『AWC通信』1999年5月号(第8号)


目次


第20回定例会報告(1999年3月27日)

ナガランド現状報告

フォトジャーナリスト 南風島 渉(はえじま わたる)さん
フリーライター 多良 俊照(たら としてる)さん

植民地支配が産んだナガランド問題

多良:まず、私の方から、ナガランドの歴史について話します。

 ナガランドの位置はインドの北東部、インドとビルマの間にあります。イギリスが19世紀に世界中あちこちを植民地化していったんですが、19世紀後半にはインドから、さらに東側のビルマまで植民地化しました。ところが、インドとビルマの間の山ばかりのところに住んでいたナガは首狩り族で、他の部族と戦闘して、首を狩ってきて飾っておくという変わった風習を持っていたんです。それをイギリス人が野蛮な風習だと思ったらしく、接触しないでおこうということで線引きして放っておいたまま、インド、ビルマを植民地化した。

 その後、イギリスも植民地経営をやめていくわけですが、ナガランドはずっと放っておかれて、ちゃんと後処理せずに引き揚げてしまうわけです。その結果、インドとビルマで分けてしまって、ナガはインドとビルマに帰属してしまうことになってしまったんです。ナガとしてはインドとビルマには降伏した覚えはないといって、1947年8月15日にインドが独立するその前日の、8月14日にナガランドとして独立宣言をしています。しかし、どこの国にも承認されないで現在に至っています。

 独立宣言後、1950年代後半ぐらいから、インド政府はナガランドが独立を主張しているのを抑えるため、インド軍を送って、村を焼いたりとか、かなりの弾圧をしていたらしいです。武力的にかなりの差があったんですが、ナガ人が屈しないので、インド側も考え直して、州政府として認めるからどうだという話になって、ナガランド側でも一部で応じて、ナガランド州ということになった。このナガランド州以外に住んでいるナガ人もいます。

 そうした流れの中、分裂が起きて、独立運動を続ける人がいて、その抵抗組織の名前がNNC、ナガ・ナショナル・カウンシル、訳すとナガ民族評議会、それがこのあとも抵抗運動を続けていくことになります。外国でナガランドを支持する国はあまりいなかったんですけれども、一時期、中国、パキスタンが、敵の敵は味方だということで支援していたんです。しかし、武力の差はどうにもならなくて、今度は1975年、NNCの一部がシロン協定という和平協定を結んだんですけれども、まだ抵抗を続けるという人たちがやはり残って、NSCN、ナショナル・ソシアリスト・カウンシル・オブ・ナガランドという組織を作って、そこが今の独立運動のメインになっています。これは訳すとナガランド民族社会主義評議会。そこが1980年代から活躍します。最近1997年に彼らも、インド政府と停戦協定を結んで和平交渉をしていますけれども、その停戦後の条件をめぐって、2年近く交渉が進まず現在に至っているという状況です。

隠され続けたナガの現状

南風島:今、多良さんから、歴史を一通り説明してもらったんですが、基本的には、植民地支配とそこからの国境線の引き方の問題ですね。

 で、具体的にインドに支配されたナガの人々の状況なんですが、まず、ずっと隠され続けているという状況があります。ようやく独立が現実的になっている東ティモールの問題でも1975年ぐらいからで、長い長いと言われて24年ですが、こちらのナガランドは実に50年以上、独立宣言が1947年で、そこからでも52年にもなるのに、いまだに基本的には外国人は立ち入れない、世界に報道されていない。これまで学術調査団、宗教関係者などが入ったということはあるにしても、現在でも、外国人は観光客はダメで、ルール上は制限地域入域許可を取れば入れることになっているんですが、多良さんも何回か挑戦したそうなんですが、現実的には全く出ない許可証だそうで、報道が行われない状況が続いている。インド人も入れない?

多良:はい、インド人もナガランド州政府からの許可がないと入れない。

南風島:そういう政策上、山奥に隔離された状況で、52年間全く彼らの声が外に出てこない。また、紛争地にジャーナリストが潜入する場合、だいたい欧米人が主導して報道する場合が多いんですが、ナガの場合、周辺の州も外国人が入っちゃいけない場合が多くて、ここを目立つ欧米人が歩いていると、直ちに強制退去になって、取材するのは全く難しい。逆に、行ってみて分かったんですが、ナガ人は顔が日本人と同じなので、髪の毛を切って、現地っぽい格好をして歩いていれば、インド人には見分けがつかない。つまり、これまでも日本人なら取材しようと思えばできたはずなんですが、今回のNSCNの従軍取材が、密着型の現地取材としては世界初。そういう意味では、これは日本人が率先して報道してこなくてはいけなかったんではないかと、日本人ジャーナリストとして残念だし恥ずかしい。

弾圧されるナガ

 この隔離という状況で、何が為されてきたかというと、ジャングル・ベビーともいうべき人たちがたくさんいる。1954年ぐらいから始まったインド軍の軍事侵攻で、最初は村をひたすら焼き払って抵抗組織を抑えつけて行くんですが、その時代に生まれた人の生まれ故郷は、多くが村じゃなくてジャングルなんですね。つまり、家も何もない山の中で生まれた人たちです。また、1958年ぐらいからArmed Forces Special Powers Low、治安を維持する、武装したインド軍なり警察なりに特別な権限を与える法律ですね、これがナガランド州、その以外の州にも適用されていく。政府に抵抗する人間、抵抗するとおぼしき人間や施設を、軍隊・警察が徹底的に弾圧したり排除することを合法的に認めるという法律です。これは1982年から、インドの最高裁判所で違憲性が審議されているんですが、結論が出ないまま軍隊が好き勝手にやっているという状況です。インドが軍事侵攻してから弾圧で亡くなったナガランドの人の数は、ナガランド側で20万とか25万という数字が出ているんですが、例えば、現地で最近出てきたナガランド人の死体の写真を見せてもらって、今は停戦状態なんですが、不自然なかたちでナガ人の命が失われていっている。その実態はなかなか見えてこない。ただ、次々と殺されていっているという気持ちの悪い事態が続いています。そして、若者たちに広がる麻薬の問題。これをインド政府が戦略的にやっているとナガランド側は主張しています。隣のビルマから麻薬がものすごい勢いで流れ込んでいるんですが、インド政府、軍がリードして持ち込む麻薬が、ナガランドにもずいぶん落ちているというわけです。体を蝕まれるだけでなく、麻薬をめぐって、インド軍に協力してしまったり、住民から金をだまし取ったり、殺したり殺されたりということが起こってきている。今、ナガランドの9割以上がプロテスタント系のキリスト教徒なので、余計に許せない問題だろうと思うんですが、今、ディマプルだけで10カ所以上リハビリセンターがある。推測ですが、50年以上戦って全然未来が見えないという若者が麻薬に走るのかなあと思います。一方でゲリラは麻薬を根絶しようと躍起になっている。道端でトラックなどを検問して、麻薬を押収するという活動を続けている。

