『AWC通信』1999年7月号(第10号)


目次


定例会報告

コソボ、イラク情勢とハーグ国際平和会議

フリーフォトグラファー 豊田 直巳(とよだ なおみ)さん 

いたるところで待つことを強いられる人々

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 コソボの取材は、実際にコソボの中に入るのは難しく、また入るつもりもなかったので南接するマケドニア、アルバニアを取材しました。

 取材中の4月21日は空爆が始まってちょうど1ヶ月目で、地上軍投入の噂が広まりその先遣部隊として戦闘ヘリの「アパッチ」がアルバニアの首都チラバの国際空港に飛来した日でもありました。空港には多くの報道陣が詰め掛け到着を待ちわびていました。夕暮れ時に6機のアパッチが遠く離れた場所に着陸して、ちゃんと見せると言っておきながらあまり見せたくないような感じでした。実際にアパッチが投入されなかったことからも、ユーゴ側に圧力をかける意味での飛来だったような気がします。

 その前日までは、マケドニアの難民キャンプを中心に取材しました。マケドニア政府は、国内にセルビア人もアルバニア人も抱えているため、この問題が飛び火するのを恐れ難民の受け入れには消極的で、ここのキャンプはヨーロッパやトルコなどの他の国に出国するために、一時滞留の場所という性格があります。

 マケドニアには、ボスニアとクロアチア戦争以来、国連軍が展開していましたが、マケドニアが台湾との国交を結んだため中国が拒否権を行使し国連軍が撤退。それを埋める形でNATO軍が入ってきて、引き続き難民キャンプも管理しています。私の訪れたキャンプは、フランス軍やドイツ軍の管理下に置かれていましたが、出入所の総合的な管理や生活上の実際的な調整などは国連難民高等弁務官事務所が行い、その下で各NGO団体やOSCE(ヨーロッパの調整グループ)が活動していました。

 難民キャンプでの生活は、まず登録をしないことにはその先(出国)には進めません。ところが、この作業が急激に難民が流入してきたため、対応が遅れているのが現状です。毎日のように新たな難民がバスで到着しても、寝るところすら満足に与えられず、10人用のテントに20人が押し込まれたり、それすら確保できず野外で雨に濡れながら夜を明かしている人もいました。また、スタッフも決定的に不足しており、共通語としての英語、現地スタッフが使うマケドニア語、難民が使うアルバニア語に精通した通訳も少ないという状況でした。

 このキャンプでの印象を一言でいうと、人々はいたるところで待つことを強いられているということです。登録されるのを待ち、出国を待ち、家族の安否の情報をひたすら待ち続けています。また、これまで訪れたほかの国の難民キャンプとは、異なる印象も持ちました。私たち外国の報道関係者に彼らが必ず聞くのは、「乾電池を持っていないか」ということと「携帯電話を貸してくれないか」ということです。

 携帯電話は、ヨーロッパにいる親戚やアルバニア側に逃れた家族と連絡をとりたいので貸してほしいというのです。時代が違うのかもしれませんが、かつて訪れたパレスチナやカンボジアのキャンプでは考えられないことでした。

 乾電池は、情報を得るためにトランジスタラジオを聞きたいので欲しいとのことでした。マケドニアの難民キャンプは、政府の難民に対する姿勢を反映して難民の出入りが厳しく制限されており、マケドニアにいる親類の家にも行くことができません。そのため情報がかなかな入手できず、ラジオだけを頼りにしていることがわかります。

精神的ショックの大きさが何よりも問題

 キャンプでの生活では、衛生状態が悪く病気が発生しているなどの問題がありますが、何よりも問題なのは難民たちのメンタルケアをどうするかという問題でしょう。それまでの近代的な生活や全財産を投げ捨てて逃げざるを得なかった彼らに、すべてが破壊されているというニュースが追い討ちをかけ、精神的なショックは大変なものです。年配の人になればなるだけショックは大きく、こちらから話しけるのさえ憚られるような感じです。

 一方で、子どもたちはどんな状況になっても笑顔を忘れません。そんな子どもたちの姿が唯一の救いでした。でも、たまたまドイツ軍の管理するキャンプを訪ね、テントで仮設の学校を開設しているところに行き当たったときには複雑な思いがしました。難民生活で失われた学業の遅れを取り戻すのは大変なことで、また子どもたちの精神的なショックを和らげる意味でも、このような状況下でも学校を設けるのは大切なのでしょうが、私は50年間の難民生活をしているパレスチナ人を見ているので、その姿とダブりコソボに帰る希望がますます遠のく場面に見えてしまったのです。

 また、キャンプは狭いところに大勢の人が押し込められているので、食事の時間ともなると食べ物を受け取るために長い列ができます。キャンプの現状を端的に表している場面として私もその行列の写真を撮りましたが、もし自分が並んでいる側にいたらどんな気持ちだろうと思わずにいられませんでした。何の決定権もなくなってしまう難民を象徴している場面でもあるのですが、その写真を見た人が「かわいそうだな」と思うだけで終わってしまったらつらいなと思いながらシャッターを切っていました。

 次にアルバニアに入り、国境の町クケスを取材しました。アルバニアはマケドニアと違って難民を受け入れていますが、マケドニア以上にお金のない国です。首都のチラナに行く途中で見た風景は、2年前に行った朝鮮民主主義人民共和国とよく似ていました。工場から煙が出ておらず、よくいえば空気がきれい、悪くいえば活気が感じられないのです。そんな状況の中で難民を受け入れるのですから大変です。満足な施設もなく、当初アルバニア政府は難民を普通の民家に割り振って、そこで寝泊りできるようにしたほどです。

