『AWC通信』1999年4月号(第7号)


目次


定例会報告

タイ・バンコクで働く

講演者 フリーライター 近藤 衛(こんどう まもる)さん

バンコクで働くきっかけ

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 私は1996年8月から約半年間、タイのバンコクで現地日本語新聞『バンコク週報』の記者として働きました。今日は、日本人がアジアで働くことの実際についてお話ししてみたいと思います。

 まず、私がなぜアジアに興味を持ち、現地で働きたいと思ったかを述べます。アジアを好きになったきっかけは、大学2年生の春にインドを旅したことです。バックパック旅行といいますか、若い人に典型的な旅行スタイルでした。おもに南インドをまわりました。インドを旅すると、“夢中になる人”と“二度と行きたくない人”に分かれる、などとよく言いますが、私は夢中になった方でした。当時はただ好き、好き、という感じだったんですが、今なぜ自分はインドに魅了されたのかと考えますと、いくつかの理由が浮かびます。第一には、一ケ月後に日本に戻った時の東京の印象です。成田空港から京成線に乗りますと、実に日本というのは変わった国だなぁ、と思ったわけです。電車は時間通りに出るし、ホームでは誰もがピシっと乗車ラインに並んでいる。つくづく整然とした国だと感じました。日本や東京が自分にとって異質な空間に見えたんです。第二に、インドを含めてアジアの国々で生活する人たちの姿が魅力的に見えたことです。その時は、ついでにタイとスリランカにも寄ったんですが、確かに経済的には豊かではない。それでも、先進国の都市に住むわれわれが失ってしまった、真情ある生活感がみなぎっていると感じたわけです。

 インドが好きな旅人は、よくインド文化が持つ神秘性に魅かれたりしますが、私は残念ながらそうした感受性は持っていなかったので、興味を持ったのは経済的な側面でした。例えば、タイやスリランカでは日本車がたくさん走っていて、日系企業の看板も多い。ところが当時(1990年)のインドはまだ外国資本を受け入れず、経済的な鎖国政策を採っていましたから、外国製品は珍しくて大都市でも広告看板などは少なかったんです。私は大学で近代経済を勉強する学部にいましたので、ちょうどいい、ということで卒業論文の主題にアジア経済を選びました。『バンコク週報』ではおもに経済・ビジネス関連の記事をよく書いたんですが、この時に勉強したことがそれなりに役に立ちました。

 その後も大学時代にはアルバイトをしては、アジア各地を旅行するといったことを繰り返していました。ところが大学を出て社会人になりますと、ぷつりとアジアとの蜜月が切れてしまいました。卒業が近づいても、あまり会社では働きたくないなぁと思っていましたが、とりあえず食べなければ、ということで流通の会社に入社しました。この会社では広報室という部署に配属されまして、初めて編集とか制作といった職種を知りました。それでもやはり自分が興味を持っていない仕事というのは続きません。サラリーマンをやりつつ、TVや雑誌でアジア諸国の様子が取り上げられていたりすると、どうしても行きたくなってしまうわけです。すると会社を辞めようかどうしようか、考える時間が多くなります。で、辞めたわけです。それからは編集や翻訳のアルバイトをしながら食いつなぐ、といった生活をします。

 アルバイトは気楽なものですが、好きな仕事でないと続かないものです。自分はやはり、アジアに関わっていきたい。そう思いまして、アジア勤務が条件となる会社に履歴書を送っては機会をうかがっていました。不採用になりましたが「ニュースネット・アジア」や「香港ポスト」などの会社を受けました。そこでコネクションができて「バンコク週報」の社長さんを紹介されたわけです。彼は日本とアメリカのハーフなんですが、タイ語ができなくてもいいから、英語が読める日本人が早急に欲しい、ということで私に声がかかったわけです。東京で面接した後、なるべく早くバンコクに来てください、という話になりました。当時はとにかくアジアに住みたい一心でしたから、給料は低くても、それなりに喜んで出かけていったのを覚えています。

現地採用の4つの職種

 外国で働く日本人は大きく2つのタイプに分かれます。ひとつは「駐在ビジネスマン」で、いわゆる企業の人事異動で赴任している人たち。そして現地法人に雇用されている「現地採用」と呼ばれる人です。私の立場も「現地採用」にあたるわけですが、月給が3万5000バーツ(日本円で約10万円)でしたから「駐在ビジネスマン」の給料と比べると雲泥の差があります。私は正規の労働許可証を取らずに「Non Immigrant Visa」で働きましたから、いわば弱い立場で滞在していたと言えます。これはタイで働いていた現地採用の人たちのなかでも、不安定な方だったと思います。

 現地採用で働く職種は、だいたい限定されています。まず日本語教師、旅行代理店のガイドや営業、それから工場の管理職、そして日本語新聞の記者やDTPデザイナーが職を得やすいと思います。

 どのようにアジアでの仕事を探せばいいかについても少し話しましょう。新聞の求人広告でアジア勤務の仕事が募集されることはまれです。そこで決め手になるのがコネクションです。日本で転職活動をしても悪くはありませんが、いてもたってもいられない人は現地に行ってしまうのも手です。現地で発行されている邦字新聞を開けば、たいてい大学の同窓会、趣味的な集まりやボランティア・グループの告知が載っています。そういう場所へ出かけていって人脈をつくればいいのです。アジアの日本人コミュニティは手の平サイズです。最初のキッカケさえつかめれば、友達の友達ができて、ネットワークが広がっていくものです。

