『AWC通信』1999年10月号(第13号)


目次


第25回定例会報告

参政権と在日コリアン

東洋経済日報記者 李 相兌 さん
在日コリアンなど定住外国人に地方参政権を認めようとする動きが起きている。だが、現在進められている法制化では選挙権、被選挙権をわけるなど、問題点も指摘されている。また在日社会内部でも立場の相違がある。在日コリアンにとって参政権とは何なのか、そして日本社会は定住外国人の政治参加をどう受け止めるべきなのか。

少し長めのリード

 本来、定例会の報告は、テーマについてのスピーカーの発言をまとめるべきものである。しかし、今回の李相兌さんの話は、テーマから少しずれた話のほうが圧倒的に面白かった。「面白かった」というと語弊があるが、新聞記者として参政権問題の現状を報告し、分析、解説した話より、在日韓国人3世として生を受け40数年間生きてきた、李相兌という一人の人間の肉声が聞けたという意味で面白かったのだ。参政権の話は後で詳しくまとめるとして、まずテーマからはずれた話の概要をまとめ、私の感想も述べてみたい。少し長めのリードだと思ってご容赦願いたい。

 「みなさん金嬉老って知ってますか」。休憩に入る少し前、相兌さんは唐突にその話を始めた。私や相兌さんの世代以上の参加者以外は、その名前にピンとこなかったようだが、その名前は相兌さんにとって特別な意味を持っているという。

 「あの事件が起きたのは私が中学生の頃で、その頃の私はなぜ名前が二つあるのか、なぜ朝鮮人に生まれたのかをずっと悩んでいました。だから、『ライフル魔金嬉老』が旅館に人質をとって立てこもったと聞いたとき、『また、朝鮮人が事件を起こしてイメージが悪くなる』というのが正直な感想でした。しかし、その後法廷での陳述などから金さんの生い立ちを知り、国家が作り出した不条理を肩代わりさせられている在日の悲劇を、彼は体現しているように思えたのです。

 今、在日の中でも彼のような人生を歩む人は少なくなりました。仕事で20代の在日を取材しても、彼らは『直接的な差別など受けたことはない』と明るく、元気に答えてくれます。でも、深く話をするとやはりどこかに傷を負っている。私が強いられた無駄な苦悩、その苦悩があるから今の私があるとしても、それを強いた責任を果たしてもらいたいというのが偽らざる気持ちです」

 私は、95年のゴールデンウィークに、相兌さんと一緒にあの事件が起きた寸又峡の旅館を訪ねたことがある。なぜ、相兌さんが私を誘ったのか。おそらく、私がそれ以前に、AWCではおなじみの豊田直巳氏の実家が隣町にある関係で寸又峡に遊びに行ったことがある、また別の友人の実家が島田市でビジネスホテルをやっているのでタダで泊めてもらえる、それだけの理由だったと思う。その旅館は当然改装され外観は新しくなっていたが、金氏が記者会見に応じていた玄関などは当時のままのように見えた。その前に相兌さんと立ち一緒に見ていても、彼には私と違うものが見えていたんだなあと今回の話を聞いて、改めて思わざるを得なかった。

 参政権の話も後で記すように、いまだにかなりきびしい状況にあるが、まったくそれが実現する可能性がないわけではない。しかし、もしそのように法律や制度が変わったとしても、在日コリアンが背負わされてきた苦悩や傷は決して癒えることはない。どうしたらそれが癒されるのか。「わからない」と相兌さんは言った。私もわからないし、だれにもわからないだろう。ただ、差別の被害者・加害者という立場の違いから同じものを見ても違って見えたとしても、少なくてもその場に行って一緒に見ようとすること。一緒に歴史的事実を見据えること、それが多少なりとも癒しにつながればと思う。「コリア陶芸ワークショップ」に来ていた子どもたちが、そんなことで思い悩まなくてもいい時代になることを願わずにいられない。

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“選挙好き”でも投票できない在日韓国人

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 在日韓国人社会は多様化していて、参政権についても様々な意見があり一概には言えないのですが、私たちを取り巻く現状、参政権をめぐる動き、何が問題なのか、そして私たちが何を望んでいるのかを私なりにお話したいと思います。

 現在、在日韓国人は、最近の外国人登録の統計では65万人、日本国籍取得者も10万人とも20万人いるとも言われています。日本の人口1億2千万人に対して65万人ですから200対1、つまり100人の中に0・5しかいないことになります。米国の黒人は10人中2人の割合で圧倒的少数者といわれ、社会的に不利な立場に置かれているのを考えると、まして在日韓国人の声がどれだけ日本の社会に届くのか絶望的な思いがします。よく言われているように、在日韓国人は“透明人間に近い存在”でしかないのです。

 先日、毎年やっている「コリア陶芸ワークショップ」を今年も開催したのですが、そこに5人の子どもが来ていました。そのうちの2人は在日の4世で、日本に生まれて何十年も生きている3世の子どもであるにもかかわらず、参政権がなく社会保障の一部も受けられません。彼らは韓国籍朝鮮籍で生きている限り、現状では投票することができないのです。ワークショップには私の妹の子ども(私の甥と姪)も来ていたのですが、妹は日本人と結婚していて日本国籍なので母親が在日韓国人でも彼らは社会保障も受けられ参政権もある。同じ在日韓国人の子どもでも、これだけ違いがあるのはおかしな話ではないでしょうか。

 もう1人の子どもも母親が在日韓国人で父親が日本人なのですが、私の友人でもあるその母親は本名で生きてきて仕事は通名でやっています。さらに、夫の名字(戸籍上の名前ですね)も違うので、子どもは自分の母親に三つの名前があることを知らなければならない。これなどまさに、在日社会の縮図といえるでしょう。

 私も40過ぎになる今の今まで選挙に行ったことが一度もありません。どうやって投票するかも知らないのです。テレビの開票番組はいつも朝まで見て、選挙権はあっても棄権する人よりもはるかに選挙好きな(笑)私が投票できないというのは、どう考えてもおかしいのではないでしょうか。

定住外国人の参政権をめぐる様々な意見

 90年代に入って参政権を求める声が高まり、また95年に最高裁が「永住外国人に限り、地方参政権は現行憲法でも禁止されていない」という判断を示したこともあり、昨年秋に公明・民主両党が地方選挙の選挙権に限り認める法案を共同で提出しました。選挙権と被選挙権を分けたのは、その方が法案が通りやすいので段階的にやっていこうということのようです。この案はずっと付託されないままになっていたですが、この前の国会で会期末寸前に公明党の強い要望で審議入りし、秋の臨時国会まで継続審議になりました。