 実際、クケスでは数万人以下の人口が5倍に膨れ上がるほど難民が流入していますが、すべての人がキャンプ生活しているわけではありません。日本のマスコミでもよく報道されたように、積めるだけの荷物をトラクターに積んで山を越えてきた人たちは、そのままトラクターの荷台で生活していました。彼らもパンや油の配給があれば並びますが、自分たちの財産を多少なりとも持ち出せたので、すべてを失ってNATO軍のキャンプに隔離されている難民に比べると、精神的ショックは少ないように感じました。

 今回の取材では難民キャンプのほかに、マケドニアで開かれた平和コンサートにも行きました。そこでは、「NATOはファシストだ」というプラカードがあふれていましたが、一方で難民キャンプでは「ミロシェビッチこそファシストだ」という声があふれています。

 私の基本的立場は空爆反対で、ミロシェビッチ支持派もNATO支持派も戦争を現実に遂行しているという意味では違いはない。もっと別の道があると信じています。それをどういう形で表現し、どうやって戦争を止めるのかということは、私たち日本人にも無関係ではないと思いながらコソボ関係の取材を終えました。

イラクのサッカーはなぜ弱くなったのか

 アルバニアからアテネに出て、ヨルダンを経由してバクダッドに到着し、10日ほどイラクを取材しました。この時期、イラクに何しに行ったのかというと、サッカーを見に行ってきたのです。

 ちょうどタイミングがよかったのか、滞在中に日本でいうと国立競技場に当たる人民スタジアムで、全イラク対全ヨルダンの試合(といってもイラク側はヨルダンの代表チームが来てもっと試合がしたいというので急遽つくられた2軍のようなチームでしたが)、正月の天皇杯に相当するイラクカップ、日本でたとえれば鹿島アントラーズ対ジュビロ磐田のような、人気のあるクラブ同士の試合を見ることができました。

 なぜサッカーなのかというと、皆さんも覚えていると思いますがかつて「ドーハの悲劇」というのがありました。Jリーグがスタートした1993年、日本チームはワールドカップアメリカ大会にあと一歩で出場できるところまで駒を進めましたが、残り数秒で同点ゴールを決められ夢が断たれてしまいました。その夢を断ったのがイラクチームだったのです。

 当時、アメリカに行ってまともに戦えるのは、アジアでは日本とイラクだけだと言われるぐらいイラクは強かったのですが、結局日本もイラクも出場できず、しかも6年たった今、イラクは見る影もないくらい弱体化してしまいました。なぜ、イラクが弱くなってしまったのか、それが知りたかったのです。

 今回の取材では、「ドーハの悲劇」の試合でも点を入れ、今シーズン限りで引退するといわれる中東のスーパースター、アーメド・ラディにも会うことができました。また、当時のナショナルチームの監督だったアンム・ババにも、なぜイラクが弱くなってしまったのか、その原因を聞くことができました。

「ドーハの悲劇」は日本が負けたことで記憶されていますが、あの試合はイラクにとっても悲劇的な試合でした。湾岸戦争の影響で、イラクがアメリカに行くのは困るという力が働き、日本の解説者からもおかしいと指摘されるぐらいイラクに対してアンフェアなジャッジがなされていたのです。

 その力は、6年たった今も経済制裁という形で加え続けられています。また、アラブ世界からもボイコットされているため対外試合ができません。海外へ行くにも、海外から来るにもアンマンからバグダットまで900kmを車で移動しなければならず、それでは対外試合ができるはずもありません。アンム・ババも、日本のチームにぜひ友好試合に来てほしいと言っていました。

 また、深刻な資金不足で国内ではプロとしてやっていけないので、有力な選手はみんなサウジアラビアやUAE、レバノン(近いところでは韓国のリーグにも1人来ています)などに流出し、そうしたところでプレーしていても下手になるだけで、ナショナルチームの力は上がりません。それらが、イラクのサッカーが弱体化した原因になっています。

 もちろん、イラクで取材したのはサッカーだけではなく、湾岸戦争で劣化ウラン弾の被害に遭った子どもたちも取材しました。取材に訪れた病院は予想を上回るほど近代的な病院で、改めて湾岸戦争までのこの国が中東でも有数の金持ち国家だったことを思い知らされました。ただ、元は近代的な設備であったとしても資金が不足すればメンテナンスにまで手が回らず、荒れ果てたままになっているという印象でした。

 薬も、あるときにはあるがないときにはまったくない状態で、劣化ウラン弾の影響で白血病で死んでいく子どもの数はものすごい数になると言います。中には、簡単な抗生物質があれば助かっただろう子どももいるそうです。

 そして何よりも忘れてはならないのは、コソボで戦争があった4月5月にも、イラクに対する空爆が続けられていたことです。昨年12月のイラクの戦争のときにはいっせいに報道するけれども、コソボで戦争が起きるとイラクに対する5月の爆撃についても劣化ウラン弾についても経済制裁についてもまったく報道されなくなるのは、ニュースが消費の対象になってしまっていることの表れです。その中で、食い扶持としての仕事ではなく、どのように仕事をやっていけばいいのかこれからも考えていきたいと思っています。

