『AWC通信』1999年2月号(第5号)


目次


定例会報告

エスニック・メディアと在日フィリピン人

『クムスタ!』編集長 篠沢 純太(シノザワ・ジュンタ)さん
今回の主役は篠沢純太さん。70年代から第一線のフリーライターとして活躍し、フィリピーナの日常を描いた『熱帯の闇市』の著者でもある。定例会では、70年代以降の日本とフィリピンのかかわりを概説し、篠沢さんが編集発行する日比ファミリーのためのエスニック・メディア『クムスタ!』刊行にいたる軌跡を語ってくれた。

マルコス独裁政権と買春ツアー

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 日本とフィリピンのかかわりを1970年代からたどっていきたいと思います。70年代の初頭、日本のマスコミにおけるフィリピン報道はマルコス独裁政権にかんする内容が圧倒的でした。マルコス元大統領が戒厳令をしいたのは1972年のことですが、それ以降、日本とフィリピンの経済関係が親密度を増します。同時に、日本の経済開発援助(ODA)のひも付き融資が世諭の批判を浴びました。日本政府および企業が独裁政権と癒着的な経済取引を進めることで、フィリピンの一般庶民には富が配分されない、といったような非難です。そのいっぽうで、1973年に残留日本兵・小野田少尉がルバング島で発見されました。この時ばかりはフィリピンに対してあまり関心を示さなかった日本のマスコミも、我さきにと報道合戦をくりひろげたのを覚えています。そして70年代から80年代にかけて、いわゆる買春ツアーの男性旅行者がフィリピンヘ多く渡航するようになります。それまでは韓国への買春ツアーが多かったのですが、韓国で反対運動が盛り上がりを見せたため、その矛先がタイやフィリピンヘと向かったわけです。80年代前半、フィリピンヘの渡航者の90%が男性だったと言われます。欧米に対するコンプレックスの裏返しか、彼らはなぜかフィリピンヘ出向くと胸を張って、札東で女性の顔をひっぱたくような言語道断の行為をくりかえすようになります。また、フィリピンから日本へやってくるフィリピン女性の数も増えはじめます。1985年の入国管理局の統計によりますと、興行ビザをもつ外国人34,569人のうち、フィリピン人が17,032人を占めます。つまり約51%がフィリピン人であるわけです。彼女らは一般に“エンタテイナー”と呼ばれまして、多くは盛り場で働く女性たちです。エンタテイナーの来日が増加した背景には、81年の戒厳令の解除があります。海外渡航が以前より自由になったおかげで、日本へ働き場を求めた結果でもありました。また、日本ではエンタテイナーを保護する動きもありました。とりわけ印象に残っているのは、西本神父です。彼は一風変わった神父さんでして、マニラでは“夜の神父”とも呼ばれる存在でした。83年に西本神父は日本に事務所を開きまして、全国を行脚するなかでフィリピン女性たちの相談などに駆け回っていました。つまり80年代を通して、フィリピン女性はすべからく性の対象として見られていたわけです。その意味で、84年に長野県で起きた騒動は象徴的です。この事件はあるフィリピン女性がブールで泳いでいたところ「プールで泳ぐと性病がうつる」と一部の日本人が騒いだもので、フィリピン女性に対する差別的なイメージをよく表しています。逆に、日本人男性は“エコノミック・アニマル”ならぬ“セックス・アニマル”としてのイメージが定着するようになりました。

