『AWC通信』1999年3月号(第6号)


目次


定例会報告

内在肯定力の旅

講演者 ノンフィクションライター 野村 進(のむら すすむ)さん

フィリピン留学から『新人民軍』へ

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 今日は、私のアジア太平洋についての五作品に絞ってお話します。そもそも私は、父の影響でジャーナリズムに関心を持つようになりました。父はシベリアに5年間抑留された経験を持っていまして、ソビエト・ニュース社という通信社に勤務していました。身のまわりにはドキュメント関連の著作が多くて、子供心になんとなく新聞記者に憧れていました。一方で、時代的にはベトナム戦争が背景にありました。簡単にいえば、ベトナムからアジアに関心が広がっていったわけです。ベトナム戦争は小学校に入学時に激しくなって、高校を卒業した頃に終結しました。当時、ベトナム報道で活躍していたジャーナリストには大森実氏、本多勝一氏、ちょっと遅れて近藤紘一氏、作家では小田実氏、開高健氏、写真家では沢田教一氏がいて、彼らの作品をよく読んでいました。また約10年前に亡くなったルポライター竹中労のファンでもありました。この人の『逆桃源行』や『汎アジア幻視行』などの作品が好きで、強く影響を受けました。

 1970年代後半の大学時代、アジアに興味を持つ学生は稀でした。例えばフィリピンのタガログ語を勉強したくてもテキストがないわけです。それでもアジア好きの仲間と勉強会などを開いていました。そして大学3年時に交換留学制度でフィリピンへ行くわけです。当時、支給金額は50万円(渡航費用のぞく)でしたが、フィリピンなら50万円あれば2年間は暮らせました。それが1978年のことです。この留学がデビュー作『フィリピン新人民軍従軍記』につながるわけです。

 マニラでは大学の寮に入らずに、ある小説家が自宅にホームステイしました。実は、偶然その小説家は新人民軍(NPA)のシンパだったんです。私は大学時代にベースボールマガジン社でアルバイトをしていた関係で、留学が決まると「東南アジアの通信員をしてくれないか」と言われまして、ボクシングの取材レポートを送っていました。それを小説家が見ていまして、「おまえはジャーナリストなのだろう」と言うわけです。それから徐々に彼が新人民軍のシンパであると明かし始めたわけです。

 1年ほどしたある日、「ゲリラ地帯に行かないか」と誘われました。そこで見聞したことを日本に報告して欲しい、と。まず2週間の予定でルソン島のゲリラ地帯に入りました。私は中国系フィリピン人観光客を装って政府軍のチェックポイントを抜けました。ところが日本人が山に入ったことが、スパイを通じて政府軍に伝わってしまったらしい。帰れなくなった結果、2週間の予定が結局約5ケ月ほどになりました。村から村へゲリラ部隊と移動したんですが、日本で言えば4つの都道府県を歩いて越えていく感じです。最後はバナウェという有名な観光地から山を出ました。

 帰国してその体験をまとめたのが、晩聲社から出た『フィリピン新人民軍従軍記』です。これはもう絶版なんですが、来年には講談社+α文庫から文庫になる予定です。この本は本多勝一さんに褒められてインタビューを受けました。その時、本多さんに「新聞記者になろうと思ったことがある」と言いましたら、「新聞記者なんかならんほうがいい」と。それと晩聲社の社長の勧めもあって、就職せずにこの道に入りました。それが1981年で、私が25歳のことです。後から話しますが、実はこの時の取材が『コリアン世界の旅』にもつながっています。

サイパン移民を取材した『海の果ての祖国』

 第二作はサイパン島へ移住した日本人を描いた『海の果ての祖国』(講談社+α文庫近刊)です。サイパンは大正時代から日本の委任統治領でしたが、戦争時には激戦地になりました。当時の民間人は約2万4000人でしたが、半分以上が死亡して生存者が日本に引き揚げたわけです。取材のきっかけは、晩聲社の社長から「移民の話を遺しておきたいと言っているおバアちゃんが山形にいるけど会うか?」と言われたことです。

 『海の果ての祖国』は、山口百次郎さんと石川万太郎さんという山形出身の二家族を通して、明治から昭和までの現代史を描くことが大きなねらいでした。私は25歳でしたから、ずいぶん大それたことに挑戦したものです。書き始めたころのテーマは二つありました。一つは日本のミクロコスモスとしてのサイパン島。サイパンには日本社会の縮図のような要素、例えば日本の近代化とか農村と都市の問題といった日本本土の問題がそのまま存在していました。また、日本が軍国主義へ傾斜していく過程で、ファシズムの動きを先取りする部分もありました。私の関心は、その頃の庶民がどう生きていたか、でした。つまり明治、大正から昭和まで、庶民として生きることがどういうことだったかを書いてみたかったわけです。

 もう一つのテーマは、海外植民地から見た日本と日本人でした。サイパンから見ると日本は“海の果ての祖国”ですが、日本から見るとサイパン島も“海の果ての祖国”だったわけです。この本では、戦時の状況を細かく再現しています。これは石川万太郎さんの長男の正太郎さんの記憶力と記録に負っています。彼は日記マニアで、激戦の中を逃げる間も日記を克明につけていました。この日記は失われてしまいましたが、彼は帰国してすぐ詳細な回想記を書きました。私はこの回想記をもとにインタビューしていったわけです。