 あと、インド政府はヒンドゥー化を進めているとナガ側は主張しています。教会関係者からも、ヒンドゥー化が進んでいるという話を聞きました。今政権をとっているBJPは、政府としては政策化していないんですけれども、思想的にはヒンドゥー文化を非常に重視する政党で、ワンカルチャー・ワンネーション・ワンレリジョン(一文化・一国家・一宗教)っていうような幻想を持っているんですね。文化、教育、言語、宗教など、現実的にそういう圧力は続いている。もう少し違う部分では、ナガランドへの移民の問題ですね。数十万とか大変な数が流れ込んでいる。ナガランドと彼らが呼んでいるエリア、これはナガランド州以外にもビルマや他州の一部を含む地域ですが、だいたい300万人住んでいるといわれている。そこにインド、バングラデシュなどから数十万人の移民が入ってきている。

 それから、ナガ人の草の根的な抵抗運動で選挙のボイコットというやり方がある。彼らは武装闘争ばかりやっているわけではなくて、インドの中央政府、あるいは州政府の選挙に対して、私たちはナガランド人であってインド人ではない、インドの選挙には参加しないとして、投票のボイコットを1952年ごろから何度も続けています。最近では1998年2月の選挙でも、非常に多くの人たちがこうしたボイコットで政治的なアピールを続けています。これに対するインド側の対策として、ちょうど選挙のころに、インド人が20万30万単位でナガランド州へどっと入ってきて、彼らにも選挙権があって、ナガランド州の住人として投票する。それでナガランド人がボイコットしているのを隠してしまうということが現実的に行われています。

武装抵抗運動の現状

 ここで、話が戻るんですけれども、1947年から連綿と続く抵抗運動のターニングポイントになっているのが、シロン合意というものなんですが、現在では、NNCとシロン合意に反対したNSCN、1988年にはNSCNもまたふたつに割れてしまい結局大きく分けて三つの抵抗組織があって、互いに自分たちがナガの権利を主張すべき母体であることを訴えている。これが、ナガの一般市民にとって非常に悲劇的なことだと思うんですが、時にはお互いに銃口を向けあって、ナガ人同士で戦闘をするといった状況が続いています。

 今回私たちが取材したのはNSCNのイサク・ムイヴァ派で、1カ月ほど従軍して、彼らと一緒に生活したり、行動したりしてきました。彼らに聞いた話というのは、必ずしもそれが真実だという保障はなくて、プロパガンダやブラフが当然含まれているとは思いますが、それを検証する材料は今のところなく、その点を割り引いていただければと思います。ただ、恐らくひとつ言えることは、今ナガランドで最も活発なのがNSCNイサク・ムイヴァ派で、それはインド政府が和平交渉の相手に同派を選んでいることからも推測できます。

 それで、まず実際に現地に行ってみて驚いたことは、彼らが非常に規律正しい強力なゲリラだったということです。例えば軍事拠点にしても、山の中の平たい土地にけっこうな数の建物が建っている。ゲリラキャンプというよりベース、軍事基地なんです。彼らは自分たちでも、確かにゲリラ戦をやっているんだけれども、自分たちは正規軍、ナガランド軍なんだというんですが、なるほどと思えるほどの体裁が整っていることが印象的でした。

 彼らの組織なんですが、NSCNというのは政党なんですが、彼らが主導する形でナガランド人民共和国が提唱されている。そのナガランド人民共和国の大統領、首相、副大統領をNSCNの議長とか事務総長が兼任しています。彼らの兵力がナガ・アーミーで、基本的に一党独裁の国家をすでに形として彼らは作ってしまっている。田舎の村に行くと「ここが◯◯村である」という石碑がナガランド人民共和国政府の名で立っていたりします。共和国の大統領はイサク・チシスーという人で、首相がムイヴァ首相、他に国務大臣など20数名の閣僚がいて、ときどきヘッド・クォーターでタタール・ホホという彼らでいう国会をやっています。

 戦力についてですが、停戦中の今、約5〜6千人の兵力がいると言っています。最盛時の3〜4万人から比べて8分の1にまで減っている。インドとの戦闘は減っていますが、今は1988年にたもとを分かったNSCNカプラン派と戦闘を続けています。その領域の中にはインド軍は武装警察なども含めて30〜40万人いるという話です。ナガの人たちから見るととんでもない数字です。ただ、地形的に恐らくゲリラ戦に有利な地形だと思います。また、停戦中ですが、今一つ彼らはインドを信用し切れていないので、武器などの購入・搬入は続けているそうです。

