『AWC通信』1999年9月号(第12号)


目次


定例会報告

在日ビルマ人と軍事政権、日本社会

ビルマ青年ボランティア協会副書記長 マイケル・コリンズさん
今年5月23日、「日本・ミャンマー伝統文化友好コンサート」で起こった、ミャンマー大使館員らによる民主化活動家への暴行事件。警察の目の前で起こったにもかかわらず未だ真相解明、犯人逮捕には至っていないこの事件を通して、在日ビルマ人を取り巻く現状、日本社会との関係を考えてみた。(マイケルさんは被害者の一人)
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「ビルマ・コンサート暴力事件」

 5月22日と23日、日本青年会館で行われた「日本ミャンマー伝統文化友好コンサート」(以下、軍事政権を指す場合は「ミャンマー」、それ以外の際は「ビルマ」と表記する)は、在日ミャンマー大使館とかつての在日ビルマ人協会(BAIJ)の幹部「3人組」が提携して開催したものです(「3人組」については後述)。

 私たちはこのショーを、「軍事政権による福祉に名を借りた金儲けのためのショー」と考えました。また、今年2月にラングーン(ヤンゴン)で開催された日本文化を紹介する「着物ショー」のお返しという意味合いもありました。ミャンマー政府の目的は、イメージアップを図り日本から本格的なODA再開と投資拡大を引き出すことでした。でも、それで現政権が潤えば、国民の苦しさはまだまだ何十年も続くことになります。だから、反対行動に出たのです。そして、観客である日本の企業関係者や政府関係者に、軍事政権のこのショー開催の裏側にある思惑を知らせるため、会場前でショー反対を訴えました。約200名が結集しました。

 ちなみに、ショーに出演するビルマのスターたちは、日本にいる間じゅう大使館の地下に監禁され、在日ビルマ人との接触を許されませんでした。これは「スターたちと仲良くしたい」大使館の下のほうのある職員を通して彼らに携帯電話を渡し、その携帯電話で報告してもらってわかったのですが(笑)。

 私は会場に入りました。23日は22日に比べると規制のためのチェックが甘かったんですね。だから、入場して前の方で席を探している私に気付きざわついている客を見て、大使館側の人間が慌てて私を会場の外に連れ出したのです。外では、絶対にショーを妨害しないように約束させられました。もちろん私はそのつもりでしたから、席に戻ることが出来ました。ただ、私の周りの席を大使館側の用心棒たちが取り囲む形になりました。

 私はこう考えていました。もし会場内でショーへの反対を訴えたら、警備員、つまり政府側はどんな反応を示すだろうかと。想定したのは次の4つのケースです。

 (1)ただ捕まえて外に追い出すのみ。(2)暴力をふるう。(3)入場する前に排除する。(4)大使が金を使って雇った「ヤクザ」に私たちを挑発させ、こちらに手を出させる。

 私は、たとえ(2)や(4)のケースだったとしても、けっしてこちらからはいっさい手を出さないと決めていました。そして、ショーそのものは絶対に妨害しないと。日本は民主主義の国ですから、あくまでも法律に則って行動すれば、日本の警察を動かせると考えたのです。

――事件はショー終了後に起った。「民主主義は勝利するぞ」と声を上げた民主化活動家2人に対し、大使館員ら数人が殴る蹴るの暴行を加えたのである。2人はそれぞれ頭や顔などに全治7〜10日間のけがを負った。

 道路を挟んだ会場の向かい側でデモをしていた民主化活動側は、事件を知り、会場である日本青年会館の前に詰め掛けてきた。そこでしばらく押し問答が続いた。

 会場で警備に当たっていた警察は犯人との話し合いを要求したが、ミャンマー大使館は外交特権を主張し拒否した。そして会場の3、4階を「ミャンマー領」と宣言して警察を排除し、この一件を外務省の担当官と話すべきこととした。それに対し、警察側も主催者側とその関係者を会場から出させなかった。だが、外務省のミャンマー担当官が来たところで警察との調整がはかられ、主催者側とその関係者たちは会場の外へ出られるようになった。また、事件を聞いて現場に駆けつけた渡邉彰悟弁護士が民主化活動家側との仲介をしてその場は収拾した。午後9時半、事件から約6時間が経過していた。

 翌24日、民主化活動家たちは、暴行事件に対する適切な処置を要請すべく外務省を訪ねた。だが、担当官は次のように語ったという。「私が事件現場に行ったのは、ミャンマー政府から日本政府に対して協力要請があったからです。これ以上事件が大きくならないよう、状況を見守るために行ったのです」

 その後渡邉弁護士が中心となり、事件での加害者と目される5人に対する刑事告訴が進められ6月8日に受理された。だが、事件の真相解明は進んでいない。―

なぜ真相解明が進まないのか

 この事件の後、私は、外務大臣ら日本の政治家にこの事件のいきさつを知らせ、ミャンマー大使館に対し真相究明を働きかけるよう訴えました。

 だた、警察や外務省の動きの鈍さを感じています。だから自分の働きかけもまだまだ足りないと思っています。

 当日、事件現場をビデオや写真で撮った人たちがいました。警察に対しそれを証拠として提示すると、「この写真は誰が撮ったものか」と問われます。しかし、ミャンマー大使館にバレると怖いから、名前を出せない人が多いのです。でも撮った人の名前がはっきりしないと、証拠として弱いと警察にみなされてしまいます。

