きた台湾地震に対する各国の援助に対して、台湾人民を代表して御礼申し上げる」と発言したのには、台湾に住む多くの人に違和感を与えたのではないだろうか。

 地震後、台湾では、街中でもメディアでも「台湾がんばれ!!」「同胞を助けよう」といったコピーが溢れている。「台湾人」意識が人々に抵抗なく広範囲に受け入れられている状況が現れている。これまでの「中国のようで中国でない、中国でないようで中国」のような状況下であれば「自分は中国人だ」と主張できた台湾人の中にも、中国側の発言に対して「何か、ちょっと違うような気がする…」と思った人が少なくないのではないだろうか。

 10年前から始まった台湾の民主化は驚くほどの速さで進行している一方で、中国は10年前の天安門事件以降に締め付けが強くなっているのだから、中国当局者に「私があなたの代表者だ」と言われれば、台湾人の感じる違和感は論理的にも情緒的にも小さくないはずだ。さらに、台湾側が建国記念日である10月10日の行事を地震を理由に中止したのに対し、中国側は建国記念日10月1日の行事を「盛大に」挙行したので、台湾では中国に対する見方が冷めたと思う。「中国の一部」とこれまで言いたいだけ言っておいて、いざとなったら……と。

総統選挙への影響

 地震の影響は、来年3月に予定されている台湾の総統選挙に関しても注目される。

 国民党の連戦(現在の副総統。正統派候補だが大衆的人気がない)、民進党の陳水扁(前の台北市長)、国民党からは公認されていないが人気絶大の宋礎愈(現在の国民党主流・李登輝路線に批判的)が三大候補。地震中は選挙戦は一時休戦とされていたが、現職の連戦・副総統は政府の地震対策責任者になったこともあり、それがそのまま良くも悪くも総統候補としての彼への評価となる。その点、組織力と資金力を持った国民党候補であることが、連戦の人気の無さを補っていくことはありうる。ちなみに、連戦自身も非常な資産家で、地震義捐金として資財2億台湾元を寄付している。

 逆に、非常に強い大衆人気を誇るとはいえ、台湾化が進む国民党と野党民進党の実質的な差異が小さくなっており、権力機構から離れている陳水扁にはやや不利な状況にも見える。昨年末の台北市長選挙で、国民党の外省人候補・馬英九に敗北しただけに、選挙を闘いぬく難しさを強く意識しているのではないだろうか。その意味で、第3の候補宋楚愈は強みを発揮している。外省人である一方で、台湾省長時代の地域密着行政を行ったことが彼に対する強い支持となっており、連戦・陳水偏両陣営を引き離している。宋30%、陳・連各20%というのが世論調査でのおおよその支持率だ(ただし、態度未決定も30%を占める)。

 苦戦を強いられている陳水偏陣営は、弁護士時代の運動家としての彼の経歴をアピールするテレビCMを11月末ごろから流しており、所属する民進党が宋楚愈の「民主化運動弾圧」の経歴を批判するなど、改めて「本省人」「台湾人」としての陳水偏を前面に出し始めている。今回の総統選挙でのアイデンティティ闘争はいよいよ山場を迎えるのかもしれない。

(さかもと ひろし・団体職員)
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インタビュー

『可能性としてのマカオ』著者・塩出浩和さんに聞く

なぜマカオに関心を持ったのですか。また、どんなところに魅力を感じているのですか。

 香港は活動的で現代的な大都市ですが、何と言っても歴史がありません。それに比べてマカオは四世紀半にわたる南欧と華南の文化的接触の歴史があります。これは具体的には、建築・街並み・宗教・料理などに表れています。

また、マカオは国際金融都市でないせいか、香港に比べてのんびりしています。高層ビルが香港より少なく、半島と島でできているので街が狭い割には空間もゆったりしています。市内のどこにいても海岸か海の見える丘はすぐそばです。

 他にも、物価が安いことが大きな魅力です。とりわけ宿泊と食事が香港に比べて安くなっています。ポルトガル・ワインならだいたい香港の半額です。ポルトガル料理とワインをリーズナブルな値段で雰囲気良く楽しめる場所は香港にはありません。私自身、仕事場であった香港に一時間で戻れるマカオは魅力的な避難地でした。

