『AWC通信』1999年1月号(第4号)


目次


定例会報告

ビルマの現状と人権・言論状況

フォト・ジャーナリスト 山本 宗補(やまもと むねすけ)さん

 10年にわたってビルマを取材し続けるフォトジャーナリスト、山本宗補さんは、今年9月、アウンサン・スーチーのスクープ・インタビューに成功。しかしその後、軍事政権によって取材フィルムなどを没収され、国外追放となった。「ビルマの大いなる幻影」(社会評論社)の著者でもある山本さんに、自身の経験を通してビルマの現状について報告していただいた。

「歴史的な変革の嵐」を求めて

 山本さんが初めてビルマを訪れたのは14年前。その後、1988年には、民主化運動が全国規模で広がっていく過程を取材に訪れ、以後10回にわたって取材を続けてきた。今年は1988年の軍事クーデターから10周年であり、軍事政権にとっても民主化運動にとっても節目の年。「歴史的な変革の嵐」を期待しての現地入りだった。

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 ビルマでは、取材ビザは2〜3年前から取れなくなっている。これはアウンサン・スーチーの自宅軟禁解放後のことで、軍事政権の「民主化運動を取材されたくない」との思惑からだと山本さんは分析する。今回の取材は、観光ビザを取得してからラングーンに入った。

 軍事政権にとって今年の一大事件は、インドネシアのスハルト体制崩壊だったと山本さんは言う。新憲法制定によって、国軍が国をリードするというスハルト型の国家運営を狙っていた軍事政権にとって、そのひな形が民主化を望む勢力によって崩壊に追いやられたことはかなり「ショッキングな出来事だった」と山本さんは分析する。

 また、アジアを襲った経済危機の余波も深刻だ。インフレの進行で、4人家族を養うのに最低でも月に10000チャットが必要なのに対し、公務員の月給はわずか1000〜1500チャット(8月実勢レートで1ドル約360チャット)。米の値段も8年前に比べると10倍にも達しており、「全く生活できない、とんでもないインフレーション」が進んでいると山本さんは言う。

 そんな中、ビルマの人々は「おおっぴらには本音を全く口にできない」状況に置かれ続けている。アウンサン・スーチーの自宅軟禁解放後には、毎週末の自宅前での集会なども開かれていたが、その後集会は禁止され、今では軍事政権による締め付けが強化されていると山本さんは指摘する。

外国人の監視体制が強まるラングーン

 山本さんがラングーンに滞在していた8月9日、外国人青年らが、民主化運動を応援する名刺大のパンフレットを市内でばらまくという“事件”が起きた。ビルマ市民には陰ながら「ブラボー、ブラボー」と大歓迎を受けたものの、外国人青年ら18人はその後逮捕され、5日ほどの拘束後国外退去処分となった。そしてこの出来事は、山本さんら外国人ジャーナリストに対する軍事政権の監視体制をも強化させることになった。この“事件”後、市内の人が集まる場所には常に軍事政権の監視の目が光ることになり、「取材者としてはつらい状況」になったという。

 山本さんは、今回は観光ビザということもあり、目的のひとつであるアウンサン・スーチーのインタビュー実現までは「観光客らしく、おとなしくして」インタビューのアレンジを待っていたという。その間に起こったのがアウンサン・スーチーの2度目の車内ろう城事件だった。スーチーは7月下旬にも、6日間の車内ろう城による抗議行動を行っていた。軍事政権に捕まった国会議員の家族に会いに行こうとしたところを当局に足止めされ、これに抗議してのろう城だったが、この時は体温が40度まで上がり、激しい脱水症状などまさに「死ぬ寸前」までいった。そして2度目は、準備万端で8月中旬に決行され、13日間を車中で過ごした。

 この時、山本さんも写真を撮るべく現地へとタクシーをとばしたが、途中で検問に引っかかり、結局現地へたどり着くことはできなかった。付近の住民と路線バス以外は近づけないという軍事政権側の隠蔽工作だった。その後、ホテルに戻った山本さんにはさっそく軍の諜報部員が張り付いてきた。マンダレーに観光に出かけたり、4週間の滞在中4度もホテルを変えるなど、外国人に対する厳しい監視への対応に苦慮したと山本さんは言う。