平和会議の場で姿の見えない400人の日本人

 最後に、ハーグで開かれた国際平和会議の、報告というより感想を少し述べさせてもらいます。

 帰国後の報道を見ると、会議のアピールの中で憲法第9条の精神を各国に生かせようということが通ってよかったと報じられています。しかし、文字だけの憲法があっても実際には軍事力を持ち、アメリカが世界中で戦争を起こしているときにアメリカ軍の言うことを聞く法律が国会を通ろうとしている現実の中で、よかったと本当に言えるのでしょうか。平和憲法の実態がない、日本の危機こそを世界にアピールすべきだったのではないでしょうか。

 今回の会議には、日本から400人もの人が参加し日本デーも開かれました。そこでは、土井さんがガイドライン法のことを少しだけ批判し、広島市長の秋葉さんも外務省のことを少しだけ批判しました。前の沖縄知事の大田さんは沖縄の現実を語りました。でも、その場にいて私は「今はそういうときか。現実にコソボで戦争をしているときにちょっとトンチンカンなんじゃないか」と思わざるを得ませんでした。今、ヒロシマを伝えるということは、コソボで劣化ウラン弾が使われている現実の中で伝えることなのではないでしょうか。ところが、コソボに民間の使節を送ろうという緊急ミーティングには、私以外の日本人の姿をほとんど見かけませんでした。

 ハーグの国際平和会議といえば、前回開かれた1907年のときには、日本に奪われた国の主権を回復しようと朝鮮から密使が送られたことで知られていますが、そのときの密使の一人で会議への参加を拒絶され憤死したイ・ジュンを記念するピース・ミュージアムが現地にあります。そこが主催し、会議の公式プログラムにも入っている南北朝鮮の軍事境界線を平和ベルトに変えようというシンポジウムにも、参加した日本人はほとんどいませんでした。

 また、ソマリアの女性たちが開いた「内戦と飢餓」についての会議にも日本人を見かけなかった。私の関心がほかの日本人からずれているのかもしれませんが、少なくともコソボや朝鮮半島の話は日本人の関心の内だろうと思います。にもかかわらず、そういう場に他の日本人の姿を見かけることがないと、あの400人もの日本人は何しに来ているのか、どこに行ってしまったのか不思議でなりません。

 そういう中で語られる憲法第9条であり、ヒロシマ・ナガサキであったと思うと、アピールの中にその精神が盛り込まれたからといって、よかったとはどうしても私には思えないのです。

(松浦 邦彦・ライター)
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スポットライト

ビルマ・コンサート暴力事件

〜その背景と日本〜
谷岡 清人

コンサート開催の経緯

 5月22〜23日、東京で「日本ミャンマー伝統文化友好コンサート」と銘打つ公演が催された。これは、2月にヤンゴンで開かれた日本文化を紹介する催し物の際、軍事政権の最高実力者キンニュン第一書記が述べた「最大限の協力をする」という言葉によって実現したもの。「5月下旬開催」という政府の決定にしたがって、「難民」を返上して軍事政権との「協調」に路線を変更した「元難民」など3人の在日ビルマ人が運営の実務を担った。日本側の軍事政権支持者たちにとっても「文化交流をODA再開の突破口に」という意向と合致する性格の企画である。したがって、一般のアジア芸能ファンたちにはとうてい知り得ないようなかたちで開催され、日本人の観客は、ごく一部を除いて各国大使や企業関係者などの招待客で占められていた。

 日本で反軍事政権の民主化活動をしているビルマ人たちは、この公演の収益金が人権侵害の資金になるとして、開催反対とその阻止を表明し、公演当日もデモが予定されていた。そして、その結果は、朝日新聞などで報道された通りの“流血事件発生”であった。

暴行事件後の動き

 5月23日にミャンマー大使館関係者3名と民間ビルマ人2名により、会場内でシュプレヒコールを行った民主化活動家など計2名への暴行が行われたあとの詳細については、民主化活動組織が日本で発行しているビルマ語誌『Voice of Burma』の5月24号に記されている。以下はその要約である。

 事件直後、ミャンマー大使は、会場(日教組運営の日本教育会館)の3・4階を“大使館領”と宣言して日本の警察を排除し、この一件は外務省の担当官と話すべきこととした。そのような対応に、警察の側も主催者側とその関係者を会場から出させなかった。ただ、警察側は『この問題は警察の権限を越えているので外務省に委ね、犯人逮捕はあきらめる』ということを民主化活動家たちに告げていた。そして南東アジアのミャンマー担当官が来たところで警察との調整がはかられ、会場内の主催者側とその関係者たちは外へ出られるようになった。

 翌24日の午後12時ころ、民主化活動家たちは、暴行事件に対する適切な処置の要請をすべく外務省を訪ねたところ、担当官は事件当日の対応について次のように語った。

 『昨日の夜、私が事件現場に行ったのは、ミャンマー政府から日本政府に対して協力要請があったから。これ以上、事件が大きくならないよう、状況を見守るために行ったのです。』

 これに対して民主化活動家たちは、日本の対ミャンマー政策への不満とその見直しの提案を伝えた。」

食い違う主張と日本の対応

 当日、会場内には私服警官が配備されており、その目前で行われた暴行の加害者に対する取り調べが日本「政府」の“協力”によって結局なされず、事がうやむやにされつつあったのである。そこで、日本で民主化活動をするビルマ人の支援を行っている弁護士が中心となって、「司法」による問題解決をはかるべく、「流血事件」の加害者に対する告訴が進められ、6月8日に受理された。