 私は正直なところ、事件の前、暴行される可能性は低いと思っていました。日本は民主主義の国だから、大使館側もうかつなことはできないと思っていたのです。

 私は日本政府が在日ミャンマー大使館に対して、事件真相解明をするよう働きかけてほしいと思っています。でも、日本政府も在日ビルマ人の民主化運動をこれ以上大きくしたくないのかもれません。今年1月に日本政府がミャンマー軍のチョー・ウィン氏を日本に招いたことにも、それが表れているような気がします。

 日本政府がそのような対応であるならば、軍事政権側は、民主化活動に対する圧力をますます強め、強硬な対応をエスカレートさせてくる可能性が大きいと思っています。在日ビルマ人にとって大使館が非常に危険な存在になっていく。それがとても心配です。

 それと、日本のマスコミの反応も思ったより小さかった。私は思います。もし被害者の中に日本人がいたならば、マスコミのこの事件の取り上げ方はもっと大きかったのではないかと。

――日本では、政府に対する経済界の、対ビルマODAの本格的な再開要望は根強い。例えば、経団連は1995年12月、『ミャンマーの経済発展のために』の中で日本政府にODA拡充を提言し、今年6月を含め、ミャンマー大使館・政府との話し合いも継続的に行っている。一人当たりGDPが低いものの教育水準が比較的高いことから、ビルマ人を「安価で優秀な労働力」であると評価していることがうがえる。

 1998年3月、日本政府は凍結していたビルマへの有償援助(「ヤンゴン国際空港拡張計画」に関するもの)を再開した。その後また事実上の凍結状態に入ったものの、いつまた再開しても不思e議ではないのかもしれない。大使館が今回のショーに招待しようとしたのも、大手企業、外務省関係の日本人たちだったようだ。(※4頁「会場での参加者からの報告」参照)――

日本人と在日ビルマ人の間で広がる認識のギャップ

 大使館と提携して今度のショーを企画した「3人組」は、以前は在日ビルマ人協会の幹部でした。彼らはもともとは民主化活動家です。しかし、1998年に突然難民資格を返上し、軍事政権側と手を結んでしまったのです。

 これに対し、協会内部から彼らを解任する動きが出ました。そこで彼らは「在日ミャンマー人協会」(MAIJ)を結成しました。しかし、あまり人を組織できていません。

 私は、91年頃から「3人組」に疑問を感じていました。裕福な人たちだったせいか、運動方法がイマイチだと感じたのです。例えば、団体の活動を理解してもらうためのアピールの方法、訴える対象などです。私は内部で是正のための意見を出しましたが、彼らは一向に良くしようとしませんでした。それで、私はビルマ青年ボランティア協会を結成したのです。

 幹部だった「3人組」は、日本の財界人でビルマに関心のある人たちとの接点を徐々に増やしていきました。当初は日本人からもっとビルマの内情に対する理解を得るためという反政府活動上の目的ではあったのですが、その過程でだんだん彼らの考え方に感化されていったのではないかと私は思っています。経済的にも魅力的だったでしょう。「3人組」は、表向きはこう言っています。「ただ反政府活動をしているだけではどうにもならない。だから、政府と提携して少しずつ国を良くしていくべきだ」。しかし、実際に彼らがやっていることは利権に則った行動なのです。

 彼らは在日ビルマ人の間ではほとんど支持がありません。ですが、彼らはとても日本語がうまく、滞在も長く経験も豊富でパフォーマンスが上手いから、とりわけ静岡から愛知、岐阜にかけて日本人のファンが多いのです。だから、彼らの人気をいかに剥奪するかは、現在、私たちの大きなテーマです。

――「3人組」は「協調路線」に転じたあともいまだに「民主化活動家」を名乗っている。そのため、彼らの考え方が在日ビルマ人の考え方を代表していると思っている日本人も多く、彼らの解任を活動家の中の内紛と捉えているマスコミ関係者もいるという。

 今年7月7日には、そんな日本人の状況を象徴するような出来事があった。TBSテレビ放映「ここがヘンだよ日本人」の中で、「ミャミャウィン(「3人組」の1人)物語」といった内容のものが放映されたのである。あるビルマ通の日本人は、この番組での最大の問題点として在日ミャンマー人協会の取り上げ方を指摘する。

 先述のとおり、「在日ビルマ人協会」と「在日ミャンマー人協会」は全く別の団体である。だが番組では、1988年にミャミャウィンさんが民主化運動のために「在日ミャンマー人協会」を設立し、それが文化交流を中心とする政府との協調路線に転じた、という展開だった。実際に設立したのは「在日ビルマ人協会」(ソウ・ウィン会長のもと現在も活動中)であるにもかかわらず、である。