スクープ・インタビューの成功と失敗

 9月1日、ようやくアウンサン・スーチーのインタビュー取材が実現することになった。山本さんはこれまですでに3度、スーチーの単独インタビューを彼女の自宅で成功させている。しかしここ1〜2年は彼女の自宅に近付くことさえできないので、今回、場所はティンウーNLD副議長の自宅でとなった。現れたアウンサン・スーチーは、13日間の車内ろう城から1週間しか経っていないにも関わらず「さっそうと登場した」。衰弱した彼女を予想していた山本さんには驚きだったという。

 近年、外国人ジャーナリストと会う機会がほとんどなくなっていた状況もあってか、1時間以上にわたって語り続けたアウンサン・スーチーからは、この機会を捉えて国際社会にアピールしたいという熱意や意欲がひしひしと伝わってきたと山本さんは言う。(インタビューの詳しい内容は1998年10/14号「SAPIO」を参照のこと)

 無事インタビューと撮影を終えた山本さんは、この時点で「成功」をほぼ確信していたという。これまでの経験から、ビルマの秘密警察のチェックは空港かもしくはホテルで行われる。あとはそれをどうごまかすか。いずれにせよ「すぐに身柄を拘束されることはないだろう、という油断があった」と山本さんは詰めの甘さを反省する。

 変装用の着替えを済ませてティンウー宅を出た山本さんは、わずか20〜30歩ほど歩いたところで20人ほどの秘密警察に取り押さえられた。その中には入管職員もいるという周到さで、そこから空港へと直行させられ、空港内の秘密警察のオフィスで尋問を受けた。荷物を全て広げられて、ひとつひとつチェックされる。その間、秘密警察は「大使館に連絡を」といった要求や質問には「全く無視、無反応」だったという。結局撮影済みのフィルムや取材メモ、インタビューを収めたカセットテープなどは全て没収された。知られては困る連絡先のメモなどをトイレで処分していたときにはドアのカギを壊してまで秘密警察が入ってきたという。「殴られはしなかったがものすごいプレッシャー。これがビルマ人なら、殴る、けるはあたりまえだろう」と山本さんは実感したという。結局、その日のバンコク行き最終便に乗せられ、国外追放となった。

民主化問題と日本

 アウンサン・スーチーのインタビューの中で、「グサリと来た」言葉があったと山本さんは言う。非暴力での民主化を主張する彼女の強さとは裏腹に、市民からはそれほど強い言葉が返ってこないことについて聞いたとき、「あなたが日本人だということを忘れてはいけないでしょう」との答えが返ってきた。日本人は軍事政権の仲間だとの認識が市民の間には広がりつつあるからだという。長年にわたってビルマを取材し続け、人々の気持ちも分かっていたつもりだった山本さんにはショッキングな言葉だった。しかし、「それも当然と言えば当然」だと山本さんは分析する。経済危機で財政的に首がまわらない軍事政権にとって、日本政府や日本企業は常に強力な支援者であり続けている。今年3月には凍結していた円借款も再開され、ラングーン空港拡張のため25億円が支払われた。最近では、自民党の武藤嘉文は軍事政権との接触後、アウンサン・スーチーを訪れて「国会召集要求をやめれば(軍事政権は)対話要求に応じる」と発言するなど、「まるで軍事政権のこま使いのよう」な働きかけをしている。またスズキ自動車が新たにビルマに進出するなど、人権問題でビルマを問題視し続ける世界各国を後目に、軍事政権に救いの手を伸ばしているのが日本であり、それは同時に民主化勢力に対する裏切り行為でもある。

弾圧が強まる言論の自由

 「軍事政権下のビルマには基本的人権はない」と山本さんは断言する。特に言論状況について、山本さんは実例を挙げて徹底的に弾圧されている現状を紹介した。

 インターネットや衛星放送も、軍事政権の許可なく利用することはできない。ジェームズ・ニコルズさんは「許可なくFAXを設置していた」との理由で逮捕され、拷問を受けて2年前死亡した。これは毎日新聞に連載されたアウンサン・スーチーの「ビルマからの手紙」への関与を疑われてのものだ。また、68歳のサンサンという女性はBBCの電話インタビューを受けたという理由で逮捕され、25年の懲役刑を言い渡された。政府系の新聞にはNLD批判が連日のように載り、今年10月以降には民間の雑誌にもNLDを批判する記事を掲載することが義務づけられているという。民間メディアも、軍事政権による検閲を受けるため、政治的な発言などは「自己規制」されているのが実状だ。また、現在ビルマでは外国人特派員の常駐は認められておらず、現地人が特派員として雇用されているが、電話さえ日常的に盗聴されている状況下で、発信される情報もまた「自己規制」されているのだという。