 21世紀になろうというこの時期に、しかもすでに3世4世の時代になろうとしているにも関わらず、選挙権と被選挙権を分けてしかも慎重に審議しようという。日本はそこまで国籍の違う人間に対して排他的にならなければならないのかと、この論議を見ていて正直思います。 これに対して、1週間前の読売新聞に面白い記事が出ていました。定住外国人の地方参政権について賛成の立場から一橋大学の田中宏先生、反対の立場から慶応大学の小林節先生が意見の述べているもので、小林先生は「国籍が住民の前提である」と主張しています。民団が地域住民として地方参政権を求める運動を展開しているのに対する反対論の根拠となっているのがこの主張で、要するに地域住民も国民も分けられるものではなく、日本国籍を持っていることが何よりも優先するという立場です。

 それに対して田中先生は、定住外国人に内国民待遇を与えるべきだと主張しています。この考え方は、ヨーロッパで出てきている考え方で、民団の主張の根拠にもなっています。

 一方、総連は参政権を持つことは日本の政治に参与することであり、民族性を失って同化につながるとして反対しています。継続審議になっている公明・民主党案でも総連の反対論に考慮して、事前登録制を採用しています。これは、国民なら自動的に選挙人名簿に記載されるのを、投票したい人だけ事前に登録するようにしようというものです。

 確かに、この案は一案ではあるかもしれませんが、私は選挙権を基本権と考えるなら選挙権と被選挙権が線引きできるものなのか疑問です。結局、我々は管理の対象から抜けきっていないような気がしてなりません。

 もう一つの反対論の根拠、日本に帰化すればいいではないかという意見ですが、帰化をどう考えるかは国籍をどう考えるのかということにつながります。私自身3世で、親も日本で生まれ育ってきたわけですから、なぜいまだに韓国籍なのかを考えると自分でもおかしいと思います。また、韓国本国に住む人たちも、なぜ在日はまだ韓国籍なのか不思議がって、「あなた方は日本人にしか見えませんよ」とよく言われます。にもかかわらず、韓国籍にこだわることを説明しようとすると相当時間がかかるでしょう。また、日本に帰化することの意味は、在日の中でも議論がありむずかしい問題です。

 それに対して北海道大学の奥田安弘先生は、旧植民地出身者が日本国籍取得を希望するなら自動的に認める(帰化ではなく国籍取得ですね)、そういう特例を設けるべきだと数年前から主張しています。これは確かに、考え方としてはありうるだろうと思います。その場合、何人の在日韓国人が希望を出すかはわかりませんが。

参政権を持つとは日本の社会に責任を持つということ

 この問題を解決するには、血統主義に固執する日本の国籍法を改正する必要があります。外国人を社会に統合しようと、オランダでは3世から、米国では2世から国籍の移行を行っています。

 外国人を社会に統合するとはどういうことかというと、外国人がその社会に責任を持つということです。日本社会に我々が責任を持つことについて、民団や総連がどう考えているのか、また私たち在日1人1人や、日本人1人1人がどう考えるべきなのかいろいろ議論されるべきだと思います。在日の参政権問題というのは、在日がどう生きるかということ、日本社会がどう定住外国人と向き合うのかということと直結する問題なのです。もっと国民的議論が湧き起こって然るべきなのに、そうなっていないのは残念です。

 私は、国籍は出生地主義であるべきだと考えています。私たちのような植民地支配の結果として存在している在日韓国人に対しては、無条件で日本国籍取得の自由が与えられるべきだし、その子どもたちは当然日本国籍でいいと思っています。ただ、最近の日本の社会を見ていると、どうも反対の方向、より一層血統主義の方へ動いているように感じられて仕方ありません。今、日本という国家が揺らいでいるために自分のよりどころを民族のアイデンティティに求めようとしている。実際に日本国民、特に若い人が揺らぎを感じているかどうかはわかりませんが、少なくとも野中官房長官などは危機意識を持って民族の統合を求めているように感じられます。

 一方、在日社会にもそのような動きを感じます。私は在日の社会はもっと多様化すべきだと考えているのですが、民団や総連の新聞を見ると民族のアイデンティティという言葉がよく出てきます。社会が多様化して“個”として生きる人間が増えると、組織の基盤に関わるので危機意識を持っているのかもしれませんが、日本、在日社会とも民族の揺らぎに危機意識を持っている印象があります。

 そうした状況の中で参政権の運動がどうなっていくのか。特に、運動を提唱してきた民団がどういう将来の見通しを持っているのか。前にも言いましたが、参政権を持つということは日本社会に責任を持つことであり、日本に統合されることにほかなりません。つまり、天皇制や日の丸・君が代などすべての問題に権利と義務を有することになります。その一方で民族のアイデンティティを強調するのは、果たして矛盾ではないのでしょうか。また、総連のいう参政権は同化につながるという論理は、3世である私や4世の子どもたち、骨の髄まで日本が身にしみている人間に対して説得力を持つのか疑問です。

すべての問題の出発点は現行憲法

 この問題が戦後50年たっても解決できない原因は、現行の憲法にあります。今の憲法の基になったマッカーサー憲法では、国民ではなく「自然人(ナチュラルパースン)は…、権利を有する」となっており、「外国人は法の平等な保護を受ける」とされていました。もし、この草案がそのまま通っていれば我々の権利は憲法によって保障され、参政権をめぐる問題はなかったかもしれません。

 ところが、国籍によって外国人を排除して管理の対象としようと、日本政府が「ナチュラルパーソン」を「国民」と変えたため、外国人は平等な保護を受けられなくなりました。日本国籍の取得者のみが日本国民であると定めて、憲法発布の前日に朝鮮人・台湾人は外国人とみなすと天皇の勅令を出して外国人登録法をつくったのです。問題のすべての出発点がここにあります。

 今、憲法を変えようとする動きが活発化していますが、今の憲法をより民主的な憲法に変える必要があるという意味では、私は基本的には変えてもいいと思っています。これから、憲法調査会が改憲案をまとめることになりますが、その中に少数者の人権を盛り込めるのかが今後の課題になるでしょう。

