『AWC通信』1999年8月号(第11号)


目次


定例会報告

ビルマのイスラム教〜バマー・ムスリムを知る     

ビルマの暮らしと文化のミニコミ誌「バダウ」発行人 落合 清司さん
 敬虔な仏教徒の国として知られるビルマ。だが、「多民族国家」ビルマには信仰も複数存在し、ムスリムも古くから存在した。その中でも、「バマー・ムスリム」(ビルマ系ムスリム)についてはほとんど知られていない。
 バマー・ムスリムを知れば、今までとは違うビルマが、そして現代の国民国家のありようが見えてくる。

『バダウ』と「ビルマのイスラム教」

 ビルマとは「7〜8年のつきあいになる」という落合さんは、自らをスペシャリストではなく「ビルマにハマってしまった、ただのビルマ好き」だと言う。その「ビルマ好き」が高じて2年前から友人と発行を始めたのが、ビルマの暮らしや大衆文化を取り上げるミニコミ誌『バダウ』だ。無料で配布している同誌のモットーは「ビルマの日常茶飯事について取り上げること」。それも、日本人としての視点から、ビルマ人自身が気づかないこと、外国人だからこそ見えることを重視している。「そこが外国人にはおもしろいし、そこにこそその国の本質が現れる」と落合さんは言う。したがってそれは、必ずしもビルマ人にとって“すばらしい”あるいは“見せたい”と感じる「ビルマ」像とは限らない。ここ2号で特集した「ビルマのイスラム教」もそのひとつだ。

 これまで芸能人やポップス、食べ物などいわゆる「当たりさわりないこと」を取り上げてきた『バダウ』だったが、「ビルマのイスラム教」を取り上げたことで、「取り上げるべきテーマとして適当ではない」といった批判を受けることもあったという。しかし、この問題は「ビルマという国を考えるうえで、決してマイナスにはならない」と落合さんは言う。

 そもそも落合さんがビルマのイスラム教について調べようと考えたきっかけは、ビルマのある仏教僧の言葉だったという。落合さんとは同年代で、僧院の指導的立場にあったその僧侶は、ムスリムやクリスチャンとも積極的に交流し、「宗教によって人々が対立するのは本末転倒」だと訴えていた。そして、「ムスリムを嫌う仏教徒に限って、この国のムスリムについてほとんど何も知らない」「無知が誤解を生み、嫌悪となる。まず知ること。それによって対立はおのずと解決する」と落合さんに説いたという。落合さん自身ほとんど知らなかったビルマのイスラム教について、その後興味がつのり、調べ始めた。

仏教国ビルマのムスリム

 ビルマ情報省刊『黄金色の光を放つ宗教』によれば、モスクの数はヤンゴンだけで171、マンダレーには200、ヤカイン州に1238など、国内で2266にのぼる。

 また、ビルマの町を歩くと、「786」と書かれた看板の店をよく見かける。786はビルマのムスリムにとって神聖な数字で(詳細は『バダウ』7号参照)、つまりこの看板はムスリム経営の店であることをあらわすものである。これは特にムスリム地区だけでなく、町中いたるところに見られる。

 では、実際にムスリムはどれぐらいいるのか。統計上、ビルマのイスラム教徒は人口比4%ということになっている。落合さん自身「もうちょっといるような気がする」というムスリムだが、当のムスリムたちの間では15%という数字が出回っている。日本のイスラム広報誌『アッサラーム』でも15%という数字が出てくる。根拠は「わからない」。しかし、ムスリムの「数字に表れない存在感、影響力を感じる」と落合さんは言う。

 ビルマには、“ナッカドー”と呼ばれる霊媒師がいる。これは“ナッ”と呼ばれる精霊との仲介を果たす役割で、固有の精霊信仰の産物だ。厳格な一神教として知られるイスラム教だが、ビルマのムスリムはこうした精霊の存在さえ、建前は別として「必ずしも否定していない」という。ムスリムたちの説明よれば、“ナッ”は“神”ではなく、アッラーが創り出した聖霊“ジン”のようなものらしい。ただ、こうした解釈や説明は必ずしも一様ではない。いずれにせよ、イスラムではとうてい許しがたいはずの、飲酒などの放とうな行いが好きな“ナッ”まで認めてしまうようなムスリムが、多数派ではないものの存在することは事実であり、こうしたビルマ独自ともいえるムスリムについて「とてもおもしろい」と落合さんは言う。

知られざる“バマー・ムスリム”

 ビルマでは、ムスリムは一般的にインド系、中華系住民のことを指すと理解されている。これは「まちがいではない」が、そこにはビルマ系ムスリム、バマー・ムスリムに関する認識がすっぽりと抜け落ちている。

 ビルマのムスリムは大別してインディア・ムスリム(インド系ムスリム)、バマー・ムスリム(ビルマ系ムスリム)、パンデー(中華系ムスリム)の三つに分けられる。このうち、バマー・ムスリムについては全くと言っていいほど知られていない。「ビルマのムスリムを知ることは、まずバマー・ムスリムの存在を知ることから始まる」と落合さんは言う。

 しかし、仏教徒からバマー・ムスリムについての話を聞くことは非常に難しい。ほとんどの仏教徒が、バマー・ムスリムを「あれはビルマ民族ではない。カラー(インド人)だ」として、それ以上の話が聞けないのだという。

