Photograph from Asia 26


   心の中でつぶやいていた日本語

写真・文 千島 寛 (ちしま ひろし)      


 須田初枝はいわゆる中国残留婦人である。平成6年に永住帰国した。昭和19年4月、13歳の時に中国大陸に渡った。両親、弟3人、妹、そして自分の計7人であった。須田さんは東京目黒に生まれだが、なぜ両親が満蒙開拓団に参加したのかはわからなかった。須田さん一家は目黒から新潟へ行き、そこから舟に乗り朝鮮の羅津に渡った。そこから新京、白城を経て興安へ入植したのだった。興安は現在の内蒙古自治区烏蘭浩特(ウランホト)にあたるところだ。開拓団の生活は電気もなく、お米だけでは足りず、粟やトウモロコシをも食べる苦しい生活だったそうだ。入植2年目の昭和20年7月には父親が病死してしまった。8月には敗戦で父親の遺骨を持って、逃避行したという。しかしその間に一家はバラバラになり、須田さんと妹だけが一緒だった。その時以来母親と弟たちとははぐれたままだという。「たぶん死んだのでしょう」と話してくれた。逃避行中匪賊に襲われ、自決する人や子どもに薬を飲ませ殺そうとしたが死にきれず、殺してくれと懇願する母親もいたと話す。なんとか生き延びて、世話になった家の中国人の紹介で5歳年上の蒙古人と妹を連れて結婚した。その人は以前満州国の兵隊だった人で、二人の間には3人の子どもが生まれた。文化大革命の時には、中国に残された日本人は侵略者と呼ばれていた。子どもは須田さんが日本人のため「日本の鬼の子」と言われいじめられていた。この時が日本人として母親として1番辛かった時と話す。しかし会社の人はみな親切で、夫も優しく、定年した夫がある日「日本に帰ってもいいんだよ。子どもは一人残していってくれよ」と言ってくれたのだった。が、その夫も1991年に看病のかいもなく、亡くなった。45年間の夫婦生活だった。大陸へ渡って50年、蒙古語、中国語も覚えたという。しかし日本語を忘れないようにするため心の中で日本語をいつも話していたという。だから今も須田さんの日本語は外来語はだめだといいながらも健在だ。

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