 これらはすべて、1950年に定められた破壊防止法の第5条の適用をもとにしたものだが、要するに「軍事政権に反対する全ての人を投獄する」ことを意味している。「ASEAN9カ国中、少なくとも言論・出版の自由に関して、ビルマは最悪の状況」だと山本さんは指摘する。

スーチーと民主化運動のジレンマ

 活発な質疑応答の中で、京都から参加した出席者から核心を突く質問が出た。「アウンサン・スーチーと市民との距離感はどうなっているのか。民主化問題と比べて経済問題は市民にとってどれだけ切実か」といった主旨の質問に、「個人的な意見だが」との断り付きで山本さんは現状を分析した。

 10年前の民主化デモも、背景には経済の悪化があった。26年続いたネウィン独裁に対する経済的理由での反発が民主化デモにつながり、「軍人の経済運営は良くない」という結論が下ったのだと山本さんは見る。それから10年が経ち、外国投資は昨年までの累計で62億ドルがつぎ込まれた。それで儲けた人たちからは確かに「良くなった」という声も聞こえる。一般市民レベルでも、開発に携わるなど多少の恩恵があったのも確かだ。しかし昨年以来、海外からの投資はほとんどなくなり、政府間援助はわずかに日本のODAを残すのみ。外貨準備高も底をつき、「この半年で物乞いが激増した」と山本さんは指摘する。郊外では栄養不良の子供が増えており、「一般人の生活は極めて厳しくなっている」。その意味では、一般民衆の最も切実な要求は「政治よりも、安定した生活」だと山本さんは分析する。しかし、軍事政権では政府間援助もないし、経済も回復しない。そこでやはり民主化が必須条件になってくる。「市民はみんな、口には出さないが、軍人の政治はもうやめてほしいと思っている」。そこにはもちろん、経済的な理由とは別の、民主化を望む気持ちもあると山本さんは言う。

 しかし一方で、ビルマ国民は「あきらめている」部分もあると山本さんは指摘する。これまで延々と続いてきた軍政によって恐怖を心に刻みつけられ、行動を起こせなくなっている。これがアウンサン・スーチーのジレンマでもある。非暴力で命をかけて民主化を、とのスーチーのメッセージに市民が後れをとっている。市民は「もっと政治的意識を高めてほしい」とスーチーは要求しているが、市民は生活が苦しくて、政治を考える暇がない。運動を主導するべき学生たちも、大学の封鎖などで軍事政権にがっちりと抑え込まれている。「学生が動かないと大衆は動きようがない」と山本さんは現状を分析した。

 山本さんは日本国内でもビルマ市民フォーラムの運営委員として、ビルマの民主化運動への支援活動を続けている。関心がある方は下記まで。

(フォトジャーナリスト・南風島 渉)
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アジアン・ルポルタージュ Vol.2

インドネシア もう一つの素顔 part 1

〜イリアン・ジャヤ(西パプア)の独立問題〜
写真・文 本田 徹

西パプアの独立問題

 ニューギニア島の西半分(東半分は、パプア・ニューギニア)は、イリアン・ジャヤ(西パプア)と呼ばれるインドネシア領だ。だが、先住民族のパプア人は、自分たちの土地を西パプアと呼び、インドネシアからの独立をめざす運動を続けてきた。

 パプア人は、ジャワ人など他のインドネシア人と違い、肌も黒く、髪もちぢれている。今は、インドネシア化が進み、町中の生活習慣は、ジャワ島に近付いているが、もともと、言語も主食も宗教も違い、文化的に何の共通点もなかった。

 西パプアは、他のインドネシアの地域と同様、オランダの旧植民地だ。他の地域が第二次大戦後独立したのと違い、69年にオランダから独立し、インドネシア領となった。この時行なわれた住民投票は、インドネシアが選んだ代表だけによるもので、その正当性には、現在でも疑問が残る。