 一方、大使館側は、今回の事件に対し、5月25日付けで「反体制家により妨害された文化友好コンサート」と題する声明を出し、2人の主催者側スタッフが負傷し、反体制家は「観客」に殴打されたとしている。また、反体制家の妻がその様子を録画したビデオを大使館員に没収されたというのは彼女自身が流している噂であるとし、大使を含む大使館員などが会場内に閉じ込められたのは、警察のよる捜査手続きの引き伸ばしによるとして非難している。

 この事件によって、はからずとも日本政府の対ビルマ政策が明らかになったと言えよう。そして、そうであるがゆえに、真相解明が不充分な形で終わってしまう公算も高そうだ。しかし、だからこそそのあたりを見極めるという意味で、民主化活動家側を中心として進められている訴訟に対し、今後いっそう注視していく必要があるだろう。

(たにおか きよと)
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スポットライト

「島々の先住民会議」

〜声をあげた「インドネシア」の人々と慣習法〜
大園 浩史

「島々の先住民会議」

 400以上の多様なエスニックグループからなる多民族国家インドネシア。 しかし、スハルト体制の下、先住民たちの声は抑圧され、ほとんど表に出てこなかった。今年3月にジャカルタで初めて開催された「インドネシア先住民会議」はインドネシアの13のNGOが主催し、121のエスニックグループが一堂に会し参加した初めての先住民会議である。

 会議の名称を直訳すると「島々の先住民会議」で、国名は入っていない。分離独立をめざす傾向が強いアチェなどの参加者が「インドネシア」の使用を反対したためだ。また、東ティモールからの参加はなかった。

 会議では「全国先住民連合」(AMAN)の設立が決まった。先住民族の権利の確立などを要求して活動する方針だ。さらに、「全国先住民宣言」を採択。おもな内容は(各エスニックグループが独自に持つ)慣習法が先住民の生活の根幹であること、慣習法は多種多様であり、画一的な国家の政策が入り込む余地はないこと、先住民にとって不平等な政策を即時廃止すべきである、など。会議では、農地調整庁長官など政府高官が出席しての政府との対話も行われた。

 この会議の報告集会が5月18日、日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI)の主催で会議のビデオ映像もまじえて開かれた。

会議への流れ

 インドネシアでは開発に伴い、土地や森林が国家や企業に強制的に収用されることが頻繁に起こり、彼ら先住民の社会に大きな影響をあたえている。報告者の一人、岡本幸江さん(JANNI運営委員、東カリマンタンなどで調査活動をしている)は、会議の中で各州から強制収用に対する批判が続出したので、全国規模にこれまでの開発政策が非常にひどい結果をもたらしていると改めて感じたという。それと同時に、最近はNGOが「地域の住民が自分達で声をあげるべきだ」との考えから、住民のエンパワーメント(自立のための手助け)に力を入れてきており、その成果があがってきていた。

 これらに加え、去年のスハルト退陣後の政治・社会改革の流れに後押しされることで今回の先住民会議が実現した、と岡本さんは分析する。

はじめての政府との直接対話

 もう一人の報告者、鈴木隆史さん(JANNI運営委員・アジア漁業経済研究家)が撮影した、農地調整庁長官などが参加した政府との話し合いの様子のビデオ映像も上映された。その政府からの人達に向かって、200人以上の先住民の人達が口々に訴える様子がすごい迫力。なかには怒りのあまりトランス状態になる人もいた。先住民達は開発政策の被害者であり、当事者であるのに、今まで無視されてきたからだ。岡本さんは「その彼らが初めて直接政府に訴えことができたこと自体に大きな意義があった」という。その話し合いのなかで、農地調整庁長官が事実上今までの開発政策の誤りを渋々ながら認める発言をした。政府が先住民に対してこのような発言をすることも今まではなかったこと。

 この会議のなかで設立された全国先住民連合(AMAN)については、先住民が具体的な行動にうつせる手段を持ったことは大きな成果だといえる。

多様なグループ間の調整に課題も

 画期的な会議ではあったが、同時に今後の課題も見えてきた。最近頻発する各エスニックグループ同士の対立に、何らかの役割を果たせるか。先住民族は劣っているというイデオロギーが参加者にも既に浸透しているが、どう克服するのか。例えば、それぞれの民族衣装を着て国会に向かってデモをしたとき、腰箕だけで参加した人に対する他の先住民の反応は記者や都市の市民が示すそれと同じものだった。岡本さんは「もし、西パプアからコテカ(ペニスケース)をつけた人が参加していたなら大変なことになっていただろう。まだまだ自分たちを冷静に見ていないのでは」と心配する。

 また、物事を進めるときの合理的な民主主義的プロセスと慣習法のなかの伝統的プロセスが必ずしも一致しない。地域に根差した文化である表現の仕方、ものの考え方がエスニックグループごとに全部違う。「それを一つの『民主化』というキーワードで、まとめられるのだろうか?」と鈴木さんはいう。

 今回の会議には地域NGOと関係ある大きな問題を抱えている地域住民が来たという傾向が強く、必ずしも全てのエスニックグループが平等に代表を選んではいないようだ。そのため例えば、どこのNGOもフォローしていないバジャウ(漂海民)とよばれる船の上で生活している人たちは参加していない。また、会議では先住民を「土地」に根した人々と規定しているため、定義上もこぼれてしまう。

