『AWC通信』1998年12月(第3号)


目次


定例会報告

香港返還後の台湾情勢と人々の意識

講演者 『中国時報』東京支局長 劉 黎兒(リュウ・レイジ)さん

 1997年7月1日、香港返還。この出来事は台湾に対してどのような変化を与えたのか。そして返還後1年を経た今、その意味をどう理解するべきなのか。台湾の有力紙・「中国時報」の東京支局長、劉黎兒さんにお話を伺った。

台湾の反応と対応

 香港返還、そして来年12月のマカオ祖国復帰をうけ、中国の次の照準は台湾統一に向けられている。過去、台湾において中台の統独問題は外省人(戦後、国民党の台湾移転とともに中国本土から移り住んだ人々。中台統一派が多いといわれる)と本省人(戦前から台湾に住む人々。台湾独立派が多い)の対立という構造のもとで説明されたが、世代の交代も確実に進みつつある現在、単純な対立構造のみでこの問題を考えることは正しくないといえる。統独問題に対する台湾人民の意識をどのように見るべきなのか。

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 台湾各紙の調査結果によれば、台湾人民の80パーセント以上が「現状維持」を望んでおり、ついで10数パーセントが「台湾独立」を支持している。「中国統一」を望むのは10パーセントに満たない。さらに、その統一もあくまで「条件付き」であることを前提としている。現在、台湾人に占める外省人の割合が1割強であることを考えると、そのすべてが統一を望んでいるわけではないこともここからうかがわれる。

 ところで、大多数を占める現状維持派であるが、劉さんはその心理を「台湾人のバランス感覚」と分析する。すなわち、この調査結果は、台湾の独立的地位の獲得がきわめて難しいことを認識した上でのものだということだ。実際、中国の国際社会への圧力により台湾と国交関係を持つ国は減少しつづけ、現在は23カ国を残すのみ。そしてこの傾向は今後も続くものと考えられているのである。台湾のここ十数年の民主化の成功・経済力の成長に見合った国際的地位を希望するのが本心である一方、中国側の武力行使の可能性等を考えれば「現状維持」が望ましいとする、それが台湾人民の「バランス感覚」である。

 香港返還当日の1997年7月1日、強い台風に見舞われた台湾では、その悪天候にもかかわらず1000人規模の台湾独立デモが強行された。香港返還に伴い意思表明を求められた台湾人民の、中台統一への強い反発を示すものと考えられよう。

 では、台湾総統・李登輝の思惑はどこにあるのだろう。与党国民党は表向き「台湾独立」の主張を許さず、「一つの中国」原則を崩さない。しかしこれは中国をあえて刺激しないための政策的判断によるものと劉さんは説明する。

 1995年6月の李総統の非公式訪米の際には、中国側がこれを「二つの中国」を作ろうとする活動であるとみなして非難し、訪米終了後には翌月に予定されていた中台民間窓口機関のトップ会談が延期された。この後、中国側は「李登輝は『隠れ台湾独立派』である」との認識を示し、彼への不信感をあらわにするようになる。李総統は更に2年後の1997年7月、国民大会で台湾省の廃止を盛り込んだ憲法の修正案を可決・成立させた。これは従来の「中華民国台湾省」、すなわち「台湾は中国全土のうちの一つの省にすぎない」との立場を否定し、国際社会に台湾の独立的地位を訴えるものと考えられる。香港返還によって一気に台湾統一をねらう中国政府に対する彼の意志表示ともいえ、中国側の李総統に対する不信は更につのった。

 ところが、この台湾省廃止問題をきっかけに国民党が内部分裂。昨年の年末選挙では独立派の野党・民進党に大敗を喫する結果となった。中国側はこれを受け、2000年の台湾総統選で民進党候補が勝利することを危惧したのであろうか、少なくとも表向き「反独立」を明言している李総統の任期をあと2年残し、統一への実績を作るため会談に応じる意向を示した。

睾振甫 訪中

 もっとも、台湾側が中国との会談再開を望んでいたかというと必ずしもそうとは言えない。劉さんは中台会談の進ちょく過程を a)実務的協議 b)各テーマ別会談 c)政治交渉のための手続き的な会談 d)政治交渉 の4段階に分けられる、とした上で、中台双方の意向を分析する。