 ただし、マカオは小さいので、現地に友人ができるようになると、こっそり訪れる訳にはいかなくなります。マカオの中心部を歩いていると一日に2〜3人の知り合いと逢ってしまいますから。

中国にとってマカオ返還が持つ意味は。

 マカオ回収により西欧植民地主義からの最終的独立を果たす。このことの意味は極めて大きなものがあります。近代中国の歴史は植民地主義との戦いの歴史であったからです。

 国土統一の点からもマカオの回収は意味があります。旧植民地を「特別行政区」として再編し、中華人民共和国に統合する試みはすでに香港でおこなわれていますが、マカオが加わることによって、このような多制度の共存システムが特殊なものではなく、中国ではある程度一般化したシステムとして機能しはじめることになりました。そこで、「次は台湾」という圧力が中国内では高くなるでしょう。

 また、広東省を中心とした華南の地域経済・社会に対する影響も無視できません。

大陸中国人のマカオ入域は香港入域よりも幾分規制が緩くなっています。マカオ経済における中国系資本の存在が圧倒的だからです。消費文化の面では広東・マカオ・香港は今後より一体化していくでしょう。問題が起こるとすれば、広東省の変化が内陸の諸省に及んだ時です。経済発展に比べて消費のアナウンスメント効果が大きくなれば、生活への不満は政治的な不満に転化する可能性があります。

マカオ自身への影響は。

 あまりないでしょう。実際のところ、台湾系勢力の排除など政治の中国化は1960年代に始まっていましたし、生産ラインの広東省への移転や中国系企業の投資増といった経済の中国化も1980年代にすでに起きていました。影響といえば、北京語がもっと通じるようになる、ということぐらいでしょうか。ポルトガル系文化の衰退も心配されていましたが、ここ数年は逆にマカオの貴重な遺産としてポルトガル文化を守っていこうという動きが見られます。

著書の中で「植民地」の再認識を試みていますね。

 植民地を単一の概念としてひとくくりにすることは無理があると思います。スペインの南米植民地は破壊と略奪、近現代の帝国主義による植民地支配は文化的優越と搾取によって規定できるでしょうが、マカオを見るとこのような範疇からはずれる現象がたくさん発見できるからです。

 マカオの場合、文化的には正に相互交流であったし、政治的にも一方的な支配関係はありませんでした。中国のような伝統文明社会にとってはその変化を促す触媒の役割が植民地にはあったと思います。香港・マカオがなければ中国の革命も産業近代化も起こらなかったかもしれません。植民地が、中国が近代世界の中で生き延びる手助けをした、という側面もあります。

 植民地一般については、「人の移動と定着」の一形態として考え直すといいと思います。近代の植民地はたしかに軍事的・経済的な支配によって規定できますが、ほかの時代の植民にはいろいろな側面があります。モーゼの出エジプトやゲルマン民族の大移動、さらには漢族の南下などもふくめて「植民」という現象を考えたいと思っています。そこには少なくとも、ホスト=ゲスト間と、人間=環境間というふたつの相互作用があると思います。

 ただ、これはアイデアの段階で結論的なことは何も言えません。

(構成/大戸 毅)
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会員紹介(9)

豊田 直巳さん(フォトジャーナリスト)

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「約束の地」パレスチナ

 「まずやってみよう。やってみないとわからない」

 行きあたりばったりにも聞こえるこのかけ声は、その向こうの明確な目的意識と結びついたときに、果敢な行動主義を体現する。39歳の誕生日を1ヶ月後に控えての「フォトジャーナリスト」宣言は、「ダメでもともと」では終わらない決断だった。

 キャンパス移転反対、学費値上げ反対闘争、8ミリ映画制作、同人誌主宰。「ご学友」にはAWC会員でフリーライターの松浦邦彦さんがいた。「奇跡的に」4年で卒業した学生生活を「いずれも形にならなかった。何が自分のモノになっただろうか」と自省しながらも「恥じてはいない」。批判を恐れない姿勢は今も変わらない。

 卒業後関わっていた反核兵器運動のさなか、レバノン戦争の報にふれてショックを受けた。自分が戦争反対を唱えている一方で、パレスチナ人が次々と虐殺されている現実。「何が起きているのか、とにかく自分の目で見てみたくて」ドキュメンタリー番組のクルーに同行した。非宗教的民主主義国家建設の理想───その後PLO(パレスチナ解放機構)の主張に、民族主義を越えるヒントを見いだした。「民族運動は好きじゃない。民族の中にも民族はある。そこを越えられなければ前へ進めない」。