 兵士たちを見ていて、私が目を引かれたのは、女性が非常に多い。彼らの説明によると、社会を建設する上で男も女も同等の役割を担うという考えが浸透しているのだそうです。男性よりも上のランクの女性兵士もいますが、戦闘時は女性は前線に立たせないようにしているようです。ただ、階級上は差別はなしです。また、彼らと生活して非常に驚いたことは、モラルが高いことです。基本的に彼らは志願制のボランティアで、着るものや食べるものなど最低限のものしか支給されないし、なりたい人がなる、やめたければやめていい。そういう状況で彼らは、酒もタバコも一切やらない。酒は州自体が酒を飲んではいけなくて、民間人も飲みませんが。また、未婚の兵士、政府関係者も多いんですが、結婚していないのに性交渉を持つことも厳格に禁じられている。

 また、ナガランド人民共和国政府は麻薬の蔓延を憂慮して、ドラッグ狩り、アルコール狩りをしていますが、押収したドラッグは広場の真ん中に持っていって、一般民衆が見ている前で燃やすんですね。ガンジャという麻薬など年間6〜7t、もし売ればものすごい金額になるんですが、それを毎月燃やして啓蒙運動をしているわけです。そして、年間6億円近い予算はナガの一般市民からの税金やインド側から獲得してくる。

 また、インド国内には分離独立の動きが数多くあって、テロをやるグループもありますが、ナガはテロをやらないというのが大前提になっています。彼らのクリスチャンとしての精神や闘い方の問題だと思うんですが、インド側の州政府も「ナガランドにはテロはない」と認めていて、どうも確かなようです。

和平交渉と国際社会

 停戦交渉についてですが、現在のものは1997年8月1日に始まり、進展がなければ今年の7月31日に切れるものです。すでに、1964年以来これまで、何回も和平交渉が挫折している現実があります。ナガ側から見ると、首相級と話しているとかなり前向きなんですが、いい感じかなというところで、首相が殺されたり、交渉の途中で他の政治家や官僚から横やりが入るというのが今までの経過のようです。

 また、近年のインド政権が基盤が弱く短命なことも問題のようです。現在の交渉でも、インドのバジパイ首相から個人的には「ナガランド問題は政治的問題で、軍事力では解決できない」といった発言も引き出してはいるんですが、彼自身の政治的な足腰が弱いことで、強力なイニシアチブが発揮できず、なかなか和平に向かって進まないネックになっているとナガ側は分析しています。ただ、50年たって、ナガランド問題が軍事的問題や治安問題ではなく、政治的問題、もう一つ言えば国際問題であることはインド側も気が付いてきている、それは和平交渉を第三国で行うという条件をインドがのんでいることからもうかがえます。

 国際社会の対応ということで言えば、東ティモール問題では、国連の人権委員会や総会決議などで何度も取り上げられましたが、ナガランドに関しては全くと言っていいほど為されていません。国連の先住民に関する委員会などで参考として招致したことが何度かあったようですが、インドに関する非難決議とか人権を遵守する勧告などは、今まで調べたところでは一切されていないようです、50年間。

 最後に、彼らが独立してやっていけるのかどうかということですが、森林資源、観光資源は豊富で、石油などの地下資源もあるらしい。だから経済的には長い目で見ればやっていけるというのが彼らの主張です。政治体制についてですが、取材していて一番引っかかるのが彼らの唱える社会主義についてなんですが、インドの支配を受ける前の部族社会に根ざした社会主義的な社会を帰るべき社会として彼らは考えているようです。その前提として、クリスチャンとしての神の正義を置いていますし、民主主義という言葉も採り入れている。しかし、将来そこに排他性が出てくる可能性もあるのかなあと思います。経済的にはガチガチの社会主義はとらない、混合経済で資本主義のいいところも採り入れていくそうです。現実的にどうするこうするという話は詳しくは聞けませんでした。当分の間、国家が固まるまでは複数政党制は導入せず単一の社会主義政党で国家を引っ張っていくんだとというところも、独立後具体的にどうなるか、いまひとつはっきりとはしません。

(永塚 正男・フリーエディター)

 その後、3月24〜27日に、オランダ・アムステルダムでインドとナガの和平交渉が持たれたが、4月17日にはインド・バジパイ首相の退陣が決まり、7月31日の停戦期限切れを目前にして和平交渉の行方が危ぶまれている。(編集部)

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ルポルタージュ

平穏と暗澹に揺れる島

〜住民投票を待つ東ティモール〜
早川 文象

 今年1月、オーストラリアが東ティモール問題に対する態度を変えた。住民に自決権を与えたうえで独立か併合かを問うべきだと、インドネシアに働きかけると表明したのだ。これを機に、東ティモールの独立がにわかに現実味を帯びてきた。

 1975年11月、宗主国ポルトガルからの独立を果たしたかに見えた東ティモールだったが、12月にインドネシアが武力侵攻を開始。1月の時点で4万人が上陸していたといわれるインドネシア兵力の前に東ティモール民族解放軍(ファリンテル)は山岳部へと追いやられ、ゲリラ戦以外の道を閉ざされた。スハルトは、東ティモールの自決権を認め即時撤兵を求める国連決議を無視し、占領した東ティモールを27番目の州とする。以来、東ティモールを覆う闇は20年あまりにわたって続く。

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東ティモールの意外な印象

 現地を知らない私が今まで抱いていた東ティモールのイメージは、軍の監視におびえながら、無言で街を行き交う住民、旅行者が路上で写真を撮ることもままならないほどの情報規制、東ティモール人が、インドネシア人と厳然と区別され、差別的な生活をおくる地域といったものだった。メディアによる取材が今までほとんどなかったのも、そういった理由から制限されているからなのだろうと想像していた。

 しかし、今回私が実際に見た東ティモールは(首都ディリに限っては)状況が違っていた。意外な印象さえ受けた。

 西ティモールのクーパンからバスに乗り、約6時間で国境の町、アタンブアに着く。検問では荷物を調べられたり、東ティモール人は特に厳しくチェックされると聞いていたのだが、そういったこともなく、簡単に通過できた。そして、首都のディリ。そこには街角で住民の監視に目を光らせているという兵士の姿はなく、平和な(私の目にはそう映った)、一見アジアのどこかの田舎町にありそうな雰囲気が漂っていた。