 この紹介からは、多くの在日ビルマ人が「3人組」を「民主化運動を放棄し政府に寝返った」と捉えている、という実態は全く見えてこない。

 そして、「親子の感動的な再会物語」と絡めて描くことで、3人組と「在日ミャンマー人協会」は民主化運動をやりつつソフトな路線に転じ軍事政権自体も軟化してきた、今や「軍事政権との協調」が総意とまでは言わないにしても多くの在日ビルマ人がそう考え始めている、というようなイメージ作りに、結果的にこの番組は一役買ったと言っていい、と彼は言う。

 なお、ミャミャウィンさんについては次の本が出ている。ミャミャウィン著『カンチャマ(運命)』、根津清著『難民認定』、ともにダイヤモンド社。――

●日本の法律が自分たちを守ってくれないのなら…

 私は、1990年、工学専門学校2年生のときにビルマを出国しました。そして、タイ、シンガポール滞在を経て、1991年9月に来日しました。

 日本に来て以来、私は大使館の前でデモを何回もやっています。ですが、これまでは何も起こりませんでした。日本の民主主義やマスコミに守られていたから、大使館もうかつに手をだせなかったのです。ところが、およそ1〜2年前から、「気をつけないと危ない」とまわりから言われることが多くなりました。だから、階段を降りているときもすぐ後ろを振り返るようになったし、駅でもホームの端には立たないようになりました。

 そして今度の事件では、大使館はビルマ国内のように暴力で対処してきました。これには軍情報部の人間が関わっているという感触を持っています。ショーの前に、大使館では、大使館スタッフやお金で雇った用心棒に、会場内で反政府側の人間が何か行動に出てきたときの対処のためのリハーサルをやったそうです。その際大使から、あまり強くやり過ぎないようにというお達しが出ていたようです。しかし、実際には流血の暴力沙汰になりました。これには軍部から来た人間の意向が働いたのではないかと私は思っています。ちなみに、新しい大使(当時)は軍情報部あがりの人物です。そして今、大使館はスタッフがかなり入れ替わりつつあります。

 なぜそれがわかるかというと、88年当時拷問を受けたときの相手で、顔を覚えているからです。「あいつが来たよ」などと仲間内で言い合っています。

 大使館が在日ビルマ人にとってより危険な存在になってゆき、日本政府がそれに対して見てみぬふりをするということになると、民主化活動家側からも行動をエスカレートさせた人が出てくるかもしれない。それが心配です。弾圧が激しくなることだけではなく。

 実際、事件の後、「日本の警察の目の前で事件が起こったにもかかわらず警察が犯人を逮捕できないということは、日本の法律が自分たちを守ってくれないということだ。ならば、自分たちも暴力で対抗するしかないのでは」などと言う仲間もいました。

 でも、相手のほうが強力なわけだから、暴力での対抗は有効な手段ではありません。逆に、たとえ相手からどんな暴力を受けても私たちが平和的な手段で対抗するならば、周りからの支持を得られると思うのです。

――現在、在日ビルマ人は日本の経済不況で立場が年々苦しくなりつつある。そうした状況もあり、今度の軍事政権側主催によるショーを、不安を抱えた在日ビルマ人たちの心につけこむための第一歩と位置付けている民主化活動家もいる。つまり、不安を和らげるための「福祉」を与え在日ビルマ人の心に取り入っていく一方で、民主化活動に対してはますます厳しい対応を強めてくるのではないかということだ。そして、今の日本の中に軍事政権側のそのような対処が可能になっていく流れがあるのではないかともみている。

 ソフトな面を示して日本政府や経済界へのイメージアップをはかり、日本の援助、投資を引き出したいミャンマー政府。将来の投資拡大を見据えてあまりミャンマー政府との間で波風を立てたくない日本政府、経済界。今回のような事件が起きてもマスコミの扱い方が小さいので全く知ることもなく、知っても単なるビルマ人どうしの内輪もめにしか感じられない日本人。その間でますます閉塞状況に追い込まれていく可能性のある在日ビルマ人。こんな構図が見えてきはしないだろうか。

 今度の事件では、軍事政権が反体制的な行動を弾圧するというビルマ国内の構造がそのまま日本に持ちこまれ再現された。しかも、日本の警察が警備していた目の前でである。それにもかかわらず日本社会は何も対処できていない。そのことはしっかり踏まえたいものである。――

(白取 芳樹・編集者)

付・会場での参加者からの報告

 私は、受付のテーブル付近にいた、大使館員か民間人だかわからないビルマ人男性に聞きました。「どこでショーの前売り券を売ったのですか」「ビルマのレストラン、お店、大使館です。大使館に連絡してくれたら誰でも買えます」「でも、ふつう日本人の客は、ピアなど街のあちらこちらにある入場券売り場でショーの券を買うものだけれど、そういった所にチケットは流したのですか」「流していません」