 結局この作品で言いたかったことはたったひとつの言葉なんです。それは、石山一家が逃げまどった末に捕虜になり、アメリカ軍の収容所に行くと、日本の民間人も軍人もほとんど全滅したと思っていたら、日本人がたくさん生き残っていた。その時、石山さんは「ああ、やはり人間とは生きるために作られているんだ」と思ったと言うんですね。私が『海の果ての祖国』で書きたかったのは、結局、この一言だったんです。このセリフを書くために約6年をかけたと言ってもいい。なぜこれほど時間がかかったかというと、“南洋の東京”と呼ばれたガラパンという町の再現に腐心したからです。この町は空襲で跡形もなくなってしまったんですが、往時は劇場、料亭、銭湯に遊廓街もありました。私は生存者をひとりひとり尋ねて、この町を再現していったわけです。この作品で苦労したのは、時間に追われたことです。年齢を重ねていく生存者が生きている間に、なんとか本にしたかったわけです。

『コリアン世界の旅』

 この本は『Views』誌の企画会議で「在日はどうか」と提案したのがきっかけです。私の知るかぎり、一般の商業誌で在日コリアンをテーマにした連載はありませんでした。企画会議で連載一回分ずつのテーマを出し合ってみたら、すぐに20以上のテーマがそろいました。そのテーマが12の章になったわけです。

 定住コリアン(「在日」と言った場合、日本国籍者は含まれないので「定住コリアン」と表記しますが)というテーマは『フィリピン新人民軍従軍記』の頃からありました。『新人民軍』の取材で、旧日本軍の話しは避けて通れません。特にルソン島北部は旧日本軍が敗走した地域で、日本軍に対する反感は依然として根強い。フィリピンでは日本人のことを“ハポン”というんですが、地元民や新人民軍のゲリラたちは政府軍兵士や警察のことを“ハポン”と呼んでいたんです。“ハポン”とは残虐な連中の代名詞でした。ところが、「実はハポンよりも残虐なことをする奴らがいた。それはコリアーノだよ」と聞いたんです。コリアーノは目がギラギラしていて、髭が伸び放題で凄惨なことをやる、と。これはなぜだろうと思ったわけです。というのはフィリピン人には、日本人とコリアンを区別する目はないはずなんですね。しかしコリアーノは残虐だと事実のように語られている。この理由は二つあると推測しました。まず、日本人から差別された当時のコリアンたちが、捌け口として地元民に粗暴な振る舞いをしたのかもしれないということ。二つめが、日本軍が意識的に“コリアーノは残虐だ”との情報を広めたのではないかということです。この二つの理由には、どちらも確証はないんですが、こうした見聞を重ねるうちに日本の中のコリアンというのは一体何なんだろうと考えるようになりました。

 『コリアン世界の旅』では、新しい視点を出そうとしました。それまで在日について書かれたものは、“日本人対在日”といったような二項対立で語られたものが多かった。強制連行や指紋押捺にしても、問題視することで逆に定住コリアンを見えないものにしていた。そこでまず、焼き肉、パチンコ、芸能界といった、生活現場のコリアンを取材しました。そして第三の視点として、海外に住むコリアンを取り上げました。例えば米国に住むコリアン、ベトナム戦争に参加していま再びビジネスでベトナムに戻ってきているコリアンたちについてです。韓国がベトナムに参戦したのは、ドミノ理論に対抗する大義があったわけですが、意外なことに元韓国兵たちに聞いてみると、みんな金もうけのためにベトナムに行ったと言うんですね。調べてみると、当時の朴大統領も経済目的でベトナムに参戦したと発言しています。つまり韓国にとってベトナムは“戦場”ではなくて“市場”だったわけです。

 興味深かったのは、定住コリアンの反響です。当初、韓国兵の民間人虐殺や韓越孤児の問題を発表したら、定住コリアンが反発すると思っていたんですが、実際には好意的な反応が多くて驚きました。おそらく日本で長く押しつけられてきた被害者イメージや被害者役割にコリアン自身がうんざりしていたのでしょう。私が書いたのは被害者ではなくて、加害者としてのコリアンです。つまり、日本の定住コリアンは構造が変わればいつでも加害者になりうること、被害者役割は宿命的なものではないことを再確認できたのではないかと思うわけです。

『アジア 新しい物語』

 この作品は、96年に出した『アジア定住』(めこん社)の延長線にあります。この二作品は個人でアジアに生きることを選んだ人々の話です。両作品の間には約3年ほどの期間があるんですが、そのなかで気づいたことを四点ほど挙げてみます。

 一つはアジア各国に拝金主義が蔓延しつつあることです。経済的に豊かになった面もありますが、富裕層と貧困層の二極分化がさらに進みつつあります。

 二つめは「日本のアジア化」と「アジアの日本化」です。例えばアジアの大都市では、風景も人の姿もどんどん画一的になってきている。大雑把にいえば、各国のそれぞれの文化の上にアメリカ文化がのって、その上にまた日本文化がのっているように見えるわけです。日本のアジア化とは、日本国内でアジア的な脱力感が広がってきていることで、つまり日本の社会でも階級化が進んでいるということです。日本以外のアジアは厳然たる階級社会で、底辺に生まれたら一生、底辺層で生きるしかないのが現実です。一方、日本でも実力本位であるはずの芸能界やスポーツ界ですら世襲化が進み、東大生家庭の平均年収は1500万円以上と言われています。つまり経済的に豊かでないと、東大には行けなくなっている。その意味で日本でも階級化が進みつつある。それが日本社会に一種の脱力感を広げていると思うわけです。

