『AWC通信』1999年6月号(第9号)


目次


第21回定例会報告

北京・地下芸術1999

フリーライター 麻生 晴一郎(あそう せいいちろう)さん
 今回は、テレビ番組のプロデュースやコーディネートを含め、おもに中国取材で活躍されている麻生さんをお招きして、日本ではあまり知られることのない、北京の地下芸術家たちの状況について報告していただいた。

国家非公認の芸術家たち

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 中国の地下芸術家たちは、自分ではアーティストと名乗っているけれども、国は芸術家としては認めていません。中国では建国以来、画家というものは基本的にどこかの団体に所属していなければならないんです。大学を卒業した時点で中国美術家協会に登録され、学校の美術教師や広告会社、テレビ局の美術担当などとして派遣されるのが、中国での正当な「画家」ということになります。つまり、中国では、国が認めた人だけが「画家」になれる。しかし、たとえば「国からは小学校の先生になれと言われたけれども、俺は大学を卒業して画家になってもいいじゃないか」というような、あえて国には認められない形で芸術活動を続けようという人が、北京に出稼ぎみたいに出てきて集まった。これがいわゆる芸術家村です。なぜ北京かというと、大使館もあるし大学もある。発表の機会もあるし、中国の中で一番敏感なところだと。彼らは自らを「自由芸術家」と呼んでいます。これは彼らが、公認の芸術家たちが自由ではないと考えているからです。

 90年代以降、中国の大学でも就職が自由になりつつあって、現在では日本の企業にも就職できますし、どこにも就職しなくて「画家」になっても構わなくなっています。しかし90年代以前は、卒業したら基本的に何かに所属しなければならなかった。それを拒否した人が、芸術家村を形成していったわけです。当時は、国家の配属に従わないと、生活の手段もないし、「不安定な人間」として当局にマークされました。特に、文化大革命が終わる前までは、国家が認めた画家以外の人が絵を描いたら、労働改造所に送られるか、最悪の場合死刑になりました。69年の作品で、ただ道があって人が二人歩いているだけの、特に問題のある絵に見えない作品があります。しかしこれも非合法ということで、「毛沢東思想宣伝」という箱の裏側にこっそりと描かれた。この時代、非公認の芸術家たちは、バレるとやばいということで、中が白紙の毛沢東語録を作ってそこに絵を描くというようなことをしていました。当時は仮に「革命のために燃えよう」という絵を描いたとしても、描いた人が非公認の画家であれば捕まりました。文革が終わってからはかなり自由になるわけですが、それでもつい最近まで、画家はどこかの団体に所属していなければならない状況が続いていました。

 地下芸術家の摘発には、特に理由はありません。これまでにも多くの芸術家村が摘発を受けていますが、「問題がある」という以外に特に明確な摘発理由はない。この「理由がない」というのが一番恐ろしいところなんですが、とにかく正式な職業に就かず、フリーで絵を描いているというのは、中国では「問題がある」というわけです。

 彼らの作品は外国ではかなり紹介されています。特にドイツでは関心が高くて、画集も何冊か出されています。芸術家の中には外国で絵を一枚60万円ぐらいで売って、ポルシェを乗り回しているような人もいます。しかし一方で、国内では、庶民を含めてだれも彼らを画家だとは認めていません。中国の庶民はどちらかといえば体制に近いので、そんな異様なことをしている人たちに同情したりもしません。だから、国内では展覧会を開くということもほとんどできないし、画集を出すこともできない。絵を発表する機会というのはほとんど海外だけに限られています。

芸術家村の盛衰

 いわゆる芸術家村には「円明園」「東村」「大山子」「通県」があります。この中でも最も大きな芸術家村は北京市の郊外、北京大学にあった円明園で、誕生したのが89年7月28日。つまり、ちょうど天安門事件が終わって50日後ぐらいにできた芸術家村です。この円明園芸術家村が、90年代の北京の地下アートの中心的な存在でした。芸術家の数も92年ごろから急激に増えて、94年で500人を越え、95年1月の段階で1100人ぐらいになっていました。しかし、ここは95年9月に武装警察によって摘発をうけ、消滅してしまって今は一人もいません。摘発のきっかけは、95年8月から開催された「北京女性会議」に合わせた、北京市内の治安強化でした。

 東村は、日本のメディアでも何度か紹介されている芸術家村です。東村が誕生したきっかけは、円明園の芸術家がものすごく増え過ぎて、もう芸術活動ができる状況ではなくなってしまっていたことと、円明園で横行し始めていた商業主義へのアンチテーゼがありました。円明園では、外国人を相手に画廊を開き、大金を稼ぐ芸術家が現れ、また一方でそのパクリや盗作も増えていました。東村はそんな状況から抜け出した芸術家たちによって93年に形成され、95年〜96年ごろに摘発を受けました。ここは、多いときでも20人ぐらいしかいなかったところで、そのうちの半数近くの人がパフォーマンスをやっています。たとえば、女の顔をして、素っ裸で踊るパフォーマンスで有名な「マア・リュメイ」などがここに属していました。彼は日本でも世田谷美術館で一回展覧会をやったことがあります。東村の芸術家たちは摘発後の今も、北京市内を転々としてゲリラ的に活動しています。