 最後に、今後具体的な政策としてどのようなことが必要か、前に東洋経済日報の紙面である在日の会社社長が6つの政策提案をしています。

  1. 在日が生まれた歴史的経過と現状について、教科書に記述する。
  2. 1947年に日本が公布した外国人登録法を無効とし、在日の地位を現状回復させる。その上で得るべき日本からの諸々の補償問題を解決する。
  3. この後に、在日の自由意志で国籍を選択させる。
  4. 日本国籍を選択する者には、全員無条件でこれを日本政府に許可させる。民族名(本名)による日本国籍取得も当然可能とさせる。
  5. 韓国籍を取得する者については、選挙権を初めとするすべての公民権を与える。
  6. 在日の民族学校を再編、強化し韓国籍取得者に対し母国語修得を強化する。

 この案に私もほぼ同意見なので、これをあげて本日の話を終わりたいと思います。

(松浦 邦彦・フリーライター)
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ルポルタージュ

法輪功はどこへ向かうのか

〜京都からの煉功レポート
瀬崎真知子

 今、中国政府がいちばん恐れているものは、何よりも、法輪功かもしれない。7月22日の非合法化以来、中国国内で徹底した取り締まりが行われているが、法輪功煉功者は、中国国内だけでなく世界中に広がりつつある。日本にも約700人の法輪功煉功者がおり、その数も確実に増えているという。

 京都でも、本国での非合法化が伝えられた後の8月始め、講習会が開かれた。その日は、煉功(気功)後、質疑応答が行われた。京都での指導者・張さんは、「法輪功は組織ではない」という説明を繰り返した。 ほかの場でも大概こう説明されるようだが、法輪功を知らない人々の疑問を余計に大きくしているように思った。

 その後私は、京都での煉功場所が市民にもよく知られた公園の一角にあることを知り、足を運んでみた。

 8月22日、午前9時、円山公園。私が着いたときにはもう10人程来ていた。中国国内での非合法化による緊迫感は全く感じられなかった。静かに、自然に人が集まり出していた。「許可なんかいらないよ。法輪功はお金も取りません」。私が煉功の参加をあらためて申し出ると、中国人留学生の王さん(女性)はとびきりの笑顔で言った。

日本人参加者たち

 参加者は日本人の中高年男性がいちばん多い。その次が中国人留学生である。山根さん(50代・会社員)。毎日朝4時に起きて、1日3回煉功を行っている。開始後は物事への執着心がなくなり、まずテレビを見なくなった。煉功の必要上早く寝るようになった。きっかけを尋ねると、「中国で何千人ものひとが信仰しているのには、なにか訳があると思った」「転法輪を読んで、長年自分が考えてきたことと同じだった」と語った。

 澤田さん(30代・会社員)。王さんたちに誘われて法輪功に参加するようになった。彼は、以前から中国語が堪能で、転法輪も原書で読んだ。「私はあの子たちのように功の体得を経験したわけでもないし、法輪功がすごいかどうかもわからない。李洪志については特に何も思わない」。そう言いながらも毎日、煉功を行っている。

入信のきっかけ

 京都での指導者、張さんは、市内の私立大学助教授という肩書きを持つ。間もなく一番前の張さんを中心として、中国的な音楽とともに煉功が始まった。煉功は、立って行うもの(動功)と座って行うもの(静功)、全部で5式あり、それぞれ1時間を要する。私は、前に立つ王さんの動きをまねながらついていくのがやっとであった。

 来日4年目の留学生、王さんは、同じ留学生であるいとこの劉(女性)さんと大阪の枚方市内に住んでいる。法輪功を初めて知ったのは、来日前、まだ中国にいた頃だ。母親から薦められた。彼の母親は、劉さんの母親から紹介されたという。同じ時期に劉さんも、母親から薦められている。法輪功が広がる方法の一つとして口コミが威力を発揮していると指摘されているが、それをうかがわせる話だ。彼は言う。「始めてからは悪かった母との仲も改善された。それまで体の悪かった母も、法輪功を始めてからずいぶん状態が良くなった」。以前はアルバイト先での問題にストレスが溜まることもあったが、それも解消されたという。「親は何も教えてくれなかった。法輪功は本当のことを教えてくれた」

 その後、静功を行うため、私たちは5分ほど歩いた旅館へ移動した。まず座禅を組んで行う5番目の煉功。1時間を要する長いもので、終わった後はまわりに安堵の空気が立ちこめた。休憩のあとは勉強会。会長・李洪志氏の著書『転法輪』を一人ずつ音読していく。そして、きりのよいところで質疑応答がくり返された。

法輪功は組織ではないのか

 帰り際、私は王さんに、今日自分が来た本当の意図を告げた。すると、王さんはこう言った。「(前回の講習会の参加で)張さんの妹から、『あの人は新聞関係者だから、気をつけて』と言われたけど、私は、ひとりの人間としてつきあおうと思いました」。ひとりの人間として。親しい人からの忠告に従わず自らの判断で私に付き合ってくれたことに対して、王さんに感謝した。

 しかし、実は、これこそが法輪功の教えなのである。人を敵としてはだめだと、会長・李洪志氏は言う。嫌な気持ちを相手に抱くこともあるだろう。だが、相手の気持ちをまず先に考えなさい、と説くのが、法輪功の教えなのである。そうして、いい人になり、自分の心性を高めることで、次の高い次元へ行けるのだと説いている。

 また、法輪功は、教義や戒律を持たないとしているが、実際は、李氏が一つだけ規定を設けている。それは、政治への執着心を捨てるということだ。だが、中南海取り囲みやその他の抗議行動からみて、大衆運動としてのその政治性は否定できない。

 それほどに社会的影響力を持つにいたった今、組織ではない、という説明は、法輪功側にいくら対話の姿勢があるとしても、相手に不信感と不可解さを残す。転じて、脅威につながっている。中国共産党幹部にまでメンバーがいるという自信と安心のせいか、法輪功側のダメージは切実に感じ取れない。しかし、これ以上不当に一般の煉功者への迫害を増やさないためにも、逆に組織であることを認めることが、自分たちを守ることにもなっていくのではないだろうか。

(せざき まちこ・フリーライター)
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インタビュー

東ティモール住民投票

〜矛盾した枠組みが作り出した惨劇
8月30日に住民投票が実施された東ティモールでは、その後、武装民兵とそれを操るインドネシア軍によって大殺りくが繰り広げられた。南風島さんは8月下旬から東ティモールに入り、投票結果の発表後、治安悪化のため帰国した。長年にわたり現地の取材を続けている南風島さんに、東ティモール情勢の内幕を聞いた。

投票・結果発表、そして虐殺へ

Q 投票の日は静かだったが、なぜ?