 三点目は「職人のアジア」と「商人のアジア」についてです。日本はアジアの中でも珍しい職人の国です。これはカースト制を持つインドを除きます。例えば、日本には創業何百年という老舗が何軒もあります。おそらく、日本には権力を握るものへの信頼感が根強くある。その対局が中国人で、権力者に対する歴史的な不信感といったものを持っている。このような中国人が代表しているのが「商人のアジア」です。タイ人やフィリピン人にも共通していますが、お金と家族しか信用していないわけです。

 四つめは「削る文化」と「重ねる文化」というキーワードです。削る文化の代表格が日本です。重ねる文化は豪勢で奢侈な文化です。例えば民族舞踏を見ますと、日本の能は無駄な動きを削りに削った末の美を追及しています。これは仏像でも同じです。日本の仏像は一本の木を削っていって、木の中にある仏心を表すものですが、タイやベトナムの仏像は豪華絢爛に重ねていくような美しさがあります。

 この四点を考えると、果たして日本はアジアなのかという命題が生まれます。『アジア 新しい物語』は、こうしたテーマもふまえた人物ノンフィクションです。私の問題意識は、経済的にのみ語られるアジアではなく、日常のアジアをできるだけ深いところまで伝えることでした。アジアに住む日本人を書くことで、アジア人とアジア社会の多様さや懐の深さを伝えたかったわけです。私は、アジアが持つ懐の深さや多様性の許容に魅力を感じてきました。その背景にはアジアの自然の大きさや深さがあります。また、経済以外の面にスポットをあてることで、拝金主義を越えることはできないだろうか、と。本のなかで「自己を生かすことが、そのまま他者を生かすことにつながる自発的な無償の行為」こそが、日本人にできることではないかと表現していますが、これはアジアに定住する人々の歴史を見ると、その推移がわかります。かつては日本で食いつめて、アジアに向かう日本人が多かったんですが、最近は全人的な自分を生かす場をアジアに求める人が増えている。彼らの生き方が「自己を生かすことが、そのまま他者を生かす」生き方につながっていると思うわけです。この本の第三部に出てくる人たちは、無私の部分を広げようとしているところがあって、そうした人たちが経済至上主義をこえる可能性を持つのではないかと考えます。

 もう一点は宗教が持つよい部分を再生させることです。例えば弱者救済のシステムとか、信仰に根ざした共同体といった部分です。新たな共同体づくりということで言えば、日本に住む我々にも問われているように思います。それは昔の村落共同体のような個人が抑圧されるものではなく、より自由な個人が活動できるものです。結局、個人としてどう生きるのかという話しになるわけですが、その点もアジアに生きる日本人たちからいろいろと教えられたことでした。

 最後に、自分は今まで何をしてきたのかを考えてみます。先日『コリアン世界の旅』が文庫になりましたが、その解説で梁石日(ヤン・ソギル)さんが“内在肯定力の旅”というタイトルの文章を書いています。梁さんは『コリアン世界の旅』は生きるという民衆の内在肯定力を全力で訴えている、と評しているんですね。確かに私は、『海の果ての祖国』でも、生きるということが大きなテーマでしたし、自分はつねに内在肯定力について考え書いてきたのだな、と改めて教えられたような気がしています。

(細野幸宏・フリーライター)
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ルポルタージュ

錯綜するクルディスタン

〜オジャラン逮捕の背景〜
日高 直樹
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街角でダンスと音楽に興じる
クルドの人々

アイ・アム・ア・クルド!

 トルコ共和国東部のある町での夕方のこと。ジャーミー(モスク)見物からホテルへの人気のない帰り道、私は一人の少年とすれ違った。「アイ・アム・ア・クルド」。小声だったが、私は耳を疑った。振り向くと少年は右手で拳を突き上げ、今度ははっきりと聞こえる声で言った。「アイ・アム・ア・クルド!」。真剣な眼差しで主張する。だが危険だ。トルコの官憲に知れればただでは済まない。私は焦って小声で少年に返す。「ポリス、ポリス、デンジェラス」。少年は分かってるという風にうなずき、もう一度だけ「アイ・アム・ア・クルド!」と叫ぶと、そのまま向こうへ駆け去った。

 2月15日、シリアから追放され、亡命していたクルディスタン労働者党(PKK)議長アブドラ・オジャランは、ケニヤで拘束されトルコへ移送された。PKKはトルコからの分離・独立を掲げて主に南東部の山岳地帯で武力闘争を続ける、クルド人の非合法最大勢力だ。トルコ政府は、国家分裂をもくろむテロリスト集団と断定、そのリーダーであるオジャランの行方を追っていた。オジャランの逮捕とほぼ同時にトルコ軍はトルコ=イラク国境付近に攻撃を開始、一気にPKKゲリラ壊滅を目指す動きを見せている。

各国のクルディスタン情勢

 現在クルディスタン(トルコ、イラク、イラン、シリア、旧ソ連地域でクルド人が住む地域を総称してこう呼ぶ)では、様々な形でそれぞれの中央政府からの自治あるいは独立を求めて運動が繰り広げられている。