 台湾では5年前に対香港貿易が対米貿易を超えた。香港が中国に返還された現在、台湾にとっては中国が一番のマーケットであり、経済的な依存度も強くなっている。台湾企業の対中投資は、1997年末までに350億米ドルに達し、旅行や親戚への送金を通じて中国へ移転された金額は累計500億米ドルにのぼるという。

 このように両岸の実質的関係が極めて緊密なものになっている現状から、台湾側が求めるのは対中投資の保護・中国国内における台湾人の安全確保といった実務的レベルの協議、すなわち a)段階までであり、中台統独問題には触れたくない構えだ。しかし経済的依存度が高まれば、政治的に影響を受けることは避け難い。

 他方中国側は、実質的な中台統一に向けた政治交渉、すなわち d)段階まで協議を進めることを望むと明言していた。

 今年10月15日、台湾の対中交流機関・海峡交流基金会の睾振甫理事長が訪中し、約5年半ぶりに民間トップ会談を再開したが、今回は台湾側が中国のペースに乗り、結局 b)段階まで進行した形となった。今後焦点となるのは、双方の思惑を背景に、会談が c)・d)段階まで進むかどうかというところにあるといえる。実務的協議のみを求め、具体的政治交渉を避けたい台湾人民にとって、次回の年末選挙は一つの意思表明の場となろう。

 ところで中台会談実現の陰には、国際社会、特に米国・日本からの圧力がある。クリントン大統領は、1997年10月の江沢民国家主席との首脳会談で、李総統の訪米後に中断した中台対話の早期再開を呼びかけた。台湾にとって、この発言が米国からの圧力になっていることは想像に難くない。日米両国は、台湾海峡の安全保障の観点等から、中台の対話が促進されることを希望している。これに台湾が応じ、先の中台会談では、対話の強化・交流の拡大などの4項目合意に達した。この点において会談は一定の成果を収めたと評価できるが、残された課題はまだ大きい。

中台会談後の中台関係

 会談後の中台関係を考える上で、11月25日に予定されている江沢民国家主席の訪日が鍵となりそうだ。今年6月に訪中したクリントン大統領は、非公式ではあったが、(1)台湾の独立を支持しない(2)「一つの中国、一つの台湾」「二つの中国」を支持しない(3)台湾の国連などへの加盟を支持しない、とする三不政策を表明した。これを受け、中国側が、今回の江主席訪日時に作成される日中共同文書で、台湾に対する日本の立場を表明するよう政府に求めることが予想される。日本側は、(1)・(2)に関しては1997年9月の橋本首相訪中の際に「台湾は中国の一部分であるとの中国政府の立場を『十分理解し、尊重する』とした72年の日中共同声明を堅持する」との判断を示している。しかし(3)に関しては、台湾を支持する立場を取ってきているのである。日中共同声明には「(台湾帰属に関する日本の権利放棄を表明した)1945年のポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」というくだりもあり、日本は台湾の帰属に関して発言する立場にないことを理由に、この点には触れないという基本姿勢を示している。

 過去、中国は台湾に対話を求める一方で、各国に圧力をかけて国際社会での台湾の孤立化を図ってきた。このような中国の硬軟両用の政策が、中台の信頼関係構築の上でマイナスに作用してきた歴史がある。今回の江主席訪日も、中国側が日本に対し台湾問題で圧力をかけることがあれば、中台関係悪化をもたらす可能性は大きい。

日台関係と中台関係

 ところで、香港返還は民間レベルにどのような影響を与えたのだろうか。劉さんは、日本の新聞社の対応を例に、その変化を説明した。

 日台国交断絶の際、日本の各新聞社は台湾から撤退し、唯一、産経新聞社が台湾支局を残していた。その結果、過去25年間にわたって台湾の詳細な情報は産経新聞社のみに頼ることとなり、その他の各新聞社は香港支局を通じて台湾関連の情報を得てきたのである。