 インドネシアの東部には「サシ」と呼ばれる環境保全のための慣習法がある。これは、地域の人たちが自分達のエリア内の土地、または水域で、動植物や資源を慣習法で管理をしながらそれを利用するというもの。これと、一切漁業権というものが認められていないなど、インドネシア国家の近代法との間には大きなずれがあるが、こうした自然の自主管理の手法は、今、世界的に注目されている。鈴木さんは「特に環境破壊の問題が多発している東南アジアでは、先住民達の素晴らしい知恵に学ぶべきだろう」と語る。

(おおぞの ひろふみ・ジャーナリスト)
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インタビュー

クルド・報道の向こう側

〜中川 喜与志(なかがわ きよし)さんに聞く〜
日高 直樹

 8年前の湾岸戦争により、広く知られることになったクルディスタン。だが、そこから伝わってくる情報はあまりに乏しく、かつ歪曲されている。1991年にPKK(クルディスタン労働者党)とその指導者アブドラ・オジャランを取材し、『クルディスタン;多国間植民地』(イスマイル・ベシクチ著、拓殖書房)の編訳者でもある中川喜与志さんにお話をうかがった。

新聞報道などでPKKは「クルド労働党」と訳されていますが。

 正式名称は『クルディスタン労働者党』です。「クルド」には地理的概念は含まれません。字数制限などでとにかく短く表記したのでしょうが、非常に初歩的な誤訳です。この訳し方は、PKKがクルド人のためだけの活動しかしていないという誤解を招くと思います。彼らはアラブ人やトルコ人も含めて、クルディスタンに住む人々全てを念頭において活動しています。

PKKは極端なクルド民族主義の組織だという声があります。

 この指摘は、トルコ当局はもちろん、トルコ左翼、ヨーロッパ左翼からもなされています。しかし私は、この「民族主義批判」ほど的外れなものはないと考えています。“クルド人なる民族は存在しない”(トルコ政府の公式見解)に対して、PKKやクルド人たちは“クルド人の存在を認めよ”と要求してきました。これを「民族主義」として否定するなら、第一次世界大戦後の全ての民族解放運動は否定されねばならないことになります。

 民族主義云々は、民族の存在を互いに認知した上で、その民族的権利の等質性、平等性の問題として議論されねばならないはずです。クルド人たちは歴史上、一度たりともトルコ民族の存在を否定したことはありません。

トルコ政府の主張は論外として、こうした的外れなクルド人運動批判が左翼の側からされてきたことに、私は注目します。“民族解放闘争は階級闘争に従属する”というドグマが、クルド人たちの国際的孤立と今日の無権利状態を生んできたと考えています。

他民族との共生についてPKKはどう考えているのでしょうか。

 トルコ国内においては、当然ながらクルド民族の認知が前提となります。その上での自治・連邦制を、実質的には90年代初頭より提唱しています。クルディスタンには、クルド人だけではなく、アラブ人、アルメニア人、アッシリア人、トルクメン人、ユダヤ教徒、アレビー教徒、ゾロアスター教徒など様々な民族・宗教コミュニティが存在します。PKKは同じく90年代初頭に“クルディスタン・ナショナル・コングレス(KNC)”の構想を発表し、今年の5月下旬にはその準備委員会がアムステルダムで結成されています。主催はトルコからの亡命政治家、知識人を中心とするクルディスタン亡命議会です。これはいわゆる大クルディスタン国家構想などというものではなく、この地域での諸民族の共生を目指すプラットフォーム構想です。トルコ政府と共同歩調をとるイラクKDP、イラク内のトルクメン・コミュニティは参加を拒否しましたが、クルディスタンの主要な政治組織、団体はほとんど代表を送っています。

今回のオジャラン逮捕事件、そしてトルコ総選挙におけるMHP(民族主義者行動党)の勢力拡大の影響は楽観視できません。

 トルコのクルド人問題はしばしば民族紛争と言われていますが、実はクルド人とトルコ人の民衆レベルでの衝突はほとんど起こっていません。伝えられる世界の他の民族紛争と比べてこれは特筆すべき事だと思います。2万9000人とも3万7000人ともされる犠牲者数の6〜7割がPKKゲリラ、2割程度がトルコ軍兵士、残る一般市民犠牲者のほとんどがクルド人です。衝突がトルコ軍とクルド人民衆との間で起こっているのは明らかです。

 あまり知られていませんが、PKKは93、95、98年と一方的停戦を行ない、トルコ政府に対して話し合いによる政治解決を提起してきました。「交渉のテーブルにつくなら武装闘争も蜂起する」とも以前から主張しています。クルド人合法政党HADEP(人民民主主義者党)の、トルコ政府による閉鎖命令もそう遠くはないと考えられています。そして今、予想されるオジャラン議長の処刑。トルコのクルド人達にいかなる道が残されているか・・・。さらにMHPの国会での議席拡大です。この党は70年代末にクルド人コミュニティを次々と襲撃、80年代以降は軍や警察に入り込み、クルド人活動家、知識人の暗殺事件に深く関与してきました。クルド人たちの抵抗運動がオジャランなきPKK指導部の手を離れ、無秩序に展開する可能性、さらにMHPの動きが引き金となってトルコ人とクルド人の間での民衆レベルでの衝突につながる可能性は否定できないと思います。