 では、なぜ仏教徒はバマー・ムスリムをビルマ民族として認めないのか。そこには、“ビルマ人=仏教徒”“仏教徒ビルマ人はみな善男善女”という、仏教徒ビルマ人の社会通念がある、と落合さんは指摘する。しかし、この通念が普遍であるかというと、そうではない。例えばキリスト教徒ビルマ人はその存在が認められ、ビルマ民族として認識されている。にもかかわらず、ムスリムビルマ人は、ビルマでは認められていないのだ。仏教徒ビルマ人がキリスト教に改宗しても認められるが、ビルマ人がムスリムと結婚すると、とたんにビルマ民族とは認められなくなるという。

 そこには、「ビルマ社会の、ムスリムに対する排外性」があると落合さんは指摘する。それは、「知らないことからくるムスリム嫌い」なのだが、ではなぜ嫌うのかというと、理由は「どこまでいってもはっきりしない」。例えば「と殺業を営むムスリムを、殺生を忌む仏教徒が嫌うのだ」という話があるが、その仏教徒はムスリムによって殺された動物の肉を食べている。また、「ムスリムは西に頭を向けて寝るが、仏教徒は東」だからという人もいるが、ビルマの仏教徒にとって、仏教発祥の地はむしろ西にある。「いずれも理屈にならない」理由で、仏教徒はムスリムに対する嫌悪を抱き続けていると落合さんは言う。

 一方で、かつての英領植民地時代の歴史がムスリムに対する嫌悪を生んだのでは、との考え方もある。植民地時代のビルマには、同じく英領だったインドから多くのインド人が入ってきたが、ビルマ人にとってインド人は“搾取者”であり“支配者”にほかならなかった。現在、多くのバマー・ムスリムは「植民地支配が残したのは『インド人嫌い』であって、『ムスリム嫌い』ではない」と言うが、結果的に「『インド人嫌い』が『ムスリム嫌い』にすり替えられていったのではないか」と落合さんは推測する。

 ビルマでは、一般にインド人を指す“カラー”という言葉は、差別的な意味あいが強い。しかし、インド人の中でもヒンドゥー教徒はとくに嫌われることはない。これは仏教とヒンドゥーの「宗教的な近さ」からくると落合さんは分析する。一方で、より民族的には近いはずのバマー・ムスリムに対しては“カラー”という呼称を使う。バマー・ムスリムたちの不満は、自分たちがビルマ民族として認められていないこと、そして他のムスリムと一緒に“カラー”としてくくられてしまうことだと落合さんは言う。

バマー・ムスリムの源流

 本来、“外来者”を意味する“カラー”という言葉は、インド人の流入・定住が古来から多かったことから“インド人”と同義として使われるようになった。インド人移民の流入の歴史は11世紀のバガン王朝時代にさかのぼる。この時代、インド人でムスリムだったと思われる人物が精霊ナッとしてまつられるなど、“カラー”は嫌悪や排除の対象ではなかった、と落合さんは読む。ビルマにとって、インドからのオールドカマーは、時に崇拝の対象でもあった。

 しかし植民地時代に入り、インドから新たに流入したニューカマーたちは、ビルマにとって搾取者、支配者だった。ここで、“カラー”という呼称は一気に負のイメージへと変わっていく。ニューカマーと一線を画したオールドカマーたち、中でもムスリムたちは自らをバマー・ムスリムと名乗り、ビルマ独立運動へも積極的に参加した。

 独立に先立ち、近代国家ビルマ建設の過程で、バマー・ムスリムたちには一つの選択が迫られた。それは、バマー・ムスリムを「独自性を持った少数民族」とするのか、「ビルマ民族」とするのかというものだった。アウンサン将軍とバマー・ムスリム議会議長ウ・ラザッによって協議された「バマー・ムスリムの地位に関する協議」は、バマー・ムスリム自身の投票によって諮られた。その投票結果は今日まで公開されていないが、ウ・ラザッの政治的判断によって、その後“バマー・ムスリムはビルマ民族である”ことが決められた。

 しかし、アウンサン将軍とともに暗殺されたウ・ラザッの死によって、バマー・ムスリムの“ビルマ民族”としての地位は一般には普及しなかった。政治的合意よりも慣習が優先された結果、法的には保障されたバマー・ムスリムの地位は、ビルマの社会通念上はほとんど受け入れられることはなかった。バマー・ムスリム自身、自らが“ビルマ民族”として認められたことを知らない人が多かったという。これは、多民族・多宗教国家として重要だった包括的な民族主義教育が徹底されなかったことに起因すると落合さんは指摘する。

 その後、1974年のビルマの国勢調査では、バマー・ムスリムに対して「ビルマ民族として申告せよ」との通達が出された。この時、バマー・ムスリムのビルマ民族が「ドッと増えた」という。そしてそれ以後、ビルマ政府はムスリムに対して抑制政策を採るようになった。以前は閣僚にもムスリムがいたが、その後は政治・軍事部門でのムスリムの昇進に制限が課され、ビルマ・イスラム史が教科書から削除され、モスクや墓地の新規建設も許可されなくなったという。また、バマー・ムスリム同士の夫婦に産まれた新生児はビルマ民族として登録しにくくなっているという話もある。この背景には、「ドッと増えた」ムスリムに対する仏教徒の警戒感があったのではないか、と落合さんは推測する。