 しかし、返還後の香港では報道の自由に対する規制が増え、かつての情報センターとしての役割を期待できなくなった。現在、日台貿易は年間300億米ドル以上、観光などによる往来も160万人に達しており、民間レベルの関係の緊密化という現実を前に、各新聞社にとって台湾情報の重要性が高まっている。

 こうした現状の中、台湾側は「台北支局の報道方針と人事が、中国総局と無関係であること」を条件に台北支局の設立を認めるなど、対応を軟化させつつあり、今年9月1日、産経新聞社が北京に中国総局を設立。中台両国に報道事務所を持つ形となった。これを受け、各新聞社の対応にも変化が現れはじめている。台北支局の設立、更には台湾の新聞社との合弁会社の設立や現地印刷導入の検討など、実質的交流が発達しつつある。政治的交流の先行きが見えない一方で、民間レベルでの文化的交流は確実に進んでいるといえよう。

(千葉 はるか・大学生)
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アジアン・ルポルタージュ Vol.1

カレンの眠れぬ夜

狙われたホイックロー難民キャンプ
フォトジャーナリスト 加藤 亮

 1年半振りに訪れたホイックロー難民キャンプには、子供たちの笑い声が戻ってきていた。当時、焼け野原だったキャンプには、難民たちの家が立ち並び、完全に再建されたようだ。

 ビルマ(ミャンマー)政府の弾圧から逃れてきた、カレン族の人々が暮らすこのキャンプは、1997年の1月末、ビルマ政府軍とみられる部隊に攻撃を受け、約690戸の家が焼失した。

 1997年の初め、タイ領内にある、複数のカレン族難民キャンプが、武装グループに襲撃され、多くの家が燃やされた。住む家を失った難民たちは、「家を建ててもまた襲撃されるのでは」と、疑心暗鬼に陥いり、キャンプの再建は進まなかった。

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難民キャンプの学校で授業を受ける子供たち

2年続けて焼き討ちに

 そして、難民たちの危惧は的中した。実は、今年の10月に訪れたホイックローは、“再”再建されたものだった。 昨年の襲撃の後、何とか再建が進められていたホイックローは、今年の3月11日、黒い戦闘服に身を包んだ兵士たちの攻撃を受けた。

 「奴らは、数発の迫撃砲を撃ち込んでからやってきた。2人の娘が死んで、妻も大火傷を負った」

 迫撃砲の直撃を受けた家の男性が、攻撃の恐怖を証言する。彼の娘の他にも、1人の妊婦が死亡したという。

 兵士たちは、銃を空に向けて乱射しながら、キャンプへ入ると、建物に火を放った。竹で造られた家は、今回も、ひとたまりもなかっただろう。キャンプの8割に当たる、600戸以上が灰になった。

深まるタイ軍への不信感

 ここで、いつも問題になるのが、タイ軍の対応だ。難民キャンプには、警備のためタイ軍が常駐している。だが、キャンプが攻撃を受けた時に限って姿を消している。「タイ軍の地元司令官が、ビルマ軍から金を貰っている」こういう噂が、難民キャンプを駆け巡るのも無理はない。昨年に続き、今年も難民キャンプが襲撃されたことには、さすがにタイのチュアン首相も激怒したと伝えられる。10月には、タイ軍の最高司令官も交替した。

 新しい司令官は、前司令官がビルマ寄りだったのに比べ、アメリカ寄りといわれる。そのため、ビルマ軍の越境攻撃はもうないだろう、という楽観的な見方もある。

 だが、10月にも攻撃の噂が立った。難民たちは、家のわきに塹壕を掘り、いざというときに備えた。難民キャンプの学校のスティーブ校長は、「いつでも持ち出せるように、貴重品はまとめている。敵が攻めてきたら、これを持って塹壕に飛び込むよ」と、部屋の隅のバッグを指差した。

 結局、攻撃の噂のあった日、ビルマ軍は来なかった。また、当日、ホイックローでは、普段よりも多くのタイ軍兵士が見られた。はたして、タイ軍の方針は変わったのか。

難民キャンプ取材への規制

 確実に変わったことが、一つある。8月から、難民キャンプへのジャーナリストの立ち入りが、制限されたことだ。そのため、私もビルマの民族衣裳・ロンジーを着て、裏口からキャンプに入らなければならなかった。