 つまり、普通の人の目にはとまらないということです。駅など目に付く場所にポスターを貼ることもしなかったそうです。

 「日本ミャンマー友好コンサート」と銘打っていますが、実際にはいったい誰と友好するために誰に見せたかったのか。少なくとも、それは一般の人たちだったとは言えません。入場券販売ルート・方法、ポスターの貼り場所、これらからもわかるのではないかと思います。

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解説

東ティモール直接投票の矛盾

〜それでも人々は独立を目指す〜
南風島 渉

逆行するインドネシア国軍

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独立を訴えデモをする東ティモー
ルの人々(1998・加藤 亮)

 8月17日、インドネシアは54回目のリパブリック・デーを迎えた。首都ジャカルタでは街中いたるところが紅白旗で埋められ、日本人にはいやでも“めでたさ”が伝わってくる。経済危機、暴動、スハルト退陣、そして総選挙と、一昨年以来の激動を乗り越えて、人々は今ようやく本音と未来を語り始めた。

 しかし、新たな歴史を歩み始めたインドネシアの中で、この変化を全く理解できていないかのように見える存在がある。インドネシア国軍である。さすがに首都近辺ではこれまでのような強硬さは影を潜めたものの、「住民投票」「独立」の声があがるスマトラ島北部アチェ特別自治州をはじめ、西パプア、マルク諸島など地方では相変わらずの弾圧・虐殺に拍車さえかけているかのように見える。

 そんなインドネシアの真意を試すかのように実施されるのが、8月30日、東ティモールの帰属を問う直接投票だ。今年になって急速に注目を集めるようになった東ティモールだが、特に日本では核心が見えない記事が多く、誤解や偏見に満ちた報道も少なくない。

直接投票の矛盾点

 そもそも今回の投票は、基本的には「独立を問う」ものではない。問われるのは「インドネシアの一部として付与される自治を認めるか否か」である。そして投票結果が「認めない」となった場合に初めて、インドネシアの国民協議会で“東ティモール州”の“独立”が諮られることになっている。つまり今回の投票は、インドネシアとポルトガル、そして国連の合意に沿って行われていながら、枠組みとしてはまるでインドネシアの国内問題のような扱いなのである。東ティモールの旧宗主国であるポルトガルはもちろん、国連も、いまだかつてインドネシアによる東ティモール併合を認めたことはない。にもかかわらずこのような枠組みでの投票が決まった背景には、24年間糸口さえ見出せなかった東ティモール問題の早期解決を望む、関係者の苦渋の選択があったことは想像に難くない。

 また、投票の公正を期すために国連が介入しているにも関わらず、治安維持が紛争当事者であるインドネシアに委ねられていることも、今回の投票の大きな矛盾のひとつである。東ティモール問題は軍事侵攻からその後の人権弾圧に至るまで、常にインドネシア軍によって引き起こされてきた。国連はインドネシアの東ティモール侵攻に対して、1976年以来8度にわたって即時撤退を求める決議を繰り返し、その後も毎年、インドネシア軍によって引き起こされる人権弾圧に対して警告を発しつづけてきた。そのインドネシアに治安維持を任せるということは、例えばコソボの治安回復を、国連の名のもとでユーゴ軍に担当させることに等しい。そんな状況下での「公正な投票」など、望むべくもない。

 国連は今回、僅かに文民警察を送っただけでPKOの派遣を見送ったが、予想通り東ティモールの治安は乱れに乱れ、国連職員さえ襲われるという失態を続けている。それでも、国連はインドネシアの治安維持能力に「憂慮する」ばかりで、積極的な対応はいまだに取られていない。

 インドネシア軍の支援を受けた武装民兵組織が銃火器を携えて堂々と街を闊歩し、独立派市民に圧力をかけ、虐殺を繰り返す一方で、インドネシア軍はそれを見て見ぬふりをしながら、東西ティモール国境付近に大規模な部隊を集結させているという。

それでも人々は独立を目指す

 日本のメディアが伝え続けたような「激化する“独立派”と“統合派”の対立」など、今では誰も信じる人はいない。

 それにしても、このあまりに不公正な状況下で行われる投票の結果について、“独立派”と呼ばれる人々はどのように分析しているのか。「インドネシアがどんな手を使おうと、結果は変わらない。たとえ投票結果に不正な修正を加えたとしても、せいぜい結果を9対1から6対4にできる程度」と、東ティモール人の大学教授は語る。

 独立後の東ティモール政府で大臣になることを期待されている彼は、今は投票そのものよりもむしろ東ティモール建国に向けての具体的な協議で「頭が痛い」と明かした。そして、「何を今さら」と言わんばかりに両手を広げてこう言った。「投票結果は、揺るぎようがない。どう転んでも、絶対に、われわれの勝ちだ」。

(はえじま わたる・報道写真記者)
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ルポルタージュ

アチェのワルタワン(記者)たち

本田 徹

世界中から殺到するメディア

 6月7日に投票が実施されたインドネシアの総選挙で、アチェ第二の都市・ロクスマウェの投票率は0.44%と全国でも最低だった。

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投票する人よりプレスの方が多い?
アチェ・ロクスマウェでの投票風景