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 西部のマウバラとリキサで投票の様子を見た。武装民兵の拠点にも関わらず、日本の議員団が訪れるほどののどかさに、文民警察官も鼻高々だった。ただ市民が自由に発言できる状況にはほど遠く、インドネシア国旗がずらりと並んだ投票所付近で独立派の声を拾うのは大変だった。

 前日までとはうって変わった静かさは、「この日だけは暴れるな」との国軍の指令が民兵に徹底されていたからだろう。「民兵は怒り狂っていて制御できない」というのは大うそで、むしろ民兵の活動は完全に国軍のコントロール下にあった。治安の良し悪しは国軍の思惑ひとつにかかっていたといえる。

 国連東ティモール派遣団の第一の任務は、まずとにかく「投票を実施すること」だった。当日は各国議員団の視察などもあり、インドネシアとしてもこの日だけは国連の面子をたてた方が得だと考えたのではないか。それに何より、住民投票はインドネシア自身の提案によるものだった。

Q 投票後、治安状況はどう変化した?

 投票(8月30日)後、市民の間に「4日から、民兵とインドネシア軍兵士が手を組んで、独立派住民の虐殺を始める」という噂が流れた。私が泊まっていた民家でも女性や子どもは西ティモールへ逃げ始めた。男たちは山刀などを用意して、家の中にこもりっきりの状態。そして噂どおり、4日に事態が急速に悪化した。4日の夜は、銃声が「怖い」というよりうるさくて眠れなかったほど。それまでは手製の銃だった民兵たちの武器も、この日から一斉にM-16サブマシンガンに変わった。これはインドネシア国軍の制式銃。昼夜、2週間以上にわたって撃ち続けても底をつかない弾薬の量を見ても、これらがインドネシア軍から提供されていることは明らかだ。

民兵と国軍/統制のとれた「無秩序」

Q 結局、民兵やインドネシア軍は何をやりたかったのか?

 インドネシア軍が描いていた筋書きは、「併合派と独立派の内戦」を演出し、自身のプレゼンスを正当化することだった。つまり1975年の侵略当時と全く同じ芝居を演じたかったのだが、独立派は全く乗ってこなかった。加えて、独立派圧勝の投票結果。武力併合の維持が難しくなったインドネシア軍は「名誉ある撤退」よりも、東ティモールに深い傷を刻みつけることで自己救済を図ろうとした。それが今回の大虐殺と徹底的な破壊行為だったのではないか。そのために、投票結果発表から多国籍軍到着までの、目撃者のいない空白の2週間が用意された。

 背景には様々な思惑もあっただろう。よく言われるのが、独立の動きがあるアチェ、西パプアなどに対するけん制。独立を訴えるなら、国連がいてさえこれだけの犠牲を払わねばならないぞ、という恫喝だ。

 加えて、軍人としての面子。東ティモールで多くの血を流してきたインドネシア軍としては、独立派ゲリラだけでも血祭りにあげなければ溜飲が下がらない。独立後の影響力を確保するためにも独立派を叩けるだけ叩いておこうとの考えもあっただろう。

 また一方で、インドネシア国内の政治的な取り引き材料として東ティモールが利用された面も指摘できる。特にウィラント国軍司令官は、自らの政治的野心に策をめぐらせ続けていた。軍内部の守旧派にとりあえず時間を与え、好き放題やらせておいて、国際的体面と自分の政治生命などを勘案して落としどころをはかったのがこの「2週間」だったのではないか。

 それにしても「インドネシアを去るなら、草一本残さない」とでも言うかのような徹底的な破壊はヒステリックでさえある。「武力至上主義」に基づくきわめて幼稚な行動に見える。

報道の功と罪

Q 現地でのマスコミの取材状況は?

 すごい数のマスコミ陣。私自身、今回のように東ティモールを堂々と取材できる日が来るとは驚きだった。最終的には半強制退去でもとのもくあみになったが。

 国別では日本人がもっとも多かったのではないか。来るとなったら全社そろってネコもしゃくしも東ティモール。これまで日本のメディアにはさんざん冷遇されてきた東ティモールだけに、皮肉な光景だった。

Q ジャーナリストの存在が暴力の抑止力になった?

 独立派はそれをすごく期待していたし、実際そういう影響力は少なからずあったと思う。それだけに、結果発表後、治安悪化を恐れて一斉に現地を離れたマスコミに対する独立派市民の失望は大きかった。

 一方で民兵はマスコミに対して実に戦略的だったと思う。特に投票前後からは明らかにジャーナリストの目を意識するようになっていた。そして最後にはジャーナリストが退去せざるを得ないような状況をうまく作り出した。要するに今まで24年間国軍が東ティモールでやってきたことと同じことをやっていた。

 ちなみに投票結果発表の前日にBBCが、発表翌日にはCNNが早々と撤退したのには驚いた。つまりその時点でイギリスやアメリカは、東ティモールが湾岸戦争時のバグダッドよりもひどい状況になるとわかっていたのだろう。

矛盾だらけの住民投票の枠組み

Q 国際社会はインドネシア軍に「東ティモールから出ていけ」という圧力のかけ方もあったと思うが。

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朝のミサで不安げに祈りを捧げる避難民の少女。
翌日、このベロ司教邸は焼き払われ、多くの避難民が
撃ち殺された(ディリ、南風島渉)

 インドネシア軍が出ていっていれば、こんな虐殺も24年間もの悲惨な歴史も絶対になかった。それは国連も明らかにわかっていたはず。しかし結果的には、紛争の一方の当事者が「治安維持」を担当するなど、矛盾に満ちた住民投票の枠組みが作られ、惨劇が繰り返された。

 今まで国連は、インドネシアによる東ティモールの併合をいっさい認めていない。ところが今回、住民投票を実施するにあたって国連とインドネシア、ポルトガルが結んだ協定は「(インドネシア政権下で)投票を実施して、インドネシア統治下にとどまるかどうかを彼らに問いましょう」という内容。要するにいったん東ティモールをインドネシア領だと認めてしまうようなもので、これまでの国連の立場とは明らかに矛盾する。インドネシア領での住民投票となれば、治安維持は当然インドネシアの担当になる。こんな枠組みでは公正な投票ができるはずもなかったし、その後の虐殺も十二分に予想できた事態だった。実際、NGO関係者はずっと警鐘を鳴らし続けていた。

Q 結局インドネシアの思い通りになってしまった。阻止できなかったのはなぜ?