バンコクの職場環境

 さて、実際に働きだしてみると、職場の人間関係や仕事の仕方、どれをとっても日本とはかなり違っていました。まず徹底的に忙しい。タイでは外国人のパートタイマーを雇うことは違法ですから、雑用を含めて仕事は山積みです。記者などと名前はついていても、それこそ何から何まで自分でやらなければならない。あと、職場にタテの人間関係がなくて、管理する立場の人がいませんでした。多忙な反面、好きなことが自由にできます。また上下の人間関係がなくて、職場での競争もなかったので、同僚同士がやたらと仲が良いんです。これには驚きました。それこそ毎日、毎日、ランチをみんなで食べて、残業があれば夕食も一緒に食べるわけです。仕事のノルマはありましたが、売上げや記事のクオリティもさほど問われませんからストレスもない。多忙を除き、そういう意味では実に楽でした。現地に住んでしばらくしてから、一体これはなぜかと考えましたが、現地で働く日本人はタイ的な価値観やメンタリティーに同化している面があるわけです。よく言われるように、タイの人は管理されたりギスギスした人間関係を嫌います。それから、これはタイに限らず海外で働く外国人に顕著ですが、仕事で成功を求めるよりも、その国で暮らしていること自体に意味があるわけです。日本に帰って、海外就職についての本を作っている編集者と雑談した時にも話したんですが、どうしてもアジアで働きたいと思う人は、東京のストレスいっぱいの職場環境から逃げる要素が強いと思うわけです。これは私自身のケースを考えてもあてはまります。アジアに行きたいと思うのは、ちょうど私がインドを旅行した時に感じたような自由な空気に魅かれるからです。これは裏を返せば、都会の生活につきまとう孤独とか生活感覚の稀薄さ、殺伐とした人間関係からの逃避につながります。

 タイから戻って2年以上がたちますが、この問題は日本の産業構造や、そこで働く日本人の精神を考えると興味深いテーマだと思っています。高度成長以来、われわれは一体どういう社会を作ってきたのか。ちょっと大仰ですが、自分自身に問うてみると、どうしても日本の近代に対しては否定的なニュアンスしか感じることができません。

タイ人との人間関係

 一方で、タイは80年代後半まで農業中心の産業構造を維持してきました。いわば「近代的な」日本人にはない美質を保っているように見えるわけです。ところが、です。バンコクで働いて何より印象が強かったのは、職場の日本人たちが、なんとかタイ人と離れたところで仕事をしようと腐心していたことでした。仕事以外では仲良くやるが、日常的なワークではできるだけ彼らと関係なくやりたい。これはなぜか。人によって様々ですが、タイ人と共同作業をすると、どうしても締切りに遅れたりスケジュール通りに事が運ばなかったりする現実があったんです。では彼らを管理すればいいかというと、それは一種の汚れ役ですから誰もやりたがらない。となると、彼らとは関係なく日本人だけでさっさと済ませよう、ということになるわけです。食事は一緒に食べたりもしますが、仕事の話になると、いっせいに日本語に変えたりする。これは会社内だけではなくて、取材する時もタイ人が対応することになると、ちょっとガックリしたりもするんです。例えば、こんなことがありました。シティ・バンクに取材依頼をしまして、債券担当のバイス・プレジデントにインタビューしたんです。テーマは97年の7月に起きた通貨危機の主因となったオフショア市場についてでした。バーツ切り下げは1年ほど前から「Xデイ」のように風評が流れていまして、その話を聞きに行ったわけです。ところが、この副社長氏はあまり金融市場に興味がない人で、私の質問を無視してまったく関係のない話なんかを始めちゃうわけです。英語はとても上手で「オレの記事を新聞に載せるんなら、とにかく顔写真をでっかくしてね」と上機嫌で言ってくれるんですが、記事になるようなことは話しません。ぐったりして会社に戻りまして、先輩の記者と「ダメでした」なんて雑談しますと、「最初から、日本人か欧米人をお願いしますって言ったほうがいいよ」なんてアドバイスしてくれるわけです。では、なぜタイ人ビジネスマンはあれほど何もしゃべってくれないのかと先輩に聞きますと、外国資本のせいだ、と説明されるわけです。いわく、タイの経済成長は外資の直接投資の力による。彼らはコネやら学歴で成り上がった“バブル紳士”だと言うんですね。日本のビジネスエリートのように、実務や技術開発でたたき上げてきた人は非常に少ない。それにタイは徹底した階級社会ですから、家が良ければコネもある。プラス学歴があれば、実力は必要ないというわけです。

 ここで私が言いたいことは、タイ人に対して一種の差別感をぬぐうのは大変難しい、ということです。もちろんタイには豊かな文化や固有の伝統があります。またタイ人とカラオケに行って乱痴気騒ぎをするのは好きでしたし、明るくて人なつこいタイ人とふれあうことは、タイ旅行の大きな魅力です。それでも経済的な枠組みといいますか、こと仕事が関わってくると、いかに自分が日本人であるかを痛感してしまうわけです。

アジア通貨危機以後のタイ

 97年7月にタイを震源地とするアジア通貨危機が起きました。それ以降、3回ほどタイに行ったんですが、ひとつ印象に残ったことがあります。ナコーンパノムという東北部の町でお酒を飲んでいましたら、小学校の教師をしている人と仲良くなりまして、私が日本人だと知るとしきりに「IMF、IMF」と言うんです。まるで黒船がやってきた、これでタイの独立も危ういみたいな口ぶりなんです。タイ人はどちらかといえば、お国自慢に衒いがない方なので、自分の国をネガティブに言うことは珍しい。興味をそそられてお酒をくみかわしていると「日本もIMFの融資を受けたことがあるか?」と聞くわけです。戦争直後には日本も国際金融機関の融資を受けました。そこで「はい」と答えると、「そうか。IMFが来てからタイは変わった」と言います。いわく、タイの良さは助け合いの精神なんだが、IMFが来てから失業者は増えるし、村の講に誰も金を預けなくなった。とまあ、わりとよく聞く話なんですが、国際金融機関の影響が村の講にまで浸透している。それが片田舎の人々にとって圧力として実感されている。IMFや世界銀行を中心とした戦後のブレトン・ウッズ体制への批判は冷戦時代に花盛りでしたが、いまやタイのイサーン地方の酒場でも「脅威」になっている。一方でタイの地方では前近代的な講が、国民全体の貯蓄率を低くしてしまい、経済成長を阻害するひとつのボトルネックでした。それがIMFの上陸以来、本当にかつてほど講組織が機能していないとすれば、将来的に人々のココロは変わっていくだろうと思いました。近代的なシステムが人心に染み込んでいけば、おそらく、タイ人もいまに日本人みたいにセカセカと働くようになるかもしれない。タイはベトナム戦争までは完全な農業国で、外国資本が本格的に進出したのは1985年のプラザ合意以降です。いわば、ほんの20年前まで前近代的な生活習慣を守って暮らしてきた人たちです。これがIMFが先導する経済政策を受容することで、いやがおうでも近代的なメンタリティーを身につけるほかなくなる。そこでタイの人々がどんな齟齬(そご)を感じ、どういうふうに社会を変革していくか、その点を今後も見ていきたいと思っています。

(細野 幸宏・フリーライター)

Q&A

はじめから日本に帰るつもりだった?