 「投票する人よりプレスのほうが多いんじゃないか」

 市内中心部の投票所では、こんなジョークが聞かれたほどだ。

 インドネシアからの独立運動が続くアチェでは、独立派が投票をボイコットしたため、「何か起こるのでは」と世界中のメディアが殺到した。ロイター、AP、AFPは当然として、朝日、毎日、共同、NHKなど日本のメディアの姿も。

 ゲリラの取材ならともかく、選挙のような公的な行事の取材では、プレスカードもないフリーランスは圧倒的に不利だ。日本のマスコミは、ガイドを雇い、車をチャーターしているので、彼らに同行させてもらうという手もあるが、どうも彼らとはそりが合わない。そこで、インドネシアの新聞社の支局のスタッフと一緒に動くことにした。

WASPADAロクスマウェ支局の風景

 メダンに本社のある新聞社・WASPADAのロクスマウェ支局には、いろいろなインドネシアのメディアの記者が出入りしていた。

 いつも午後に、支局に1台しかないコンピュータを占領して記事を書いているのは、なぜかWASPADAの記者ではなく、BBCインドネシア語放送の記者。

 車は、インドネシアの国営通信社・アンタラの記者のものを使った。アンタラといえば、当局寄りの記事が多いので有名で、全く信用できなかったが、まさかそのアンタラの記者と一緒に行動するとは思わなかった。

 去年、東ティモールでも顔を合わせたロイターのインドネシア人フォトグラファーは、今年も東ティモールのリキサで虐殺があったとき現地にいたそうだが、その時統合派の民兵に襲われたという。

 次はいつ東ティモールに行くのかと聞くと、「今度行けと言われたら、会社を辞める」。よほど、前回の取材に懲りたようだ。

 WASPADAのスタッフは、記者のファクラル、助手のボーイ、そしてメダンから応援に来たフォトグラファーのブスタミ。英語が話せるのは、ボーイだけだ。

 僕は毎朝、ノートパソコンとカメラを持って、WASPADAの支局に「出勤」し、支局の電話回線でE−メールをチェックしてから、ブスタミたちと取材へ出かけた。

 ブスタミは写真専門なのだが、どうも写真の技術が怪しい。フィルム交換も自分ではままならず、他人に頼んでいる。

 農村地帯をパトロールする軍の装甲車を追いかけながら写真を撮ったときも、「写真を撮ってくれ」と、僕にカメラを渡した。僕は、何枚かシャッターを切った。

 次の日のWASPADA1面には、僕が撮った写真が掲載された。日本のフォトグラファーの面目をたもったといったところか。

 「ロクスマウェに来たら、また支局へ寄ってくれ。それから、何かあったらメールも送ってくれ。ボーイが訳すから、英語で大丈夫だ」

悪化するアチェの情勢

 僕は、支局の皆に見送られながら、次の目的地である州都・バンダアチェへと出発した。ブスタミがバンダアチェ支局を紹介してくれたので、そこでもWASPADAの世話になった。

 6月末に、僕がアチェを去ってから、現地の情勢は悪化する一方だ。軍が、多数の非武装の独立派活動家を虐殺している。

 また、ジャーナリストにも危険が及んでいる。8月に入ってから、WASPADAのアチェ支局に、爆破を予告する脅迫電話がかかったと報道された。

 「インドネシアのジャーナリストは、命を狙われることもあるんだ」

 半分、ジョークのようにファクラルが言っていたのを思い出した。だが、それがアチェの現実なのだ。

(ほんだ とおる・ジャーナリスト)
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連載・韓国住民運動の現在(1)

「貧民運動」から「住民運動」へ

五石 敬路

 戦後韓国の高度経済成長は、その急速さにおいて、これまでに人類が経験したことのないまさに奇蹟であった。そしてそれにともなう社会変化も激烈で、都市における再開発はその典型と言っていい。1960年代以降に本格化した離農民の都市流入で、大都市の各地にスラムやスクオッター(不法占拠地域)が形成され、こうした地域において再開発は住民の強制撤去をともないながら大規模に実施された。特に中南米諸国やアフリカ諸国が「失われた10年」を経験した1980年代、韓国はひとり華々しい経済成長を遂げ世界中の注目を集めたが、こうした舞台の陰ではアジア大会やオリンピックといったビッグ・イベントを節目としながら、暴力団を多数動員した徹底的な強制撤去がなされていたのである。当時の記録ビデオを見ると、体格のいい暴力団員が住居を破壊しようとしているのを遠目に、公務員と思われる人物が腕組みをしながら、じっと観察している風景を目撃する。要するに、暴力は合法的になされていたわけである。