 タイ軍は、難民キャンプ襲撃の時に姿を消したことや、ビルマ軍との不透明な関係について報道されるのを、嫌っているのだろう。もしそうなら、ジャーナリストを排除するのでなく、二度と外国の軍隊を領内に入れないことで信頼を回復するのが、先だろう。

 東南アジアの経済危機は、当然、ビルマにも波及している。軍事政権は、経済低迷への不満が、反政府運動に結び付かないよう、国民の目をそらすのに必死のようだ。

 ビルマのテレビには、毎日のように「反アウンサン・スーチー」デモの様子が映し出されていた。当然、軍事政権に組織されたものだが。さらに、国民の目を外へ向けさせるため、タイ国境での軍事行動を活発化させる可能性もある。

 ビルマからの自由をめざして戦ってきたカレンの人々に、平和な暮らしが訪れるのには、まだ時間がかかりそうだ。それまで、難民キャンプの住人たちは、眠れない夜を過ごさなければならない。

(かとう りょう)
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アジアン・スポットライト vol.1

カルムイクを再訪して

世界に向けて発信する中央アジアの小国
写真・文 井出 晃憲 
『ROJIN』本紙で「カルムイクから考える」を好評連載中の井出氏が、5年ぶりにカルムイクを訪問し、先日帰国した。井出氏の目を通してのカルムイクの今を伝えてもらう。

 「当選したら各家庭に100ドルずつ配る」という選挙公約を掲げて大統領に当選した30歳の富豪がいる。そんな奇妙な新聞記事を見かけたのがカルムイクを知るきっかけだった。それは1993年のこと。興味を引かれた私は同年夏さっそくその地を旅してきた。カルムイキア共和国はロシア連邦の一構成共和国であり、カスピ海の北西岸に位置し北海道ほどの領土を有する。人口は32万人ほどでその半数が西モンゴル族のカルムイク人だ。彼らの故地はジュンガル地方(現在の中国・新彊ウイグル自治区)であるが、さまざまな歴史的経緯によりこの地にたどり着いた。大国の狭間で辛酸をなめ、異民族に囲まれながらも、自らの一体性を失わずに今日まできた。領土がヴォルガ河の西側にあることから、「ヨーロッパ唯一の仏教国」というのが彼らのアイデンティティのよりどころのひとつとなっている。

 私が初訪問した当時は、長かったソ連時代の呪縛を解かれたばかりで、民族意識のまさに復興期であった。学校の教室の壁にはチンギス=ハーンの肖像が描かれ、町の食堂にはダライ=ラマの写真が飾られていた。チベット仏教寺院もひとつが再建中で、政府庁舎の屋上には青地に黄色の蓮の花が描かれた新国旗がはためいていた。そして、出会った同世代の若者たちの活力が印象に残った。

 あれから5年、この秋に私は再びかの地を訪問した。どのような変化が見られたであろうか。この5年のあいだ、カルムイキアは若く有能な大統領のもと順調な発展をとげていた。彼は、私財を投じて国家の発展に貢献しており、「ダライ=ラマを招いて宗教国家にする」といった過激な発言の一方、モスクワを刺激せぬよう自国憲法を廃止して連邦に留まる意志を明確にするなどバランス感覚に優れた人物だ。そのおかげで、チェチェン紛争のような災禍はなく安定している。ただし、大統領の蓄財についてのスキャンダルを追っていた女性ジャーナリストが今年殺されるという事件があり、裏にはいろいろありそうだ。

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オリンピックにむけて準備される街並み

 首都エリスタは人口9万人ほどの閑静な小都市であり、一見5年前と変わらずに見えるが、各所にさまざまなモニュメントが築かれ、民間企業の建物も建ち始めていた。郊外には、事業で成功した人達の豪邸も建っている。また仏教寺院も完成し巨大な仏像が安置されていた。