 現地で働きながら、「日本に帰らなきゃ」とずっと思っていた。ずっといると、他では働けなくなり、タイから抜けられなくなってしまう。自分自身、日本でやりたいという思いもあった。

 タイの場合、多くの日本人が現地人と結婚したりして、骨を埋める覚悟で現地に定住している。戻るか戻らないかの差は年齢にもあって、若い人は日本に戻るが30歳を過ぎると定住する傾向が強いように思えた。

植民地支配の経験がないタイの文化的特徴は?

 ベンツやトヨタなどの20世紀に入ってからの消費文化と、古来の文化が共存している。仏教国という背景から、資本主義はタイにとって受け入れやすかった。米国文化の影響も大きいが、消費市場としてはまだまだ熟していない。国民性は、ネゴはよくするが、カルテル的な結束力も強いようで、IMFとのあつれきもかなり強いのではないか。植民地になったことがないということで、国民のプライドは高いが、それでもじわじわと国際経済に組み込まれていくのではないか。

タイでの対日感情は?

 良くないと思う。資本家・日本と、使われる側としてのタイの関係は明らかで、日本人は「ふんぞり返っている」という印象を持たれている。不景気で、サンヨーの工場が労使交渉のもつれから焼き討ちにあったりしていた。日本からの買春ツアーも印象を悪くしている。

 日系企業の投資で潤っている人々にとっては、まさに日本人サマサマだが、それはタイ人の中のほんの一部。そのほかの大多数からは、むしろ憎まれているかもしれない。

タイの言論状況は?自由?

 自由とはいえない。国民性からか、取材してもあまり本音は口にしない。言おうと思えば言えるのに、自粛する。検閲より自己規制。また、国王ネタ、宗教ネタは今もタブーで、下手に書くと“不敬罪”で罰せられる。

 本音は言わないが、逆に行動に出る。焼き討ちやサボタージュなどがいい例。基本的にタイ人は表面的にはニコニコしているが、キレると早い。

あくせく働く日本の社会が、いわゆる「現代的」なビジネス社会に順応しきっていないタイから得るヒントとは?

 ストレスを感じない社会、というのは大きなヒント。バンコクで働いていて、オフィスでタイ人が言い争うのを一度も見たことがない。

 それでも、時間がたてば状況は変わるし、タイでももっと勤勉な人は増えていくだろう。今のままでいけば、タイのおおらかさと経済発展は二律背反となってしまうかもしれない。

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ルポルタージュ

錯綜するクルディスタン(2)

〜何が彼らを追いつめているのか〜
日高 直樹

隔離されるクルディスタン

 「彼は我々のリーダー。独立運動の希望の星だ」。トルコ共和国南東部、ディヤルバクル。人気のないチャイエヴィ(喫茶店)の隅の席で辺りに気を配りながら、そのクルド人青年はクルディスタン労働者党(PKK)指導者、アブドラ・オジャランをこう評した。「血に飢えたテロリスト」「外国によるトルコ分裂に手を貸す裏切り者」−トルコ共和国側の非難とは裏腹に、出会ったクルド人の多くがPKKとオジャランに何らかの期待を示していた。

 “クルディスタン”を旅してみる。バスの窓から見える山々、小さな町や村。そして幾重もの検問、いやでも目に入ってくる装甲車、トーチカ、G3銃を構える迷彩服のトルコ軍兵士達の姿。この地域をバスが夜間に走ることはまずない。“クルディスタン”は今まさに戦争状態にあるのだ。

 ここの村々や山間部を訪れようと考えてもそれはかなり難しい。たちまちジャンダルマ(憲兵隊)やポリスなりがやって来る。「テロに遭う危険がある。立ち去りなさい」。親切とも受け取れるが、同時に事実からの隔離という面も持つ。「山の向こう側」の情報はもっぱらトルコのテレビ、新聞に頼ることになる。こんな具合に。「本日トルコ国軍はPKKテロリストの拠点を強襲し完全に制圧、◯◯地区の治安は回復されました」。

 それでもあちこちの町の片隅で、多くのクルド人から「山の向こう側」から漏れ伝わってくる話を聞いた。「PKKシンパでもない◯◯村がトルコ軍の焼き討ちにあった」「ダム建設のため多くのクルド人が強制的に立ち退かされた」「クルド人だけでなくアレウィ教徒の村も破壊されている」。イスタンブールやアンカラではけっして耳に入らない情報である。

トルコ化という弾圧

 ディヤルバクルの住民は大半がクルド人だ。年配者や独立を志向するクルド人たちは、ひそかにここをクルド語の旧称“アーメッド”で呼ぶ。幻の独立国クルディスタンの「首都」となる「予定」の地だ。しかし現在、ここはまさに「軍都」と呼ぶにふさわしい街だ。軍民両用の空港では米国製戦闘機がひっきりなしに離着陸を繰り返す。街の中心部を外れてぶらつけばじきに気づくだろう。街にトルコ軍基地があるのではない。基地がディヤルバクルという街を包囲しているのだ。

 知り合った、あるクルド人学生の名前はトルコ風であった。彼の父はクルド語の名前をつけようとしたが、役所で拒否されてしまったという。機会があり、彼の生まれ故郷の村を案内してもらった。穏やかで美しい風景に感動していると、「実はこの村にはクルド語の本当の名前がある」と彼は語った。ある日「トルコ兵がやって来て、強制的にトルコ語の村名に変えさせられた」のだと。改名を拒否したある村は軍によって焼き払われたという。多くの都市の名前も、アルメニア語やクルド語起源のものがトルコ語のものに改名されている。だがこういう話はニュースにもなりはしない。