 円明園や東村が相次いで摘発を受けた結果、95年から97年ごろまで、北京では地下芸術が姿を消しました。しかし97年ぐらいから再び地下芸術家が増え始めて、今度は通県というところに芸術家村を形成しました。これは北京市の東20キロにある通県郊外の、最も河北省寄りに位置していて、現在も活動を続けている唯一の芸術家村です。農村地帯で農民しか住んでいないようなところで、農家を一軒あたり30万円ぐらいで購入して、地下芸術家たちが共同生活をしています。私は昨年二回行きましたが、4月には60人ぐらいだったのが、秋には150人近くと非常に増えていました。

 ここを形成したのは、ほとんどが円明園で摘発、検挙された人たちでした。円明園が摘発されたとき、彼らはもう二度とこの活動をしないという念書を取られています。態度の悪い人、罰金の額が少ない人は強制労働所に送られたんですが、そういう念書を書いた人が、再び通県を形成していて、なぜ捕まらないのかというのは中国の不思議なところなんですが、彼らは何か特に悪いことはしていないんですね。共産党打倒だと言っているわけでもない。

 また、通県という場所は、円明園とはだいぶ違います。円明園は大学の密集地ですし、留学生を含めて外国人の多い、いわば敏感なところで、夜10時になるとものすごい私服警官が出たりします。一方で通県は北京中心部から遠いし、外国人で行く人も少ない。あまり知られていないところです。そういう意味であまり問題がなく、摘発されていない。しかし今、北京〜通県という地下鉄が建設されていますが、これが完成して便利になり、有名になっていくと、また摘発されることが考えられます。

日中交流と伝えられない現状

 芸術家村には、生活面での相互の助け合いから出発したという背景があります。今でこそ外国で売れている人もいますが、ほとんどの芸術家は最低5〜6年は全く食えなくて借金などで生活しています。そういう人はインスタント麺とお湯ばかり食べているような生活をしていますが、金を持っている人が鍋を作ってふるまうなどの生活上の互助機能が芸術家村にはある。加えて、政府に対する反抗心の共有や、集団でいた方が公安に襲われにくいといった現実的な理由もあります。

 芸術家村は基本的に、外国人が訪れてはいけないことになっています。というより、アーティストが外国人を招いてはいけないという通達が、安全局から出ています。だから、彼らを「取材する」ということがなかなかできない。無理に取材しようとすれば、芸術家たちが捕まってしまうわけです。だから彼らを取り上げようとしたら「旅行」という形でしかあり得ません。彼らも取材だとは分かっているんですが、たてまえ上、彼らを「だまし」て情報を収集するという形になります。

 私も何度かテレビ局に企画書を出したんですが、結果としてこういう取材は認められない。中国での取材は、テレビでも新聞でも雑誌でも、まず中国の国務院関係のお役所に取材申請書を出すところから始まり、許可が下りたものだけが正規の「取材」ということになります。許可が下りれば、国家の役人が同行するような形で取材することができる。逆にそれ以外は「旅行」ということになります。しかしテレビ取材では、機材などの問題もあって、現実的に「正規の取材」しかできないし、新聞とか雑誌でも取材許可証を取らないで取材していると捕まる可能性があります。そして芸術家村の場合、国務院とかに取材の申請しても、まず許可されるということが考えられない。私が通県を訪れたのも、全部取材のついでか、観光ビザで完全に観光旅行としてです。だから、彼らが日本のメディアに取り上げられる機会がほとんどない。これまで多少紹介されたものも、基本的には美術雑誌などでの作品論が中心で、どういう生活で、どういうひどい目にあっているかといった面は、あまり紹介されていません。たとえば読売新聞は昨年の9月に芸術家村を取材しているのですが、その後記事は掲載されていません。載せたらおそらく特派員が強制退去になるとの危惧からでしょう。

 戦前の日中関係では、彼らのような存在、例えば魯迅などは、日本でもかなり知られていました。ところが、戦後、現在の方がむしろ情報が閉ざされていて、政府公認以外の芸術家などが全く紹介されなくなった。そういう意味では、戦前戦後でどちらが日中の交流が盛んなのかよく分からない。たとえば北京の街にデパートができたとか、そういう情報はかなり入ってくるけれども、地下芸術家たちの状況といった情報はまるで入ってこない。そういうのが、時代としていやだなあと、以前からずっと思っていました。

 私も滞在中、何回か安全局から査察が入ったり、取り調べを受けて罰金を払ったりといった経験があります。北京市では名目上、外国人は指定されたホテルに泊まらなければ外国人旅行者と認められないなどの規制があります。また中国人でも、地方の人が北京に滞在するには、暫定在留許可証を取らなければならない。実際には違反していてもなかなか捕まりはしないんですが、いざとなったら捕まる。捕まる理由は特になくて、とにかく怪しいと捕まる。そういう意味では私も、芸術家村に滞在中はいつ捕まってもおかしくない状態でした。安全局の方でも、私が芸術家村へ行っているのは恐らく知っていたと思います。電話の盗聴などもあるようですし。ただ、私が行くぶんにはあまり問題というか影響がないだろうと当局側が思っていて、それで捕まるところまではいっていないのだと、自分では解釈しています。