 イラクでのそれは湾岸戦争後に有名となった。イラク北部ではクルディスタン民主党(イラクKDP)、クルディスタン愛国同盟(PUK)の二大勢力が、国連および米英を中心とした多国籍軍の庇護の下、サダム・フセインのバクダッド政府と対峙している。先ごろサダム政権打倒を明確化した米国は、そのための両組織への支援を決定した。両者は支援そのものは歓迎したものの、サダム政権打倒の当面の実現性については懐疑的だ。遠く離れたワシントンと当事者との認識の違いかもしれない。それよりもこの両組織は昨年秋に米国が仲介するまで、主導権をめぐり激しく衝突していたのである。クルド人同士の戦闘とこれに乗じたイラク軍の攻撃は、状況を救援に来ていた大半のNGO組織が撤退せざるを得ないものにした。

イランにおいてはイランKDP(イラクのものとは別組織)、コマラといった団体がテヘラン政府に対し抵抗している。運動自体かなり追い込まれており、主に隣のイラクで活動しているのが実状だ。イラクの手先と非難され、時折イラン軍の越境攻撃があり組織の指導者もかなりの人数が暗殺されているという。

トルコ側でもこれまで軍がPKKゲリラを追い、しばしばイラク領へ越境攻撃を行なっている。さらにトルコはイラクKDPに対しても援助をちらつかせPKK掃討作戦への協力を要請している。背に腹を代えられなくなったクルド人同士がここでも銃火を交えている。

これまでスポンサーを任じてきたシリアがPKKを見捨てた理由は不明だ。シリアはチグリス・ユーフラテス両河の水利権問題等でPKKを対トルコの交渉カードの一つとして利用してきた。数あるクルド人の独立・自治要求運動の弱点はそれぞれの勢力争いに加え,様々な国に援助を仰がざるを得ないことだ。致し方ない面があるものの結局は援助する側に利用されてしまうのである。

オジャラン逮捕が意味するもの

 トルコのみならず欧州でもテロ活動を行なってきたPKKのオジャランの逮捕は驚きとともに、治安問題面からは歓迎されている。一方でPKKがトルコ内のクルド人から少なからぬ支持を受けていることも確かである。トルコ共和国建国以来のクルド人への不断の圧迫はイラクのそれより知られることがない。わずかに伝えられてくるクルド人への抑圧・人権侵害の報告も、EU加盟を拒否されながらも欧州に顔を向けるトルコの姿からは目立ちにくい。現在でもトルコ国内では公然とクルド人だと名乗るにはあまりに厳しい状況にある。前文の少年の行動もクルド人としてアイデンティティ表明を禁じられてきている中での命懸けの行為なのだ。そのテロ行為が当のクルド人から忌み嫌われつつも、PKKが育ってきた背景がここにある。今回のオジャラン逮捕劇も以上の点を踏まえ理解したい。

(ひだか なおき・ライター)

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Briefcase in Laos/前略・旅先にて

1999年のラオス

〜開放政策とインフレで迎えた観光年〜
多良 俊照

 取材の途中、ラオスに一週間ほど立ち寄った。困ったことは物価の相場がよくわからなかったことだった。まだ新しいガイドブックや最近ラオスに行った人の話もあてにならなかった。それらのいう値段の2倍近くから数倍になっていることもあった。ラオスの経済は慢性的なインフレ状態にあるようだった。ラオスの紙幣には発行年が印刷されているのだが、高額紙幣はみな最近のものだった。ラオスの通貨単位はキップだが、たぶん最高額である5000キップ札の印刷年は90年代後半しかないのだ。しかしインフレはズルズル進行して、5000キップ札でも払うのが面倒なものが出始めている。

 インフレの進む国では日々価値が下がっていく自国の通貨ではなく、安定した外貨を手に入れようという人が出てくるのが常だ。そういう人が増えていくと外貨がその国の中で流通し始める。外貨がそのままその国で使えるようになってしまうのだ。ラオスで使える外貨は三種類ある。まず、何といっても経済の不安定な国で強い米ドル。そして、ラオスと非常によく似た面を持ちながら、資本主義を選び一応の成功をみた隣国タイのバーツ。さらに改革開放政策で力をつけた中国の元が使えるようになっている。自国通貨への不信はインフレを進行させて自国をさらに弱めるのだが、人々にとってはそんなことよりも今が大事なのかもしれない。

 ラオスのインフレの原因は恐らく社会主義経済の失敗にあると思われる。ラオスはベトナムの影響で1975年に王制から社会主義へと移行した。しかしベトナムも中国も経済的には社会主義を放棄してしまった。結局、富を平等に分け合うには人間はまだ欲深すぎたらしい。ラオスでも中央と地方の経済格差は歴然としている。私は中国雲南省からラオスに入って、首都のビエンチャンからタイへ抜けたのだが、ラオス北部の村人や少数民族の人たちの生活とビエンチャンの人の生活はまったく別もののように見えた。革命後に新しく首都となったビエンチャンを少し歩いてみたのだが、現地の人が歩いて移動しているのをほとんど見かけることがなかった。ほとんどみな、車かバイクに乗って移動している。歩いているのは交通手段を持っていない人か、公共交通機関の利用の仕方のわからない外国人ぐらいなものだった。ラオスは世界的にも貧しい国ということでさまざまな外国からの援助が行われている。しかしそれも首都の人にしか届いていないのではないかという疑念を私は持ってしまった。