 顕著な変化は、外との人の交流が増えたことだ。カルムイク人はディアスポラのように世界各地に居住しているが、中国の故地から移住してきた人やアメリカ・フィラデルフィアのカルムイク・コミュニティから親戚を訪ねてきた若者などと知り合った。また、今年はこの都市で国際チェスオリンピックが開催され、日本を含め世界各国から選手団が来訪した。大統領がだいのチェス好きで、国際チェス協会の会長をしているからだ。それに合わせて仏教のシンポジウムや民族芸能祭も催された。シンポジウムでは、地元の学者のほか日本の田中克彦先生やインドの亡命チベット人の若者らが講演した。「夕鶴」をもとにしたミュージカルも上演されたが、ヒロインはモスクワ留学中の日本人の女の子だった。この期間中、エリスタは賑やかに華やいでいた。

 前の訪問で特に親しくなった友人達について述べよう。モスクワ国際関係大学の学生だったSは、一年間の台湾留学を終え、将来ビジネスを始める準備としてまずは銀行マンになって得意そうだ。モンゴル学を学んでいたBは、経済官僚となっていたが将来はモンゴル学の専門家になりたいと言う。そのBはつい先日、お気に入りのドンブラ(カルムイクの伝統的ギター)を携えて日本に留学してきた。彼ら若者は町の中心の露天のバーで夜遅くまで語らう。とても生き生きとした表情だ。先頃、大統領以下大臣が全員隣国のウクライナに短期間出かけ、国家運営を若者達にゆだねるという実験的な試みも行われたという。新しい国づくりの担い手としての自負を彼らに感じた。その友人たちの今後の舵取りに注目していきたい。

            

(いで あきのり・大学院生)
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友好団体紹介 第2回

地球の友と歩む会(LIFE)

地球市民として関わる会

 「地球の友と歩む会」(LIFE:Live with Friends on the Earth 以下LIFE)は、今年4月に生まれた新しいNGOである。前身は、「アジア協会アジア友の会東京事務所」で、「渇くアジアと世界に水を」をキャッチフレーズに、インドとインドネシアへの支援活動を続けてきた。現在もその海外支援活動は続いている。中でも、ワークキャンプやスタディツアーは、実際に現地に行き体を使う国際協力で、インドでは井戸掘りワークキャンプとスタディツアー、インドネシアでは植林のワークキャンプを行っている。また、国内でも日常的に行える国際協力として、会員の手で様々な活動が行われている。学生、サラリーマン、主婦、高齢者…。それぞれが無理をせず、しかも好きなだけ身近な社会や世界に関わっていける場である。

インド井戸掘り体験記

 1996年2月から3月にかけての2週間、私は井戸掘りワークキャンプに参加し、ムンバイ(旧ボンベイ)にあるマハラシュトラ州のクセガオン村という小さな村に行き、小学校の裏に井戸を掘った。井戸といっても日本にあるような小さくて深い井戸ではなく、直径2メートルほどもある大きな穴だ。ワークは日の出とともに始まり昼まで、真っ昼間はあまりの暑さに活動できないので夕方にまた働く。午後の時間を使って村の住民の家を訪問したり、近くにある未亡人女性のための施設やサトウキビ工場に行ったりした。隣の村の結婚の儀式を見せてもらったこともある。あるとき村を歩いていたら、老齢でうまくしゃべれない男性が、日本人がやってきたと聞いて外に出てきた。「私はチャンドラボースと共に戦ったのだ」と、力いっぱい手で銃剣の形をまね、必死で私の胸につきつけて表現しようとする。チャンドラボースは、ガンジーと並んでインド独立のために戦った、インド国民会議派の議長を務めていた英雄だが、ガンジーとはその主張を異にしていたために議長を解任された人物だ。日本に来た際に彼をかくまったことや奥さんが日本人であることなどから、その老人は日本を好意的に見ていたのだろう。インドの小さな村で、自分たちがこのように出迎えられるとは思ってもいなかった。