 「東ティモール問題」であるにも関わらず、国連や国際社会の関心が「インドネシアにどう対応するか」に終始してしまった。言い換えれば、東ティモールがたまたまインドネシア問題の焦点になってしまった。だから「東ティモール人が殺されるのをどう未然に防ぐか」ではなく、「インドネシアを今後どうコントロールしていくのか」に重点が置かれた。

 今回の投票の超法規的な枠組みを見ても、「東ティモール」と言いながら誰も「東ティモールの人々」を見ていなかったことは確か。虐殺されるであろう人々ひとりひとりの命よりも、「問題」の「解決」ばかりが重要視されてしまった。いわば「解決」のための「解決」。そう考えると、この虐殺のシナリオさえ最初から折り込み済みだったのではないかとさえ思える。

Q 後から振り返って、投票はやらない方がよかったと?

 こういうやり方ではやるべきではなかったと思う。

 注目すべきなのは、今回の投票実施を決定する過程に東ティモール人が参加を許されていなかったこと。つまり彼らにとってはいわば「与えられた投票」だった。声をあげればすぐに殺されかねない状況下での矛盾に満ちた住民投票に、それでも登録者の98%が投票に行き、そのうち78.5%が「独立」を選んだ。現地の状況を知っていれば、これは涙なくしては語れない数字だと思う。

 ただし今後、11月のインドネシア国民評議会で仮に東ティモールの独立が認められることになったとしても、今回の虐殺で失われた人々は帰ってこない。1975年以来すでに20万人の命が失われたといわれる東ティモールで、独立を目前にしての虐殺はあまりに残酷だ。この犯罪は、それを放置した国際社会の対応も含めて、今後徹底的に弾劾されるべきだ。

(インタビュー・構成/大園 浩史・フリーライター)
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ルポルタージュ

アチェ人は誰と戦うのか

〜人権擁護と独立を求める人々〜
出口 綾子
 インドネシア、スマトラ島北部のアチェは、16世紀にはすでに独立したアチェ王国を建国していた。19世紀後半から今世紀にかけてオランダとの戦争を体験したこともあり、植民地化には最後まで抵抗するなど、インドネシアとの関わりにおいても歴史的に自立意識を持ち続けてきた。現在はインドネシアの中の特別州であり、天然資源の豊富な地域として知られる。スハルト退陣後、軍事作戦地域(DOM)が解除されてからは、とくに「イスラム国家建設」「武力衝突」と報道されている。アチェでは今何が起きているのだろうか。今回は、日本も大いに関わっているアチェの開発のあり方を問う。

戦地の中の飽食の人びと

 高級ホテル並みの豪華な料理の数々が、目の前の食卓に並んでいる。「これだけの食料はいったいどこから...」と首をかしげずにはいられない。ここもまた、まぎれもない内戦状態のただ中にあるアチェなのだ。

 通されたのは、訪問した天然ガス精製会社PT(ペーテー)アルンの食堂である。ここには、従業員のために1100戸の高級住宅も用意されている。住宅地の中には、幼稚園から高校までのほか、サッカー場、テニスコート、体育館、プールなどのレクリエーション施設も整っている。

 しかしここを一歩出れば、店はほとんど閉まっていて、食べるものもままならない。家、学校、車の焼かれた跡がそこらじゅうにあり、たくさんの難民が続出している。ロスマウェ地域だけでも、毎日必ず数人の住民が誘拐されるか殺害されている。道には大きなドラム缶が置かれ、車はその間をS字型にゆっくりと走らねばならない。道ばたにはりつめる軍に、車にどのような人物が乗っているか、顔を見せるためだ。

 広大なアルンの工場地帯は、車で行けども行けども続いている。その中に、不気味な火をふきながらそびえる数本の煙突。無数のパイプがツタのように工場のまわりに巻き付いている。灰色の重々しい厚い空気が、このあたり一帯にのしかかっているようだ。

「当社は、環境には十分配慮しているので、昔と変わらずアチェの人びとは伝統的な生活が続けられています」アルンの会議室で見たビデオでは、こううたっている。

 外では、道路、壁、電柱と至るところに「"REFERENDUM"(リファレンダム)住民投票を」の文字があふれる。

アチェのガス精製工場と日本

 スマトラ島のアチェ州、ロスマウェ地域で天然ガスがモービルオイル社によって発見されたのは1971年。それまで世界中の貿易商人の中継地であったマラッカ海峡を望むアチェにとって、「新たな発展の契機」となった。現在、このアルンの工場からは年間500万トン以上の液化天然ガス(LNG)が生産されている。プルタミナ(インドネシア国営石油会社)が55パーセントのほか、日本のJILCO(Japan Indonesia LNG CO.)が15パーセントの出資をしている。インドネシア国内での需要は全くなく、ほとんどすべてが日本に輸出されている。天然ガスの消費量は、アジア地域では日本が現在第一位であり、将来にわたってもその座を譲らないと予測されている(*)。日本ではLNGは都市ガス以外に発電にも使われており、中部電力、関西電力などがPTアルンの大きな取引先となっている。インドネシアの対日本の年間天然ガス売上額は4260億円以上にものぼる。

 「今は改革の時代なので、軍はもういない」という数ヶ月前のアルンの発言とは裏腹に、アルンのゲート前には武装した軍がいた。このような、インドネシアにとっては重要な外貨獲得のためのアルンを守る、ということが、軍の派遣を正当化する口実となっているかのようだ。

消されていく村

 アルンの広大なプラント建設のために、土地の大半を奪われ、残されたわずかばかりの所に強制移住させられた村がある。ウジョンブラン村である。アルンの煙突が見えるこの村で暮らす人びとは、生活権も人権も奪い取られてしまった。ここは、村人のほとんどが漁で生計を立ててきた、6900人が住む漁村である。「私たちの土地が奪われ、村を追い立てられたのは1972年のことです」と、頬に深いしわのある男性ハシャン(55)は語り始めた。彼の周りを大勢の村人が囲む。アルンができてから軍も入ってくるようになり、軍の監視所を作るのは村の安全確保のため、と説明されているようだが、「以前は私たちの土地であったアルンとの境の海で漁をしていた人は、軍につかまり、ランチュンに連れ去られてしまった。そこで拷問を受け、虐殺された」と証言する。ランチュンというのは、アルンの中にあるという拷問センターのことだ。ここに来る前にも、ロスマウェにある人権侵害と環境問題に取り組むNGO、YAPDA(Yayasan Putra Dewantara)のズルフィカル(28)からもその話は聞いていた。アルンはガスを精製するだけではなく、周辺の村の人びとをとらえ、拷問し、虐殺する施設も持っていると言われている。夜になると軍が村に入ってきて巡回するので、村人は怖くて外へは出られない。「昔と変わらないアチェ人の伝統的な生活」は、いったいどこにあるというのか。