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 ビエンチャンの町は砂ぼこりに煙っていた。乾期の乾いた土を車が巻き上げていくのだ。そして町のあちこちでは道路工事が行われていた。ほこりっぽいのを何とかしようとしているらしい。1999年はビジット・ラオス・イヤーなのだそうだ。それに間に合わせようとしているらしい。ラオス政府は数年前にビルマ政府が行ったことと同じことをやろうとしているのだろう。ビザの制限を緩和して都市も整備し、観光客を呼び込もうとしている。ラオス第二の都市で旧王都のルアン・プラバンは町全体が世界遺産として指定された。数多くの寺院の建つ歴史的な町だからだ。そこに観光客が来ることも見込んでいるのだろう。

 私はビエンチャンに到るまでにルアン・プラバンにも寄ってみた。旧王宮がほとんどそのまま残っているというので訪れてみたのだが、その規模は、一国の王宮だったとはちょっと信じがたいほど小さなものだった。果たして、以前の王制は善政で、富を集中することをよしとはしなかったのだろうか。それとも寺院の建築ばかりに熱心だったのだろうか。とにかく社会主義時代に入ってからのビエンチャンの建築はもっと規模が大きい。これは年代が違うせいだけなのだろうか。

 現在のラオスは他の社会主義国にならって開放政策をとりつつあるように見える。それがまた単なる経済的な欲望によるものなのかどうかは私にはわからない。しかし、とにかく外国人が比較的自由にラオスを訪れることができるようにはなりつつある。1999年はビジット・イヤーだ。この機会にラオスを訪れる人は観光だけでなく、こうしたことにも少しは注意をして見てきてもいいのではないだろうか。もっとも、インフレは当分おさまりがつきそうにもないので、モノの値段に惑って何かしら考えずにはいられなくなるのかもしれない、好むと好まざるとに関わらず。

(たら としてる・フリーライター)
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スポットライト

移住労働者と日本社会

〜進行中の「入国管理法」改定作業〜
白取 芳樹

入管法改定作業までの経緯

 昨年10月2日、中村法務大臣は記者会見で、入管法の改定作業に着手するよう事務当局に指示したと発表、同日法務省が次期通常国会(99年1月〜)での成立を目指して入管法改定の作業に入った。改定作業は9月29日に決算行政監視委員会から法務大臣に提出された「出入国管理法違反に係る課題」を受けて進められているようだ。内容から次の2点をねらいとしていることを読み取ることができる。

 (1)不法入国の阻止(1−1・「関係国に対する不法入国取締り強化の要請」、3・「重点地域を指定し、海岸線等の監視体制を強化」、4・「密航支援組織の実態解明」など)。(2)不法入国者・超過滞在者の可視化・孤立化、摘発の容易化(5−1・「国民に対する不法就労防止の啓蒙」、5−2・「採用時のビザ・パスポート確認の徹底」、6−2・「在留管理の面でも例えば、宿泊や入居などの際にパスポート等をチェックする…」など)。

 文書に一貫しているのは、不法入国者、不法残留者(超過滞在者)の増加が犯罪の増加を引き起こしているという現状認識・危機感である。

予想される改定内容とその問題点

 入管法の文面変更そのものに関わるのは次の2点だろうと予想されている。(1)「不法滞在罪」の新設。(2)退去強制後再入国の期間の長期化。

 (1)は、不法入国後日本に滞在していること自体を罰するのが目的である。これは、現行法では不法入国罪が3年で時効になり、それ以降の不法滞在そのものを罰する規定がないからだ(もちろん現在でも該当者は外国人登録法などで処罰され退去強制されている)。(2)は、不法残留者(超過滞在者)が再度そうなることを極力避けるという意図のようだ。

 改定の内容いかんでは、超過滞在者や不法入国者が社会から孤立し、一層潜在化する可能性をはらんでいる。(2)では次のような事態が懸念される。超過滞在で帰国した場合、1年間は再入国できないのが現行法上の規定だが、実際には再入国が可能なのは結婚、ビジネスなど何か特別な理由がある場合で、それ以外はきわめて難しい。だから、特別な理由のない人々は改定を待つまでもなく偽造パスポートでの再入国や密入国になりがちだ。そうすると、改定で「被害」を被るのはむしろ国際結婚した夫婦たちということにり、「家族の結合権」に抵触する。

国家による人の移動のコントロールの限界?

 日本で移住労働者が増加し始めた80年代後半、政府は入国管理政策として、まず送り出し国数カ国との相互ビザ免除協定を一時停止。90年入管法改定では、専門分野での門戸開放の一方で、日系人を除く正規ルートからの単純労働就労を遮断し、移住労働者への壁を高くした。そして近年の強化ポイントは、超過滞在対策から集団密航罪の新設(97年)など不法入国対策へシフトしつつある。なぜか。いくら壁を高くしても彼らがやってくるからである。不況でも日本(受け入れ国)の人が寄りつかない「3K職場」が存在する。そして、「南」の国々(送り出し国)では海外就労者からの送金が「家計戦略」となっている。「人の出入りは国家の自由裁量」という近代国民国家システムの建前の一方で、世界レベルでは「海外就労の制度化」の進行という現実がある。98年1月1日の法務省発表では、日本にいる「不法残留者」は276,810人。統計上は95年をピークに逓減しているが、97年に船を利用した不法入国者が前年度47%増の7,117人という数字もある。彼らの「定住化」も顕著だ。東京入国管理局第二庁舎では、国際結婚での在留特別許可申請を担当職員1人あたり約100件抱えているという。