連邦国家ビルマは民族、宗教を超えるか

 王朝時代と現在とでは“民族”の捉え方が明らかに違ってきている。にもかかわらず、“カラー”という王朝時代のくくり方を現代にまで持ち込むことに「疑問と無意味さを感じる」と落合さんは言う。

 王朝時代の“民族”に近代と同程度の意味合いを求めることはできない。実際、バガン朝やタウングー朝などでは“ビルマ民族”が国家の枠組みではなかった。敵対する勢力の中にビルマ民族がいたり、逆に味方の中にモン族などの異民族や“カラー”がいるというのは当たり前で、国王自身が人種的に他民族の血をひいていたりすることもあった。そうした中で、味方としての“カラー”の存在がかたち作られていった。また、ビルマのムスリムたちのアイデンティティが、血統的な民族性よりも“ムスリムであること”だったという側面もあった。

 一方で、植民地時代以後、近代国家が作られるうえで“民族”という分類が重要な意味を持つようになった。“民族”は政治的集団としての性格を帯び、同時にその“民族の範囲”を特定する必要がでてきた。またビルマでは、新たにインドから流入したニューカマーたちが“カラー”を負の存在としてとらえさせるようになっていた。

 古くからビルマに住むムスリムを、植民地時代の政策移民としてのインド人と区別せず「インド系」とする、王朝時代の延長線上的な分類は、「バマー・ムスリムを知るうえでの入口をふさいでしまう」ことになる、と落合さんは指摘する。

 また、バマー・ムスリムをビルマ民族として認めることは「民族や宗教の違いを超える連邦国家ビルマ」という国家理念とも一致する。「バマー・ムスリムはビルマ民族として同化すべき」だというウ・ラザッの政治的判断は「正しかった」というのが現在のバマー・ムスリムの評価だと落合さんは言う。しかし一方で、アウンサン将軍やウ・ラザッがめざした“ビルマの融和”という理想は、むしろ「揺らぎつつある」。こうした問題解決のためにも、まず「知ること」が大切なのだと落合さんは言う。


ビルマのイスラム教Q&A

〜質疑応答から

Q:ビルマ語名、イスラム名を持っている人もいるが、名前に関する制約は?

A:ビルマはもともと名前に関して自由度が高い。複数の名前を持っているのはむしろ当たり前。ビルマでは見かけだけではムスリムかどうかわからないことが実際のところ多い。バマー・ムスリムの場合は特にそういうことが言えるので、職場などでは、公的な職業に就いている者が、より高い地位、あるいは安定を求めようとして、書類上仏教徒としておくことがあり、また、ムスリム名を使わないということは多い 。

Q:バマー・ムスリムの経済状況は?

A:バマー・ムスリム自身は経済的には「上のほう」だと言うが、仏教徒はそうとは認めていない。商人が多いので平均から見れば比較的裕福なほうだと思うが、予想以上に農民のバマー・ムスリムも多い。

Q:バマー・ムスリムとしての反政府運動などはある?

A:バマー・ムスリムは一般的に体制寄りが多く、組織的な反政府活動などはないと思う。そもそも、社会的な地位のための活動は「恐くてできない」のが現実。キリスト教では許される布教活動も、ムスリムには許されていない。できるだけ穏便にことを進めて平和に生きていきたいというのが本音だと思う。

Q:インディア、バマー、パンデーの割合は?

A:詳しい数字はわからないが、インディアがもっとも多く、次にバマー。パンデーは統計上ではごく少数ということになっているが実際は統計ほどの少なさではない。

Q:ムスリムに対する差別はどんなもの?

A先に挙げた制度的な差別があるが、実害はさほどないと思う。むしろ、「認められない」という、気持ちの中での問題、不満が強い。

Q:ムスリム同士の対立は?

Aヤカイン州(バングラデシュとの国境付近)のムスリムだけは別扱いで、「恐い」という印象を持っているようだ。

Q:民主化勢力と政府側でムスリムに対する対応は違う?

A政府側のほうが割と「ムスリムとは仲がいい」とのスタンスを示しているような気がする。民主化運動側のほうがむしろ「嫌い」との態度をとっていると言えるかも。

民主化運動に賛成しているバマー・ムスリムであっても、ムスリムに対する政治的発言には非常に敏感で、アウンサンスーチーの言葉の中ですら過敏に反応することもある。いずれにせよ、ムスリムの問題は民主化問題とはまた別の次元だと思う。

Q:ムスリムと少数民族、周辺諸国との関係は?

A個人的に仲のいいムスリムと少数民族というケースはよく目にしたが、全体としては特に深い関係にあるとは聞いたことがない。インディア・ムスリムはインド、バングラデシュとのつながりが強いが、バマーはむしろ内向きで、特に外部とのつながりはないのではないか。

Q:バマー・ムスリムは敬虔?