サトウキビ工場

 クセガオン村で見学した施設の中で、サトウキビ工場がとくに印象的だった。午前中のワークを終え、村人の案内で行ってみると、見渡す限り「平らな」土地に、その工場は黒い煙をもくもくと出し、異様な雰囲気をかもし出している。とにかく不気味なほどに大きい。工場の門をくぐると、牛たちが何トンにもなるサトウキビを乗せた荷車を引いて延々と列を作っている。そう、サトウキビ工場は、実に、牛がサトウキビを運んでくるところから、真っ白な粒の砂糖ができるまでを、同じ敷地内で行っているのだ。ただでさえ、高温のインドの村の中で、さらに工場の中はしゃく熱地獄だ。大きな機械を動かす人、工場中に張り巡らされた非常階段のような狭い階段や通路を行き来する人...。従業員は1000人と言っていたと記憶している。工場の門の前に救急車が止まっていた。とくに事故という雰囲気ではなかったので、常に待機しているのだろう。いつけが人が出ても不思議はないくらいの危険がつきまとう工場だった。工場から出る汚水は、近隣の村に被害を及ぼしている。飲み水はもちろん、農業用水にも使えない。

まなぶグループ

 LIFEで行っている会員活動には、インド、インドネシアのカウンターパートとより良いプロジェクトを行っていくことを目的とする海外支援のグループの他に、会報誌を作るグループ、それぞれの国の料理を作ったり音楽やスポーツを楽しむグループがある。私が担当しているグループは「まなぶグループ」である。身近な地域の問題から地球規模の問題まで、地域や分野を問わず「気になるけど実は知らないことを皆で話そう」「知らないものを見に行こう」をモットーに3ヶ月に1回活動している。これまで、テーマとして「下水処理場見学」「やしの実からアジアを考える」「横須賀米軍基地見学」「稲刈り体験」「飢餓はなくなるか」「フェアトレードを実践するには」「大使公邸襲撃事件から1年後のペルー取材報告」「横浜寿町訪問」などを取り上げた。来年2月には、原子力発電所を見学する予定(下記参照)である。議論する前に、アタマデッカチにならず、まずは見てみようというのがこの活動の売り。まなぶグループは「どこの誰でも」参加できるので、会員でないあなたも参加希望の方は大歓迎! ただし遅くとも12月末までにLIFE事務所までご連絡ください。

(出口 綾子)

参加しませんか?

「原子力発電所を見に行こう!」
〜エネルギーの今とこれからを考えよう〜

 日本原子力発電(株)主催の原発見学会に参加する形になります。事前に参考資料なども送りたいと思いますので、ご連絡の際には、住所などの連絡先もお願いします。

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編集後記

 AWC創刊号の「筆者に聞きたい』のコーナーに登場した多良俊照氏から、先日、エアメールが届いた。中国雲南省昆明市…の住所から送られている。封筒には一枚の便箋と、原稿用紙12枚分のナガ文化についての原稿が入っていた。多良氏の近状と、AWC編集部への応援メッセージが書かれていた。手紙の最後に、この原稿は、「AWC通信」で使って下さい、とある。常に原稿の数的不安を抱えている編集部にとって、この旅先からの声援と支援は本当にありがたい。是非、使わせてもらいます。多良氏は今後、雲南省南部、ラオス、タイと陸路で南下し、バンコクから空路、カルカッタへ行くそうだ。旅の安全と成功を祈りたい。(T.S)

 AWC通信もなんとか3号を刊行した。ROJINが遅れに遅れている状況で、AWC通信はすいすい刊行されていく。これはいかん!と額に落ちる汗を誰にも見つからぬようにぬぐう今日この頃。救世主現れよ!

 10月の定例会で、劉さんが話されていた中で、「台湾のマスコミは本当の台湾人の現状を反映していない」という一言が最も印象に残った。台湾の人口の1割ほどしか占めない外省人が、マスコミ人口の6割を握り、幹部として君臨していたりするという状況が起こしている現状だと言える。この国のマスコミも決して健全とは言い難いが、アジアの言論状況がまだまだ、困難な状況にあるということを再認識すべきだ。(H.Y)

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月刊AWC通信1998年12月号(通巻第3号)
1998年11月28日発行
編集人 佐久間 環/発行人 八尾 浩幸
発行 亜州通信社AWC編集部

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