 1990年以来、トルコではクルド語による会話、音楽が解禁されている。が、これはクルド語による教育を受ける、あるいは行なう権利を保障するものではない。学校や官公庁で使用されるのはあくまでトルコ語なのである。ディヤルバクル市内で、多くのクルド人が通う高校を見学した。もちろん全ての教科書がトルコ語表記である。そして気になったのが学校に常駐する私服のトルコ人警官。「テロリスト対策」との話だった。

トルコと欧州のはざまで

 実のついた綿の木の束を背に、クルドの女たちが道を行く。周り一面は綿畑だ。なんとも胸に迫る光景だった。聞けば移動労働者としてオレンジの取り入れなどをやって、今はここで働いているとのことだった。「トルコの東西問題」と言われるほど、ここ南東部と他地域との経済格差は大きい。トルコ政府はGAP( アナトリア南東部計画)を立ち上げ、この地域の経済開発を目指している。現在、エネルギー開発、広域の土地灌漑のための10を超える大型ダムが計画、建設されている。だが水没地、灌漑地の多くはクルド人の居住地である。彼らは一体どこへ行くのだろうか?

 現在も、トルコはEU(欧州共同体)加盟の悲願を達成できないでいる。トルコ人の多くは、その背景に欧州のアジア、イスラム蔑視を感じ取っている。欧州側は、トルコのクルド人への圧迫を理由に「加盟の資格なし」としている。しかし本音は、EU加盟によるさらなるトルコ人労働者流入への懸念だろう。対ロシア、イラン、アラブ諸国の牽制国となるトルコを完全に拒否する理由は、欧州側にはない。結局「クルド人問題」がトルコ=欧州間で外交交渉の取引材料にされている感は否めない。そこに、クルディスタンとクルド人の姿は見えない。

クルド報道の落とし穴

 今回のオジャラン逮捕報道で際立っていたのは「クルディスタン独立を標榜するPKKはテロリストであり、せん滅されなくてはならない」というスローガンである。だが肝心のクルディスタンはどういう状況にあるのか?何が起こり、何が行われているのか?このこと自体が伝わらず、伝わってもあまりに一方的なのだ。テロ自体は非難されなくてはならない。しかし、いつのまにか、クルディスタン独立を訴えることまでが犯罪視されている感がある。「独立を訴えるからクルド人はどん底に喘ぐことになるのだ」という倒錯した論理が通っている。そこにあるのはもはや情報でも報告でもなく、「ある意図」に沿った「宣伝」である。

 「あなたはガゼテ(新聞記者)か?」そう話しかけて来たクルド人は少なくなかった。「ここはクルディスタンで私はクルド人だ。今ここはひどい状況にある。どうか外の世界にこのことを伝えて欲しい」。外界から隔離され、隠蔽され続ける状況こそが、クルドの人々を追いつめているのだ。

(ひだかなおき・ライター)
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エッセイ

老グルカ兵の長い休日

〜インド・ゴラクプルのネパール人たち〜
多良 俊照

 ネパールからインドへとローカル・バスで国境を越えた。バックパッカーがよく使うスノウリという通過点だったが、オフ・シーズンなのか、ツーリスト・バスではないからか、外国人とは一緒にならなかった。

 隣に座っていたのはグルカ兵だった。あの精強で名高い傭兵のグルカ兵だ。ネパールは故郷だから彼らがここにいても別におかしなことではないし、いても気付かない方が多い。しかし、軍服を着たまま数人も公共バスの席に座っているのだ。彼らがネパール陸軍ではなくグルカ連隊に所属しているのは肩章ではっきりとわかる。しかし、なぜグルカ兵が制服姿でインドに向かうのだろうか。グルカ兵はイギリス陸軍のネパール人傭兵部隊ではなかったか。そうすると、イギリス軍の部隊がインドに何をしに行くのか。

 50年以上前だったらわかる話だ。インドはイギリスの植民地だったから、それほどおかしなことではない。その時代にはネパール・インド国境の南の町ゴラクプルにグルカ兵の募集所があったのだ。グルカ兵になることを志願するネパール人は山を下りゴラクプルの町に来て、試験と訓練を受けていたのだ。ゴラクプルという町の名前も「グルカの町」がなまったものと考えられている。グルカというのは英語なまりで、本来はネパールの王朝名のゴルカがもとだったらしい。

 しかしインドは50年以上も前にイギリスから独立している。イギリスの部隊だったグルカ連隊はインド独立後にはどうなったのか。実はいくつかあったグルカ連隊の多くはそのままイギリスへと帰属することになったのだが、いくらかはインド陸軍の部隊として活動することとなったのだった。

 現在もゴラクプルの募集所が使われているのかどうかはわからない。隣のグルカ兵はほとんど英語を話さないのだ。インドで働くならヒンディとネパール語はかなり似ているので、英語を覚える必要もないのだろう。どこへ行くのか聞いてみると、ラジャスタンのどこからしい。ラジャスタンはパキスタンと隣接しているので、そこで任務があるのだろう。金で雇っている以上、インド政府は働く機会がある所に傭兵を送る。彼らは休暇でネパールに帰っていたのだが、またインドの部隊に戻るところらしい。

 ゴラクプルの町で一泊することになった。その日のデリーまでの列車の予約が取れなかったのだ。ゴラクプルの町を通り過ぎるバックパッカーは多い。近くにブッダの入滅地クシナガルがあり、そこへ行くバスがゴラクプルから出ている。そして南方にはヴァラナシがあり、そこからネパールへ向かう人もバスでここを通る。しかし、ゴラクプル自体にはこれといったものはないので、わざわざ泊まっていく人はほとんどいない。私はクシナガルまで行くのも面倒だったので、駅前に宿をとって一日休むことにした。