A:インディア・ムスリムに比べると大らか。寛容で人がよく、いかにもビルマらしいという印象。彼ら自身「良きビルマ人でありたい」という意識が非常に強く、ある意味でそれは仏教徒よりも強い。だからこそ、ビルマ民族として認められない不満が強い。

(南風島 渉・報道写真記者)
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変わらぬ大学受験差別

〜文部省の方針転換は本質的な解決策にならない〜
高 賛侑
「大学については、日本の中学校を卒業していなくても大検を受けられるようにし、大検合格者に大学受験を認める。大学院については個別判断によって入学を認めてもよい…」。一見前向きなこの文部省の方針転換が意味するものとは。

強いられる「ダブルスクール」

 文部省は7月8日、大学入学資格検定(大検)受験に関する方針を転換すると発表した。翌朝、新聞各紙は1面トップでこのニュースを報じたが、私は記者からコメントを求められたとき、その方針を厳しく批判した。「民族教育に対する差別政策の本質を曖昧にしようとする小手先の欺瞞策にすぎない」と。

 現在、日本には外国人学校(国際学校を含む)は123校存在し、約27,200人が通っている。そのうち高校相当の生徒数は6,250人である。しかし文部省は外国人学校を「各種学校」としてしか認めていない。そのため外国人学校は、学校教育法上の「学校」(一条校)に比べて著しい差別を受けている。その最たるものの一つが大学受験差別である。

 文部省は、外国人学校の高等課程修了者に対し、高校卒業の資格がないという口実により、大学の受験を認めてこなかった。それだけではない。大検の受験にも厳しい制約を加えてきた。大検を受験するためには、「中学校卒業者」という条件が必要とされる。ところが外国人学校に初級、中級部課程から通ってきた生徒たちは、日本の中学校を卒業していないため、大検さえ受験できないことにされてきたのである。

 そのため大学進学希望者はどのような方法をとるのか。朝鮮学校の場合を例にあげると、進学希望者は朝鮮高級学校に在籍しつつ、同時に日本の夜間高校や通信制高校にも籍をおくことによって大検を受験する資格を得、大検を合格したのちにようやく志望校を受験するという回り道が強いられてきた。

 昼は朝鮮学校で学びながら、夜には日本の高校に通うという「ダブルスクール」が生徒たちにどれほど負担を強いるかは想像してあまりある。

 近年、公・私立の大学のなかでは、文部省の意に反し、独自の判断で朝鮮高級学校卒業生の受験を無条件で認めるところが急増しているが、まだ6割程度にとどまっているし、国立大学にいたっては1校も認めていない。こうした差別制度に対し、昨年2月に日本弁護士連合会が「重大な人権侵害だ」とする勧告書を出しただけでなく、ジュネーブの国連人権委員会等においても文部省は強い批判にさらされてきた。

変わらない日本政府の民族教育への姿勢

 今回の文部省の方針転換は、▽大学については、日本の中学校を卒業していなくても大検を受けられるようにし、大検合格者に大学受験を認める、▽大学院については個別判断によって入学を認めてもよい、というものである。

 しかしこれによって改善されるのは、ダブルスクールの必要がなくなっただけであり、大検を受けなければならないという負担には何ら変わりがない。大検は全11科目あり、進学希望者は3年以内に全科目に合格しなければならない。1分1秒を惜しんで勉強に励む生徒たちにとって、志望校での受験に必要のない科目まで含めて余分な勉強に時間をさかれるのは多大な負担であることはいうまでもない。

 問題はそれにとどまらない。もし文部省が今回の方針を各大学に強要した場合、これまで大検合格という条件なしに外国人学校卒業生を受け入れてきた公・私立大学までが、逆に門戸を狭めるようになる恐れさえある。

 さらにいえば、外国人学校をめぐる問題の核は、大検云々といった個々の課題にあるのではなく、日本政府が民族教育を認めるかどうかという点にある。ホスト国がマイノリティの民族的尊厳を保障するのは国際法上からも明白な責務である。

 日本政府がただちに実行すべきは、時代錯誤的な民族教育抑圧政策を放棄し、外国人学校の存続を保障するための抜本的な制度を設けることなのである。

(こ ちゃんゆう・編集ライター)
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図們江の魚は甘いか塩っぱいか

〜朝鮮族が住む中国の町から見えた朝鮮民主主義人民共和国〜
豊田 直巳
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日本軍が図們江に架けた鉄道橋の
残がい。日本植民地下の朝鮮と旧「満
州」を結んでいた。琿春市郊外で

褐色の川

 中国と朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)との国境の川、図們江(朝鮮名−頭満江)には、日帝の植民地時代に架けられた橋が今も使われている。しかし、残念ながら外国人の私はそう簡単には渡らせてもらえない。ならばせめて、と河畔にたたずむ。しかしそれだけではあまりに能がない。渓流釣りの仲間の「木の根沢尺もの会」の会員の私は、スリランカの川で味をしめたわけではないが、ここでも竿を延ばしてみることにした。

 中国最果ての町、琿春市の市場で仕入れた竿は値切って60元。安いとはいえ重いのが難点。お土産にもなるかと竹製を探したが、残念ながら現在の中国でもほとんどがカーボン製品らしく見つからなかった。仕掛けは日本製の出来合いだが、これもここで売っていたのはびっくりするくらい道糸が太い。これでは新巻鮭クラスでも切れないだろうと、思わず図們江の清い流れから背ビレを出して遡上する鮭を想像してしまった。

 だが現実の図們江は、朝鮮人にとっての聖なる山、白頭山(中国名、長白山)に流れを発する雪解け水が泥を流すせいか褐色に濁っている。しかも案内してくれた地元の学生は「あんな汚い川では魚はいない。いても小さい」と繰り返す。「いいのだ。ともかく図們江の魚を釣ることに意義があるのだ」と言っても理解してくれない。しかし、日本でいえば北海道の函館と緯度を同じくする、日本海に注ぐ図們江は、本来なら鮭、鱒の仲間が海から遡上しても不思議ではない。