フリーライターとしての仕事

 ここでフリーライターとして、どのようにフィリピンとかかわってきたかをお話します。私は一度も会社勤めをしたことがなく、この年齢になるまで主にフリーのライターとして仕事をしてきました。一番最初の仕事は今でもよく覚えています。『少年サンデー』のはみ出し記事を書くことで、大宅文庫や図書館などに通っては、ちょっとしたネタを原稿にしていました。それ以後は『フライデー』のアンカー・ライターや『ナンバー』のレポーターなどが主な媒体でした。このころは、まだフィリピンに対して特別な興味はありませんでしたが、マルコス独裁政権への批判記事や、当時『週刊ポスト』に連載されていましたODA疑惑の記事を読んでは「自分もこんな記事が書きたい」と考えていました。そのように日本で多忙な日々を送っていたのですが、少しずつ週刊誌や雑誌の記事を書くことに倦怠を感じるようになりました。そこで3ヶ月ほどぶらっとインドネシアに出かけることにしました。妻や子供など家族も一緒にインドネシアに移住しました。それ以降、3ヶ月をインドネシア、3ヶ月目本で原稿料を稼いではまたインドネシアヘといった生活をくりかえすようになります。

EDSA革命とマルコス政権崩壊

 そうこうするうちに86年、マルコス政権が倒れたEDSA革命へとつながる運動がフィリピンで盛り上がってきます。もっとも衝撃的だったのはアキノ氏射殺事件でしょう。この事件はフィリピンに帰国した民主派の政治家アキノ氏が、ちょうど空港でタラッブを降りたところを狙撃された事件です。当時、アジア各国の葬式をテーマに仕事をしているカメラマンが知り合いにいたのですが、彼がフィリピンで目にしたアキノ氏の葬儀が、暴動寸前までわきあがっていることを教えてくれました。そこでこれは何かひと波乱ありそうだということで、仲間たちと少しずつ資金を出しあいまして、なにかあるまで日本に帰ってくるな、と彼をフィリピンに長期滞在させました。案の定、その半年後に民衆がマルコス大統領の邸宅マラカニアン宮殿に押し入るEDSA革命が起きました。当時、テレビ朝日の「ニュースステーション」がはじまったばかりだったのですが、安藤優子という女性キャスターが電話回線を使って革命の状況を伝えたレポートを固唾をのんで見ていたのを覚えています。私は、友人のカメラマンが撮影したフィルムを空港で受け取り、『週刊プレイボーイ』に原稿を書きました。ところが残念なことに、そのカメラマンは民衆が宮殿内に流れ込んでいくカットはよく撮っていたのですが、日本のマスコミ向けのわかりやすい切り口といいますか、たとえば“イメルダ夫人の2000足の靴”といったような写真はなかったのです。結果的に、1つの雑誌にしか原稿を書くことができませんでした。

はじめてのフィリピン取材

 それでは自分自身で現地取材をしてみよう、と動き出しました。その時の一番の興味は、革命当時、フィリピンの普通の人々はどんな気持ちで、何をやっていたのだろうかということでした。そこでユニヴァーシティ・ベルトという大学町に行きまして、聞き取り調査の取材をしました。また86年の11月15日に起きた三井物産の若王子支店長の誘拐事件も取材しました。その企画は“若王子さんを救済しよう’というもので、九州の自衛隊出身者と一緒にフィリピンを歩くものでした。そして89年に『熱帯の闇市』という本を出版します。この本は、普通の人の普通の表情が見えるような内容を意図したものでした。そのころはフィリピンについて書かれた著作といえば、EDSA革命かマルコス独裁政権、あるいは0DA疑惑にかんするものばかりでしたから、ぜひとも普通の庶民たちはどんな夢を描き、どのように暮らしているのかを伝えたいと思ったわけです。この『熱帯の闇市』は現地で暮らし、原稿も現地で仕上げたものです。そして、その時に出会ったフィリピン女性と結婚しました。