 近くの広場で新聞を読んでいると誰かが近くに座った。顔を上げると目が合う。初老の男だが、いわゆるインド人の顔ではない。「どこから」と聞くので「日本だ」と答える。そうかそうかという顔をする。彼はまた別の誰かと話をし始めたのだが、それはネパール語だった。彼もネパール人なのだ。この町は昔から、グルカ兵だけではなく普通のネパール人がインドに下りてくるときにも通るらしく、ネパール人が多い。

 彼はネパールの町ではほとんど見かけなくなったルンギ姿だった。のんびりとした様子からするとこの町に住んでいるようだった。インドで何をしているのか尋ねてみたが、私のつたないネパール語では理解できなかった。しかしその時、彼の顔に何か寂しさのようなものが通り過ぎるのが見えた。私はもう一度問い返すことができなかった。

 翌日もその広場に行ってみると、制服を着たインド人がずらりと並んでいる。軍なのかと思っていたら「警察だよ」と、昨日の彼がまた隣に来ていた。インドのリパブリック・デイのためのリハーサルらしい。

 彼が「行こう」というので、誘われるままついていく。もしかしたらと思って「退役グルカ兵なのか」と聞いてみると、「そうだ」と言う。彼もまたグルカ兵だったのだ。もう50年以上も前のことだが、グルカ兵は日本軍とも戦ったことがある。彼はその時のことを知っているのだろうか。

 すぐに豆のスナックを売っている店に着いた。「ここが私の家だよ」と彼は言う。確かに日本人にも少し似たところのあるネパール人の顔がいくつもあった。

 「飲むかい」と聞かれたので、その店で出されているチャイ・グラスの中の透明な液体をよく見てみる。ビニールのパックから注がれるそれはどうもアルコール飲料らしい。少し路地を入ったとはいえ、インドでこんなに白昼堂々と酒を飲ませるところがあるとは驚きだった。店には上半身裸になった若者の姿があったが、その身体はたくましく鍛えられていた。彼もまたグルカ兵になるのだろうか。

 私の休日は一日で終わり、デリーへと出発した。しかし初老の彼はここで長い戦士の休日を過ごすのだろう。そしてインドへと向かうグルカ兵は今日もまたこの町を通っていく。戦争がなくならない限り、またはネパールが出稼ぎに出なくても暮らせるようにならない限り、恐らくそれはずっと続いていくのだろう。

(たら としてる・フリーライター)
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スポットライト

観光の裏側に見たスリランカ

〜あるジャーナリストの悩み〜
豊田 直巳

「インド洋の宝石」ガイド

 「ここのカレーはうまい」「ここの宿は安くて清潔だ」。そんなことを書くためだけに、3週間スリランカを旅して回った。海外に行ってもほとんど旅らしい旅をしたことのない私が、「ここの岬の絶景を見ないことには旅の意味が半減する」だとか「ここのレストランのイタリアンは本場の味に勝るとも劣らない」などと、評価基準のあいまいなものについて、独断と先入観を「発揮」しなければならない。そう考えると、酒なしでは眠られない。つまりAWCの会員には「まあ、なんて暇な」と思われるようなことを、スリランカでやってきた。伊豆七島の先の八つ目の島でも巡り歩くようにして、いや、熱帯の照りつける日差しから言ったら波照間島の先(決してニライカナイという意味ではなく)と言った方がその観光的な意味も含めて理解しやすいかもしれない島国で、ローカルバスを乗り継ぐことを目的とするようなことを、仕事の名を借りてやってきたのだ。

 もっとも仕事は仕事で「悩み」もある。紅茶や宝石、上座部仏教などで有名なこのスリランカ、日本では「中年男性による少年漁り」のイメージよりも、シンハラ人とタミル人との間で続く内戦のニュースによって形作られた、漠然とした「恐い」という印象の方が多いだろう。しかし観光ガイドブックを作る仕事なるがゆえに、そうした「政治的・社会的」な現実から離れたところで取材と原稿を書かねばならない。「これはもう嘘つきというのではないか」と、やっぱり酒でも飲まねば眠られないということだ。

観光ルートにかいま見る現実

 たとえば中心都市コロンボ(ほとんど首都のようだが、正式にはスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテが首都)にも内戦は色濃く影を落としているのだが、ガイドブックには何の断り書きもなく、唯一地図上に赤の斜線が入っているだけ。これは何かと行ってみると、コンクリートを流し込んだドラム缶によって道路は封鎖され、その隣には土嚢を積み上げて作った監視所に軽機関銃で武装した兵隊が警備についているのである。

 確かに、極度に緊張した空気が支配しているわけではない。だが、行き止まりの道を行く人は少ないし、なんともさびれた雰囲気が漂うのは否めない。それも当然かもしれない。2年前の大きな爆弾事件でまともに被害を被った5つ星ホテルなどは、いまだに半数もの部屋が使えないままだ。しかしこうしたことは観光ガイドブックに現われることはないのかもしれない。

 ことは何も都市だけに限らない。サファリと言うと多くの人は東アフリカを思い浮べるだろうが、スリランカにも象やバッファローや鹿といった大型獣や、豹のような肉食獣の住む国立公園がたくさんある。そのうちの一つ、スリランカの南東部に位置するヤーラ国立公園を訪ねた。ところで獣が暮らしやすいということは、反政府ゲリラにとっても活動しやすいということでもある。そしてここでも隣接するホテルが2年ほど前にゲリラの標的になったと言う。だがガイドブックには記されていない。そんなことを大げさに書いたら、行くはずの観光客も来なくなるだろうことはわかる。でも、何か釈然としない。公園の中には木の上に監視ポストを設けたり、完全武装した迷彩服の政府軍部隊がパトロール展開しているのに出会った。兵隊たちの休憩所の横を流れる川で水遊びをする地元の観光客の姿を見れば、大げさに危険だと騒ぐほどでもないのかもしれない。だが、内戦下に暮らす彼らと、ときどき唐突に新聞の報道で戦闘を知る私たちと、おのずと接し方が異なって然るべきだとも思うのだ。旅人であっても、自分がどういう状況にあるのかを知ることは、その人々が置かれた状況を理解する一助にもなるのではないかと思うからだ。