 だが上流に2つ以上(正確な数は未調査)もある大きな製紙工場の排水に加えて、中国でも近日中に大問題となるであろう生活排水の大量流入によって、図們江はその色以上に汚染が進行しているのかもしれない。それでも、旧日本軍が架けたという真ん中が落ちた鉄橋の下から糸を垂らしてみた。餌は地元の釣り人も使うという学生が集めてくれたミミズ。わずかではあるが網を打つ姿も見えるから可能性はある。だが結局3時間ばかり粘ったが当りすらなかった。濁って底は見えないが、川幅に比べてかなり浅いことと、底にたまった泥が原因かと思われる。いや、ただ単に下手なだけなのかもしれない。

 それで網で捕った魚を見せてもらった。温帯中流域の魚と思われる小さな魚だ。岩魚(イワナ)などにみられる斑点もなければ、山女(ヤマメ)のようなパーマークもない。あえて例えればウグイのようにも見える10センチ程度の雑魚。ここの釣りに関する情報も得られず、今回は釣果なしで撤退せざるを得なかった。

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琿春市から中国・ロシア国境までピクニック
に来た朝鮮族の人々の、食後の舞踏

川を越えてきた少年たち

 その後、図們江で本当に魚が釣れるのか気になって、図們市でも魚釣りの様子を見た。日曜日に糸を垂れるのはすべて中国側の趣味の釣り人ばかりで、北朝鮮側に「趣味」を思わせる釣りは見られなかった。その代わり、中国側の「暇人」に対して、対岸には強い日差しのなかでも畑仕事に精出す「勤勉な」人々の「群れ」が見られた。狭い耕地に大勢の人々が集中して入り、草取りと思われる作業に懸命に鍬を振るう姿は、田舎育ちの私には子供のころのことを思い出させて懐かしい。その光景だけからは食料危機や飢餓の話は嘘のようだ。しかし吉林省延辺朝鮮族自治州で朝鮮の「飢民」のことを知らない者は皆無だろう。だがそれでも通訳の女性が言ったように、知っているからと言っても「信じられるものではない」のは中国人にとっても同じだ。たった数百メートルにすぎない図們江の向こうに餓死者が続出する事態が進行しているなど、そののどかな風景から想像できるだろうか。

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中国、北朝鮮、ロシアとの国境地帯の町、
琿春市は街路の案内板も3カ国語に英語を加えた
4カ国語で表示。環日本海構想の国際都市を標榜
している。境港市とは姉妹都市提携

 だが食堂でご馳走した少年たちは紛れもなく、国境の川を越えてきたのだ。それが証拠に昼間から人通りの多い通りを歩くことに怯えたし、だいたい多くの少年は中国語が話せない。ちなみにこのときの通訳は朝鮮族の中国人で、彼女は方言から少年たちが北朝鮮から越境してきたことを理解していた。そして皆一様に痩せているばかりでなく年令に比して異様に小柄で幼く見えた。中国に来て4年になると言う14歳の少年は、見た目には日本の小学4、5年生にしか見えない。しかも言葉をうまく発することが出来ないようで、通訳は最初聞き取れないと訴えた。「同僚」の少年たちも彼は言葉が引っ掛かると同情を寄せていたが、彼もそれを自覚してか無口だ。

 10歳にして故郷を捨てざるを得なかった北朝鮮での厳しい現実。そこに、冬には零下20度になる見知らぬ土地での、住む家も暖ををとるすべもないなかで物乞いによって生きなければならなかった現実が重なったのだ。いや今日まで生き延びたことが不思議なくらいだったに違いない。

 1年前に故郷を出た13歳の少年が、両親ともに食物が無くて死んだと言ったが、無口な少年とて、およそ似たり寄ったりの状況だったに違いない。13歳の少年は1度中国の警察に捕まって朝鮮に送り返されたが、また脱出してきたという。連帯責任を追うべき親も兄弟もすでにこの世にいないのだから、北朝鮮とて罰しようもなかったのだろう。

メンタイの干物も川を越えてくる

 観光シーズンの今は、彼らは韓国から一目「故郷」を見ようと訪れる観光客を当てにした「物乞い」で何とか生活している。いや人力三輪車の車夫が「彼らに金をやるべきではない」というほど、かえって車夫より実入りはいいかもしれない。空きビルや、扉を閉めた店の軒下で夜露をしのいでいるから、「稼ぎ」は全額彼らの収入になる。家族を養わなければならない車夫より一見豊かに映っても不思議ではないかもしれない。しかし、同年令の中国人の子供が学校へ行っているときに、彼らはいつ捕まるかと怯えながら近所の手伝いをしたり、観光バスがくれば「無心」に行ったりしているのだ。仲間がいるとはいえ、まだ親に甘えたい年である。たくましいといえば言えないこともないかもしれないが、「かわいそうだ」と思う感情の方が先に湧く。同じ朝鮮族としての同情か、周囲の人々の中にも何かと面倒をみる人々もいるらしいというのが救いだ。だが問題の解決からは程遠い。彼らが故郷へ帰れる状況になるのはいつのことか。

 しかし本当に北朝鮮に食料はないのだろうか。子供たちに飯を食わせた食堂の隣の市場に大量に並ぶメンタイ=鱈の干物は北朝鮮からの輸入だと売り子の小母さんは自慢した。ビールで流し込むそのメンタイが少なからず塩っぱかったのは日本海の塩のせいばかりではないようだ。