節目を迎えた中国

 今年の中国は、建国50周年、五・四運動80周年、六・四(天安門事件)の10周年でもあり、またマカオの返還と、いろいろあります。美術界でも動きはあって、たとえば天安門広場の向かいの革命歴史博物館では、元円明園系のアーティストたちが六・四に合わせて展覧会を開くことになっていました。しかし、去年の10月段階では5月1日にやることで博物館の承認を得ていたんですが、これが3月に、「6月20日に天津で」ということに変わりました。これで、六・四以前に展覧会をやれる可能性がまずなくなりました。地下展覧会の開催の情報も公安には筒抜けのようで、×月×日に開催しようと決めた翌朝6時には公安が来たりと、芸術家村の画家の中に安全局員がスパイとして潜り込んでいるとしか思えない状況があります。欧米では、六・四の10周年ということで、サンフランシスコやドイツで中国現代モダンアート展覧会がありまして、外国では活躍の機会がかなり多いようですが、国内的には発表のする機会はほとんどない。それがおそらく今年の現状です。

 去年の秋以降、中国では宗教、民主化、出版などについて、締め付けが大変厳しくなっている現状があります。それでも、「中国の解放はゴムひもである」という、ある中国の評論家の言葉のように、伸びては縮み、縮んでは伸びて、繰り返すうちにゴム自体が少しづつ伸びていく。そういう感じで、芸術家村も摘発されてはまた復活して、存続し続けています。

儒教思想と中国の画家たち

 もともと、中国で画家が自由に絵を描いていい時期は、歴史的に見てもあまりありません。画家に対する締め付けは、共産党だけではなく、儒教に基づく考え方にもよります。儒教では、絵というものは「民衆の教化の手段だ」と明確に言っています。それに対するアンチテーゼであった水墨画でも、誰でも描いてもいいというものではなく、役人だけが描けた。その後、五・四運動の中で、水墨画が批判されて、リアリズムが取り入れられていきます。その段階で、いよいよ絵が民衆の教化に役立つように変わっていってしまいます。毛沢東の時代には、絵は政治目的でしか描かれなかった。

 90年代以降、芸術村に住んでいる人でも、北京市内のアパートに住んで、日本にもあるような普通の絵を描いていれば、まず捕まるということはなくなりました。展覧会を開くことも簡単にできるし、画集を出すようなこともできます。にもかかわらず、芸術家村のアーティストは、あえて発表できないような、美術界や政府がいやがるような作品を作っている。つまり、あえて捕まるような存在であり続けているわけです。これはなぜかと言うと、彼ら自身もまた、民衆の教化とか社会を変える手段として絵を位置づけている。この意味では儒教的美術観を持っているんです。

 彼らの中には、「改革・解放は文革と変わらない」「毛沢東語録が広告、コマーシャルに変わっただけ」という考え方が強い。改革・解放や商業主義自体が国からの押しつけだとして反発している人もいます。しかし、共産主義そのものをなくせ、という人はいません。そういう状況の中で、「社会の中で、声でありたい」というのが彼らの考え方です。

海外の評価と反発

 海外で評価を受けている中国の地下芸術家たちですが、その評価にも、中国の政治的な背景が色濃く反映されています。つまり、中国の状況や体制に対する不満やメッセージが明確な作品ほど売れやすい。しかし、海外ではあまりに政治に結びつける見方が強すぎるとして、芸術家たち自身の中から反発も出ています。また、民主化運動に関わっている芸術家は決して多くはないのですが、絵が紹介されるときには民主化との関わりの中で紹介されたりする。一方で、絵そのものの芸術的価値は別問題になってしまっている側面もある。芸術家たちの中には、欧米での報道に神経質になっている人たちもいます。

 95年以降、比較的自由に絵を描ける世代では、抽象画を描く人が多くなっています。その内容も無難で、政府からの圧力も少ない。その意味では、芸術家村を支える新しい血は生まれていない。そんな中国で、あえて「北京の危ない状況で描いている」ことが、外国ではうけているんだと思います。

(永塚 正男・フリーエディター)
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ルポルタージュ

フィリピンに送電線を張った日本人

〜ODAの現場から〜
出口 綾子

 フィリピンの首都マニラから、ルソン島南部のナガまで直線距離にして約250キロ。その間、山の中や田んぼ、ヤシ農園の中に、延々と送電線が続いている。ナガ近くにある地熱発電所から、電力をマニラまで運ぶためのものである。実はこの送電線、今から15年前に日本の円借款で作ったものである。今回はこの建設事業に関わった二人の日本人を訪ねた。

プラント輸出のプロが語る現場の苦労

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 安藤直二さん(58)は、現在マニラ近郊のカビテ工業団地にある車の部品製造工場で働いている。安藤さんがフィリピンで暮らすのはこれで二度目だ。一回目は1984年から、送電線事業の管理者として4年間現場に携わった。

 これまでペルー、イラン、ベトナム、中国、フィリピンなどで長期間プラント輸出の道で仕事をしてきた。「中でもフィリピンは好きだし、思い入れがありますね」と言う安藤さんは、送電線建設当時、用地問題から始まって建設完了までの全てに携わった。とくに用地問題は最も苦労が多かった、と言う。