 こうした事態は現在でもおわったわけではない。例えば、ソウルではここ10年余りの間、強制撤去で20人近くの人が犠牲となっている。その中の少なからぬ部分は、撤去後の生活を悲観しての自殺だが、撤去にともなう激しい争いの過程で暴力や心労のために命をおとした人々もいる。昨年3月30日には、ソウル市街地において、篭城する住民達19世帯を暴力団員が真夜中にとり囲み、周囲から隔離した上で暴行を働くという事件が発生した。このなかで、28歳の学生は体の40%に火傷、61歳になる男性は肋骨、足、腕を骨折、さらにひ臓が破裂する重傷を負った。

 しかし住民達が、こうした暴力を手をこまねいてただ見てきたわけでは決してない。低所得者が密集する地域住民の反抗は、1960年代後半から既にはじまっている。その先駆となったのが「光州大団地暴動事件」である。この事件は当時ソウル市が、市内の127万にのぼるスクオッター住民を撤去し、ソウル郊外の光州郡に人口50万の衛星都市を建設する予定をたてたところからはじまった。ブローカーによる投機防止を目的に高額に設定された土地の払い下げ価格に住民が強く反発し、ソウル市庁前まで行進したデモ隊の数は、一時5万にものぼったと言われる。この騒動は結局ソウル市長の妥協というかたちで決着を見たが、しかし続く70年代は朴政権による強力な取り締りによって住民指導者が相次いで拘束され、組織化は進まなかった。

 主に低所得者層の居住権を要求するという形で展開された韓国の「貧民運動」は、80年代に入り急速に組織化が進んだ。そのきっかけになったのは、政府による再開発方式の変更であった。「合同再開発」と呼ばれるその方式は、容積率や建蔽率等の規制緩和とセットとなって、民間主導で再開発を進めるものたが、この政策により財産をもたない借家人層は排除され、おりからの地価高騰の前に行く場所を失ってしまったのである。そして借家人層は移転先の確保等を求め「貧民運動」の組織化へと至る。

 しかし、現在では「貧民運動」という名称は徐々に「地域運動」あるいは「住民運動」へと変わりつつある。その背景には、87年以降の民主化そして地方自治という流れの中で、運動の側も従来の対決中心型からの脱皮が求められるようになってきたという事情がある。そもそも、かつての「貧民運動」を支えた思想的なバック・ボーンは、米国におけるS. Alinskyの組織化理論であった。このアリンスキーという人物は、1930年代から米国の黒人居住区で住民の組織化を行った急進的なオーガナイザーとして知られるが、現在も米国のみならずアジアの各地で彼の理論によって組織化された運動団体が活動している。アリンスキー理論によってつくられた組織の特徴は、外部者である「活動家(オーガナイザー)」がスラムに住み込み、住民と共に暮らし、そこで住民の中から「指導者(リーダー)」を育成するという方法を原則としているという点である。この伝統は現在にまで続くものであるが、しかし激しい運動の過程では家計が破綻したり、家庭の崩壊にまで至った例が少なからずある。またその非妥協的な過激さのために、運動がながびくにつれて移転者が続出し、少数精鋭の闘いになってしまうため、精神的なダメージも大きかった。

 こうした歴史的な流れのなかで、最近では福祉や職場の提供といった地域住民の日常生活に密着した活動をする地域組織が増えてきている。特に最近では深刻な経済不況にともない、低所得者層や失業者の生活を支援する協同組合が雨後のたけのこのように次々と設立されており、韓国社会が今まさに時代的な変革期にあることを象徴しているのである。

(ごいし のりみち・大学院生)
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インタビュー 『北京芸術村ー抵抗と自由の日々』著者

麻生晴一郎さんに聞く

ROJIN5号から2回連載されている「北京芸術村のアウトサイダーたち」やAWCの4月定例会のゲストでお馴染みのAWC会員の麻生晴一郎さんが本を刊行された。内容はROJIN連載分をベースにして大幅に加筆再構成したものとなったようだ。なにはともあれめでたい!

――芸術村を取材しようとしたきっかけは何だったのですか?

 北京芸術村の農村部にモダンアーティストたちがゲリラ的に形成したアーティスト村があることは92年ごろから知っていました。私はテレビ、活字などを通じて中国を取り上げる仕事をしていましたから、知識としては知っていたのですが、本書でも紹介したように、中国ではこちらの関心のあることならなんでも取材できると言うわけではなく、地下芸術の拠点の取材など許可されませんでしたから、正規に中国取材をしていた私にはじょじょにこの国のどんな面を伝えていくべきか、考えるようになったのです。そして自分のこころざしを曲げないで生きようとする中国のモダンアーティストたちに興味を持つようになりました。また、それは私自身どのように生きるべきか、ちょっと立ち止まって考えてみたいという気持ちがあったからだと思います。そしてそのような考えが浮かび始めていた頃に、ちょうどアジア・ライターズ・クラブに出会いました。わたしはこの会の活動にあまり関わったわけではなかったのですが、はた目から見ても、自分のやりたいテーマで突き進んで行こうとする姿勢には大いに刺激を受けました。私は中国との関わり合いの中で仕事をしてきましたから、その中で今までとは違った仕事をしてみよう。こうして北京芸術村の取材を思い立ったわけです。

――芸術村とモダンアーティストたちの現状はどうですか?