 路上でカメラを構えると、それに気付いた子どもたちは喜んで集まってくる。オレを撮ってくれよ、と声をかけてくる大人も珍しくはなかった。日中の暑さが和らぎ、心地よい風が吹き始める薄暮時、ディリ郊外の宿に引き上げる途中の路地で、大勢の子どもたちがはしゃぎながら通り過ぎていった。夕闇の中をそぞろ歩く人たち、暖色灯のともる小さな雑貨店で買い物をする小さな姉妹。

ハビビ効果とスハルトの亡霊

 「これはいったいどういうことか」。正直なところ、私はこの開放的で落ちついた情景に、ある種の戸惑いを感じざるを得なかった。軍による抑圧、虐殺、横暴、そういった暗い影をディリで見かけた人々の表情からは読みとることができなかったからである。これが、独立容認までも打ち出したハビビ政権の影響なのか。スハルトからハビビに変わったことの結果なのだろうか。

 しかし、だからといって東ティモール全体がそうであるとは決して言えたことではないだろう。むしろ、私が見た時期のディリの状況が特別だったのかもしれない。「何週間か前まで大きなデモがたくさんあった」とか「落ちついているのはここだけで、山の方の村へ行けば危険だ」などという話も聞いた。

 段階的に撤退しているはずの国軍は、依然として2万人が駐留しているというし、私の帰国後も、軍の発砲事件や、軍に操られた統合派の武装グループによる殺害事件などが立て続けに伝えられているのである。

 ディリの落ちつきと、地方の殺伐。もし、ディリの状況をハビビの結果と捉えるなら、暗澹(あんたん)たる地方はスハルトの亡霊によるものか。独立派を封じ込めようとする動きが根強く残っているということか。

 独立派は、住民による直接投票になれば東ティモール人は独立を選ぶと主張する。一方で、軍に金をつかまされ武器を与えられて同胞を殺害しているのも東ティモール人なのである。ノーベル平和賞のベロ司教は、住民投票の前に民兵の武装解除をしなければ内戦になると言った。平和的な決着のために国連軍の派遣を求める声もある。7月にも実施されると言われる住民投票だが、その前にある難題はあまりにも大きい。

(はやかわ ぶんぞう・フォトジャーナリスト)
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インタビュー

アジアの子ども買春問題

〜シェイ・カレン神父に聞く〜
出口 綾子

 フィリピンの米軍基地があったオロンガポ市に、買春された子どもたちのための施設、プレダがある。1974年からプレダを運営し、フィリピンの子ども買春問題に取り組んでいるシェイ・カレン神父(56)がこの4月に来日。問題についてお話をうかがった。

子どもの人権にうとい日本

 「彼は私に...悪いことをした。彼がしたことを思い出すと...」。少女はしゃがれ声で泣き崩れ、言葉が続かない。学校には行きたくない、何もしたくないという12才の彼女は、63才のオーストラリア人ペドファイル(子ども性的虐待者)に暴行された。4月4日に開かれたカレン神父の講演会(於:せたがや女性センター)は、フィリピンでの衝撃的な映像で始まった。

 タイ、フィリピン、インド、スリランカなどアジア各地で、多くの少年、少女が買春されている。加害者の中には日本人も多く含まれている。子どもなどが強制的に売春させられた場合は、買う方に罪があるという意味でとくに「買春(かいしゅん)」と呼んでいる。カレン神父は、被害を受けた子どもに代わって、またはその子どもと一緒に加害者を起訴し裁判に臨んできた。幼少のときに受けた暴力はその人の中に残り、人格形成に多大な悪影響を及ぼす。それがいずれ社会の暴力へとつながる。それだけにこの問題は深刻だ。

 現在のフィリピンの法律では、縁者以外の10才以下の子どもと一緒にいただけでも処罰される。また、12才以下の子どもを買春した場合の最も重い刑は死刑である。しかし犯罪者の凶暴性が増すおそれがあるとして、カレン神父は死刑に反対の立場をとっている。

 日本では昨年から継続審議となっていた「児童買春、児童ポルノ禁止法案」がようやく今国会で成立する見通しである。これまで欧米諸国やアジアの国々に比べてこれら犯罪者への法は甘く、また児童ポルノの世界最大の製造、販売、輸出国である日本は、子ども買春や人権に対する意識が低いと国際的に見られてきた。法が制定されても実際にそれをうまく運用させていくのは難しいとして「今後も、このような重要な法律が日本にあることを人々に広めていく必要がある」とカレン神父は言う。この問題を手がけてきた津田玄児弁護士は「日本ではわいせつの定義をめぐる議論が中心だが、子どもの人権を守り犠牲者の回復に務めるという方向に向かわなければならない」と述べた。

 カレン神父は、女性や子どもへの暴力の原因となるフィリピンの米軍基地撤退運動にも関わってきた。法改正や基地撤退運動など、危険に身をさらしながらも政府や犯罪者に対する直接的な行動をしてきた。

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フィリピンの社会悪と戦う神父

 「プレダには現在HIV感染者はいないが、ナイトクラブの多い地区なので感染者が出るのは時間の問題だろう」。修道院を訪ねた私にカレン神父はそう言った。フィリピンはカトリックの国ということもあり、売買春は非合法である。多くのフィリピン人は、とくに女性や年少者を保護の対象とみている。しかし、一部の政治家やビジネスマンはナイトクラブと密接な関係にあり、警察に賄賂を払って処罰を免れるなど、買春は一部の男性の需要によって生み出されている。