 ちょうどここ数日と波が高く、アルン側に船をひきあげようとした漁民が威嚇射撃をされたばかりだ。工場が作られたとき、ウジョンブラン村との境の川のアルン側だけに、しっかりと防波堤が築かれた。しかし村の側にはまったく作られなかったため、村は急速に浸食されている。「追い立てをくらってここに来たとき、家から海までは500メートルあったのに、今は50メートルしかない。このままでは村がなくなってしまう」とハシャンは言う。港はなくなり、大気汚染はひどい。以前はエビの養殖池だったという所を見ると、ただ黒い水がはっているだけで、エビは壊滅状態だ。すぐとなりのアルンの高級住宅地の中には小学校が4つあるが、ウジョンブラン村の人びとは学費がなく、小学校にも通えない。

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難民キャンプの子どもたち

 1990年ごろから、アチェのイスラム指導者たちがかなり犠牲になっているという。アチェはイスラム主義国家建設のために独立を求めていると日本でも報道されている。「アチェには、スク、ガヨ、ピディなど7つの民族グループがある。だが、大切なのはアチェというかたまりだ」とハシャンは強調する。そして「我々アチェ人の独立への思いは強い」と付け加えた。

 村を訪問した前日の8月19日、インドネシアの国軍司令官であるウィラントは、アチェ州の州都バンダ・アチェに入り、軍事作戦を一部解除し、国軍を一時撤退すると発表した。そして同時に、もしこのまま治安がよくならなければ、アチェに非常事態を宣言するとも警告した。これは、状況を混乱させ、再度の軍の導入を正当化するための前準備ということも十分考えられる。この発表について、「全くあてにしていない」とハシャンは言う。

最後の一人まで戦い抜く

 「インドネシアはアメリカの手先になっている。アメリカが怖いのだ。そして日本のことも」YAPDAのズルフィカルはそう語る。なぜならアメリカは世界の警察官であり、またインドネシア軍はアメリカで訓練を受け、武器もそこから得ているからだ。アメリカにとって「人権」とは所詮、経済的な利権のために使えるカードでしかない。しかしそれでも、最近のアチェの動向に関心を向けつつあるアメリカが、「人権侵害」を盾にインドネシア政府に働きかければ、状況改善の「ほんの少しの」期待は持てるだろうとズルフィカルは考えている。

 ズルフィカル自身、過去に13回の逮捕歴があり、うち1回は半分殺されそうになったという経験を持つ。それでも命をかけて活動をし続けるのは「このままではアチェ人がいなくなってしまうのではというほど殺害されている現状を、同じ立場の人間として何とかしたいと思うから」だ。YAPDAのスタッフとして活動する女性のヌル(28)も「人びとを助け、支援できるのが私の誇りです」と語る。「人種や宗教で差別はしたくない」とズルフィカルは言う。どういう立場の人であろうと、人権を侵害されている人がいるなら守りたい、というのがYAPDAの立場だ。日本のメディアではアチェの現状を「治安部隊と独立派の武力衝突」とも報道しているが、それは軍や政府の言いぶんにすぎない。この地にあるのは、民族対立でもイスラム原理主義でもない。生きるための最低限の権利を奪われた人びとの抵抗運動である。

 ズルフィカルは言う。「もしそう望むなら、軍は一人残らずアチェ人を殺せばいい。しかし一人でも残ったら、最後の一人まで我々は抵抗する。海外で一人でもアチェ人が残ったら、この国(アチェ)の歴史は生き残る」

 8月30日、東ティモールの住民投票が行われる中、ハビビ大統領は、アチェの独立を問う住民投票のあらゆる可能性について否定した。

 多くのアチェ人は、インドネシア政府や軍が、人権を侵害する敵だと思っているようだ。しかし大量のLNGを輸入している日本が、アチェの血の歴史に無関係とは言えない。

(でぐち あやこ)

(*)日本のLNG供給国別輸入量は、'97年で二位のマレーシア(約944万トン)を大きく引き離してインドネシア(約1820万トン)が一位。一方インドネシアのLNG輸出相手国としては二位の韓国(93億立方メートル)を大きく引き離して日本(約240億立方メートル)が一位。消費量は、1995年で約5700万トン(石油換算)で日本が一位(二位は中国で約3000万トン)。将来の見通しについては、1995年から2010年まで日本の需要は年間8600万トンと見込まれており、国家レベルとしてはアジアで一位である。埋蔵量については、インドネシアの天然ガスは1997年の時点であと29.7年、石油は9年となっている。しかしアルンの説明によれば、アルンでは天然ガスはあと約15年だが、現在モービルオイル社により次なる産出地を探しているところとのことなので、この数字は流動的と言えよう。それらの新規開発に日本も政府レベルで援助を行うと考えられる。

参考文献:「資源エネルギーデータ集1998年版」(資源エネルギー庁監修/電力新報社)/「激変するアジア石油市場」(平成10年3月/資源エネルギー庁石油部編)/「21世紀、脚光を浴びるアジアの天然ガスエネルギー」(平成11年2月/通商産業省資源エネルギー庁編)/「エネルギー経済統計要覧'99」((財)省エネルギーセンター)/"PT ARUN NGL.CO"(現地PTアルン発行)/「国際資源」((財)世界の動き社/国際資源問題研究会発行 1998/12号 特集:エネルギー取引)

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連載・韓国住民運動の現在(2)

政府の死角を埋める「失業克服国民運動」

五石 敬路
87年以降の民主化、地方自治の流れの中で、「貧民運動」から「住民運動」へと変わりつつある韓国の社会的弱者による運動。「住民運動」は、現在の経済危機の中でいかなる問題に直面し、どう対処しようとしているのか。

低所得者、女性を襲う経済危機

 韓国社会に対する誤解の一つに、韓国が「大企業中心」社会だということがある。1997年末から韓国は「IMF時代」と呼ばれる未曾有の経済危機に見舞われ失業者が急増したが、ここでも注目されたのは大企業に働く正規労働者の「整理解雇」問題であった。

 しかし実際のところ、90年代に入っても労働者の4割以上は従業員49人以下の中小・零細企業に従事しており(企業数で見れば中小・零細企業は9割以上を占める)、日雇や臨時職といった不安定労働者の7割近くはこういった中小・零細企業に集中している。