 先にも述べましたように、北京芸術村の取材は正規にはできません。そもそも、中国政府は彼らをアーティストとはみなしてないのです。中国で画家は一般に、学校、美術館などの公職に属するか、美術家協会に加盟しています。そのため大半の者は国内で発表する機会がないために収入がほとんどありません。それならば、どうして彼らは公職、協会に属そうとはせずに、ゲリラ的に芸術村を形成するのか。それは本書の大きなテーマの一つですが、彼らの求めているのが自由な生き方だからです。ここでいう自由とは、「何をやっても許される」、つまり今日の日本人が考えそうな自由に近いものだと言えますが、必ずしも同じではありません。げんに彼らが何を考え、どう行動しようが、中国政府はなんら干渉したりはしないでしょう。彼らが求めているのはけっして「何をやっても許される」という次元にとどまらず、そのことが国内で高い評価を受けて、庶民に影響を与える事までを含んでいます。この時点で国家との矛盾が生じてしまうわけです。だから、展覧会は容易ではないし、しばしば警察の干渉を受けたりもします。それでも芸術村は衰退しそうもありません。六・四事件の直後に掲載された北京大学そばの円明園芸術村は最盛期には数百人のアーティストたちが集まりましたが、九五年秋に一斉摘発を受けてものの見事に消滅してしまいました。この時点で私は芸術村は中国から消えたのだと思っていました。ところが、一昨年の夏頃から北京東郊の通県という所で再び芸術村らしきvツが目立つようになりました。

――彼らのこのような抵抗心はどこからきているのでしょうか?

 彼らは幼いときに文化大革命を経験しましたが、物心がついた頃には文革はすでに終わっていてその反動で学校は荒廃していました。だから上の世代のように彼らは直接には文革との関わり合いがありません。ただ、彼らの価値観には文革の影が色濃く投影されていますから、下の世代のように改革・開放を謳歌したり、個人主義に突っ走ることもできないわけです。だから、中国のあらゆる現象に対して身を委ねることが出来ず、その孤独で無頼な精神構造が芸術村という一種のユートピアを生み出したわけです。

――中国において言論の自由を束縛するものとは?

 共産党独裁支配の国である中国では、当然ながら言論の自由が厳しく制限されています。ただ、中国で言論の自由を制約するものは必ずしも共産主義のためばかりではありません。そのことと関係するのですが、現在の中国では、言論の自由が最も厳しく制約されるのは報道などの公共機関であって、たとえば個人が何を考え、何を口ずさもうがそれが社会的影響力を持たない限りに置いて制限を受けることは余りないと思います。それなのになぜ、中国の地下芸術家たちが抑圧を受けることが多いのかといえば、先に話した裏返しとなるのですが、社会的影響を持ちやすいからなのだと言えます。また、あえて社会的影響力を持つことを望んでいます。このことは儒教的価値観をあてはめてみますといっそうはっきりします。儒教的価値観によれば、表現は民衆の教化に役立つものでなければなりません。政府も地下芸術家もともにこの儒教的価値観を根強く携えているために、政府は自分たちに都合のよい民衆の教化に役立たない表現には価値を置こうとはせず、反対にモダンアーティストは政府と全く異質の民衆の教化を表現していこうとするわけです。詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、中国共産党と過去の中国の王朝との関係、それに中国の言論の自由を考える上で、儒教の影響はなにしろ中共自らがこんなことを認めるはずも無いですから、これまでのあまり活発には論じられることは無かったのです。私の知る大陸の美術評論家の中にも儒教の影響を指摘する人がおり、今後論じられることが増えていくだろうと考えられます。

(構成:あまや・せい=フリーライター)
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会員紹介/亜洲人声(5)

南風島渉さん(報道写真記者)

フィクションからノンフィクションへ

 フリーのフォト・ジャーナリストである南風島さんは自らの役目を、「外側に漏れ伝わらない、掬われない声を拾ってくること」と規定する。

 「俺のような不勉強な人間でもどこか必要とされるところがあるだろうか、と考えたら全然報道されていない場所なのかなぁ」と話す南風島さんは、著名なジャーナリストや新聞記者が入って報道しているところには、行く必要がないと考えている。

 南風島さんがジャーナリストを志すようになった契機は、学生生活4年目に行ったインド旅行にある。

 旅行中、1週間ほど参加したマザー・テレサの「死を待つ人々の家」でのボランティア活動で、毎日のように死にゆく人々を眼にするなかで、彼らに対して何もできない自らをひどく情けなく思った。そこで活躍していた日本人医師がしていたような、人を救う技能を何ももたない自分に圧倒的な無力感を感じたのだ。