 カレン神父は28才のときにカルカッタの「死を待つ人の家」を訪問した。そこでの強烈な経験をもとに設立されたプレダは、ただ被害者を受け入れるだけではなく、子どもたちのケア、リハビリをするのが役目となっている。「貧困こそが社会悪であり、そこからの解放という目的なら、政治家も神父も同じだ」。罪からの解放ではなく、貧困からの解放がメインミッションだとカレン神父は認識している。「キリストはすべての社会構造を変革するために生まれた」と言う神父は、社会悪のある所ではカトリック者が社会革命を実践すべきであるという『解放の神学』の支持者である。

世界はゆっくりとしかし確実に良くなっている

 最近になって再び米軍がフィリピン駐留を要求している。カレン神父はこれを阻止し、子ども買春のような恐ろしい危機について国際社会へ忠告していく計画だ。今後10年のビジョンは、国際司法裁判所ですべての加害者を裁けるようにすることだ。この恐ろしい暴力を世界に知らしめて国際的に女性と子どもの人権を確立させること、それが将来の夢だと語った。ある国で変化が起きれば、それが周辺の国にも影響を及ぼす。こうして愛の力が暴力に勝っていくだろう、とも言う。遅ればせながら動き始めた日本で、今後どこまで子どもの人権を守っていけるかは我々自身にかかっている。日本も含め世界中の危機的状態に目を向け、わいせつ論ではなく、子どもの人権を守るという視点からの買春防止法を作っていくこと、被害者の回復のための具体的な行動計画を作っていくことが当面の課題になりそうだ。

(でぐち あやこ・エディター)
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スポットライト

韓国ペクス連合と交流して

〜「だめ連」から見た韓国〜
小倉 虫太郎

「だめ連」と韓国の「白い手」

 ぼくは、だめ連というグループの運動に参加している。だめ連は、失業状態、モテナイ状態、トジコモリ状態など、自分の「だめ」さを認め、肯定しつつ、その「だめ」をこじらせないように社会の責任にしていくという運動を提唱している。そうこうしている中で、ある韓国人文人類学者(チョウ・ヘジョンさん)から、韓国にも似たような組織「韓国ペクス連合」があると聞き、ぼくたちは色めき立ったのである。どうにか、彼/彼女たちと交流してみたいものだと思っていたら、現代思想という雑誌と、上野俊哉さんという社会学者の人が旅費を出してくれることになり、ペクス連合の朱徳漢(ジュ・ドックハン)さんが1998年11月14日から11月26日まで、おもに僕の自宅に逗留(とうりゅう)しながら、東京のだめ連その他の諸グループと交流することになった。

 ペクスを直訳すると「白い手」という意味だが、これはいわゆる「両班」という貴族階級の中の落ちこぼれ組を揶揄(やゆ)するような意味があり、また、植民地時代には権力の中心から外れた場所に居続ける、そのような消極的抵抗をした文人などを意味するらしい。つまり、韓国ペクス連合の人たちは、自分たちの立場を歴史的に位置付けようとしているわけだ。

韓国の厳しい現状とペクス連合の活動

 さて、朱さんが言うには、現在韓国ではIMF体制下においてレイオフの嵐が吹き荒れ、若者の失業者が増大(1998年1月の時点で8.5%)している。そんな中、若者同士が自身の失業状態を精神的にケアしあったり、雇用(ハウスキーパーなど)を創出するなどの運動体としてペクス連合が機能しているのだそうだ。ペクス連合は、だめ連と違い、朱さんのように昨日まで会社でばりばり働いていた人まで失業しているということもあって、また学生運動や労働運動の経験が多く、組織を作るノウハウがしっかりしている。ペクス連合では、参加者のリストをちゃんとファイルし、地方都市にも支部を作り、その間をコンピューター通信でやり取りし、またソウル市当局ともユースセンター立ち上げをにらんで提携関係にある。

 ぼくたちにとって実に学ぶべき点が多かったのだが、だめ連がそのようにできるとはとても思えない(トホホ)。だめ連としては、自分たちのようなグループが、あちらこちらから出てくることを願うだけで今のところ精いっぱいだ(トホホ)しかし、ペクス連合の主な活動としては、安くパーティや映画会を開いて、マッタリとトークしたり、またみんなでいかにお金を使わないで暮らせるか知恵を出し合ったりと、こういう部分ではダメ連の活動スタイルとほとんど同じだった。

「働いていなくてもOK」

 さらに、ペクス連合立ち上げのダイナミクスの中では、やはり以前の1980年代の学生運動、労働運動の経験の継承と、またそれからの切断というものがあるように感じた。朱さんは、学生運動の経験があるのだが、ペクス連合が他の労働組合と違うのは、失業状態をネガティブなものとだけ考えるのではなく、肯定的に考えていこうとするものであるというところであり、そこでは、かなりだめ連に近いと思われた。このことは、また東京において野宿労働者を支援するグループとの交流でも論点になった。朱さんは、長い目で見れば、「職をよこせ」という運動よりも「働いていなくてもOK」という思想の方が有効である、と主張したが、当然その考えに組みしない人も多いし、ぼく自身は「職よこせ」という運動がまだまだ有効な場面もあるとは思っている。でも、確実に世の中は変わりつつある。この前、野宿労働者問題の活動をやっている人に聞いたのだが、ある日ある若者が、都の宿泊施設に来てウロウロしていたのだそうだ。てっきりその活動家はその若者を若手のボランティアなのだと思っていたのだそうだが、実は当事者(野宿労働者)だったのである。

 朱さんとほとんど10日あまり、東京新聞や現代思想、インパクションなどの取材をはさみながら、交流三昧(ざんまい)の生活を続けたわけだが、ぼく自身は物事にかかわる感性の部分で、どんどんお互いの近さが分かっていったような感じがした。それは例えば、「だめ」に通じるユーモアの感覚である。彼は、だめ連周辺のいろいろな「だめ」な人と出会うことに喜びを見出していた。そして、お互いに英語でのコミュニケーションで足りないところはあったとはいえ、いろいろ街を歩く作法の中で、お互いの生活の背景が見えてくるようだった。彼は、常に道を歩いているときに、「あれは何だ?」とか「これはいくら?」とか、とにかく好奇心のかたまりだった。しっかりナンパもしていたし。