人間の自己実現のための領域と国家という領域とのギャップ

 88年にコンピューターと日本語を勉強するため来日したBさんは、昨年末に予定していた帰国を延期した。母国での事業用の土地購入による借金返済のためだ。彼は、製造業の弱い母国でガス機器の製造をしたいという。ある大学に1日講師として招かれ、日本での様々な外国人との共生について話したこともある。帰国はいつになるか…。そうした曖昧さの中で日本に生活基盤を築く人々が確実に増えている。

 日本で10年ほど板前修業をしたZさんは、97年に日本人と結婚し、昨年6月帰国。そして今度は、料理人としての道を切り開くため渡豪した。「最近オーストラリアへの移住希望者が増えている。日本よりビザが出やすいから。日本は10年以上住んでもビザの出ない国」とは、昨年10月に帰国したSさんの言葉。彼らにとって日本は選択肢の一つ、あるいは通過点に過ぎないという側面もある。

 彼らは、記号=「移住労働者」ではなく生身の人間である。そして、労働や税収の点でのみ見ても、確実に日本社会を支えている。この問題はとかく「国益」から論じられがちだが、そろそろ、自分の生活を支える「社会的紐帯(地域社会)」「(国家を超えた)人間のネットワーク」という視点も、「日本人」1人ひとりに必要な時期が来ているのではないだろうか。

(しらとり よしき・編集者)

編集部注:本文中の人物名・国籍は、人権に配慮して明記しませんでした。ご了承ください。

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団体紹介(3)

ピースウィンズ・ジャパン(Peace Winds Japan)

 ピースウィンズ・ジャパンは、1996年2月1日に設立された、海外で難民や被災民となった人々への自立、自活を支援する人道支援活動を目的としたNGOだ。現在、イラク北部のクルド人自治区、モンゴル、インドネシアのイリアンジャヤ州で支援活動をしている。その活動内容は、ほぼ毎月発行されるピースウィンズ・ニュースで知ることができる。

 今回は、おもにモンゴルや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で活動している石井宏明さんにお話をうかがった。

急激な変化にさらされるモンゴル

 1989年以来、モンゴルの政治・経済は大きく変化した。旧ソ連、東欧諸国の崩壊にともない、モンゴルでも社会主義から資本主義への移行が始まったのだ。政治面では一党独裁政治から複数政党制へと変化し、経済面では旧ソ連などへの依存から脱却、市場経済へと移り変わった。その結果、かつては旧ソ連から入ってきた食料や燃料が入ってこなくなり、貧困の拡大や失業率の問題が深刻化している。社会主義時代には全て無料でまかなわれていた社会福祉や教育サービスの予算が大幅に削減されるなど、自由化の名のもとに、今最も必要とされている予算が切り捨てられているのが現状だ。

 96年の草原火災の緊急支援の際、モンゴルの実状を目にしたピースウィンズでは、モンゴルへの支援を決めた。そのとき、貧困家庭の支援をするのか、家庭内暴力の被害に遭っている女性や子どもたちの支援をするのか、いろいろな選択肢があったのだが、やはりこれからのモンゴルを担う子どもたちへの支援こそが真っ先に取り組むべき問題ではないかということで、「ホッタイル(子どもの家)プロジェクト」が始まった。

ストリート・チルドレンの支援

 大きな社会体制の変化にともない、91年には数十人であったと思われるストリート・チルドレンの数が、現在では数千人にまで増加したとみられている。貧困によって起きる離婚、家庭内暴力、両親のアルコール依存症などの家庭内の問題が、ストリート・チルドレンの増加の原因となっている。また、衣服や学用品がないため、学校に行けなくなるケースも多い。寒さしのぎでマンホールに住む子どもたちのために、ピースウィンズでは「子どもの家」を作り、衣服や食料などの提供を行っている。

 石井さんによると、できれば学校へ戻りたいと願う子どもたちがいる一方で「起きたいときに起き、眠くなったら寝るという自由気ままな生活を一度覚えると、なかなか抜け出せない」子どもも多いという。そのような子どもたちひとりひとりにカウンセリングを施し、学校の大切さを教えるのもこのストリート・チルドレン・プロジェクトの目的のひとつだ。

 また昨年末から、ストリート・チルドレンをこれ以上出さないよう学校や家庭に働きかける、予防を目的とした早期プロジェクト「モンゴル教育プロジェクト」が始まった。

 さらに貧困撲滅のために、小さなグループを作り、職業訓練学校で学んだことを生かせるようなスモール・ビジネスを始めることも視野に入れている。

北朝鮮支援の困難さ

 現在、北朝鮮は推定200万から300万人の餓死者を出し、必要とされる米は100万トンとも200万トンとも言われている。

 ピースウィンズでは昨年、北朝鮮にコメ60トンの緊急支援を行った。北朝鮮を訪れた石井さんは「緊急支援を含め、NGOでどこまで支援できるのかを確かめたかった」と語る。結論は、国交のない国だけに、事務所を構えるなどNGOが活動するのはまだまだ難しい、というものだった。さらに、支援者の中には「名前を出さないことを条件に」とする人もいることから、「北朝鮮を支援することを大きな声で言えないような雰囲気があるのではないか」と石井さんは指摘する。