 「俺ってたいしたことないな、とつくづく感じた」南風島さんはその頃を思い返していう。

 この体験が、その後の南風島さんの意識に、まさに「コペルニクス的転回」をもたらすことになる。

 そもそも芸術系の大学で、芝居や音楽、映画に夢中になって「アーティストを気取っていた」南風島さんは、ろくに新聞も読まず、ましてや社会問題などにはまったく関心がなかった。そんな南風島さんが旅行の1年後には、通信社の入社試験を受け、入社を決めることになるのだ。インドで、「空想してつくるものよりも、遙かに面白い現実」にアーティストとしての自分を打ちのめされた南風島さんはフィクションの世界からノンフィクションの世界へとはまり込んでいった。

 通信社に勤めている頃からすでに南風島さんは、休暇を利用して独自の取材を始めている。通信社に報道カメラマンとして入社したものの、始めから、いずれはフリーランスでやっていくことを考えていたようだ。加えて、通信社での仕事は南風島さんにとって「思ったほど面白くない」ものだった。むしろ、日本の報道体制への疑問やフリーランスへの意識を強めることになったといえるだろう。高まってきていた少数民族や紛争地への関心を追求する場はそこにはなかった。

誰も目を留めていない現実を伝えたい

 現在、東ティモールやナガランドと、アジアに地域を絞り込んで取材活動を続けている南風島さんだが、アジアだけに特別強いこだわりがあるわけではないようだ。中南米やアフリカへの興味は尽きないが、「当面は、アジア人としてアジアを報道する」と、南風島さんは決めている。欧米人には見えなかったり、取材しにくいものを日本人の視点で報道したいと考えているのだ。通信社にいた頃、とめどなく流れてくる海外からの通信社電が欧米の通信社からのものばかりであることから、そう感じるようになった。

 フリーになってから、東ティモールをとくに時間をかけて取材、発表してきた。だが、独立が現実味を帯びてきた今、意外なことだが南風島さんのなかではそのテーマは完結に近いところまできているという。それは、東ティモールに通信社時代から関わり始めて現在に至るまでの間に、日本国内での東ティモールへの関心が高まっているからだ。事実、住民投票に向けた動きを追った記事は連日新聞に登場している。

 「寄って集ってするものでもないやろう」という南風島さんは、あくまでも「知ってもらう報道」を続けていきたいと考えている。誰も目を留めていない現実を伝えることに南風島さんは自らの役割を見出している。考えてみると、フリーにとっては厳しいことにそれはひどくお金になりにくい。何しろ、日本国内での関心が高まってきたときには、他に取材に行く人がいるならば、と南風島さんは身を引くのだ。

 通信社を退社したばかりの頃、南風島さんは先輩のフリージャーナリストから、いかに自分自身を売っていくかの戦略を聞かされたことがある。しかし、耳を傾けながらも南風島さんは、「いいや、そんなの」と、思っていた。

 「生活のために売文業のような仕事をやるのもいいけど、俺としては土木作業員をやって稼いだ方がすっきりする」と南風島さんはいう。ただ、お金は何とかなっても、取材してきたことを余すところなく伝えられない苦しさがフリーにはあると語った。

 「自分は何ももっていない人間」と、インドで感じた思いが今に続いている。その思いが、自分にできることは人が行っていないところに行くこと、と危険を顧みずに紛争地に飛び込んで行かせるのだろう。

 南風島さんにとって、ジャーナリストという肩書きは、職業を超えて、生き方そのものを現している。

(山本 浩・フリーライター)
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文化探索

ロタ・ナガ族の民話〜毛虫男のダンさん 

絵・文/多良俊照 p199909d.jpg

ナガランド

 インド北東部とビルマにまたがる地域に位置する。1947年に独立を宣言したが、英国、インドのみならず国際社会からも無視され、現在まで50年以上にわたり独立運動を展開している。

 ロタは、20以上の部族から成るナガの中の一つの部族である。

作者のコメント

 「ナガの文化をビジュアルに伝えたくて、マンガという方法を用いてみました。ロタ族は葉も食します。そのほか、家、男性、女性の髪型、荷物の担ぎ方にもご注目ください」。登場人物が関西の言葉を話しているのは、多良氏が関西出身のため。


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編集後記

中国における「民主化」とはなにを意味するのか? 法輪功の台頭、中国初の野党「中国民主党」のめばえ……▼改革・開放の流れが影響しているように言われているが、中国の「民主化」の水脈ははるか以前から地下に潜り、脈々と流れていた▼その答えを求め「中華民国」時代の民主化の研究をすべくひとりのAWC会員が中国に渡った▼民主主義は社会主義においてもその活力の源だ、となにかの本にあった。再度中国はこの言葉をかみしめる時代にきているのではないだろうか(ひ)

▼このところ、東ティモールも含めたインドネシアに関する情報が新聞紙上にない日はほとんどない▼記事の内容もさることながら、いったい世界中からどのくらいの記者が取材で訪れているのかも気になる▼本田さん、南風島さんが帰国したら、各国の記者事情についても聞いてみたい▼届くかどうか冷や冷やしましたが、現地からのレポート、ありがとうございました!(よ)

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月刊AWC通信1999年9月号(通巻第12号)
1999年8月28日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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