 ということで、彼からいろいろ教えてもらうことの方が多かったが、一つだけ彼が持ち帰ったのは、だめ連では格安で飲める飲み屋を経営しているが、そこがいわばだめ連における人や情報のたまり場となっているわけで、朱さんは、これを韓国に帰ったらさっそくやってみると言って帰っていった。彼にそのような手みやげが残せることができてほっとしている。

(おぐら むしたろう/だめ連・文筆業)

※小倉虫太郎がだめ連を代表しているわけではないことをおことわりしておきます。

参考書:「だめ連宣言」(作品社)/「だめ!」(河出書房新社)

Webページ:http://www.ne.jp/asahi/r/s/dameren/

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ルポルタージュ

錯綜するクルディスタン・番外編:バスと青空と装甲車

〜車窓に見た紛争地クルディスタン〜
日高 直樹

 マイクロバスは約一時間遅れで朝9時過ぎにビンゴルの街を出発した。まっすぐと南へ向かい、わずかに標高が下がっていくのが分かる。なだらかな平原を突き抜け、TCDD(トルコ国鉄)の線路を渡るとすぐにゲンジェだ。何の変哲もない小さな街だが、実は1925年、この街は独立クルディスタンの臨時首都として宣言されている。クルド人有力者であり、神秘主義のナクシュバンディ教団の指導者だったシェイヒ=サイトが兵を率いて蜂起したのだ。蜂起はバン湖西部からユーフラテス河岸に及ぶ大規模なもので、さらにビトリス・アララト山にまで広がる勢いだった。だが結局トルコ共和国軍による徹底的な鎮圧、反サイト派クルド人からの攻勢により蜂起は失敗した。トルコ共和国史では「封建領主による宗教を利用した反動的事件」と評価される。

 知らなければ旅の異国情緒を構成する一片にしかなりえない平凡な街だ。キャンディの並ぶ雑貨屋、もの憂げに時間を待つ客達が窓に目をやるバス会社のオフィス、民家の壁に張られたトルコ共和国建国75周年記念ポスター…。バスはオフィス前で30分ほど客待ちをして再び出発した。街の出口でジャンダルマによるチェックがあったが、兵士は一人であくびをしながらバスを通す。のどかな異国旅のワンシーンだ。たちまち激しい傾斜にかかった。何度も耳障りな音がしてギアが切り替わる。バスの窓の外が青い空、山肌の赤い土、山頂の白い雪と交互に入れ代わっていく。太陽光線はきついのに、外気は乾燥し明らかに冷たかった。尾根の道に乗るとぽつりぽつりと再び民家が見えてくる。サイトの蜂起の失敗の後、その指導者達が処刑されただけでなく、見せしめに多くの農民が殺され、村々が焼き討ちにされた。それでもクルド人達の生活はめんめんと続いてゆく。突然停車。検問。誰も驚きはしない。バスから降り、パスポート・荷物のチェック。淡々と事は進む。調べるものも調べられる方ももはや不感症となっている。出発。30分もしないうちにまた検問。少々大きな村である。外にはトルコ軍のBTR装甲車が停まり、いつになくトルコ兵が多い。だが私の目を引いたのは、奇妙ないでたちをした男達だった。

 トルコ兵と同じG3銃に迷彩ベスト。だがターバンにだぶだぶズボンは明らかにクルド人である。いわゆるジャッシュ(ロバ野郎)だ。ロバとは中東世界ではオーソドックスな罵倒語だが、ここではクルド人でありながらトルコ当局側に協力するクルド人の裏切者のことを指す。1980年代からPKK(クルディスタン労働者党)による山岳地帯での動きが活発化するが、トルコ当局は対抗策としてキョイ・コルジュ(村落防衛隊)制度を導入した。農村部のクルド人に政府への忠誠を誓わせ武器を与えたのだ。PKKの温床となりそうな農村部のクルド人を逆にPKK狩りに利用しようというのだ。クルド人には二者択一しかない。軍による村の焼き討ちか、PKKからの報復を待つか。それが嫌な者はなんとかして街へ逃げ出す。どちらにしても農村部は荒廃するばかりだ。

 出発。だが様子が変だ。このマイクロバスを含め、トラック、バスが列を連ね走り出す。その列の前後を護衛しながらトルコ軍のBTR装甲車が走る。黒いガスを吐きながら8輪装甲車は道を登る。車上には機関銃を構えトルコ兵が警戒する。外気にさらされた兵士の吐く息が白い。ここは戦場なのだ。宣戦布告なき戦争の現場。バラクラバを深く被ったトルコ兵が緊張して周囲を見渡し、あの白い山の稜線の向こう側ではPKKゲリラ達がじっと息を潜めてこちらをうかがっている。そして空はひたすら青いのだった。

 道が下りになる所で装甲車はもと来た道を戻って行く。警戒区域は終わったというわけだ。楽しみたい向きには物足りないスリルだったかもしれない。だがここにいるトルコ兵、乗客や住民にとってはこれはまぎれもなく現実の生活なのだった。マイクロバスも待ってましたとばかりにディヤルバクルに向けひた走る。再び平原だ。突如前の席にいた老人が歌い出す。外の突き抜けるような空を想像させるメロディー。バスの中の男達がそれにあわせ手拍子をする。山越えの時の重苦しい雰囲気から解放されたことが老人にそうさせたことは分かった。そしてそのメロディーは明るいながらもどことなく物悲しいのだった。

 リゼという街へつながる交差点でまた検問。リゼは先のシェイヒ=サイトの蜂起の渦中にあった街でもあり、ときおり新聞でも「テロリスト」の事件が伝えられたりする所だ。パスポートチェックの下士官は見慣れぬ東洋人乗客に驚いたようだった。執ように旅行目的、行き先を問いただそうとするが、バスの運転手、車掌の方が割って入り私の代わりに勝手に答えるのだった。早くディヤルバクルへたどり着きたいのだ。だが願いも空しく私は直々にバックパックを広げさせられ荷物検査を受けたのだった。