 まず何よりも、日本の中で世論を変えることが先決ではないかということで、今年の2月21日、日韓双方のNGOが協力して北朝鮮支援に関するシンポジウムを開き、ピースウィンズもそこに参加した。石井さんは言う。「日朝間の関係がどうあれ、飢えに苦しむ人を見殺しにしていいということにはならない。家族みんなが飢えで死んでいくということは、想像するだけでも恐ろしいことだ」。

 ピースウィンズではこれからも、構造的に支援なしでは生活できない人たちを支援すると同時に、実際に困っている人々の立場から発言を繰り返していくつもりだという。

(中平 良・フリーライター)
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会員紹介/亜洲人声(1)

八尾 浩幸さん(編集者、ROJIN・AWC主宰)

 「どういうわけか気に入った。暮らしたいと思ったんです」

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 87年、大学生だった八尾さんが団体旅行に参加し、初めて訪れたベトナムで抱いた感想である。ドイモイ政策が始まったばかりの荒れたホーチミン市の風景は強烈なインパクトで八尾さんの目に映り、新鮮な驚きを与えた。

 無関心、無感動の時代といわれ、「どんよりとしていた」と回想する高校時代にベトナム戦争への興味が芽生え、調べ始める。八尾さんにとってベトナム戦争は、子どもの頃にテレビで報道されていたのをかすかに覚えているだけで、同時代の問題として迫ってくるものではなかった。だが、かつてアメリカの強大な軍事力に対して戦い続けたベトナム人の「抵抗する精神」に強く惹かれたのだ。こう書くと何かいかめしい感じがするが、それはイデオロギー的な根拠を持ったものではない。

 八尾さんは、少年時代から性格的にわりと反発心が強いほうだったという。特に高校時代には、たまたま読んだジョン・リードの『反乱するメキシコ』に描かれる農民の姿にいたく感動し、この本に「いかれた」ことに端的に現れているように、『反発』や『抵抗』、『壊す』といった言葉のもつ意味について考えてばかりいたと話す。

 自覚し始めていたそんな自らの性向が、果敢に抵抗を続けたベトナムの解放勢力の姿と重なり合ったようだ。

 「理屈抜きで、とにかく闘いぬいた連中の思想や考え方を知りたいと思った」

 アジアとの関わりの発端となったその思いには、自らの反発心や抵抗心に根拠付けをする意味もあった。

 八尾さんを乗せた客船はベトナムに入港する直前、実はベトナムからの一隻の難民船と遭遇していた。抵抗し続けたベトナムの人々にあこがれに似た感情を抱いていた八尾さんにとって、命からがらベトナムを離れようとしている難民の姿は、「何がどうなっているんだ」という衝撃と、新たな問題意識をもたらす。この後、八尾さんは9カ月の長期滞在も含めて毎年ベトナムを訪れるようになり、深くのめり込んでいった。

 「学費をベトナム行きにつぎ込んじゃったんですよ。大学どころじゃなかったですね」と八尾さんは笑いながら話す。

 現在、八尾さんは出版社で編集者を務めるかたわら、雑誌『ROJIN』を主宰する。さらに、AWCを組織し、アジアに関わるライターのネットワークづくりを目指す。

 「メディアは受け取ると同時に発信もしていかなくてはダメなんですよ」という八尾さんにとって、『ROJIN』の前身である『亜洲人』から雑誌の刊行に精力的に取り組んでいることは、アジアから得たものを自らが咀嚼(そしゃく)し、消化する過程として当たり前のことであったという。ミニコミ雑誌を作ることにこだわりがあったわけではなく、あくまでも情報を発信するための「自分のメディア」として位置づけている。八尾さんは発信する作業を打ち上げ花火に例えた。アジアとの関わりから得たものを表明することで、どこか遠くでそれを見た人からの反応が返ってくる。そして、同じ方向性を持っている仲間や異なった形でアジアと関わっている人間が触れあう「場」を持つことで、それぞれの体験もさらに消化していくことができると考えているのだ。

 「ルポを書きたい」という、ジョン・リードへのあこがれから芽生えた思いは現在も続いている。編集の職に就き、『ROJIN』でも編集者という立場からの発信を続けている八尾さんだが、自分で働きたいという思いも胸の内にはあるようだ。具体的にはまだよく見えていないとしながらも、八尾さん自身が関わったアジアを、ひとつの形に結実させることも念頭に置いている。アジアと関わる人間が刺激し合うことを求めたAWCのような「場」に身を置くことや、編集者という職をこなすことも、自らの意志を見極め、そこにいたるまでの段階としての意味が大きいのかもしれない。八尾さんは、他の書き手に対してそうであるように「どうして書くのか、なぜ発表するのか」と、自分自身に対しても問いかけている。八尾さんは、自らのこれからの活動を含めて、『ROJIN』やAWCという「場」からそれまでとは違う「ぼくらの見たアジア」が伝えられ、歴史の中でひと塊の位置を占めることを思い描いている。

(山本 浩・フリーライター)

ワンポイントアジア

「キリスト教会を次々焼き打ち インド西部」(12月31日 朝日新聞)………インド

 インド国内でヒンドゥー至上主義の団体によるキリスト教関係者への暴力・放火が相次いだ。

 現行憲法はカースト制度を禁止している。しかし習慣として残るカーストの数は3000を超えるとされる。謬着性が根強いためその重圧を嫌い、主に貧困層が改宗する動きがあるようだ。一方でヒンドゥー至上主義の団体は、改宗が強制的に行われている、と主張している模様。