日比カップルの増加

 90年代に入りますと、日本人とフィリピン人の結婚が増加します。88年にはトータルで1万人を越え、現在はおよそ年間7000組のカップルが生まれています。緒婚は必ずしも正確な統計がないのですが、日本人がフィリピン人と結婚するために必要な書類「婚姻要件具備証明書」(一種の独身証明書)の発行数で統計数値をとりました。ちなみに日本人同士の結婚は年間7万組ですから、100組に1組は日比カップルであるわけです。この増加の理由は“農村花嫁”の存在と、日本人男性と元エンタテイナーの婚姻があります。私は90年代の初頭には、妻と一緒に日本に帰っていまして、中野で「ハロハロ祭」というNGOが集まったイベントをやっていました。そんな中からよりよい情報を集めるために何かやりたいという意欲が強くなってきました。そんな時、知り合いが在日フィリピン人向けのニューズレターをやりたいと言ってきましたので、仕事をしていなかった妻が、メディア発行に向けて動き出したわけです。まず創刊した『クムスタ・カ』(3号で休刊)はスポンサーの問題で続かなくなりましたが、半年後に再刊した『クムスタ!』を独力で新装しまして、現在にいたっています。

『クムスタ!』がめざすもの

 エスニック・メディア『クムスタ!』発行の動機は、ひとつには大手マスコミの中で企画を出すことに疲れたということがあります。ひとつの企画を編集者にかけあって記事にしていくよりも、ボディブローのようにじわじわとアプローチしていくことを選んだわけです。主に取り上げる内容は、日比ファミリーを中心としたコミュニティの情報や娯楽情報です。読者は日比ファミリーやNG0、ボランティアグループ、アジア旅行者、東京都などの行政担当者、ビジネスマン、フィリピン研究者、フィリピンパブ好き、などです。『クムスタ!』は、自分たちだけの主張や志しをわかってくれる人だけに伝えるミニコミ的なものではなく、ある読者層の中に深く浸透していくものを志向しています。いっぽうで、マスメディアのようにどこの誰が読むかわからないメディアにはなり得ません。そこで私は“ミニ・メディア”という呼称がもっとも適切だと思っています。つまり、ひとりひとりのフィリピン人たちの顔や息づかい、そしてため息や希望をじっと見つめ、夢や希望を与えるような雑誌づくりが基本だと考えています。たとえば、編集者としては在日フィリピン人である私の妻が、どんなことに喜びを見いだし、悲しんだり、腹を立てたりするのかを見つめ、誌面の企画に結びつけようとしています。つまり、日本に住んでいる在日フィリピン人たちに明日を提案していくようなメディアをめざして努力を重ねているわけです。

(フリーライター・細野 幸宏)
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アジアン・ルポルタージュ Vol.2

インドネシア もう一つの素顔 part 2

新たな展開の局面を迎えたアチェの運動
写真・文 本田 徹
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「軍は政治から手を引け」
とデモをするアチェの学生たち

 インドネシアの最も西に位置するアチェは、古くから“メッカのベランダ”と呼ばれ、敬虔なイスラム教徒が多いことで知られる。アチェでは、インドネシアの独立直後から、イスラム国家を建設する運動が続いてきた。

 八九年には、インドネシアからの独立をめざすゲリラが、武装蜂起した。政府は戦闘部隊を送り込み、この運動を徹底的に取り締まったが、その中で、ゲリラとは無関係の人々が、多数犠牲になったといわれる。

 この時の弾圧で、独立派のゲリラは壊滅的被害を受けた。最近は、ほとんど目立った活動も見られない。インドネシア政府は、「百五十人程度のゲリラが活動している」と発表しているが、今回の取材では確認できなかった。

 地元のジャーナリストも、「ごく少数がジャングルに隠れているようだ。ほとんどの活動家は、マレーシアなど海外へ亡命するか逮捕されて獄中だ」と、独立運動の現状を説明する。

新しい世代の活動家

 武装蜂起以降、独立をめざす運動は目に見える形では展開されていない。現在の運動の中心は、軍の弾圧の告発など、人権擁護活動が中心だ。

 州都・バンダアチェの軍の施設そばで、デモをしていた学生グループも、独立を全面に打ち出してはいなかった。彼らは、「軍が政治にかかわるのをやめろ」とプラカードを掲げていた。