 マイクロバスは平原をひたすら突っ走り、目的地ディヤルバクルへ着いたのは13時過ぎだった。この4時間の旅で検問はなんと五回、トルコで知る限りかなり厳しいものだった。

(ひだか なおき・ライター)
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会員紹介/亜洲人声(3)

塚田 和茂(つかだ かずしげ)さん

 天安門事件から10年が経つ。折しも、塚田さんが初めて中国を訪れてからちょうど10年目にもあたる今年の9月、塚田さんは中国へ二度目の留学に出発する。

 1989年に天安門事件が起こったのは、塚田さんが中国への旅行の準備を進めている最中のことだった。ニュース速報で伝えられる、中国政府が学生たちに容赦なく弾丸を浴びせた行為は、中国に魅力を感じていた大学生の塚田さんに「いくら何でも、そこまでやるか」と、強い衝撃をもたらす。事件のすぐあと、知り合いの留学生に誘われて、北京で弾圧された学生の追悼集会に参加したときには、追悼のために集まった100人にも達する大勢の中国人が、ポロポロと涙を流している姿に強い感動を覚えた。このころから、「歴史」を軸にした塚田さんの中国への関心に「民主化」というキーワードが加味されていくことになる。

 「絶対やってはいけないことだよ。絶対にね」と、学生らに銃口を向けた行為について、憤りのこもった口調で塚田さんは言う。

 塚田さんの中国への興味は高校時代に芽生えた。受験勉強で世界史をやるうちに他の地域に比べて中国史が「ダントツにおもしろい」と感じたことが、その後中国との関わりを深めていくきっかけとなる。

 「歴史に出てくる人間がおもしろい。どの時代をとっても本当におもしろいんですよ」と塚田さんは言う。

 再び留学することを決めたのも、中国の歴史を現地に行ってしっかりと学びたいという目的意識を持ってのことだ。まずは大学の聴講生として通い、そのあと現地の大学院の修士課程を受ける予定だ。研究テーマは中国の近現代史で、特に中華民国時代を調べていきたいと話す。強大な中央政府を持たない、混沌とした中華民国時代の中国にあった民主化勢力の動向に興味が募っているようだ。2千年も続いた皇帝制が倒れたあとの、多様な政治勢力が独自の政策を掲げて競い合った時代が、塚田さんの眼には魅力的に映る。

 「これからの中国を見るうえで、中華民国は絶対にやらなくちゃならないと思うんですよ」。塚田さんが民主化に向けて「必ず変化する」と考える将来の中国が、果たしてどう変化するのか。それを読み解く糸口となる流れが、中華民国時代の混乱期に見出されるかもしれないと考えているのだ。

 塚田さんは、「歴史的なものの見方」に重点を置く。現在起こっていることでも歴史をさかのぼってみると過去の流れとの相関関係が見えてくる。決して今だけで生まれてくるものではない。そんな歴史的な視点が、ジャーナリストでも留学生でも、アジアと関わる日本人には特に重要だと塚田さんは言う。アジアの歴史をしっかりと捉えていけば、日本人としての意識に食い込んでくるものが多いはずだ。

 「アジアを見ることは日本を映す鏡。特に中国はそういう面が強い」と、中国との関わりを続けるなかで塚田さんは感じている。

 歴史学の範ちゅうで中国史に取り組むならば、環境の整った日本国内の大学に籍を置いた方が、何かと研究を進めやすいとの助言を塚田さんは受けたことがある。しかし、助言の意味を認めながらも、塚田さんは中国に自らの身を置くことにこだわる。日本にいながら文献資料を駆使して論文を書き上げることよりも「人間として中国と、中国人とどう関わるか」が塚田さんにとっては問題なのだ。客観的に研究対象として見るのではなく、中国の人々との人間同士のつながりを大切にしていきたいという。それは、これから中国と関わり続けていくうえでの貴重な財産ともなる。

 「この留学で、中国語が誰よりも上手になりたい」という塚田さんは、将来は中国語を生かした翻訳や通訳の仕事をしたいと考えている。

 まさにライフワークとして、腰を据えて地道に「大好きな」中国と関わり続けていく。塚田さんの語り口にそんな印象を受けた。

 本人が『ROJIN』に連載している「チャイニーズ・グラフィティー」に書かれているように、塚田さんは相当なジャズ好きで、自らギターも演奏する。今回話を聞いているなかでも、北京の仲間たちとの音楽活動に話がおよぶと、そのころのジャズ三昧(ざんまい)の生活を思い返して嬉しそうに語り、愉しいばかりの演奏活動がうかがえた。

 そんな塚田さんが、今度の留学にはギターを持っていかないつもりだと言った。

 「今回はまじめに勉強しますよ」と、塚田さんは笑った。今回の留学にかけた意気込みを何よりも表している気がする。

(山本 浩・フリーライター)

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ワンポイント・アジア

「キリスト教信者拘束される 河南省」(3月14日 朝日新聞)………中国

 香港にある中国人権民主化運動情報センターによると、中国河南省商丘地区で、昨年のクリスマスに「家庭集会」と呼ばれる集会を開いていたキリスト教信者40人が地元公安当局に拘束され、うちまだ13人が釈放されていないという。中国におけるキリスト教人口は農村部に多く、伝統的に体制への不満による社会運動と結びつきやすい。したがって、こうした動きに対し中央政権は伝統的に警戒してきた。

 ここ2年くらい、中国では農村地域の収入が伸びていない。その中でも同地区は有数の貧困地区である。1人あたりの住民所得では、広東省都市部6378元に対し河南省農村部は910元。また、出産計画の不徹底による人口増で、1人あたりの農地面積も19 54年の18アールから1983年には9アールに半減した。したがって、四川省と並ぶ「出稼ぎ大省」となっており、近年は現体制に対する反発や一揆も増えているという。