 一方、最近の新規失業者の前職を見ても過半数は日雇や臨時職であり、正規職に就いていた者は全体の2割前後に過ぎない。また解雇される確率でも規模が小さいほど高くなっている。こういった階層の人々は、大企業の正規労働者のような強い労働組合をもたず、社会的にも注目されない。

 1970年代以降各地で頻発した経済危機では、低所得者、女性、子どもといった社会的弱者がより大きな打撃を被ることが明らかになってきたが、今回の韓国もその例外ではない。

 例えば、公式統計で見た昨年の失業者は146万3千人であり(ちなみに危機以前は約50万人)、このうち女性は47万7千人と全体の32.6%を占めるに過ぎないが、しかしこの公式失業者には、職を失い求職を断念してしまった人や無給家族労働者に転じた者が入っておらず、こうした階層を全て含めた実質失業率では男性は8.5%、女性は12.9%となり、女性の失業率が極めて高くなっていることがわかる。

政府、民間、それぞれの失業対策

 ところがこうした階層に対する政府の支援策は非常に貧弱で、現在の制度では必要とされる層の過半数が公的なサービスの範囲外にあるとされている。

 そこで政府は失業対策として一年前から「公共勤労事業」を実施し、昨年は43万人、今年は57.8万人の雇用を計画している。しかし今年4月に実施された韓国労働研究院の調査によれば、調査対象となった低所得600世帯の就業者中(失業率は30%)、公共勤労事業に従事していた世帯主は全体の28%に過ぎない。

 一方で驚くべきことに、民間独自の支援サービスである「失業克服国民運動」の利用率は全世帯の36%に達しており、政府の死角を大きくカバーしていることがわかるのである。

 この「失業克服国民運動」は、宗教界の指導者が中心となってテレビ等を通じて募金を呼びかけたもので、集められた募金は直接国民に支給されるのではなく、民間諸団体からプログラムを募集して、そこから選抜方式で有効と思われるプログラムを提示した民間団体に支援がなされる、というものである。そして、この支援を受けたプログラムの少なからぬ部分が、前回紹介した「貧民運動」(現在では「住民運動」)に関連する組織によるものであった。

ソウルの低所得者層を支えるFood Bank

 その中で興味深いものに、Food Bankというプログラムがある。これはソウル西部にあるカラック市場の商人らが余った農産物を無料で提供することによって、ソウル各地域の住民運動メンバーが中心になって、必要と思われる世帯や地域に食べ物を配布するという事業である。いわば、リサイクルと生活保護が一緒になったようなプログラムと言える。いくつか事例を紹介してみよう。

 ソウル南部の冠岳区は低所得世帯が集中する地域として知られるが、そのうちの奉天9地区は1995年から再開発が進み、現在では撤去がほぼ完了している。これに対して借家人らが居住権を主張し組織化を図り、地域内の仮設住宅設置を認めさせた。現在このグループは韓国政府からの支援を受け、Food Bankから提供されるだいこんの葉を加工して「シレギ」という食品を製造しており、これをホームレスらに配給する事業を展開している。ここで働く人々は、ほとんどが女性である。

 またソウル東部のソンパ区には、強制撤去と家賃高騰の前に行き場を失った人々が、私有地や公有地を不法占拠してビニールハウスを建て生活する世帯が600程ある。今年1月にここで火事が発生し、100世帯が焼き出された。原因は不法にひかれた電線の漏電である。住民らは区当局に対して支援を要請しテントでの共同生活をはじめたが、結局住居の立て直しの費用や焼き出された住民らへの生活支援は全て民間からの募金でまかなわれた。この中でも「失業克服国民運動」の支援は大きく、Food Bankは継続して住民の生活を支えたのである。

(ごいし のりみち・大学院生)
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会員紹介/亜洲人声(6)

多良 俊照さん(フリーライター)

行き当たりばったりでナガランドへ

 「何も考えんと、行き当たりばったりでプーッといってしまった」と、後に1冊の著書にまとめることになるナガランドに初めて訪れたときのことを思い返して多良さんはいう。手紙のやりとりをしていたナガ人に、「来い」といわれたので、「はいはい」と飛んでいってしまう。いたってシンプルである。

 笑顔を絶やさない、どこか飄々とした印象を受ける多良さんは、何をするにもそんな身軽なスタンスで取り組んできた。

 ナガランドという、腰を据えて関わり続けている土地に出会うきっかけとなった、初めてのインドへの旅行にも、巷の旅行記の類に見られるような深刻な雰囲気は微塵もない。そもそも、インドを選んだ理由からして、「ある程度滞在できて、治安もそれほど悪くなくて、物価も安いから」というものなのだ。その条件を満たせば、どこでもよかった。その頃多良さんは、漠然と書くことに興味を感じて、私小説めいたものを書き始めていた。その作品が思うように書き進められない苛立ちもあって、じっくりと集中して書いてみる環境を探していたのだ。インドに対する思い入れも気負いもなく、東京のアパートを引き払って出掛けていった。半年間滞在したインドの印象は、「汚いところやなぁと思ったけど、まぁこういう人らもおんのやなぁ」と、あっさりしたものだった。それにしても、答えてすぐに「こんなんじゃ、だめぇ?」とおどけた関西弁でいう多良さんには笑いを誘われる。

伝えるだけでなく支援したい

 『入門ナガランド』(社会評論社)を書き上げたことをはじめとして、多良さんは、日本では知られていない、インドからの独立を求めるその少数民族の姿を、折りにふれて日本に紹介する努力を続けている。

 そんな多良さんがナガランドを見つめる眼は、新聞記者のような、いわゆるジャーナリストのそれとは異なったもののようだ。どちらかといえば「活動家」に近いと多良さんはいう。客観的に眺めるだけではなく、何らかの形で支援していきたいと考えているのだ。厳しい弾圧を受けているナガランドの現状を知ってすぐには、NGOなどを組織して支援することも考えていた。だが、多良さんにはそんな資金はなかったし、十分な知識もあるとはいえなかった。ひとまず、地道な情報収集を続ける「ボチボチの活動家」でいく、と多良さんは笑った。

 そもそもかつての日本人がナガランドの独立運動の種を蒔いたという経緯もあって、ナガランドの人々の日本に対する期待感は強いようだ。それなのにナガランドに関わる日本人が希有な存在だから、独立の話を熱心に聞かせてくれるのだろうと多良さんは推測する。それでも、おそらく多良さん自身にはあまり期待していないだろうと笑いながらいった。「これでは頼りにならん」と思われているに違いない、と。