内戦と観光のはざまで

 スリランカを代表する聖地の山と言われるスリ・パーダの登山口へのバスは突然停車した。地元の乗客たちは慣れたものだが、外国人観光客は何が起こったのかしばしわからなかった。軍による臨検である。バスがダムの入り口にさしかかったのである。我々外国人は見た目でわかるのかパスポートチェックすらなかったのに、地元乗客は全員降ろされて荷物チェックを受けさせられた。爆弾でも運び込んでバスごとダムを爆破されたら大変だということだろう。しかしそんな表現をしたら日本人は誰もこのバスに乗らなくなるかもしれない。それでもいいと私自身も思わない。この辺りの人々が細々と現金収入を得る数少ない手段が観光でもあるのだ。だが、それでも、自分の身の安全という前に、ここに生きる人々が置かれた、この戦争の現実にももっと目を向けてもらうことは出来ないのだろうか。もっともその結果「ああ、だから日本は平和でよかった」で終わるのでは困るのだが。

‥‥‥‥‥‥‥‥参考‥‥‥‥‥‥‥‥

朝日新聞3/18朝刊(ただし13版まで)

【ニューデリー16日=時事】コロンボからの報道によると、スリランカ最大都市のコロンボ南郊マウントラビニアの警察署前で16日、警官が乗った車に女性が突然体当たりし、車は数秒後に爆発した。警官はすぐに脱出し軽傷を負っただけだったが、爆弾を身に着けていたこの女性ら少なくとも計4人が死亡、約10人が負傷した。現地警察は、少数民族タミル人の過激組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)メンバーの犯行とみて、3人のタミル人の身柄を拘束した。

(とよだ なおみ・フォトジャーナリスト)
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スポットライト

「支那」考

〜呼称にみる日中関係の歴史〜
塚田 和茂

都知事選候補者の「シナ」

 東京都知事選が近づき、立候補予定者が次々と名乗りを上げた。中でも有力予定者として、いちばん最後に立候補を表明した元通算大臣の石原慎太郎氏に関して、ちょっとした話題が持ち上がっている。

 石原氏はマスコミでの発言で、中国に対して「シナ」という呼称を使用し、かつそれを公言してはばからない。氏のこうした言動に関して、さまざまな意見や反論が挙がっているようだが、その中の一つに次のような指摘があった。

 「東京都知事選に立候補を表明した石原慎太郎氏は、記者会見で『シナ』という言葉を連発した。そして、この言葉を使う理由としてこう述べた。『シナは、清が滅んで大陸が混乱したとき、孫文がつくった言葉だ。孫文は台湾でも大陸でも国父として尊敬されている。なぜ日本人が使うと差別になるのか、さっぱりわからない』。『シナ』が孫文の造語だったとは初耳である。(以下略)」(一部改行位置変更・編集部)

 朝日新聞3月13日の夕刊に掲載された、「孫文と『シナ』」と題する文章である。

 事実に即して言えば、「シナ」という言葉は孫文の時代よりはるか以前から存在し使用されてきており、現在では以下のような解釈が定説となっている。

 「シナ(支那)は中国に対する呼称で、おもに外国人が使用したもの。ヨーロッパではChina、Chine、Cinaなどと呼び、その呼称の起源はジェズイット教宣教師マルティン=マルティニのとなえたように、始皇帝のたてた秦(Ts'in)の名が周辺諸国にひろまり、チン(Chin)・シン(Sin)・チーナ(Chinas)などに転化したというのが普通である。またサンスクリット語でチナスターナ(Chinasthana)と称したが、仏典の完訳の時に、震旦・振旦・至那・斯那・脂難・支那と訳されて中国に伝わった。中国人は古来、夏・華・中華・中国などと称するほか、王朝名をもって漢唐などといい、日本で「から」「もろこし」・漢土・唐土と称するのはこれにもとづくが、江戸時代に支那という文字が一般に用いられることになった。」(京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』より抜粋)

 これによると、石原氏の主張する“「シナ」は孫文の造語である”という説は全くの事実誤認で誤った歴史認識であり、彼がこの自説に基づいて「シナ」という呼称を使用しているのであれば、反論されたとしてももっともではないだろうか。

 たしかに、現在の日本においてもいまだに「シナ」という語は侵略の歴史を想起させるいわば禁句とされている。しかし、日中間においてそういう取り決めがあったという話は私の知る限りでは聞いたことはないし、ましてや法的に拘束されていることでもない。あえて言うならば、日本の中国に対する配慮からなされているというのが適切ではないだろうか。とすれば、これは日本側が自主的に行っていることだと言ってよく、中国の方から「シナ」という言葉の使用を強制的に禁じられているわけでもない。また一方では、「支那ソバ」や「シナチク」など、日常の日本語の中で使われているという状況も存在している。

蔑称としての「支那」そして「中共」

 ではなぜ「シナ」という呼称を使ってはいけないのか。

 この問いに、一言で答えることはとても難しい。この「シナ」という言葉をめぐる状況には、非常に複雑かつ奥深いものがあることは否定できない。「シナ」という言葉には、日中双方に過去百年の不幸な歴史の中で培われた深い意味が込められているからである。それを考える一つの材料として、ここでは竹内好氏のエッセイ集「中国を知るために」(第1集,勁草書房, 1967年)をあげたいと思う。この本の中で、竹内氏は「シナ」という言葉の来歴と現状について詳しく解説しており、そこで一つの興味ある事実を語っている。それは、戦前に中国の呼称として使われた「シナ」が戦後には「中国」となり、しばらくして「中国」が「中共」に変わったという指摘である。「中共」とは「中国共産党」の略称であり、けっして国家としての「中華人民共和国」の略称ではない。しかし、戦後のある時期から、日本では中国に対する通称として「中共」という呼称を使い始めた。特に朝日や読売などの大新聞が連日のように紙面に「中共」という言葉を露出させていたというである。