 昨年3月の総選挙で第一党となったインド人民党(BJP)は、ヒンドゥー教至上主義の運動団体「民族義勇団(RSS)」を母体としている。すでに同党は複数の州で改宗を禁じる内容の「信仰の自由法」を制定した実績を持つなど、異文化への排他性を内在しており、今回の一連の事件はその一端といえるだろう。

 総選挙直後から、インド独立以来続いてきた政教分離主義の終焉やカースト間の対立などを危惧する声があった。今後、同様の事件が相次ぐことは想像に難くない。

「兵士ら7人殺される スマトラ島」(12月31日 朝日新聞)………インドネシア

 かつて独立問題に揺れたスマトラ島最西端のアチェ州で国軍兵士が殺害された事件。報復とも思われる軍・治安部隊による民衆への“攻撃”もあり、少なからず被害が出ているようだ。また、大規模・小規模の衝突も続いているようだが、どれだけの被害が双方にあるのかは不明。

 兵士殺害事件について国軍は独立派の犯行としているが、長年にわたり虐げられてきた一般民衆の怒りが爆発したため、という見方もある。

 北アチェ県一帯はインドネシア国内でも有数の天然ガス産出地帯。国軍および政府の同地域への干渉は、この利権を手放したくない、という背景もありそうだ。

 アチェでは現在、独立志向から連邦国家を通じての独立性確保を目指す流れができつつある。政府による介入・牽制等は今後も当然あると見込まれるが、それは同時に、インドネシアの国是とされる「多様性の統一」が揺らいでいることを意味する。(アチェの件はAWC通信5号で本田徹さんがレポートしている)

「米の宗教法を批判 中国」(1月12日 朝日新聞)………中国

 米国議会が昨年採択した「国際宗教自由法」について中国国務院(政府)宗教事務局長は、訪中した米国国務長官特別代表に同法に反対する旨を伝えた。

 同法は、宗教的少数派を迫害している国に制裁措置を取ることができるというもの。昨年10月に米国上院で可決された。宗教の自由が脅かされそうな国として中国、インドネシア、ラオス、モロッコ、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、パキスタン、ベトナムなどを挙げ、禁輸政策のほか、迫害行為をした者の渡米ビザの発給を拒否できる――などとしている。

 当該国である中国は同法を内政干渉と反発。また、昨年4月には、米国教会協議会の招きで訪米したインドネシア、パキスタンなどの宗教指導者も反対を表明している(98年4月29日付ルーテル・アワー)。

 米国議会はかねてから、中国のキリスト教徒が抑圧されていると問題視しており、一昨年ぐらいから対中最恵国待遇(MFN)停止要求の代替案としても浮上している。このため、対中交渉を有利に進めるための手段という側面がある、といえそうだ。

「トルクメン、死刑制度廃止へ」(1月7日付 朝日新聞)………トルクメニスタン

 この記事によると、死刑廃止に必要な憲法や法律の修正法案を大統領は今年12月から改憲の権限を持つ議会に提出する、という。また、同国では昨年、約700人が銃殺刑を言い渡されており、うち90%は麻薬犯罪にかかわった死刑囚だとしている。

 同国では、ニヤゾフ大統領が開発独裁的な体制を敷いている。大統領は、独立前から共和国共産党中央委員会第一書記を務めていたため、肩書きが変わったにすぎない。権力集中は今や、個人崇拝の域にまで高まっているという。同国議会も旧共産党の流れをくむトルクメン民主党が過半を占めている。

 このため、他の旧共産諸国とは対照的に市場開放・民主化は遅れている。また、宗教もイスラム教スンニ派とロシア正教だけが合法とされ、それ以外の宗教は秘密警察(KNB)が乗り出して迫害の対象としているようだ。

 今回のレポートでは麻薬犯罪以外の死刑囚がどのような人たちかは確認できなかった。その中に民主派勢力や宗教関係者はいないのだろうか。含まれているとすれば憂慮すべき事態だ。

(担当/一杉 克彦・新聞記者)
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編集後記

▼今号から編集人がバトンタッチ。AWC通信の土台作りをしてくれた、佐久間君が仕事の関係でいったん、編集人の激務から離れることになった。本当にお疲れさまでした▼アジアの民族問題に造詣の深い新編集人はきっと、少数民族からアジアを見つめていくことで、また今までとは違ったアジア観を映し出していくだろう▼最近AWCへの問い合わせが増え、地方からわざわざ参加する人もいる。こういったネットワークで、マスコミには載らない視点をじっくり追いかけ、議論し、発信していきたい。(八尾)

▼今月から編集を引き受けることになりました。みなさま、引き続きご指導のほど、よろしくお願いします▼新企画、新執筆陣も加わり、今号は思い切って12頁に。次号以降はまだ未定。みなさまのご協力次第です▼ニュースなアジア、隠されたアジア。今この瞬間も動き続ける世紀末のアジアから目が離せない▼海外取材に行かれたあなた、原稿執筆は義務にも等しい(!)。編集部までぜひご連絡を!(南風島)

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月刊AWC通信1999年3月号(通巻第6号)
1999年2月27日発行
編集人 南風島 渉/発行人 八尾 浩幸
発行 亜洲通信社AWC編集部

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