伝えるための表現の工夫

 ナガランドについての情報発信を続けている多良さんだが、「全然伝わってないような気がして」気力が萎えそうになることもある。

 「もうちょっと日本人は金もあって教育も受けとんのやから、ボトムアップさせないかんのちゃうんかなぁ」と、多良さんには珍しく厳しい口調でいう。多良さんが伝えてきたナガランドの独立運動にしても、雑誌に登場する辺境の少数民族の記事にしても「誰が読んどるんかなぁ」という思いが頭をよぎる。

 多良さんが、小説や漫画といった表現に強い関心が向いているのもそうした思いの現れなのだろう。多良さんは自らをジャーナリストではないと規定するが、伝えたいという思いは人一倍強いのかもしれない。

 「架空の世界やけど読者をアジアの、インドならインドに引っかける、連れていくきっかけをつくれればなぁ、と思う」と、構想を膨らませているインドを舞台にした小説について多良さんはいった。主人公を追っていけば周りの仕組みが判ってくるような、そんな物語を考えている。現実の問題に読者を「引き込む装置」を小説に込めたい、と多良さんはいう。

 関わりが親密なだけに、ナガランドやインドの状況について、普通の人では考えないようなレベルで考えるようになってしまっていることを多良さんは気にかける。いずれは、ナガランドの指導者的立場にいる人物に対して、現状に思う意見を発言していきたいとまで考える多良さんと、何も知らない人間との意識には隔たりがある。それを忘れると、伝えたいものも伝わらない、ということなのだろう。

 「当人は行き当たりばったりでやっとるだけ。その場のなりゆき。思想とかあらへん」

 関西弁で、どうにもつかみ所のない印象を与える話し方をする多良さんは最後にそういった。

 
(山本 浩・フリーライター)
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関西の中のアジア(1)

神戸回教寺院

日高 直樹

日本初のモスク

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 1868(明治元)年の開港以来、神戸には外国から様々なものがやってきた。意外と知られていないが、イスラム教もその一つである。渡来した時期ははっきりしないが、1874(明治7)年とも言われる。インド人商人がその初期の信仰の担い手であった。神戸回教寺院(コウベ・ムスリム・モスク)は1935(昭和10)年9月に建立された。東京のそれが1938(昭和13)年5月であるから、日本初のモスクということになる。

戦前の在日ムスリムと日本

 当時の創立記念パンフレットをひもといてみよう。

 序文には、独立運動盛んな祖国から東の島国へ学びにやって来たインド人たちとともに、タタール人の名前が並ぶ。1920年代に革命ロシアから日本へ逃れた人々である。神戸は東京と並ぶ一大国際都市であり、植民地下アジアからの亡命の地でもあったのだ。

 「慈愛あまねくアラーの御名の下に」

 パンフレットの冒頭にも挙げられたこの言葉とともに、彼らは異国の地でようやく安住の地を、そしてモスクという心の拠り所を得たのだろうか。

 いや、ページをめくれば当時の国家・日本が見え隠れする。在日ムスリムによる日本への過剰な謝辞、日本人教授の新トルコのアタチュルク革命への礼賛・対ソ連警戒の一文。序文は最後、「私たちムスリムは大日本帝国天皇に最大の感謝と敬意を表する」と締めくくられる。アラーをぜったいとするムスリムからは考えられない表現であった。

 だが事実、ユーラシア大陸のはるか西まで視野に入れた日本当局は、資金を含めた多大な援助を、モスク設立のために行なっていた。英国からの独立を目指すインド人、皇帝の次にやって来た共産主義からの解放を望むタタール人、そして「アジア解放」を隠れ蓑に野心を膨らませてゆく大日本帝国…。交差するはずのない一神教のイスラム教と、大和民族を至高とする国家神道の日本が、「欧米からの民族解放」の一語のみを軸に結びつく。その夢と野望の結晶が神戸モスクであった。

 だが大日本帝国は敗れ、日本の手を借りるまでもなく、インドは英国から独立を達成した。タタールも東からの「解放者」と直に接することなく、約半世紀後、自らロシアのくびきを離れた。イスラムやモスクに、日本人はさして関心を払うこともない。モスクはようやく静かな信仰の場として存在する環境を得たように見える。

「あの、警察の方ですか?」

 トア・ロードを東に曲がり中山手通りのなかほどに、神戸回教寺院はある。機会があり、訪れてみた。

 もともとが質素な感じの建物だが、マンション群に沈み、ポツンとした印象を受ける。東隣にさらに大きなマンションが建設中で、もめているとの話だ。

 付属のイスラム文化センターの受付で声をかけるが返事がない。向かいの「キタノグローサリーズ」を尋ねる。店員は、東南アジアからと思しきスカーフを被った女性であった。並んでいる食料品はムスリム向けだとすぐ分かる。

 見物していると、モスク関係の男性がやって来た。中東系の顔立ちである。「あの、警察の方ですか?」。スーツ姿がまずかったのか、なかなか信じてもらえない。「いえ、時々警察関係の方が来られるのですよ。イスラム教のことを勉強したいとか、事件のことで調べることがあるとか言って……」

 私は苦笑するとともに、日本でムスリムが置かれた現状の一端を垣間見たようで、少し複雑な気分になったのだった。

(ひだか なおき・ライター)

メモ:神戸回教寺院

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編集後記

この一ヶ月間、なんと、東ティモール、インドネシア関連のニュースが多かったことか。そして、わがAWC会員のフォトジャーナリスト、南風島渉、加藤亮両氏もそれぞれ現地取材をし、週刊誌(プレイボーイ、フライデーなど)に報告し、活躍している。これまでずうっと東ティモールのゲリラ取材を行ってきた両氏の記事がでかでかと掲載されていたことは、東ティモールの人々にとっても、彼らにとっても本当に良かったと思う。(ひ)

▼現在、ひょんなきっかけから「AWC基金」創設が提案されている。今のところ、会員からお金を募り20万円をプールして、海外へ取材に行く会員のなかで貸与が必要と思われ、かつ本人が希望する場合に、一人あたり10万円を上限として貸与するという案が出ている。実現すれば、AWCとしてはエポック・メイキングな企画だ。引き続き検討して行きたいと思う。

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月刊AWC通信1999年10月号(通巻第13号)
1999年9月25日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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