 「僕たちにも、住民が何を望んでいるのか分からない。もし、住民投票などで、多数の人々が独立を望むなら、その運動の先頭に立つつもりだ」

 学生リーダーが、こう話すように、現在の運動はとても柔軟だ。

 また、政府は、アチェの運動がイスラム原理主義だと匂わせる宣伝をしている。

 これに対して、学生活動家はこう反論する。

 「僕たちは、原理主義者ではない。宗教は個人の自由だ。グループの中には、キリスト教徒や仏教徒もいる」

 過去のイスラム共和国をめざす運動と違い、若い世代の活動家たちは、イスラムにこだわっていない。

元気なアチェの女性たち

 活動家の中には、女性も多い。女性の地位向上をめざすNGOで働くイチューさんもそんな女性の一人だ。彼女たちは農村へ出かけ、村の集会上に女性たちを集める。

 「この村には、軍に夫を殺された人が、五人います。こうした人たちの生活を安定させることも、私たちの仕事です」

 イチューさんたちは、村の女性たちに、どんな援助を望むのか討論させる。出された意見は壁に張られた紙に書き込まれ、援助の内容が決まると、資金が援助されるという。

 アチェ地方が最も栄えたのは、十七世紀、女王に統治されていた頃だという。その伝統か、アチェの女性は元気がいい。

 今年の六月に総選挙を控えて、アチェでは、イスラム教団体のリーダー・アミン・ライス氏率いる民族信託党(PAN)の人気が高い。ライス氏の掲げる、「連邦制への移行」が、支持されている。

 インドネシアは、四九年に独立した時は、十五の共和国からなる「連邦共和国」だった。翌年に、インドネシア共和国に一本化されたのだが、これほど多様な民族が単一の国家を形成していくのは、もう限界なのかもしれない。

(ほんだ・とおる フォト・ジャーナリスト)
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アジアン・スポットライト

帰国後の移住労働者たち

〜バングラデシュを訪問して〜
写真・文 白取 芳樹

急ピッチで開発が進む首都ダッカ

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ダッカは建設ラッシュの真っ只中

 バングラデシュの首都ダッカは、まるで“バブル景気”のような活況に沸いていた。それは2つの現象に象徴的に現れている。まず、ダッカは現在、建設ラッシュの真っ只中にある。マンションやショッピングセンターなど、5〜10階建て規模の建物が至るところで建設中である。そのため、地価も高騰している。また、人々は、ほとんど無秩序状態の交通渋滞と大気汚染に悩まされている。これは、リキシャ(人力車)やベイビータクシーの多さもさることながら、日本からの中古車の輸入増も大きな要因だ。一方で、信号や横断歩道はほとんど整備されていない。

帰国後のRさんのビジネス

 Rさん(28歳)は、「120万円で買った」という日本製の中古のパジェロに乗って登場した。彼は1992年に来日。レストランで仕事をし、1997年7月に帰国した。彼によると、日本から帰国した人のうち約半分はお店の経営に、10分の1弱は輸入業に進出しているのではないかという。また、彼らの投資は土地とそこに建築する建物の売買へ集中している。「土地に関するビジネスは、今いちばんリスクが小さい」と彼は言う。彼自身は、現在靴屋2軒と服屋1軒を経営している。94年には、ダッカ中心部から約12キロ離れた郊外に、300平方メートルほどの土地を日本円にして約400万円で購入した。今これを売れば800万円くらいにはなるという。将来の夢は、外国人が多く住むグルシャン地区北部での高級ゲストハウス経営。それには建物の建築費が2000万円ほどかかる。その資金稼ぎのためなのか、彼の兄弟のうち2人は現在韓国で働いており、さらにもう1人が今年韓国へ働きに行く。

Aさんの場合

 「この国はひどいよ。道路はめちゃくちゃだし空気は汚いし。住みたくないよ。日本に11年もいたでしょ? だから最初は大変だったよ」。会ってのっけからこう言ったのはAさん(38歳)。彼は98年4月に帰国。その後結婚し、最近、ダッカの中心部モティジ−ル地区に建設会社を構えた。だが、現在請け負っている仕事は1件のみ。ラマダン(断食)期間中であることに加え、人の増加(バングラデシュは人口約1億2千万人)とともに建設会社も増えて、仕事を取るのが大変だと言う。そんな彼の家を訪問すると、「LAOXで買ったよ」という立派なテレビ、オーディオが揃っていた。