 送電線建設のためには、ナガからマニラまで幅60メートルの土地が必要である。そのため、何百人もの地主や地元住民と交渉しなければならなかった。1本のヤシの木やマンゴーの木の値段に、伐採する木の合計数を掛けた金額を支払うのだが、一日でも早い現金収入を必要としている彼らにまずは手付け金を払うなどの工夫を試みた。絶対にこの地をどかないと言い張る住民、代々から大切にしてきたヤシの木を、家族みんなが泣きながら切る場面などに安藤さんは何度も居合わせた。反対する地元住民にナタで追われたこともある。ルソン島南部はとくに貧しく、当時はゲリラ活動も活発だった。「こちらも命がけでした」と当時を振り返る。

 日本の対アジアODAは、戦後賠償という側面もありとくに高額である。インドネシアやフィリピンでは、国の上層部がその金を自分たちの懐に入れたり、事業自体が悪質な事例もあったために悪名高い。だからこそ自分は誠実にしっかりやろうと思った。そして現場で起きていることをできるだけ多くの人に知ってほしいという思いがある。

 地元住民とのやりとりの間に様々な現実に直面し、複雑な思いを抱きながらも、しかしこれだけははっきりと言えるということは、これがフィリピンのためにもなると信じて、命をかけて仕事をしてきた、ということだ。安藤さんは海外に赴くと、まずはその土地の言葉を覚え、仕事だけではなく教会の活動にも携わるなど、地域住民の中に入っていった。そうするのが大好きでもあり、また大切なことと感じている。

移住者が語る日本のODA

 冨田豊生さん(40)は、送電線建設のときに安藤さんとともに働いた技術者である。当時27才だった彼は、現地でフィリピンの女性と出会い結婚。その後日本で生活したこともあるが、現在は奥さんの実家であるナガで暮らしており、永住を希望している。

 「とにかく底辺まで行き届くかどうか、これが大金をかけている日本のODAの課題です」と、地元経験の長い冨田さんは言う。本来、日本からフィリピンへのODAは、その資金で地元の人を雇用し日本の技術を伝えていくことが目的の1つのはずである。しかし、フィリピン側が中国系企業に委託するため、人件費の安い中国人ばかりを雇って地元の雇用が増えないなど、最近はそれが達成されていないのではないかと冨田さんは見ている。また、日本から無料で支給された農薬や肥料が、底辺の人々の手に降りてくるときには値段がついている、などということは日常茶飯事だ。

 一般のフィリピン人はこのようなことに気づいてはいるが、公言できないのが現状だという。政府間の援助では、日本側から何かしらの条件を付けると内政干渉ととられてしまう。そのため「今のところ、民間団体からの援助という形が最も望ましいと思うのです」と冨田さんは言う。一方で、これまで大金を落としてきたフィリピン政府に突然金がまわらなくなったりしないように気を使うことも大事、とも言う。

 今回私が見た限り、工場地区は拡大され、高速道路や国際港は次々と建設されていた。日本のODAで一番利益を被っているのは、結局は日本の進出企業ではないかとの批判もあるが、一方で現場では、安藤さんのようにフィリピンのためと信じて命がけで仕事をしている人がいる。このことは、よくあるODA批判では見えてこない部分だと思う。また、市民が直接関わることが難しいだけに、ODA批判は単なる国益のための大型事業批判に終わってしまう。市民の役割としては、冨田さんの言うように草の根レベルの支援や協力関係を今後益々強化していく必要があるだろう。

(でぐち あやこ・エディター)
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「錯綜するクルディスタン」最終回

歴史に取り残された国なき人々

〜諸国の利害が引き裂いたクルドの未来〜
日高 直樹

 トルコ共和国を旅するとき、街中を少し注意して歩けば必ず次のようなスローガンが書かれたゲートに気づく。「トルコ人であることはなんと幸せなことだろう!」

 日本人からすればいささか古めかしいこの標語から、その背後にある、悲鳴にも近いトルコ共和国とクルディスタンの状況を読みとることができる。

条約のはざまに消えた「クルド自治領」

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ティヤルバクルの新市街の役所近くにてトルコ語で、
「トルコ人であることは何と幸福なことであろう」とある

 第一次大戦後の1920年、セーブル条約が締結された。中東の大部分を支配していたオスマン帝国は徐々に衰退していたが、第一次大戦での敗北はさらにそれを決定づけた。条約は西欧列強によって一方的に強いられ、オスマン帝国の領土を割譲させられるものだった。その条約の一部では、現トルコ領南東部(クルド人が住むクルディスタンの一部)に「クルド自治領」が作られることがうたわれていた。この「クルド自治領」には、やはり英国がオスマン帝国から奪い委任統治領としていたモスール州(ここもクルディスタンの一部、現イラク領北部)が隣接していた。「クルド自治領」が実現していれば、それはおそらく英国植民地併合への第一歩となっていただろう。

 だが結局「クルド自治領」が成立することはなかった。1923年、オスマン皇帝に代わったムスタファ・ケマルの新生トルコ政府が西欧列強と新たにローザンヌ条約を締結し直したからである。トルコ民族主義を柱に、政体を共和制に変革し、西欧の圧力を押し返したケマルの政府は、ほぼ現在のトルコ領にあたる領土を確保した。同時にそれはクルド人国家の設立の否定、クルディスタンの分割をも意味した。一方で、セーブル条約の「クルド自治領」に関する条項は、現在でもトルコにおけるクルド人の独立・自治要求運動の根拠となっている。