 ある西パプア人の公務員は、問題の解決に、国連が役割を果たしてくれることを期待している。

 「国連のアナン事務総長は、当時、国連のスタッフで、西パプア問題に関わったので、この投票がフェアでなかったことを憶えているはずだ」

 だが、現在のところ、西パプア問題が、国際社会の中で主要な議題に取り上げられるようにはなっていない。

停戦交渉を始めるゲリラ

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西パプアの「国旗」とOPMのウェンダ司令官

 これまで、西パプアでは、インドネシアからの独立を求めるOPM(自由パプア運動)が、小規模なゲリラ活動を続けてきた。州都・ジャヤプラから数十キロ離れたところにあるキャンプを拠点にしている。マティアス・ウェンダ将軍が、最高司令官だ。

 彼のキャンプには、約100人のゲリラがいるが、武器は乏しい。ボルトアクションのライフルや散弾銃で武装しているものも多い。無線機も無く、連絡は徒歩だ。だが、裸足で歩き回り、食料も山から調達できる彼らは、ジャングルの中では無敵だ。

 ウェンダ将軍の部隊は、8月にインドネシア人男性一人をを人質にとり、軍に対して、OPMへの攻撃を止めるよう、要求していた。だが、スハルトの退陣後、政府との交渉を始めるため人質を解放し、9月から、戦闘をストップした。

 だが、ウェンダ将軍は、「今は戦闘を停止しているが、交渉の結果次第では、戦闘を再開する」と、あくまでも武装解除はせず、政府の出方を注目している。

依然続く軍の弾圧

 鉱物資源が豊富で、世界有数の銅山がある西パプアは、インドネシアにとって、最も手放したくない地域の一つだろう。政府は、積極的に移民政策を進め、現在約200万人の島民の内、過半数の100万人以上が他の島からの移民だ。また、西パプアでは、軍の弾圧が最も苛酷だった。この30年間で、50〜60万人のパプア人が殺されたという統計もある。

 7月に、町中で、西パプアの旗を掲げたデモに対しても、軍は容赦なく発砲し、多数の死傷者が出た。

 報道規制も依然として厳しい。東ティモールでは、海外の報道陣が堂々とテレビカメラを担いで取材している頃、西パプアでは、ドイツ人ジャーナリストが、拘束されて追放された。インドネシアで最も報道規制の厳しい地域と言えるだろう。

 インドネシアに限らず、マレーシア、フィリピン、パプア・ニューギニアなど、太平洋の国々は、植民地支配の宗主国の違いによって、国境線が引かれた。その歴史が、現在の紛争の原因となっている。

 ゲリラを支援している、OPM活動家の一人は、これらの国々の将来について、こう語る。

 「OPMの“P”は、パプアだけでなく、パシフィックも意味している。遠い将来には、インドネシアから独立した西パプアが、太平洋の国々と連邦を作って、この地域での核実験に反対していくというのが、私の夢だ」

 彼の壮大な夢が、実現するのは、いつになるか分からない。だが、スハルトの退陣後、その夢にほんのちょっと近付いたことも事実だ。

(ほんだ・とおる フォト・ジャーナリスト)
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アジアン・スポットライト Vol.2

Bang! Bangkok

〜アジア大会の舞台裏〜
フォトジャーナリスト 南風島 渉

アジア大会を襲った2つの事件

 バスを降りてラチャダマン・クラン通りを渡り終えたちょうどその時だった。バン!と低く鈍い音が大通りに響き渡った。「爆発?」。ただならぬ音に道行く人が立ち止まる中、思わず足はその音の発信地へと向かっていた。

 現場はブロックとガラス片がわずかに散らばるだけで、音に反して被害はさほど大きくはなかった。けが人も出てはいない。それでもこの日、12月11日は、アジア大会開催中のタイに冷水を浴びせかける一日となった狙。われたのは民主主義記念碑だった。そして同じ日、タイ南部ではタイ航空TG261便が墜落、100人以上の死者を出す大惨事となった。

経済危機とアジア大会

 タイが、アジア各国を襲った通貨危機の引き金となって1年半。危惧された施設建設の遅れも取り戻し、バンコク・アジア大会は何とか開催へとこぎつけた。前夜祭となった12月5日はプミポン国王の誕生日とも重なり、大通りはディズニーランドかと見違うばかりのイルミネーションで飾られ、夜空に舞う打ち上げ花火が各国からの訪問者を楽しませた。

 それでも、自らの誕生日にプミポン国王が国民に語りかけた言葉は、現在のタイの深刻な状況を映し出している。自給自足型経済の必要性、そして”ほどほどの生活”に満足すること。アジア大会開幕を翌日に控えた演説としては実に地味で堅実な提案だった。