建設現場で働く人々の生活

 現在のダッカで職業人口がもっとも多いのはリキシャの運転手。96年政府発表は20万人だが、実際には50万人は下らないと推察されている。そして、それに匹敵すると見られているのが建設現場で働く人々である。そうRさんから教えてもらった。彼らの生活環境は極めて悪い。工事現場に面している道路沿いに、一家で掘建て小屋風の居を構えている。通りによっては、そんな掘建て小屋や、ビニールを被せただけといった住居がずらりと並んでいる。小屋の中では女性が食事を作っている。道端には、遊んでいて、私を見つけると「バクシーシ」(物乞いの言葉)と寄ってくる子供、しゃがんで用を足している子供、子供の体を洗ってあげているおばあちゃん(?)…。

移住労働者たちの役割

 移住労働者たちが持ちこむ外貨は、たしかに一定の中間層の形成、購買力の上昇には貢献している。だが現状では、必ずしも安定した雇用創出につながっているようには見えない。そして、とてつもない貧富の格差がある。しかし、そんな現状に対して何とかしなければと思っている人も確実に存在する。

 Sさんは98年10月に、子供を連れて12年間住んだ日本から帰国。現在は夫と3人、家族で暮らしている。「いま仕事探してる。でも女性だし12年もいなかったから見つけるの難しい。バングラデシュは人も多いし。でもきっと見つけるよ」。弁護士の資格も持つ彼女は、妹の夫といっしょに、ストリート・チルドレンを教育するための学校を作りたいという。そのために支援してくれそうな日本のNGOはないかと尋ねてきた。「子供たちをちゃんと教育しないとこの国はよくならないよ」。これは前出のRさんも言っていたことだ。

(しらとり よしき・NGOスタッフ)
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アジアン・スポットライト

クロントイ・スラム再訪

〜あるジャーナリストの青春キャンバス〜
写真・文 坂本 幸宏
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クロントイには、シンナー
中毒のタイ人も多い