「存在しない」はずのクルド人

 「分離主義者」「西欧帝国主義の手先」。独立・自治を望むクルド人に投げつけられるトルコ共和国からの批判である。かつてのオスマン帝国の栄光、そして共和国トルコの建国時の苦闘は、過激なまでにトルコの不可分性を強調させることになった。そのために建国当初から「トルコ共和国国民=トルコ人、トルコ民族」というイデオロギーが徹底された。「トルコ共和国に住んでいるのはトルコ人だけである。したがってトルコにはクルド人などいないし、クルド語も存在しない」

 冗談のようなこの考え方が、対クルド政策の基本となった。クルド人は、トルコ人とは民族的にも明らかに異なる。では目の前にいるクルド人はどう説明するのかという疑問に、アンカラ政府は、「クルド人とはトルコ人なのだがトルコ人であることを忘れてしまった人々である。トルコ語を忘れた『山岳トルコ人』である」という珍説を用意した。「存在しない」はずの言葉、音楽、衣装。トルコ国内では、クルドに関するあらゆることが禁止された。「私はクルド人」と名乗るだけでも「トルコ分裂をたくらむ外国の手先」として投獄されてきたのである。建国以来70年以上にわたって行われてきたこれらの弾圧は、けっして冗談ではない。

 それでも近年、トルコ共和国政府のトーンが変わってきた。クルド人などいない、という強弁はさすがに外の世界には通用しなくなってきたのだ。代わって出てきたのは「クルド人もトルコ共和国国民である」というものだ。そしてこう続く。「トルコ共和国のもとでクルド人は幸せである。したがって、クルド人は独立・自治の必要がない」。クルド人をめぐる状況は変わってなどいない。トルコ共和国の不可分性を維持する方便が変わっただけである。かくしてクルド人、クルディスタンの実状は、顧みられることもなく、冒頭のスローガンに再びつながっていく。「トルコ共和国国民であることはなんと幸せなことだろう!」

クルド政策・欧州諸国の思惑

 「でも、やはりここ(クルディスタン)に住み続けたいですね」。クルド人の少女はこう言った。有形無形のクルド人への圧迫、トルコ軍や憲兵、警察の圧倒的な存在。やはりアメリカや欧州の方が自由なのでは、と何人かのクルド人青年たちととあるアパートの一室で話したときのことだ。

 欧米へ亡命するクルド人は実に多い。それがまたトルコ側に「欧米と結びつくクルド人」の念を強めさせる。だが、実際「クルド問題」に関して、かつてクルディスタン分割に一役買った欧州の歯切れは悪い。同情を示して亡命は認めるものの、独立・自治要求運動には概して冷淡だ。欧州はトルコから多くの移民労働者を受け入れているが、文化の違いや社会でのあつれきなど、各国で大きな問題となっている。それとともに悩まされるのが欧州各国に「持ち込まれてくる」クルド問題である。「トルコ人」としてやってくる移民労働者には当然クルド人も含まれており、必然的にトルコでの紛争が持ち込まれることになる。これ以上関わりたくない、というのが欧州各国政府の正直なところだろう。またイスラム主流国とはいえ、反共、親欧米路線を貫くトルコ共和国は中東における重要なパートナーでもある。クルディスタンの独立・自治を承認することでトルコを追い込むことは、欧州にとっても得策ではないのだ。

米国の中東戦略とクルド

 米国の、クルド問題への対応はさらに矛盾している。移民労働者問題はないものの、基本的に態度は欧州と一致している。だが、トルコ・クルド人が憤慨するのはそのダブル・スタンダード(二枚舌政策)である。

 現在イラクのサダム・フセイン政権と対峙している米国は、イラクのクルド人組織に大幅なテコ入れを行っている。当のイラク・クルド人にしてみればそれとて不十分なのだが、対フセイン・カードとして利用されながらも、援助を受けることができている。その一方、米国がイラク空爆に利用している基地はトルコ領内にある。したがって米国は、トルコのクルド人政策については何一つ言及しておらず、PKK(クルディスタン労働者党)も単にテロリスト組織として片づけてしまった。トルコ・クルド人を弾圧するトルコ軍の使用する兵器、武器の多くは米国製であり、NATO(北大西洋条約機構)のみならず米国・トルコ間の軍事交流も活発だ。米国がトルコのクルド人弾圧を容認していると受け取られても仕方がないだろう。

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 「トルコ?クズ野郎だ。サダム?殺してやりたいね。米国?偽善者め」。マルボロを吸いながらシールトのクルド人男性は吐き捨てた。米国とアメリカ文化にあこがれを示しながらも、米国に対する批判の声は、クルド人の中では根強い。

 そのクルド人少女は英語、パソコンを賢明に勉強していた。新聞の求人欄にも目を凝らす。「ここで職が見つかればいいのですが」と不安そうに言った。クルド人だけに限らず、トルコにおける失業率はすさまじいものがある。これが多くの移民労働者を生み出すもとになっているのだ。外国へ行ってみるかい?トルコより自由があるしね、と彼女の友人たちが冗談めかして言う。彼女は首を横に振る。「ここが好きだから。ここで暮らしたいから」。

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 先日のトルコ総選挙において、首相ニジェビットの民主左派(DSP)に次いで民族主義者行動党(MHP)が第二党に躍り出た。軍や政財界に深く食い込み、トルコ民族主義を強調する彼らは、クルド人への攻撃を辞さない。