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 中川さんは現在、日本におけるクルドロジー(クルド学)の構築を目指している。「日本でのクルド人問題報道はいわばゲジェコンドウ(一夜づくりの家)、基礎工事なきあばら屋のようなもの。基礎研究は皆無に等しい。ジャーナリストたちの怠慢だけの責任ではありません。一刻も早く“クルドロジー序説”を書き上げたいと考えています」と中川さんは言う。

(ひだかなおき・ライター)
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報告

アジア太平洋学生フォーラム

〜グローバリゼーションに反対する若者たち〜
雪山 弁三

 5月7-10日、京都市においてグローバリゼーションのアジアの学生・青年への影響をテーマとして「アジア太平洋学生フォーラム」(以下「フォーラム」と略)が開かれた。主催団体は香港に事務局を置くアジア学生協会(Asian Students' Association、以下ASAと略)。日本側も7大学で実行委員会が結成され、9ヶ月間の準備と当日の進行にあたった。海外ゲストは、韓国・香港・フィリピン・インドネシア・東チモール・タイ・アオテアロア/ニュージーランド・インド・パレスチナおよびASA事務局から11人。彼ら彼女らはフォーラム終了後に東京・大阪・山口へ分散し、釜ヶ崎でのフィールド・ワークや大学におけるシンポジウムなどに参加した。フォーラムと地域の企画をあわせた全過程で延べ500人余りが交流した。「反帝国主義」を前面に掲げてアジア・太平洋地域の学生が集った日本における国際会議という意味ではおそらく初めての試みではないかと思われる。

アジア学生協会(ASA)とは?

 会議を主催したASAは現在32ヶ国52の学生組織によって構成されるゆるやかなネットワークだ。今年で設立30周年を迎える。主要な理念は「第三世界・人権・連帯・民主主義」。傘下団体の政治的傾向は多種多様で、社会主義を志向する団体から、それを嫌悪する立場――たとえばビルマの学生組織――まで実に幅広い。ゆえに一致点は民主主義になっている。

 ASAはここ数年、帝国主義的グローバリゼーションとの対決を基軸方針としている。1998年も、9月「教育とグローバリゼーション」アジア太平洋地域会議(バングラディシュ)、11月国際青年学生会議(マレーシア)、12月アジア女性学生フォーラム(香港)といった一連の活動を通して反グローバリゼーション・キャンペーンを繰り広げた。今回のフォーラムもその一環として企画・実行されたものだ。加えて、東チモールの独立運動への支援、インドネシアにおける国軍のテロリズムに反対する抗議行動にも力を入れている。

グローバリゼーションに反対する宣言を採択

 4日間にわたるフォーラムではIMF・世銀から教育の問題にいたる様々なテーマが議論され、最終日にフォーラム宣言が採択された。

 フォーラム宣言は、(1)IMF・世銀、多国籍企業、APECなどがすすめる自由化・民営化・規制緩和を批判し、(2)教育分野における民営化の進行、授業料の相次ぐ値上げ、批判的思考を否定するなどの教育内容の劣悪化を暴き、(3)西側のいう「人権」は、他国の主権を平気で侵すなど欺瞞的なものであると指摘し、(4)「アメリカと日本は、現代世界におけるナンバーワンの戦争怪物であり、テロリストであり、侵略者である」とこぶしを挙げ、(5)帝国主義こそが環境破壊に関する最大の責任を負っていると非難し、(6)グローバリゼーションは女性の解放ではなく、その商品化・奴隷化・抑圧をもたらしていると規定する。(7)そして、「グローバリゼーションは結合ではなく、『協力』という誤った名の下で行われる帝国主義の支配である」と結論づけてその拒否を訴え、(8)各国の学生運動の強化、他国の学生運動との結合、民衆の社会変革運動と学生運動との一体化を呼びかけた。(9)最後に具体的方針として、6月15日(日米安保条約に対する闘いの記念日)、3月8日国際女性デー、8月6日ヒロシマ・デーを共同して取り組むこと、8月の東チモール住民投票の監視活動を支援することなどが盛り込まれた。

歌って楽しい反帝闘争

 アジア・太平洋地域の学生たちにとって、たたかいとは祭りである。キーワードは、楽しむこと、そして笑うことだ。朝のあいさつ代わりに、休憩が終わって討論を開始する前に、疲れて眠たくなったとき、会議場は突然「おかあさんといっしょ」スタジオと化し、全員で歌って踊った。海外ゲストは「討論は真剣になされるべきだが、同時に楽しまなければ」と微笑みながら席を立ち、日本側参加者をいざなった。これが思いのほか楽しいのだ。体がほぐれ、ついでに意識もほぐれ、口もなめらかになる。そうして活発化した討論の最中にも冗談が頻繁に飛び交うので哄笑がわき起こる。明治以来の質実剛健が看板である日本の反体制運動とはエラい差である。

 「帝国主義」という言葉を第三世界の学生活動家たちは当たり前に使っていた。しかし、いまの日本ではほとんど見ることがない。なぜか。かつては一般的だったこの用語も、現在では一部の新左翼党派の「業界用語」になっている。それゆえ「過激派」と同一視されることを忌み嫌う日本のほとんどの大衆運動が内容上の再検討抜きにこの語を意識的に避けてきたからだ。ここが第三世界と決定的に異なる。