 中国ではちょうど大躍進から文革へといたる時期で、政治的には日本が安保体制のもとに中国を仮想敵国と見なしていた時期と重なる。

 これは何を意味しているのだろうか。戦前の「シナ」という呼称は日本人が中国人に対して軽蔑を込めて使った呼び方であり、当時の中国人はそのことをよく知っていた。そして、この日本人の中国人に対する侮蔑感が侵略を容易にし、ある意味で促進したことは否定できないだろう。かつて日本人がアメリカ人から軽蔑の念を込めて「ジャップ」と呼ばれたように。そして、竹内氏の指摘によると、日本人はかつて中国人を馬鹿にした「シナ」という言葉が使えなくなったかわりに、戦後になると「中共」という新しい蔑称を作り出したのである。

 戦争が終結しても、問題はなにも解決していない。それどころか、この問題の背景には、日本の政府がずっと終戦処理を怠ってきたこと、さらに侵略の事実を隠しそれに関する歴史教育を否定してきたという事実が存在している。そして、国交が回復した現在でもその状況はあまり変わっていないのではないだろうか。とすると、問題を解決するカギは言葉そのものにあるのではなく、我々自身の中にあるのではないか。これは日本人が、少なくとも中国(アジア)とかかわろうとするとき、真剣に考えなければならない重要な問題であると思う。

(つかだ かずしげ・元中国留学生)
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会員紹介/亜洲人声(2)

松浦 邦彦(まつうら くにひこ)さん(フリーライター)

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 フリ−ライタ−歴15年の松浦邦彦さんは、『ROJIN』ではデスクの一人として、「行間訪問」などの大型インタビュ−を手掛けている。「とにかく、会いたい人に会いに行く」という松浦さんだが、『ROJIN』5号では、ファンキ−末吉さんや姜信子さんにインタビュ−をおこなっている。

祖父と永井叔、そして大正を描く

 現在、松浦さんが興味を持っている人物のひとりに、放浪の詩人と呼ばれていた永井叔がいる。小林秀雄との三角関係の原因となった女性を中原中也に紹介した、ということで、文学史に少しだけ顔を出す人物だ。

 永井叔は朝鮮総督府に軍人として出向していたが、三・一運動が起きたとき、軍の命令に反して監獄に入れられた。そして帰国したあとは、マンドリンで賛美歌を歌いながら日本中を伝導して回ったという。

 「大正から昭和にかけて、世の中が暗くなったといわれる。たしかに政治・経済的には暗くなったんだけど、そういう時代の中で、とりあえず今日の生活はなんとかなるけれど明日の生活はわからない、そういった普通の人たちが朝鮮へ出向き、支配する側へと回っていく。そういう時代の流れを知りたいと思う」

 その「普通の人たち」の一人に、松浦さんの祖父がいる。永井叔にひかれる理由には、永井叔と松浦さんの祖父が知り合いだった、ということもある。なんでも、松浦さんの祖父の葬式に永井叔がやってきて、部屋のすみでマンドリンを弾いていったそうだ。松浦さんの祖父は朝鮮総督府で働いていた時期があり、そのとき永井叔と知り合ったのではないか、ということだ。

 松浦さんの祖父は、帰国したあと、鶏林荘という簡易宿泊施設を開いた。そして、いつのまにかそこは朝鮮独立派の拠点となり、当時の特高月報に鶏林荘の名前が出てくるほどだったという。その独立派がアナ−キスト系だったためか、「親父が言うには、朴烈から手紙がきてたらしい」ということだが、真偽のほどは定かではない。

 松浦さんの祖父は「彼なりの理想のために鶏林荘をつくった」わけだが、かっては朝鮮を支配する側の人物だった。「祖父と永井叔、朝鮮を支配する側にいた人物と支配に反対した人物がなぜ知り合ったのか。それを知ることで、時代が見えてくるのではないか」という松浦さんにとって、祖父や永井叔を描くことは「大正」を描くことであり、ひいてはそこから、私たちの生きる現代を逆照射することかもしれない。ルポライタ−の竹中労も書いている。「大正といわれる昭和の前座のような時代。しかしこの時代を知らなければ昭和の時代は見えてこない」。

隣人としての在日朝鮮人

 「近・現代における日本と朝鮮の関係」をテ−マにする一方で、「隣人としての在日朝鮮人が、すぐそばにいるわけだよね。理屈ではなく、彼らとどのようなつきあい方ができるのか、考えていきたい」と松浦さんは語る。それもかつての日韓連帯運動のようなものではなく、音楽でもなんでも、在日の彼らといっしょになにかをやってみることから始めたいという。そして「在日の人たちというのは、芸能の分野においても、他の分野においても、ものすごい影響力をもっている。それを少しでも紹介したい」という思いが、『100人の在日コリアン』という本に執筆参加することで、ひとつ結実した。

 『100人の在日コリアン』のなかで松浦さんがインタビュ−した相手のひとりに、崔承喜(チェスンヒ)の生まれ変わりといわれる天才舞踏家、白香珠(ペクヒャンジュ)がいる。崔承喜は、昭和初期に朝鮮舞踏の天才といわれ、植民地時代には、民族のよりどころとなった女性だ。しかし戦後、理想を持って「北」へ渡り、そこで粛清されてしまう。一方、白香珠は朝鮮籍だが、韓国公演を行うことができた。「崔承喜と白香珠、この二人の天才舞踏家を重ねることで戦後50年の朝鮮の変化が見えてくるのではないか。それをぜひ書いてみたい」と松浦さんは語る。

 今回うかがった話は、どれもとても興味深いものだった。松浦さんのテ−マが形になる日を、楽しみに待ちたいと思う。

(中平 良・フリーライター)
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ワンポイントアジア

「小学校にゲリラ逃走 ミンダナオ島」(1月29日 朝日新聞)………フィリピン

 イスラム反政府組織モロ・イスラム解放戦線(MILF)のゲリラ約300人が政府軍に追われて小学校に逃げ込み、児童、教師らが一時軟禁状態になった。昨年末にフィリピン政府とMILFの和平調停が決裂して戦闘状態が続き、前日ようやく停戦にこぎ着けた矢先の一件。