 クルディスタンはますます錯綜していくように見える。

(ひだか なおき・ライター)
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集中連載・前編 中国民主化運動の黎明

五・四から六・四へ

塚田 和茂

 「五四運動」(1919年)と「六四事件」(1989年)。この二つの事件は、ともに中国で起こった学生運動であるが、この二つの運動は時代的、内容的には相違点がある。しかし、情況的な違いはあるにせよ、80年前の「五四」の精神は、10年前の学生の民主化運動にも少なからぬ影響を与えた。

「五四運動」歴史と背景

 朝日新聞によれば、今年の「五四運動」(中国では「五四」と呼ぶ)80周年は、各地で高校生・大学生が参加する盛大な祝賀行事が行われ、メディアも集中的な愛国キャンペーンを展開した。政府は連日「五四精神に学べ」というスローガンを宣伝した。

 いったい、「五四」とはどのような事件なのか、またどういう背景の下に起こったのか。

 「五四」の起こる直接の契機となったのは、日本の中国に対する干渉である。1914年にヨーロッパで第一次大戦が始まると、それまで中国での利権争いに奔走していたヨーロッパ帝国主義列強は、アジアを顧みる余裕を失った。その間に日本は中国における新たな利権を確保すべく、当時ドイツが持っていた勢力範囲をそっくり奪おうと計画した。それを中国に要求したのがいわゆる「対華二十一ヶ条要求」である。この要求は中国に大きな波紋を呼び、日貨排斥などの反日運動が巻き起こった。

 「五四」の思想的・文化的背景となったのが、雑誌『新青年』である。この雑誌は、1915年9月に上海で陳独秀主編によって創刊され、中国の青年たちに旧思想の徹底的破壊と欧米を手本とする新しい文化の創造を呼びかけ、後の「新文化運動」の中心となった。『新青年』に集まった知識人には、「文学革命」を主張した胡適、後に陳独秀と共に中国共産党を結成した李大ショウ、作家の魯迅などがいた。(彼の処女小説『狂人日記』はこの雑誌に掲載された)『新青年』に集まった知識人達は「デモクラシーとサイエンス」(民主社会の建設と科学的思考の確立)というスローガンを掲げ、徹底した儒教批判をおこなった。彼らが主張する新しい文化と思想とは、古い伝統と価値観を破壊し、人間が個人として真に自覚し自立する社会の創造を意味していた。このように、『新青年』を通して始まった新文化の創造が、当時の青年たちに巨大な思想的影響を与え、来るべき「五四」を準備する最大の要因となった。

 1919年1月、第一次大戦の戦後処理を行うためにヴェルサイユ条約が開かれた。中国はこの会議に南北両政府合同の代表団を派遣し、山東における利権返還、不平等条約撤廃、二十一ヶ条要求の無効を希望条件として、会議に提出した。しかし、この会議は始めから列強の間で密約が交わされ、その結果中国の出した要求は全く無視されて日本の主張のみがほぼ全面的に認められた。

 このニュースは5月1日になって北京に届き、民衆の間に大きな危機感が広まった。その中で真っ先に行動を起こしたのが、北京の学生たちである。彼らは5月7日に予定していたデモを繰り上げ、5月4日に天安門に集まりデモを行った。その数約3000人。一部のデモ隊は交通総長曹汝霖(二十一ヶ条交渉の中心人物)の自宅へと押しかけ、警官隊の警備を突破して邸内に侵入し、居合わせた章宗祥(同じく二十一ヶ条交渉の中心人物)を殴打して、家に火をつけた。この事件の結果、三十二人の学生が逮捕された。

「五四」がもたらしたもの

 1919年5月4日に起こった事件とはこの様なものである。「五四」における自分の身を犠牲にして民族の危機を救おうとする学生たちの姿勢は、中国の民衆に大きな衝撃を与えた。そして、北京だけでなく天津や上海などの大都市でも学生の釈放、売国奴の罷免、講和条約調印拒否の声があがった。この事件を契機として、民衆の運動は全国的なものに広がっていった。

 「五四」のもたらした意義とは何か。中国では、辛亥革命以後「五四」にいたるまで、様々なデモや運動が行われてきたが、その何れもが政府の主導や、何らかの政治的利害に基づいたもの(例えば、袁世凱による帝政復活を請願するデモなど)であった。民衆が自発的に、自分たちの意志で起ち上がったのは、「五四」が初めてである。しかも、それは学生の愛国の行動に呼応する形で始められた。これが「五四」以後の中国で普遍的な民衆運動のパターンである。すなわち、学生を含めた一般民衆が、国家と民族の危機を自らの問題として自覚し、それに抵抗するべく具体的な運動を展開していく。

 この中国の民衆運動のスタイルは、「五四」によって生み出され、大都市での労働運動を経て、後の抗日戦争を支える大きな力として発展していった。こうした傾向は10年前の「六四」でも見られた。

 そして、「五四」から70年後の1989年6月4日、天安門で悲劇が起こった。(以下、次号)