 中華人民共和国成立後、共産党政府は、宗教信仰の自由を掲げながらも、宗教はいつか消滅させ得るというマルクス主義に則った考え方を一貫して放棄せず、教会が体制批判に結びつかないよう外国の影響から切り離すことに力を注いできた。大躍進政策や文化大革命の急進的な時期には抑圧と施設の破壊も起こった。だが、そのことがかえって、一部の人々の政治への絶望と信仰心への傾斜を喚起するという循環を生み出している側面があると思われる。

 今年は建国50周年、天安門事件10周年である。そのため、政府は昨秋ごろから各地に集会を控えるよう通達を出すとともに、報道規制や民主化運動に対する取締りも強化しているという。おそらく、今年1月の新彊ウイグルでの死刑執行もこの一環という側面があるのだろう。

「新国王決まる」(2月28日 朝日新聞)………マレーシア

 第11代国王に、スランゴール州スルタンのサラフディン・アブドル・アジス・シャー・アルハン氏が選出された。

 マレーシアは立憲君主制であり、9州9人のスルタンからなる統治者会議で5年ごとに互選される。スルタン制は世襲制、州内の王族の互選など州によって異なる。また、スルタンのいない4州は各々の植民地時代の歴史に由来し、マレー人が少数派の地域でもある。州ごとのスルタン制はもともとあったが、国王はマラヤ連邦独立の際、新たに設けられた。これは「マレーシア」というナショナル・アイデンティティが植民地支配を通じて形成されたからと理解してよいのだろうか。

 同国憲法の規定では、国王は最上位者であり、いかなる法廷の訴追も受けない。また、国軍の最高司令官でもある。独立以来、政局運営で前述の規定が実際上の問題になったことはなく、国王は象徴的な存在であった。しかし1983年、マハティール首相の国王権限縮小の試みはスルタンたちの猛反発を食い、改正案への同意を拒否され、法案は骨抜きにされ今日に至っている。マハティール案は、(1)「法案は国王の同意を得て法となる」→「同意が得られなくても15日経過すれば同意とみなす」、(2)「国王が非常事態を布告できる」に「首相の勧告により」を加える、であった。この問題は「憲法危機」と呼ばれた。

 隣国、インドネシアでは独立の際にスルタン制が廃止された。イスラム教徒が大多数を占め、かつ同制度が形骸化していたためである。その一方で、マレーシアで同制度が存続していることには、華人とその他の民族を加えた比率が高いが故に、それが彼らに対するマレー人の結束・優位の象徴となっているという背景があるようだ。

「地方選で騒乱、死者」(2月26日 朝日新聞)………バングラデシュ

 この記事は、2/23〜25日に行われた中小都市や郡部の地方選での与野党衝突の際の死者、けが人の人数を報じている(ここではバングラデシュ情報を通じて入手できた人数を紹介する)。選挙期間中の死者は4人、負傷者250人。同選挙と関連する2/9〜1 1のハルタル(ゼネスト)では死者6人、負傷者500人。その他、2月中旬〜3月中旬、爆弾テロでの死者計15人を確認できる。

 バングラデシュでは、80年代まで暗殺やクーデターによる政権交代が続き、90年代以降も、選挙時には死者が出て投票箱の持ち逃げも頻発している。また、前出のハルタルとは、ゼネストにより都市機能を麻痺させ政権にダメージを与える野党勢力の戦術である。この間、都市では交通機能がストップし仕事も休みとなる。起源は英国植民地時代のインドに遡り、ガンジー指導による第一次非暴力抵抗運動(1919年)のようだ。

 1996年のハシナ(アワミ連盟)政権誕生以来、彼女は親インド外交と、ガスなどの資源が豊富と言われるチッタゴン丘陵の少数民族との和解を推し進めてきた。これに対し、イスラム主義・民族主義志向が強いバングラデシュ民族主義党(BNP)は、「インドによる支配に繋がる売国行為」「国民統合を脅かす」として対決姿勢を強め、他党派との国民戦線結成への動きも見られた。この問題を軸とした政界再編の可能性も指摘されている。

 だが、もともと同国では政党を分断する明確な対立軸がなく、政党基盤も弱い。この間にも数百人のBNP、国民党などの活動家のアワミ連盟への党籍変更があったようだ。この要因として、バングラデシュの権力構造の「外国援助への依存も絡んだ都市中産層間の権益争奪という配分メカニズム」という性質を指摘する研究者もいる。

(担当 / 白取 芳樹・エディター)
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編集後記

▼ちょっと最近腰痛がでてしまい、情けないありさま。しかし、腰痛を治すために通っている治療院の療法が面白い。現代医療(西洋医療)が脳死臓器移植問題で象徴的にその限界と矛盾を見せたのに対し、人間の自然治癒力を高め、回復させながら治療をしていくというこのアメリカで生まれた療法は東洋医学にも通じるものがあるのではないかと思うのだが。近代合理主義の限界などとはもう古いくらいの話だと思っていたが、世間はそうはいかないらしい。▼それにつけても東京都知事選の人選とコソボ空爆の茶番と野蛮は本当に腹が立つの通り越し、あきれ果てる。(八尾)

▼東ティモールが揺れている。まだ予断は許されないが、取材を始めた6年前を思い起こすと、こんなに早く独立が見えてくるとは予想だにしなかった。世の中まだまだ捨てたもんじゃない。そして、まだまだ為すべきことは多い。それにしても、飛んでいきたい、現場へ▼今月は珍しく原稿が潤沢で、各氏に感謝です▼豊田さん、お願いですから予定通り帰ってきてください!(南風島)

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月刊AWC通信1999年5月号(通巻第8号)
1999年4月24日発行
編集人 南風島 渉/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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