(とよだ なおみ・フォトジャーナリスト)
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フェアトレード:自立のためのシステム

〜フィリピン、プレダから〜
出口 綾子
 「南」の農民たちにとって、フェアトレードを行う組織への参加はそれなりにリスクを伴う。なぜリスクを負ってまで参加する人たちがいるのか―。フェアトレードを通じて持続的な自立を模索するフィリピン、「プレダ」のレポート。

フェアトレードはラクではない

 マニラからバスで北へ4時間。1992年まで米海軍基地があったスービック湾を臨む小高い丘に、プレダはある。「人々の回復、エンパワメント、発展のための支援基金」が正式名称のプレダは、買春された子どものケア、リハビリなどのほか、マンゴーなどのフルーツや手工芸品のフェアトレード(公正貿易)も重要なプロジェクトとなっている。

 フェアトレードでは手工芸品なども扱うが、その歴史からみても貿易規模からみても、果物や紅茶、コーヒーのような、換金作物である第一次産品を取り扱う方がメインである。農村で暮らす人々にとって、毎年の収穫は生活を大きく左右するものだ。それだけに、それまでの農法を変えるというのはリスクが大きいと予想される。

 彼らが大規模プランテーションを出てフェアトレードを行う組織に参加するということは、それまでの農法を全面的に切り替えるということでもある。それは、彼らがその切り替えに生活のすべてをかけることを意味するのだ。たとえばフェアトレードを行っている農園では、有機農法を取り入れる場合がほとんどである。農民たちは、生産効率の高い化学農法を捨てて有機農法に切り替えるわけだ。広大な土地をすべて有機農法に移行するのは、年月もかかり作業も予想以上に大変である。さらに移行するまでの間、収入は見込めないかも知れない。農法の切り替えだけをとってもこれだけの影響が考えられる。

 それ以外にも、最低限の生活はできていたプランテーション村を出ることによる様々な変化、影響が予想できる。一体なぜ、こんなリスクを負ってまで、彼らはフェアトレードを行う組織に参加しようとするのだろうか。

「持続」をめざすマンゴープロジェクト

 プレダのマンゴープロジェクトは、セブ島にあるマンゴー農園で働く生産者の共同体作りを支援し、彼らが仲介業者を介さずに、直接、輸出業者や加工業者と交渉できるようにするというものだ。仲介業者による不当な利益の搾取をなくし、大地主への借金地獄からの解放、市場へのチャンス、職業訓練、有機農法による持続的な環境保護などの利益を農民たちが得ることができるというのがこのプロジェクトのねらいだ。

 今年で26年目になるプロジェクト担当のマーリー(45)は言う。「他のプランテーションと違うのは、"持続"をめざしているということ。農民たちは子どもを学校へ行かせたい。そして働き続けたいと思ってます。そのためにはどうしたらいいか、彼らの中で農民組織を作ってどうしたら自立していかれるかを学んでいるのです」

 マーリーが「彼らは常に搾取されている」という一般の大規模プランテーションでは、農民は職業訓練なども受けられず、貧しい生活を続けることを強いられる。そのように生活の尊厳を受けていない農民たちが、組織作りに参加することで自立の過程を学ぶというわけだ。

 搾取はなにも仲介業者だけが行っているものではない。自分たちの組織や生活について、自分たちで決めていくことができない大規模プランテーションというしくみそのものが原因となっている。農民が持続的に自立できるような組織に必要なこととして、プレダの「フェアトレード評価基準」には、まずは生産者の健康維持、そして彼らが組織の意志決定の過程に参加すること、地元住民である彼らがイニシアティブをとること、持続可能な環境作りを促進することなどが明記されている。

 マーリーによるとこのプロジェクトに参加する組織では、数年経てば土地が痩せてしまう化学肥料はいっさい使わず、有機農法のみを取り入れているということだ。たとえ今、一時的なリスクを負ったとしても、子供や孫の代までも持続的に自立できるようになりたいという彼らの思いは何にも代えがたい。

「初めに援助ありき」ではない

 私たちの周りでフェアトレードが語られるとき、それは「南」の搾取された人々を助けるもの、そのために消費者に我慢を強いるものという"援助と我慢"のニュアンスが強くはないだろうか。

 日本で生産されたものでさえ、生産者と消費者が直接顔を合わせるなどということはまずない。第三世界が相手のフェアトレードなら、なおさら生産者から遠くなる。生産者の公正な利益獲得のための貿易であるにもかかわらず、である。しかしそれは距離のせいではない。フェアトレードが犠牲的精神による援助として語られる限り、生産者の顔は見えてこない。

 マーリーが語ってくれたように、農園にいる彼らは持続的な自立を強く望んでいる。その実現のためにすべきことは、生産者と我々消費者が協力して、換金作物や仲介業者をすべて否定するのではなく、真にオルタナティブな貿易を模索していくことである。日本ではまだ知名度の低いフェアトレードだが、それだけに可能性は大きい、と私は信じている。

(でぐち あやこ)
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韓国人ニューカマーを翻弄する悪質ブローカー

高 ヒョンミ

虚偽ビザ取得、オーバーステイへの道〜韓国の場合

 現在、韓国からの入国者は他のアジア諸国を抜いて1位を占め続けている。飛行機で2時間ばかりの近くて遠い国。これは単に日韓の歴史認識の例えだけではない。ニューカマーにとっては別な意味もある。「2時間ばかりの近い国なんだから商売に失敗してもすぐ逃げ帰ることができる。それでいて、自分が何をしようと韓国からは目の届かない外国」という考え方だ。それが虚偽ビザ、オーバーステイの問題を噴出させている。