経済危機とタイの子供たち

 12月に入ってタイでは、来年に向けての経済の底入れを予想する声が高まっている。タリン蔵相は「1999年は1%程度の経済成長が可能」と発言。マイナス7〜8%だった今年(98年)に比べて大幅に回復するとの見通しを示した。インフレ率も今年の8.5%から来年は5.3%にまで鎮静化すると見込まれている。

 しかし、今年1年間の法人の閉鎖件数は11000件を超えるとみられ、中でも小売業者やレストラン、ホテルなどの閉鎖が目立っている。確かに国際大会開催中にもかかわらず、タクシーやトゥクトゥクには空車が目立ち、レストランなども閑散としていて、往時のバンコクには程遠い。「人々は正月休みに向けて金を蓄えるので精一杯のようだ」と地元新聞は伝えている。また、鉄筋をむき出したまま建設途中で放置されている高層ビルも散見される。

 労働社会福祉省の発表では、失業者は今年130万人に達するとみられているが、実数は300万人を超えるとの説もある。また、国連児童基金(ユニセフ)の世界児童白書99は「(タイでは)510万人の児童が就学に困難をきたしている」としている。

 アジア大会で規制が多いせいか、物乞いの姿はさほど見かけない。しかし一方で、「学校に行かせてください」と英語書きしたカードを手に、外国人観光客の間をまわる子供たちの姿が目立つ。

 アジア大会期間中、学校は2週間の休みになっている。しかし地元広告代理店の調査では、タイの10代の子供の約7割が、最大の関心事として「仕事を得ること」と「より良い卒業資格を得ること」を挙げている。「彼らは(アジア大会による)休日よりも、もっと勉強することを望んでいる」とBangkokPostは伝えている。

アジア大会の舞台裏

 また、アジア大会開催とともに新聞の一面に踊ったのが、火力発電所建設問題だった。プラチュアプキリカン県に計画されている、褐炭を燃料とする発電所の建設計画で、大気汚染などによる被害を恐れる反対派住民が抗議。道路にバリケードを築いて封鎖し、投石と火炎瓶で警官隊と対峙した。結果、両者の衝突で60人以上が負傷する事態となった。政府側が建設計画の延期または中止をほのめかしたため、いったんは収集したが、その後すぐにこの発言は否定され、騒ぎの再燃が懸念されている。

 12月中旬現在、民主主義記念碑爆発事件は、犯行声明も出ておらず、背景は不明のままである。そもそもこの国に記念すべき民主主義が実現しているのかどうかは疑問だが、警察では”国家に対する警告”と捉えて、入念な捜査が続けられている。また、タイ航空機墜落事故は”悪天候下での人為的ミス”との見方が広がっているが、詳しい調査による原因特定にはまだ時間がかかるようだ。

 いずれにせよ、国家の威信をかけて開催されたバンコク・アジア大会の舞台裏で起きたこれらの事件は、新年を、そして続く新世紀を迎えようとするタイの、不安定な側面をそのまま映し出しているように見える。

(はえじま わたる)
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アジアン・スポットライト Vol.3

少数民族の流行

〜追いかける民族と先行く民族!?〜
京都大学農学部大学院生 虫明 悦夫
 民族は民族をまねする?! 物には流行りがあるように、民族にも羨望の眼差しで見つめる流行りがある。フィールドワーカーとして長年、雲南・東北タイ・ラオスを見続けてきた筆者は、地続きで暮らす人々の当たり前の日常をレポートし、日本人の目から鱗をはがしてくれる。

 1995年7月、雲南省西双版納・景洪市のはずれ、曼聴路にならぶ“俸族舞踊レストラン”のひとつに入って、出された棒泰料理を見て不思議に思った。「はて、これは俸族料理なのだろうか?」

 タイやラオスのタイ系の人たちとつきあいの長い僕にとって、出されたおかずは中華料理としか映らなかったのである。たしかにモチ米のおこわがあるのだが、タイやラオスでよく食べるラープ〈牛や水牛、魚、鶏などをミンチ状にし、様々な香辛料で和えたもの。火を通すこともあれば、生のこともあり、血がかけられたものもある)のような、おこわを一口分にぎってはペチョッとつけて食べれるようなおかすが見あたらないのである。豚肉や、鶏肉を油でパッと妙めたようなおかずが多かった。タイ系のおかずといえば、油をあまり使わないペチョツとした粘りのあるものとイメージしているが、そんなものはほとんどない。食ぺ方も少々風変わりに見えてしまう。左手でおこわをにぎり、右手で箸をもって、例のコロコロしたおかずをとって食べるのだ。