(つかだ かずしげ)
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ノンフィクション

暗殺者の肖像

〜インド・パンジャブの作られた英雄〜
多良 俊照

p199906e.jpg  ターバンに髭面の男が拳銃を握りしめ、今にも走り出そうとしている。そんな黒い肖像が、高い台座の上に置かれている。インドのパンジャブ州のパキスタン国境に近い町、アムリトサルの旧市街の入口にそれはある。外国人はほとんど彼の名前を知らない。なぜなら彼は、インド以外では暗殺者としてしか記録に名をとどめていないからだ。そしてその記録を覚えている者もほとんどいない。彼の名はウダム・シンという。

 ウダム・シンはインド独立前の人物で、インド人によるとフリーダム・ファイター(独立運動家)とされている。しかし彼自身にそんな自覚があったかどうかは疑問だ。彼は生涯にわたって放とうを続けていた。武装抵抗組織と接触したこともあったが、それによって成果を残した形跡はない。しかし彼が最後にやらかしたのは、ロンドンでの元パンジャブ知事の暗殺だった。そのおかげで彼は絞首刑になった。

 そしてまたそのおかげで、インド独立後ウダム・シンはフリーダム・ファイターに祭り上げられることになった。祭り上げたのは彼の属していたシーク教の教徒たちだった。なぜならシーク教徒は、インドの中で微妙な立場にあったからだ。

 ウダム・シンの元パンジャブ知事暗殺は、イギリス軍によるアムリトサルでのインド人大虐殺が原因だった。しかしこの大虐殺の時に、シークにはイギリス側の行動を是認する者たちがいた。その後インドとパキスタンが分離して独立することになったが、シークはインドへの帰属を決めた。だからシークは、インドの中での立場を少しでも確立するために、過去のシークの中から無理にでもフリーダム・ファイターを作り出さなければならなかった。

 またシーク教徒には軍人が多く、イギリス・インド軍に従軍していた。彼らのいくらかは、日本軍とスバース・チャンドラ・ボースのもと、インド国民軍の士卒となって独立のために戦った。しかし日本は敗れ、独立を成し遂げた勢力はボースがたもとを分かったインド国民会議派だった。それゆえインド国民軍に参加した者は、独立後は政治からは遠ざけられた。シークはそれ以外から英雄を作り出さねばならなかった。

 だから、ウダム・シンなのだった。

 こうして、独立のための目立った活動といえば復しゅうのためにイギリス人を殺したことしかない者がシークの英雄となった。

 悪らつな統治を行い、虐殺を肯定した元パンジャブ知事を、20年後にウダム・シンが暗殺しに行く場面の肖像を、シークは作った。

 しかしその姿は正確とは言えない。ウダム・シンが復しゅうに赴くそのとき、彼はシークの特徴であるターバンを巻かず、髪を短くして髭も剃ってしまっていた。彼は放とうの人生のすえに、シークとしての見かけなどにはこだわらなくなってしまっていたのだ。

 だが、それでは困る。彼がシークであることは一見してはっきりと分からねばならない。ウダム・シンの肖像はこうして、中身だけでなく外見までも作られたものとなった。

 今ではシークならば誰もがウダム・シンのことを知っている。もし外国人が「あれは誰だい?」と聞きさえすれば、彼のことをとうとうと語ってくれるだろう。しかしその話の中では、「シークの英雄としてのウダム・シン」は見いだせるかもしれないが、本当の彼のことはまず分からない。

 おそらく世界中どこでも英雄というのはそういったものなのかもしれない。もっとも、復しゅうだけが後に残したもの、という英雄も珍しい。その肖像が立ち、またそれが今まさに復しゅうに向かうという姿であることは、シークの性格を暗示するものなのだろうか。

 インドの元首相インディラ・ガンディーを暗殺したのもシークであり、彼も「これは復しゅうだ」と言った。原因は、シーク教徒の地位をめぐっての争いのすえに、インディラ・ガンディーが軍をシークの総本山に突入させたためだ。まさか、インディラ・ガンディーの暗殺者の肖像がまつられることはないと思う。しかし、パンジャブにはパキスタンの支援を受けてシーク教徒の独立国創設をめざすカーリスタン運動を続けるものがまだ残っており、またシーク内での権力争いも起こっている。一般に「血の気が多い」といわれるシーク教徒だが、争いの収まる日はいつか来るのだろうか。

(たら としてる・フリーライター)
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スポットライト

揺れる在日コリアン社会

〜韓国人ニューカマーとオールドカマー〜
高 ヒョンミ

興業目的で来日するニューカマー

 韓国人ニューカマーの特徴は、単なる金銭取得のための一定期間の単純就労ではなく、日本と韓国をタイアップさせた「興業」を目的として来日していることだ。興業とは、韓国人に顕著な野心である。たとえ「1人社長兼社員」であっても、日本で一国一城の主になる、ということだ。アメリカンドリームよりももっと近距離で実現できそうなジャパニーズドリームともいえる。彼らの多くが貿易会社を設立したがっている。大概、まずはポッタリ(ハンドキャリー)などの密輸や日本の輸入業社の商品横流しなどからはじまり、やがて韓国人ニューカマー業社間での自転車操業の手助けや在庫の貸借へと拡大する。その中でも、日本企業と信用関係を築き生き残ることができた会社のみが、日韓を結ぶ貿易会社、商社となれる。成功した例はけっして多くない。そこまで成りあがるには経験や協力者、運にも左右される。日本に来るほとんどのニューカマーは、韓国人の知人・在日の縁故を頼って、資金ゼロからスタートする。しかし、やっと軌道にのっても、彼らの習性ともいうべき短期での事業拡大欲による頓挫、失敗も数多い。彼らの会社や店が倒産、閉店するのは3カ月め、6カ月め、一年め、三年めと、サイクルはかなり早い。