写真との出会い、そして決断

 パレスチナを通して知り合ったジャーナリスト、広河隆一さんの手伝いをするうちに「写真」を意識し始めた。ナパーム弾で焼かれた少女を抱いた父親───広河さんの暗室で見た、痛々しい、しかし印象に残る1枚のモノクロ写真が今も思い出される。「『他人ごとではない』と感じさせる何か。それが写真の可能性ではないか」。

 塾講師をしながら、休暇を取って足繁く中東へ通った。いわゆる「プロ」になるつもりなどなかった。ただ、現地で協力してくれる人々の「この現実を日本に、世界に伝えてくれ」という強い思いが、一般商業誌への売り込み、発表へと駆り立てた。そんな生活が14年ほど続いた。

 「自分の体力を考えると、納得できるところまでやれる最後のチャンスだと思った」。休暇は長くて1ヶ月。正社員になって4年間はそれすら取れなかった。おかげで貯金が少しばかりあった。「とりあえず1年間、やってみよう」。退職して最初の取材は、スタート地点、パレスチナだった。

紛争地から日本へ

 その後、中東から旧ユーゴ、沖縄、中国、ブータン難民、北朝鮮、カンボジア、ウガンダ、インドなど、文字通り世界を駆けめぐった。1年のつもりがもう1年、もう1年と現在に続いた。テーマは「平和」。おのずとその対極である戦争関連の取材が多くなる。

 「一番弱い人にツケがまわり、一方で儲かっているヤツが必ずいるのが戦争。でも、止めること、なくすことは可能。圧倒的世論による戦争抑止。少なくとも、止めようとする側に少しでも参加していたい」。

 世界の紛争地を相手にしながらも、「国際問題としてではなく、日本の問題として」取り組んでいる。各地の戦争に深く絡んだ日本の姿、海外への展開を進める自衛隊。一方で、中国をはじめアジアでは半世紀前の日本の戦争がまだ終わっていない。フィールドは地理的なアジアを遙かに越えるが、集約される先は自身の国、日本である。

「それを越える写真」をめざして

 発表の場の少なさは痛感する。業界を席巻する商業主義の論理。しかし「人の心を打てる写真が撮れれば、突破できる課題」と位置づけている。「それを越えられる写真が撮れているのか」、日々自問する。

 酒量の多さはAWCでも悪名が高い。自身、「依存症だと思っていた」。しかし、インド取材中は3週間にわたって完全禁酒。依存症の疑いは晴れたが、相変わらずの深酒は「仕事がら」だと言い訳をする。

 息抜きは「もっとも金がかからない趣味」、渓流釣り。田舎育ち、都会嫌いの自分が自然の中で生き返る。釣り仲間募集中。

 今、取材してみたいのはアメリカ。世界中で戦争をやっているこの国が、いったいどうなっているのか。何が起こっているのか。これまで全く興味はなかったが、ここへきて自身のテーマに不可欠な取材と思えるようになってきた。第三世界を歩き続けた果ての、究極の「戦場」だ。

 平和を求めて世界をさまようカメラが切り取る光景。その成果はホームページ「境界線の記憶」で閲覧できる。

Webページ:「境界線の記憶」

 
(南風島 渉・報道写真記者)
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団体紹介(6)

ビルマ市民フォーラム(People's Forum on Burma)

“微笑みの国”のいま

 1989年6月、ビルマはミャンマーへと国名が変わりました。もともとの語源であるバマーが狭義のビルマ族をさし、多民族国家としては相応しくないという理由でした。しかし、語源や解釈についての議論はともかく、国名変更を決定したのが軍事政権であることを許せない人々は大勢います。

 ビルマでは1988年の大規模な民主化運動が弾圧されてから、軍事政権が強権支配を続けています。民主化最大勢力である国民民主連盟(NLD)党員や民主化運動に参加した学生の大量逮捕、NLD指導者であるアウンサンスーチさんの自由の制限、大学封鎖、ヤンゴン市内の戦車配備など軍事政権の暴挙は一層激しさを増しています。