 1996年に政府とモロ民族解放戦線(MNLF)が和平条約に調印して以来、和平路線を不満としてMNLFから分離したMILFの勢力は、当初の3000人から1万人に伸び、国軍編入からあぶれたMNLFゲリラが数千人規模で流れ込んでいるとの説もある。また、犯罪集団化した元ゲリラの一部も「和平実現は活動をやりにくくする」との理由で妨害工作に懸命という。2月8日から和平交渉が再開されたが、トップ会談の開催地をめぐり折り合いがつかず、話し合いはその後、平行線だ。同地域に住む約7000家族・5万人が避難生活を強いられているとも伝えられる。

 今年は96年の和平条約に基づき、南部14州で自治政府樹立に関する住民投票が行われる年。だが、今や入植によりミンダナオの大多数の州で多数派を占める存在となったキリスト教徒の動向も含め、予断を許さない状況だ。

「ウイグル族の2人が死刑に 新彊ウイグル」(1月22日 朝日新聞)………中国

 これは、トルコに本拠を持つ民族組織・東トルキスタン民族センターが発表し、香港各紙が伝えた情報。死刑になった2人は、1997年2月の伊寧市での大規模な暴動の主犯格と目されていた。暴動では、10代後半のウイグル族の若者を中心に約千人が独立を求めてデモ行進し、漢族の市民を攻撃。死傷者600人、逮捕者1500人との説もあるが、報道により数字はまちまちだ。

 独立国家・東トルキスタン共和国の時期もあった新彊ウイグル自治区。中国政府が、資源供給地としての戦略的重要性と独立運動封じ込めから、社会資本の集中投下と漢族の移住を進めた結果、現在では漢族が人口の約40%、要職の多くを占めている。一方で、ソ連崩壊後、東トルキスタン民族独立運動は同じトルコ系の中央アジア諸国との連帯を強めていると言われ、一時は自動小銃などの武器もかなり持ちこまれていたようだ。

 ただ、今後の動向を占う上では、何よりも、漢族以外の同自治区住民がどれだけ現体制からの疎外感を感じており、どれだけ独立運動にシンパシーを感じているかについての情報が望まれる。

「北朝鮮が在外公館を15減少」(2月2日 朝日新聞)………北朝鮮

 韓国の外交通産省の発表を伝えるこの記事によると、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の在外公館数(大使館・総領事館・代表部)が1月末現在で54となった(国交樹立国は134)。

 北朝鮮の在外公館の削減は昨年3月からの方針。当時、共同通信は「北朝鮮外務省スポークスマンは(中略)『現在の緊張した情勢に対処し、食糧など経済事情が解決されるまで在外公館を30%程度縮小する』と発表し」たと配信している(98年3月29日)。同国外務省が削減方針を発表した時点での公館数は70弱であった。

 北朝鮮は1990年以降、しばしば削減方針を発表した経緯がある。KEDO発足後の軽水炉転換を決めた米朝合意の95年には、4ヶ国の大使館の閉鎖を決定。この時は外貨不足に加え、西側諸国との関係改善策による外交官の重点国への配置換えをするための布石、という意味合いがあった。90年以降、削減対象となった国を地区別にみるとアフリカと旧東欧が目立っている。

 国際社会での孤立感を高める同国を象徴するとも読めるこの数字。いずれにせよ、国交樹立国が183で、125の在外公館を維持している韓国とは対照的だ。

「ベトナム人店主が国旗掲げ襲われる」(1月31日 朝日新聞)………在米ベトナム社会

 カリフォルニア州ウェストミンスターのベトナム人街で、故ホー・チ・ミン主席の肖像画とベトナム国旗を掲げたビデオ店主が同じ南ベトナム系住民約50人に襲われた。

 ベトナム外務省は、国交正常化に伴い国旗を承認した以上、国旗掲揚は合法であるという旨の声明を発表。オレンジ郡上級裁判所は一度、治安維持を優先し撤去を求める判断を示したものの、2月10日にビデオ店主の表現の自由を擁護する判決を下した。だが、店主が再び約150人に囲まれ殴打され、店の前には血まみれのホーチミン人形が置かれるなど、抗議はその後も続いた。そして、3月10日には、店の明渡しを求める訴訟を起していた建物のオーナーと店主が「18日以内の明渡し」で合意したもようで、同店は閉店に追いこまれた。

 ベトナムから難民が移住したほかの国、仏、加、豪などでも、同様の対立はあるのだろうか。定住外国人・移民の志向は、移住先社会との関係にも左右される面があるだろう。例えば、60年代以降多様化するアジア系米国人の中で、世帯あたり年収トップがインド系の約4万4000ドルであるのに対し、ベトナム系は約2万ドル。エスニック集団間の貧富の格差や、近年の積極的差別是正措置廃止の趨勢などは、今度の事件と何か関係があるのか。

(担当 / 白取 芳樹・協力 / 一杉 克彦)
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編集後記

▼これで何度目の引越しになるのだろうか。猛烈に忙しい時期に引越しをしてしまい、いろいろ作業にも支障をきたしたが、そこはさすが編集長がてきぱきと指令を出し進めてくれている▼前号から始まったワンポイント・ジャーナルは名古屋のメンバーもインターネットでやりとりをしながら進めているのだが、ぜひ読者や関係者にも協力・参加して欲しい!▼ということで、読者ならびに関係者のみなさま、ROJINも含め編集部の連絡先は奥付にあるとおりに変更されているのでお気をつけください(八尾)

▼暖かくなったかと思えば寒が戻り、桜の開花も遅れがちとのこと。それでも世界は刻々と動いている。3月もあっという間に過ぎてしまった▼就職、転勤、転居と、いろいろ動きのある季節。逆に自分の足もとを確かめるいい機会でもある。散歩がてらにふと気がつけば投票日。しかし未来を思えば春風さえ急にうすら寒くなる▼クラブに広がりが感じられてきた一方で、本紙の編集はあいかわらず締め切りまぎわのドタバタ劇。今号の定例会報告ではないが、どこか暖かい海外へ逃亡したくなる毎月末です(南風島)

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月刊AWC通信1999年4月号(通巻第7号)
1999年3月27日発行
編集人 南風島 渉/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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