 (1)就労ビザ…偽の大学卒業証明書、雇用証明書、源泉徴収証明書などを韓国、日本とタイアップして発行させる。もっぱら韓国人ホステスの入国に使わている興行ビザの手口についていえば、韓国内で架空の芸能プロダクションに歌手・伝統芸能人として登録させ、秘密スタジオで興行中という証拠用の偽写真まで準備し、申請する。

 (2)結婚ビザ…ブローカーは手付金として100〜200万円を受け取り、偽配偶者は1年更新ごとに謝礼として50万円程度の報酬をもらう。他のビザと比べ、いったん取得すればほとんど制約なく自由に日本で営利活動ができる。結婚相手としては、多額の借金を抱えているものや、身寄りのない日本人がターゲットにされている。

 (3)就学ビザから就労ビザへの変換…ビザの種類変更は難しいが、韓国系企業の偽雇用証明書発行などの方法で成功する場合もある。これは、仮に所属させる会社の規模、内容、実態により報酬金額が変わる。あるブローカーによると、報酬は40〜100万円程度だという。

 ビザの取得が困難なものや、ブローカーの力を望まず日本に滞在するものはオーバーステイという結果になる。

 (1)留学生のオーバーステイ…就学ビザで来日し、生活費を稼ぐために学校の出席率が低下、ビザ更新が不可能となっても帰国を拒んだ場合。ビジネスに目覚め、ビジネス目的で日本に残ろうとする者たちも該当する。

 (2)料理アジュマ(韓国語でオバサン)のオーバーステイ…15日間の観光ビザで来日し韓国居酒屋・食堂で就労するケース。料理を担当する40〜50代の女性に多い。金が貯まったら入管に出頭し、国外退去処分を受けて帰国する。また、観光ビザや商用訪問ビザ(金銭を稼がないという制約あり)を利用して、ビザが有効な15日間で不法就労する者もいる。食品・雑貨を請け負って個人で韓国-日本間を運ぶ。韓国語で「ポッタリ」と呼ばれる。手間賃は1梱包の相場が1,600〜3,000円で、一人あたり平均400kg程度の荷物を一回のフライトで運んでいる。

暗躍する悪質ブローカー

 こうした非合法ニューカマーを助長するブローカー、は現在、都内だけでも約20軒存在する−。1996年度より開始された入管法改定に向けた入国管理局の事前調査で、韓国担当行政書士はそう報告した。ブローカーの中には高額な報酬を要求する者や、手付金を受け取って逃げてしまう者もいる。だが、被害者が不法滞在のため、被害状況はまず明らかにならない。被害者は泣き寝入りである。

 私が取材時に身近で聞いた被害ケースには以下のようなことがあった。

 オーバーステイ歴20数年の夫婦にあきらめていた子供ができた。これからも日本で暮したいが、子供も不法残留になってしまう。そこで、ある弁護士と名乗る韓国人に手付け金50万円を支払い、子供の日本国籍取得、ビザ取得を依頼したが、2年間連絡もなく放置された。韓国人どうしの口コミで紹介されたという。私が経過を確認させたところ、「日本の今の法律では申請は難しい。もう少し待った方が良い」という返事だった。疑念を感じ日本人弁護士に相談したところ、「米国の法律と違い、日本で生まれたからといって日本国籍など取得できるはずがない」と指摘された。

 また、ブローカーに手付金200万円を支払い偽装結婚をし偽装配偶者に毎年礼金50万円を払い続ける中、本当の恋人との間に子供ができ、仕方なく偽装配偶者の子として出生届を出したが、偽装配偶者と諍いになり偽装結婚を暴露され大喧嘩、傷害致死、というケースもあった。

 興行ビザを扱うブローカーは個人と斡旋先の店両方からマージンを取るのが普通で、ホステスは二重の借金を負わされる。そして、返済のためクラブのママから半ば強制的に売春を言い渡されたりする。上野・湯島界隈のある韓国クラブのママが「1軒にホステスが10人いる場合、2、3人はお客さんの希望があれば売春OKの娘がいるのもの。前借りや借金の具合だね」と教えてくれた。逃走すればクラブ関係者やブローカーからの執拗な追跡もある。都内のコリアタウンで配布されている「クルトギ」「生活情報」「アリラン」「交差路」などの無料生活誌・新聞に掲載される「謝礼付き尋ね人」のコーナーは、年々紙面を増している。そのうち90%は店やブローカーとの金銭トラブルから逃亡した女性たちのようだ。

日本社会のあり方も無関係ではない

 問題なのは、これらのブローカーに起因する事件がコリアタウンで日常的に起こっているのに、日本の警察が状況をある程度把握していながら、組織的犯罪や大きな犯罪につながらないのであればほとんどお目こぼしという現状である。いまだ日本にいる韓国専門ブローカーへの大掛かりな取締まりなど聞いたことがない。外国人労働者を「景気の安全弁」と考えてのことだろうが、一つ一つ取材してみると不法就労者、オーバーステイの人々の人権を守り保証するのものは本当に何もなく、このままいけば暴行、詐欺事件だけではなく殺人事件にまで発展しそうなケースも少なくない。問題は水面下で、すでに極限的な状況にまで来ているのではないだろうか。