 しかし、こうしたビルマの現状が日本のメディアで取り上げられることはけっして多くはなく、また、クーデター以降、多くのビルマ人民主化活動家が国外で活動を続けているにも関わらず、ビルマ情勢に対する国際社会の関心は必ずしも高まっていません。

在日ビルマ人が直面する問題

 現在、在日ビルマ人が直面している問題には、次のようなものがあります。

(1)難民申請者が急増 今年5月23日に起きた在日ミャンマー大使館員らによるビルマ人民主化活動家への暴行事件(「コンサート事件」)では、軍事政権が自由な言論を暴力で弾圧するというビルマの現実が、まさに日本においても引き起こされる形となりました。そして、この事件をきっかけに、在日ビルマ人の難民申請者が再び増しています。

(2)就学問題 1988年のクーデター以降ビルマの大学はたびたび閉鎖され、この11年間でたった数ヵ月しか開校されていません。そのため、多くの若者が将来に失望感を抱きつつ、いまだ40万人以上の学生が大学再開を待ち続けています。そして、就学機会を失ったまま日本へやってきた多くのビルマ人は、日本でもまた日々の生活に追われ、就学のチャンスには恵まれていません。

(3)徴税問題 在日ビルマ人は、毎月2つの税金を納めています。1つは日本政府へ納める所得税であり、もう1つはミャンマー大使館に納める税金です。彼らは毎月1万2千円前後をミャンマー大使館に納めるよう義務づけられ、もし支払わなければパスポートが剥奪されてしまいます。

ビルマ市民フォーラムの設立

 ビルマ市民フォーラム(People's Forum on Burma)は、広くビルマに関心がありビルマの民主化を願う人々が、その実現のために知恵を出しあう場として、1996年12月に設立されたNGOです。活動の趣旨・目的は次のとおりです。

 (1)ビルマの民主化を願う市民の声を結集し、民主化を促すために考えられるあらゆる活動を展開する。具体的には、ビルマに関する様々な情報を収集し、それらを提供・広報する発信源となり、日本政府やビルマ軍事政権に対して影響力を行使しうる組織・団体の態度決定に対して勧告や意見の提出などを行なう。

 (2)在日ビルマ人との親睦・交流をより深めるとともに、彼らの行っている民主化運動に対し市民の立場からなし得る協力を行なう。具体的には、一般的な活動、在留問題について支援していくほか、日本語教室の運営、彼らの文化活動への協力なども行い、ビルマやビルマ人に対する理解を深め、より多くの人にビルマを知ってもらうきっかけを提供したい。

 このような趣旨・目的のもと、以下の活動を行っています。(1)ビルマの民主化を支援する活動(アピール、署名運動、講演会の開催など)。(2)ビルマの歴史、文化についての理解を深める活動(コンサート、イベント、講演会、勉強会の開催など)。(3)在日ビルマ人民主化活動家を支援する活動(在日ビルマ人を対象とした日本語教室の開催など)

 ビルマ市民フォーラムでは、在日ビルマ人が抱える問題への対処の観点から、今後、具体的な活動を進めていこうと考えています。本当の意味でビルマが“微笑みの国”に戻るよう、私たちの活動に参加しませんか? 興味を持たれた方は、ぜひ下記にお問い合わせください。

ビルマ市民フォーラム

(PFB事務局 マキンニンズィ)
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編集後記

いよいよこの号で本年最後となった/今年は本当になにかと激動の1年だった/プライベートでも大きな変化があり、まるで2000年を迎えるにあたっての準備の年のようだ/しかし世紀末世紀末というが、タイやビルマやチベットなどの熱心な仏教国では仏歴もあるわけで、彼らにとってはキリストの暦なんてどう関係があるんだろう?仏歴のミレニアムの盛大なイベントに興味があるのだが/来年もご贔屓に!(や)

2000年2月号は「冬休み」、『AWC通信』の2000年は3月号(2月下旬発行)より始動いたします。新しい号の発行を楽しみに待っていただいている読者の方には誠に申し訳ないこととは存じますが、どうかご了承ください。/現在、『AWC通信』では新たな編集体制を模索中です。会員の方々からどんどん企画が提案されるようなメディアにしていければと思います。ぜひご意見をお寄せ下さい。(よ)

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月刊AWC通信2000年1月号(通巻第16号)
2000年12月18日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC通信編集部

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