 だが、私は帝国主義国の住人だ。このことを今回再確認した。グローバリゼーションすなわち帝国主義の支配と対決して、これを終了させるための取り組みをこれからも続けていこうと思っている。

(ゆきやま べんぞう・アジア太平洋学生フォーラム日本実行委員会)

Webページ:アジア太平洋学生フォーラム日本実行委員会

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集中連載・後編

中国民主化運動の黎明

「五四」から「六四」へ
塚田 和茂

 今年の6月4日、六四事件からまる10年を迎えた。89年6月4日に起こった事件は、各国のメディアを通じて全世界に報じられた。私は自宅のテレビで第一報を聞いたが、その時の衝撃は今でもはっきりと憶えている。

 10年の歳月が流れ、あの時の学生たちの運動、そしてそれを弾圧した事件は、いったい中国に何を残したのか?また、我々はそこから何を汲み取れるのだろうか?

1999年6月4日

 日米の報道機関によれば、今年の六四事件の追悼集会はニューヨーク、香港などにおいて行われた。

 ニューヨークでは、市内の教会で3日深夜から4日未明にかけて、犠牲者の遺族の証言を朗読する会が開かれ、参加者達は証言に耳を傾けながら犠牲者の冥福を祈った。

 また香港のビクトリアパークでは、4日夜犠牲者を偲ぶキャンドル集会が開かれた。参加者は約7万人に上り、集まった市民は犠牲者に黙祷を捧げた。

 これに対し、中国国内では今年に入ってから民主活動家や学生に対する政府の締め付けが特に厳しくなり、具体的な活動に対する取り締まりから、活動家が身柄を拘束された事例が頻繁に報道されている。つい最近では、六四事件10周年を記念する式典を予定していた反体制活動家7人の身柄が当局によって拘束されるという事件が起こった。香港の「中国人権民主化運動情報センター」によれば、これまでの拘束者数は全国で100人近くに上っているという。

 一方、中共政府は、六四事件に対する“反革命動乱”という従来の見解を再確認し、党内における統一を図っている。特に今年は建国50周年という大きな国家行事が重なっているため、それに焦点をあわせて国内の反体制的な動きに対してはとりわけ厳しくなっている。

六四事件の意義、そして民主化を支えるもの

 まずここで振り返らねばならないのは、学生たちが具体的にどの様な要求に基づいて運動を行ったのかということである。89年5月4日、五四運動70周年にあたり、北京市大学自治連合会は「五四宣言」を発表した。そこでは、1919年の五四運動が中国の学生愛国民主運動の第一歩であることを認め、五四の精神である「民主と科学」をもって、中国の現代化を実現することを第一の目的として挙げている。具体的には、民主・自由・法制建設の促進、報道立法の実現、役人ブローカーの排除、教育と知識の重視などを要求している。ここで注目すべきなのは、彼らの要求が決して現政権を転覆し、排除するものではないことである。彼らは民主的政策の実現を現政権の下で行うことを望んでいた。少なくとも六四以前はそうであり、中共政権をすべて否定していたわけではなかった。いわば、彼らの求めていたのは「革命」ではなく「改革」であった。

 しかし、結果的に中共政府は学生の切実な要求に対して、圧倒的な武力をもって答えた。それは、政府の指導者達が学生の要求する急速な民主化に対して、明確な拒否を示したことをあらわす。これが現実の回答であるならば、学生たちは中国を指導する政府が平和的な運動に対して武力をもって答えることしか出来なかったことを、この事件を通してはっきりと認識しただろう。

 しかし、民主化を求める運動はこれで終わったわけではない。むしろ、六四を大いなる教訓として今後の民主化の発展に生かして行かねばならない。

 89年の六四事件の直後、私は渋谷の山手教会で行われた追悼集会に中国人の友人と共に出席した。集会には多くの中国人学生が参加していたが、彼らはみな泣いていた。悲しみをこらえきれずに号泣する女子学生の姿もあった。この光景は、当時まだ大学生だった私に大きな衝撃を与えた。彼らの涙を見て、私は初めて六四事件の意味を悟った。

 では、彼らを民主化運動に向かわせたもの、そして追悼集会において彼らの心を揺り動かしたものは何か。月並みな言い方をすれば、それは学生であるが故の純粋な愛国心であろうか。しかし、当時の学生たちに共通する利害として、そうした愛国の心情があったことは否定できない。いや、そればかりか、ある意味で中国の民主化を支える、その大きな力となるのが、あらゆる利害をこえた愛国の精神であることを私は信じて疑わない。というよりも、中国と中国人に接してきた経験から、それを強く感じるのだと言える。五四を支えた精神がまたそうであったように。

 最後に、今年の6月4 日に出席したある集会における、参加者の一人であるウイグル人の留学生による六四事件についての発言をもって、本稿の結びとしたい。彼女のこの言葉は、当日の集会を通して最も印象に残った。それはまた、日本人が久しく忘れていたものかもしれない。

「私は、この事件によって、民族を越えて中国人として祖国を愛することができるようになったと思います。当時を振り返ると、民族を問わず、自分の国をもっと良くしたいという気持ちをみんなが持っていたと思います‥」
(つかだ かずしげ)
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会員紹介/亜洲人声(4)

内田 和浩(うちだ かずひろ)さん

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 「中国を悪くいっているように聞こえてしまうかもしれないけれど」