 彼らを刹那的な行動、欲求にかりたてるのは、日本においてニューカマーが失うものはない、失敗したら帰国すればよいという、逃げ道が用意された考え方である。韓国と日本は飛行機で約2時間。日帰りも可能であるし、日本語も英語と比べて韓国人にはなじみやすい。日本と韓国の技術水準の同等化、韓国側の人件費・工賃の安さを利用した輸出ビジネスへの期待、こういったことからも、近くて便利な日本での興業を目論む韓国人ニューカマーは増加中だ。

 また、そんな彼らのビジネスを支援する者たちもいる。在日韓国・朝鮮人、日本人配偶者をもち合法的な滞在資格を持った韓国人、韓国人相手専門の日本人ブローカーなどである。こういった協力者たちは、日本でのあらゆる契約に関し名義を貸し与えたり、ニューカマーだと法律上、日本語能力上の理由で難しい部分を、ビジネス業務代理者としてサポートする。

安易な支援がアダになるケースも

 一方、この日本に存在する支援者とニューカマーたちをめぐるトラブルも少なくはない。

 土地建物の賃借に関するトラブルではこんな例がある。合法的な滞在資格を持った韓国人ニューカマーが、土地の持ち主は日本人、建物の持ち主は在日韓国人という物件の賃貸契約を結んだ。やがて月々の家賃の支払いが苦しいので、同じような興業をこころざす仲間を住まわせて家賃の負担を分担するようになった。やがて、成功した者は独立していった。だが、最後まで残ったその興業者は相変わらず経営が苦しかったので、一部の部屋を不法就労者に宿舎として又貸しした。数名の不法就労者はそこでまた新たな事業を始め、倒産。彼らは家賃、水光熱費を未払いのまま失踪した。ことの詳細を知った土地の持ち主である日本人は、又貸しは契約違反であるとして建物の持ち主、借り主を相手取って訴えた。現在も立ち退きをめぐって裁判中である。日本の不動産屋は、外国人になかなか物件を斡旋しないばかりか、あれこれと保証を要求する。この例は、それを気の毒に思って韓国人同胞にブローカーを通じて建物を又貸しした在日韓国人の安易な善意がアダになったケースともいえる。

 こういったニューカマーがらみのトラブルは、建物・物件の又貸し、銀行口座の貸与、業務上の書類の請負い作成、偽造などに見られる。金銭上のトラブルはもちろんのこと、日本人を含む取引上の関係者の責任問題に発展することもよくある。

揺れる在日社会

 ニューカマーに対しむしろ無関心、排他的なオールドカマーの在日団体の存在も指摘したい。

 すっかり日本人社会と共存している在日の人々の中には、ニューカマーは韓国式の義理や儒教的習慣をもちこんで、日本で自分たちが代々築いてきたものを脅かすかもしれない、理解しがたい存在であるととらえている人もいる。つまり、儒教社会・韓国における友人・知人・親戚間の「仁義的つきあい」、金銭貸借に関する独自の(日本人からみれば手前勝手ともとれる)解釈など、「オリジナル韓国式」そのものをもはや理解できない在日も多いということだ。在日2世や3世にとってみれば、ニューカマーは外国人なのだ。見方によっては、ニューカマーはいわるゆる1世ともいえる。だが彼らは、歴史的な経緯で日本に在住するオールドカマ−の在日とは異なり、自らの自由意志によってやってきた。ここが、旧1世と現在のニューカマー1世との違いだ。

 そこで今後、旧1世、2世、3世、4世に対してニューカマーの新1世、2世、3世といったものが生まれてくれば、両者の間で、団体に参加する際の条件や排除など、様々な問題が出てくるだろう。在日の組織・体制は、ニューカマーたちによって混沌の時期を迎えようとしている。

(こう ひょんみ・フリーライター)
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編集後記

▼今月から奥付にも案内したように、 「AWC関西」がたちあがった! 京都から何度もAWCの定例会に足を運んでくれた元気のいい瀬崎真知子さんが連絡先だ。他にもクルドの原稿を書いてくれた日高直樹氏、ROJINの連載記事「ナガランドへの道」でもお馴染みの多良俊照氏も参加となった▼日頃から関西からの連絡は多く、関西出身者も多いAWCスタッフ共々大喜び。今後月1回くらいのペースで集まり、AWC通信の配布や編集会議や関西での取材などをやるそうだ。関西在住関係者はぜひ連絡されたし!(八尾)

▼活動の輪は広がる。が、加わる人がいれば、去る人もいる。運営の内情は今も火の車。ネズミの手でも借りたい状況です▼豊田さんが危険地帯から無事帰国されました。定例会も予定通りで感謝感謝▼ホームページに掲示板ができました。ご意見、ご批判など、どうぞお気軽にお寄せください。AWCのホームページもますます充実しています。ぜひ一度(だけと言わず)お立ち寄りを!(南風島)

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月刊AWC通信1999年6月号(通巻第9号)
1999年5月22日発行
編集人 南風島 渉/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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