 バンコクヘ行ったのは約半年ぶり、タイ在住のジャーナリストMさんに会ったのは1年ぶりのことだった。電話で「食事かお酒でも」と誘うと、いいですね、と懐かしい声が聞こえた。30歳代前半のMさんの経歴は興味をそそる。高校卒業後、自衛隊に入隊。ヘリコプターの操縦に明け暮れた2年目、「集団生活がイヤになって」退職し、カメラを片手にユーゴスラビア連邦(当時)に渡った。時は1990年代前半、チトー大統領の死去(1980年)以降、屋台骨がぐらついたユーゴ諸国に民族主義が噴出していた。スロベニア共和国の独立からボスニア・ヘルツェゴビナ内戦へとつづくなか、Mさんはフリーランスの戦場カメラマンとしてベオグラードに滞留した。約3年前、ぼくがバンコクに暮らし、見よう見まねの記事を書き散らしていた頃、Mさんのリアルな取材エピソードにはずいぶんと刺激されたものだ。日々の食料の入手方法、防弾チョッキの値段、国連のヘリコプターに便乗するコツ。「なにをおいても外国語じゃないかしら。言葉ができないジャーナリストは信用されないし、私も信用しない。言葉さえできればなんとかなるんじゃないかしら」。英語、フランス語、タイ語に堪能なMさんの断言に、ぼくは大きくうなずいたりもした。ボスニア内戦が終息すると、Mさんはタイに落ち着いた。ユーゴ連邦からの掃路、フランス語に磨きをかけるためパリに小休止した後、立ち寄ったのがバンコクだったらしい。「50バーツ(約200円)の安宿でも高いと思った」Mさんは、生活の場をクロントイ・スラムに決めた。クロントイ・スラム。タイ東北部からの出稼ぎ農民や娼婦が多く暮らす、東南アジア最大の貧民街である。麻薬アンフェタミンの温床として悪名高く、日本や欧米の有名NGOが事務所をもっている。バンコク港に隣接しているため、物流拠点の拡張をめざすタイ政府の再開発地域に指定された。ぼくも何度か遊びに行ったことがあるが、来る者を拒まない、不思議な温もりを持ったスラムである。住まいがない者は、それぞれ空いている「住居」に勝手に住みつけばよい。地方から出てきた人々はそうやってクロントイに暮らし、やがて貯金とともに町なかへと引っ越していく。もちろん、長くスラムにとどまる「貧民」もいる。また「スラム」と呼ばれてはいるが、実際には電気も水遺もあり、路地を歩けばTVの音声が御こえてくる。ぼくが最後に訪れてから、すでに2年がたっている。再開発された「スラム」はさぞかし変わったことだろう。Mさんはもう3年以上は行ってないと言う。かって、彼はクロントイに住む庶民レポートを雑誌に連載していた。タイの「貧民」と同じ目線の高さが強く印象に残っている。「行ってみましょうか」。Mさんがなんとなく、といった調子で口にした。2年ぶりのクロントイは様変わりしていた。以前はタイ港湾局(Port Authority of Thai1and)の周辺一帯はベニア板で囲まれた「住居」だったが、取り崩され、片側2車線の舗装道路になっている。その向こうには住人の新しい住まいとして、政府が建設した鉄筋の高層ビルがそびえている。ぼくがかつて取材したエイズ病棟もなかった。「あれ?ない!ない!変わった変わった」と連発するぼくに、Mさんは言葉少なにうなずくばかりだ。ぼくが何か話しかけるたぴ、どこか迷惑そうにぷっきらぼうな相槌を返す。それでも歩みをゆるめるず路地から路地へ、まるでひとつひとつの道しるべを確かめるように歩いていく。そもそも、かつて仕事場だった取材地を訪れるジャーナリストの目的とは一体なんだろうか。取材でも下見でもない。締切りに追われる自転車操業のなかで、原稿ネタを取り終えた瞬間に“はい、サヨナラ”してしまった取材への反省なのか。あるいは、西から東へと飛び歩く売れっ子ジャーナリストにとっては、青春時代を過ごした大学キャンパスを訪ねるようなセンチメンタル・ジャー二一に見えるかもしれない。今にして思えば、寡黙なままクロントイの変貌を確認していたMさんは、あの時まぎれもなくセンチメンタル・ジャー二一の旅人だったようだ。1999年が明けて数日した頃、バンコクのMさんから賀状が届いた。「新しく会社勤めが決まり、フランス語とタイ語の翻訳に精を出す毎日です」とのメッセージが書かれ、胸に赤ん坊を抱く奥様との写真がブリントされていた。

(さかもと ゆきひろ・フリーライター)
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編集後記

 AWC通信もようやく軌道にのりはじめてきた。ホームページもたちあがり、頻繁に更新も行われ、見にくる人も日に日に増えてきた。喜ばしいことだ。これにこたえて、ROJIN本体も早く軌道修復できるように、目下、スタッフ一同熱く話し合い、実行に移している。乞うご期待!/さて、AWCはたくさんの人々に読まれていくことと、またその反響によって、もっと、誌面のクオリティーや情報性を高めていきたいと考えている。そのためにもやはりAWC通信が読者にとって読みやすい状況を作るべきだと話し合われ、以下のように改正された。/会費は今年より2000円になった。そのかわり、AWC会員とは別に、地方にお住まいの方や、定例会にあまり参加出来ない方のために、購読のみの購読会員(年間1500円・定例会への参加は参加費が必要)も始めた。たくさんの購読の申込みお待ちしています。(八尾)

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月刊AWC通信1999年2月号(通巻第5号)
1999年1月23日発行
編集人 佐久間 環/発行人 八尾 浩幸
発行 亜州通信社AWC編集部

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