 別の日、今度は“アカ族舞踊レストラン”へ入った。ここでも驚かされることとなった。「あれっ、これは俸族料理ではないか?!」.アカ族の女の子が運んできてくれたのは、なんとラープだったのである。茄子の妙め物や他のおかずもあるのだが、つぶしてミンチ状にしてある。そしてごはんはモチ米のおこわ。右手でおこわをにぎり、そのままおかずをペチョッとつけて食べる。これこそ俸族料理だ。

 俸族科理屋では、僕のイメージにある中華料理を、アカ族科理屋では僕のイメージにある俸族科理を食ぺたことになる。はじめのうちは、何とも不思議なこととしか感じていなかったが、ぷらぷらと、いろんなことを見聞きしているうちに、こんなことを思いはじめていた.「ひよっとして、自分たちより(流行のうえで)一歩進んだ〈と考えられている)民族のまねをしているのでは?」

 そういえば、南のタイやラオスのモン・クメール系、タイ系の人たちの間にもよく似た“おいかけっこ”が見られる。普段、ウルチの赤米を主食としているタリアン族が、だんだんラオ族〈タイ系)の主食であるモチ米を食べるようになっている。当のラオ族の方はといえば、中部タイ人のようにウルチ米を食べるようになってきている。ラオ族といえば、モチ米のおこわがつきものであったはずだが、ここの部分すら実は変化しやすいおぼつかないもののようなのだ。東北タイのあるおばさんは、ウルチ食に変わっている理由を、得意気にうれしそうに語ってくれた。「だってあんた、私んとこにはもう電気釜があるのよ。ウルチ米を炊くのはスイッチポンでいいのよ。それに比べてモチ米蒸すのはたいへんなんだから・・・」

 “民族のおいかけっこ”は何も食事や料理ばかりにおこっていることではない。服装や家の作り、村の作り、さらには生業形態などにも、おいかけっこの一面が見えることがある。そして、おいかけようとしているのは、自分たちより一歩先をゆく(と考えられている)民族であることが多いように見える。

 こうしてみると、普段僕たちが特定の民族にもっているイメージというのは、非常におぼつかないものである可能性も高い。民族性も、変化のなかでとらえなければ、とんでもない誤解を招くおそれがありそうだ。

 それにしても、以上のようなおいかけっこを見間きするにつけて、ふと頭をよぎるのはこんなことだ。

「いま、トップを走っているのはいったい誰なんだろう?」

「おいかけて空いたところはどうなるんだろう?」

「おいかけっこが続いたら、結局皆どこへいきつくんだろう?」

(むしあけ えつお)
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編集後記

 前回の定例会では、関西方面から3名の女性が参加し、質疑応答の時間に、活発な意見を述べていた。改めて、AWCの持つ魅力と重要性を見直し、その通信を発行する側として、気を引き締めている今日この頃。次回の定例会では、メジャー級の野村氏が登場とあり、さらなる盛り上がりが予想される。AWCのホームページがついにインターネットに登場。ROJINのホームページにぶら下がる形となるが、年4回(?!)発行のROJINを、毎月(着々と)発行するAWCが、いずれは食ってしまうのではないかと、危惧(期待?)している。なおここでは、通信でモノクロだった「フォトグラフ・フロム・アジア」で使われた写真がカラーで見られるなど、webの特徴を活かした構成となっているので、ぜひ一度、ご覧下さい。アドレスは以下の通り。http://rojin.pos.to/AWC/(T.S)

 なんとか5号を出せた。これで年内の定例会とAWC通信は無事終えたことになる。ROJIN本紙の仕事もしながら、本当にみんなよくやったなあーという実感がある。来年の定例会の一発目は、なんと野村進さんが来てくれる。来年は、ROJINの購読者とAWC会員がもっと増えていくようにがんばりたい。(H.Y)

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月刊AWC通信1999年1月号(通巻第4号)
1998年12月26日発行
編集人 佐久間 環/発行人 八尾 浩幸
発行 亜州通信社AWC編集部

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