 内田さんは、彼自身が関わってきた中国について話しながらそういった。人間どうしの出会いから中国人社会に入り込んでいった内田さんの言葉には下手な遠慮や気負いはない、そんな気がした。

 内田さんと中国の関わりは、現在結婚して一緒に暮らしている徐花香さんとの出会いから始まった。92年、シルクロードを中心にまわった中国への旅行中に、敦煌で書店の店員だった花香さんと知り合った。

 中国語に苦戦しながらも、花香さんとの手紙のやりとりを続けていた内田さんは、翌年の93年から1年間、甘粛省へ留学することになる。中国への関心も高まりつつあった内田さんは、いっそのこと留学して本格的に中国語を勉強しようと思い立ったのだ。

 この留学を機に内田さんと中国とのつながりはいっそう密なものとなり、帰国後も3ヶ月に1度のペースで中国を訪れるようになる。そして、花香さんの村と関わることで着実に中国にのめり込んでいった。

 村と関わるといってもその村は、外国人が訪れない、ましてや村の娘が外国人と交際するなど考えられない甘粛省の農村なのだ。

 「人さらいのような者ではないことを信用してもらうことから始めた」と内田さんは話す。

 そんな村と関わりながら、内田さんが驚かされた経験は多い。なかでも96年に花香さんの村で挙げた結婚式では、内田さんの年齢がごまかされるというハプニングがあった。結婚証を読み上げる中国式の結婚式の最中、内田さんの生年月日を読み上げる頃になると、花香さんの父親が後ろから、読んでいる役人の肩を叩いた。そして「読まないように」と目配せをしたそうだ。24,5歳までに結婚するのが当たり前のその村で、当時34歳だった内田さんの「遅すぎる」結婚に無粋な噂がたつことを配慮したのだ。村での内田さんの「公式発表年齢」は26歳だったという。

 「彼らは体面のために私を犠牲にしましたね」と、いかにも不愉快そうに、しかし笑いながら言った。伝統的な考え方が色濃く残っている農村のことだ。こうした思いがけない体験のエピソードは絶えない。それだけに、外国人として入り込んでいった内田さんの眼には「中国」の姿が鮮明に見えてくる。

 この農村を通して内田さんは中国という国を見ている。「小さいところから大きいところが見えてくる」というのが内田さんの視点だ。

 中国政府の「ひとりっ子政策」も、村に身を置いていればその現実がおのずと見えてくる。「家」を重んじる意識の強い農村では、跡継ぎとして男の子を授かることは、家の存続に関わる重大な要素だ。そのため、望まれずに産まれた女の子は公式に届け出さず、離れた村で人に頼んで育てられる、といったことが起こってくる。ときには、生後1ヶ月で病死した女の子を巡って大々的な調査がなされたこともあるそうだ。

 それならば中国全土では、届け出されない女の子が膨大な数で産まれ続けているのではないか。村で眼にとめた現実から、内田さんの関心は広がっていく。

 実は、内田さんもその政策にまったくの無関係ではなかった。村で産まれた女の子を留学生がつくったことにできないかと本気で相談されたこともあるのだ。

 「極端にいえば自らの目的のためには、何でもやる」といったような性格が中国人には強いと体験的に感じている。村の人たちや、中国の友人とつき合うなかで、何かと控えめな日本人には理解しがたい彼らの思考回路を垣間見ることは多い。彼らが日本人と同じ思考回路で考えていると思っていると、誤解は絶えないという。そんな、「素朴な」日本人には「もっとも合わないんじゃないか」とさえ考えている中国人の意識構造に内田さんは興味が募っている。

 「日本人からしたらまさかと思うようなことをやっちゃっているんですよ」という中国の歴史を注意深く読み解いていきたいと内田さんは話す。歴史のからくりを知ることで、中国人の意識構造に迫っていけば、現在中国で起こっていることもまた違って見えてくる。それは中国という国をより深く知ることにつながる。「通説を捨てて、裏の裏を読む、それが中国に対する接し方」というほど中国という国は捉えにくいと、内田さんは関わりを続けてきたなかで感じている。

 「片足つっこんじゃっている」と、内田さんは中国との関わり方について表現した。それだけに中国への視線には、他人事ではないという思いが込められている。ときには飛び出す辛口な言葉に、陰湿な感じが少しもしないのはきっとそのためだろう。

(山本 浩・フリーライター)
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編集後記

▼とにかく些末なことに追われ、身動きが…。しかしそんなことを言っている場合じゃないくらい世の中は怪しい方向へ着実に動いている▼このところ国会を予定外に特急通過する法案はいったい何なのか?議論など、どこでし尽くされたというのだろうか▼連日の朝鮮半島で起きている事件報道も、平和に解決する意図や意志を感じさせるものではなく、新ガイドライン法を根拠に戦争に持っていきたいのかと本当に疑いたくなる報道やコメントにあふれていたと感じるのは私だけだろうか?(八尾)

▼世界中、何やら妙にきな臭い。これがいわゆるノストラダムス効果?▼先月の定例会はお話も写真も大変興味深かった。当クラブはフォトジャーナリストも充実しているので、絵ハガキやカレンダーなどの制作を企画してはどうだろうか▼今号でひとまず編集の任を降ります。復帰は9月の予定。次号からの白取新編集長に乞うご期待&ご協力よろしく!(南風島)

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月刊AWC通信1999年7月号(通巻第10号)
1999年6月26日発行
編集人 南風島 渉/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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