(こ ひょんみ・ライター)
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団体紹介(4)

コリア陶芸ワークショップ

陶芸を通して日本と朝鮮の歴史を知り、友好を考える

国籍も性別も世代も超えて

 「小学生のマミチャンとお友達になれたのがうれしかった」と友田さん。悠悠自適の生活を送り自宅に窯まで持つ友田さんは、「コリア陶芸ワークショップ」の参加者の中で年齢も陶芸の腕前も抜きん出ている。しかし、そうしたことを抜きにして、マミチャンが対等につきあってくれたことがよほどうれしかったようだ。また、すぐに友達になれる子ども同士でも、「同じ日本で生まれて、なぜあの子は韓国人なの」という素朴な疑問を持つ子もいる。そうした言葉に、この「コリア陶芸ワークショップ」の意味とねらいが端的に表わされていると言えるだろう。

 毎年8月、お盆過ぎの週末の3日間、栃木県益子町で行われるワークショップにはさまざまな人が参加する。日本人や「在日」コリアンもいれば、留学生もいる。小学生もいれば還暦を過ぎた人生の大先輩も参加している。短い間ではあるが寝食をともにし、陶芸を通して国籍や性別、世代を超えて一人の人間と人間のつきあいが深まるのである。

 このワークショップが始まったのは1995年。数人の日本人と「在日」コリアンが集まり、お互いにもっと顔の見える関係をつくろうと始められた。「在日」コリアンについての集会などに行くと、「これまで在日の人と会ったことがないので、どうつきあったらいいのかわからない」と発言する日本人がよくいる。実際には、学校や塾、地域社会、職場などでそれと気づかずにすれ違っている可能性が高いにもかかわらず、そのような発言が「在日」の存在を考える集会においてさえなされるということは、日本人にとって「在日」コリアンがいまだに「見えない隣人」であることに他ならない。

 もちろん、個人と個人が顔の見える関係になったとしても、「在日」の人たちが置かれている状況(本名を名乗ることさえ憚られることに象徴される社会)が変わるわけではない。変えるにはもっと政治的な力が必要だろうし、もっと大きな運動が必要だろう。しかし、そうした運動に取り組むにしても、顔の見える関係の「在日」の友人が、一人でもいるのといないのではまったく違ったものになるはずだ。

 また、日本人とコリアンという関係だけでなく、女と男、子どもとお年寄りといった関係においても、一人の人間同士の関係をつくれる場を提供しよう。そうした思いからこのワークショップはスタートしたのである。

なぜ陶芸なのか、なぜ益子なのか

 そのための手段としての陶芸は、日本と朝鮮半島との歴史を考える上で重要な意味を持っている。今日、日本の代表的な焼き物として知られる有田焼や薩摩焼などは、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際に拉致されてきた李参平や沈寿官といった朝鮮人陶工によって生み出された。そうした歴史と、日常の“食”と密接につながった陶器を自らの手でつくるという誰にとっても(たまに例外はあるが)愉快な作業は、参加者の共通の話題づくりという意味で有効な手段といえるのである。

 次に、なぜ益子でやっているのか。これはまったく偶然のなせる技といえる。陶芸のワークショップをやれる場所を探していたとき、たまたま益子に遊びに行って陶芸家の古木良一さんと知り合い、ワークショップの趣旨に理解を示してくれたのがきっかけだった。それ以来、古木さんの工房で作陶し、数十年前に建てられた古い民家で寝泊りしながらワークショップは続けられている。

 もっとも、偶然とはいえ益子とワークショップの趣旨はまったく無関係ではない。益子といえば民芸運動の拠点であり、民芸運動を唱えた柳宗悦は『朝鮮の友に贈る書』の中で、植民地支配下にあった朝鮮の独立を支持した。柳宗悦に対する評価はいろいろあるだろうが、その精神だけはワークショップでも受け継いでいきたいと考えているのである。

(まつうら くにひこ・フリーライター)

<コリア陶芸ワークショップ99のご案内>

 今年も8月の20日(金)から3日間、ワークショップをいつもの古木さん宅で行います。関心のある方はぜひご参加ください。

Webページ:http://www.geocities.co.jp/Hollywood/2655/

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編集後記

▼東ティモールに関してはわがAWC会員にもテーマにしている人がけっこういる。この状況で一度東ティモールにおける利権構造をおさらいしてみたらどうか▼おさらいというのは6/19の記事を読んでのことだ。東ティモールにおいてインドネシアですら、牛耳っているもっと大きな構造が横たわっているように読める。そして、これはなにも東ティモールに終始しない問題なのかもしれない▼昨今の消費者運動が石油メジャーや軍事産業に手をつけている企業へのボイコット運動につながらないかと思う(八尾)

▼「在留特別許可」をご存知だろうか。▼これを「母国から呼び寄せた息子に適用させたい」と超過滞在の某国人男性は言う。息子は10歳のとき来日し現在は高校生。退去強制されても、多感な時期を日本ですごした「日本人のような某国人」に「母国」への適応は大変だという▼さて、あなたは「だったら最初から呼び寄せるなよ」と思うだろうか▼目を向けるべき「アジア」が足元にもある(白取)

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月刊AWC通信1999年8月号(通巻第11号)
1999年7月24日発行
編集人 白取 芳樹/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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